これの続き


臨也の笑顔を思い浮かべながら家で眠る時、時たま見る夢がある。
優しいものじゃない。暖かなものでもない。ただ、不愉快で、汗を滲ませ、そしてひどく苦しくなるものだ。そういう時は決まって飛び起きて、悪い時には洗面台かトイレまで駆け込む。眠る前にはあんなに幸せな気持ちだったのに、それから怖くなってその日は夜明けまで眼を抉じ開ける。翌日の夜には疲れきって、夢を見る暇もないくらいに熟睡出来るから。
頭から離れないのは、何時だって、臨也だ。


「あれ? お風呂入ってきちゃったの? お湯張っておいたのに」

一度浴室に入った時にはこんな広い風呂に毎日入っているのかと顎が開きっぱなしになったが、同時にそんな綺麗な場所に足を踏み入れるのが恐れ多くて気に入った場所であるにも関わらず俺はそこで一度も汗を流したことがない。

「ご、ごめん」
「んーん、どうせ俺が浴槽に入りたかっただけだし」

ついでにシズちゃんと一緒に入りたかったんだけどね! と出来すぎた笑顔で両腕を広げるから萎縮してしまう。食事も池袋で済ませ、風呂だって自宅できちんと入ってきて後は寝るだけだ。その寝るだけの作業を、今日初めて新宿で過ごすだけ。俺の手には小さなボストンバッグがひとつ握られていた。最低限の着替えとか、歯ブラシとか。

「なあ臨也……その、やっぱりソファ」
「駄目」

こいつも大概頑固だな。別に寝るところなんて何処だって良いじゃないかと拗ねてみせると何故か一瞬固まった臨也は、金縛りが解けると俺にがばりとしがみ付いてきた。臨也が、触ってる?

「っ待て待った!」
「シズちゃんほんとどうしてそんな可愛いの? もう犯罪だよ」

引き剥がそうにも力を間違えたら臨也の細腕が折れる。俺は今までどうやって力を加減してきたんだろう、臨也を前にすると全部吹っ飛んでしまう。ほんの少しだけ濡れている俺の髪に指を通し、至近距離で臨也は眼を細めた。

「良い匂い」
「無臭のシャンプーだぞ……?」
「つまりシズちゃんが良い匂いなんだね。ずっと嗅いでたい」

そう言うと実際に、肺に取り込むように息を吸うから恥ずかしくて死ぬかと思った。頭からぷしゅーと音が出た気がする。

「あ、あんまりその、抱きつくなよ……」

大分、臨也の家に来るのも、臨也に触れられるのも慣れたつもりだけど、根っこのところにある俺自身の劣等感は薄まらない。臨也の家で食事なんかして粗相をしたら一生出入り出来なくなりそうだし、俺みたいなのが風呂みたいな神聖な場所を汚すのも嫌だった。

「今から慣れとかないとベッド入ってから大変だろ?」

口調を崩してにぃ、と笑う臨也に眼が合わせず顔が赤くなる。なんでも恐縮してしまう俺が、寝室の、ベッドなんていう空間に足を踏み入れるなんて。ソファで良い、何なら玄関でも良い、ベランダでも! 俺のそういった主張は全部却下されて、それだけは臨也も譲れないらしくて大抵俺の言うことは聞いてくれるのに聞く耳も持たない。初めてシズちゃんが俺ン家で泊まってくれる、なんてはしゃいで臨也は今日の日付のカレンダーに花丸なんて書いてしまっている。嬉しくなかった訳じゃないけど。

「千歩くらい譲って、部屋には入るから、俺はベッドの横で良い! タオルケットも持ってきた」

出来るだけ、臨也の持ち物には触れたくなかった。汚してしまう、移してしまう。此処にあるものはすべて異質で。床がフローリングならタオルを敷いてごろ寝する事も厭わない。枕は自分の腕で良い。

「シズちゃんさあ……いい加減諦めなよ」
「何時も臨也が寝てる場所とか、俺、無理だから……!」
「その言い方だとなんかちょっと傷付くんだけど……なんか汚れてるみたいで」

傷、付く? 馬鹿みたいに反応した身体は無視出来ず臨也の顔を見ないようにして口を手で覆った。逆の方で千切れるくらいに強く握った荷物が重い。臨也を傷付けるような、口なら。歯を、出して。罰を与えるように強く噛む。生まれて初めて自分から唇を切って血を滲ませる。唾液が沁みて不思議な痛みだった。

「ちょっと」

臨也が俺の手を退かそうと不意に掴んできたけど、まだこれだけじゃ足りないから。同じ場所にさっきよりも強く歯を立てるが臨也の「ストップ!」という大声に思わずすべての動きを止めてしまった。

「何してるの、駄目だよ。手、下ろして」

痛みで薄っすらと涙目になっている所為でバレたのか、それでも臨也の命令なら仕方ないと何時もより赤くなっている唇を晒した。

「なんで噛むの?」
「……」
「答えて」
「……」

俺の不用意な言葉が駄目なら黙るしかない。必死で首を振るのに、臨也は咎めるように唇に指で触れた。

「俺はシズちゃんに自分を大事にして欲しいんだよ。まるで自分が世界で一番醜い生き物みたいに考えないで」

なんでお前はそんなに優しいんだよと目線で訴える。俺は汚い、凄く汚い。なのに臨也はなんで、俺を、美しいものを見るような眼で。

「シズちゃんが好きだからだよ」

結んだままの唇に臨也が軽く口付ける。時間をかけてゆっくりと離すと、微笑んで頭を抱えられた。

「喋らなくても良いよ。でも、ソファは却下するからね。……寝よっか」

う、と小さく言葉に詰まって顔を臨也の方に向けると、嬉しそうににっこりと笑われた。何がそんなに楽しいんだろうか、俺と一緒に寝る事が。手を引かれて余り通らない廊下を歩く途中で時計を見る。もう日付を超えていた。終電は無い。帰れない。泊まるしかないね、と臨也に言われているような気がした。
臨也の寝室に入るのは二度目だ。初めてこの家を訪れた時に一度入っているが、あの時は幸せすぎてどうやって入ったのかほとんど何も覚えていない。見回すと、寝るだけにしか使われていないのか、小物も余り置いていない。カーテンのすぐ傍に置かれたベッドは男二人で並ぶには些か狭いかもしれないが密着すれば普通に寝られそう、……あ。

「っ……」

耳まで赤くなる。密着って、自分で何を考えているのだろう。今度は顔から煙が出てそうだ。無意識に手の方にも力が入っているらしく臨也が振り向いて、やはり笑う。だけど心なしか臨也も頬が赤い。臨也が先にベッドに登ると軽く両手を広げられた。

「おいで」

諦めるしかないのか、もう。荷物が指の拘束を抜け、重力に従って床に落ちた。ぐるぐる色んなことを考えながら、この腕に縋り付いてみたいと、膝をつけて恐る恐る体重を乗せると引っ張られる。腕に収まってそのまま身体を倒された。一気に香る臨也の匂いに眩暈がするかと思って至近距離の臨也の顔の目の前で固まってしまった。

「緊張してる?」

やばい、鼻腔が臨也の匂いしか吸い込んでくれない。口の中に心臓があるくらいの近くでどきどきと鳴っている気がする。身体が熱くなってきた。

「俺もちょっと緊張してる」

枕に近くなるように臨也が軽く俺を引っ張り上げながらされるがままになっている俺は臨也をじっと見つめた。

「シズちゃんと一緒に寝るの人生で初めてだからね。俺の夢が一個叶ったな」

学生時代も、セフレ時代も、修学旅行などで部屋が一緒になったことすらないから、確かにそうかもしれない。おずおずと頷けば抱き寄せるように肩に腕を回された。

「今日はしないから……寝よ?」

臨也が眼を閉じ、その綺麗な顔をじっくりと眺める権利を得た。突き刺さるくらいの不躾な視線に臨也が眼を閉じたままくすりと笑うので、慌てて俺も眼を閉じる。身体は未だに強張ったままだ。時計の音よりも、心臓の方がうるさい。ああ、くそ。こんなんで寝られるか。
そう思う俺の理性とは裏腹に、とても神経を張って疲れていたらしい俺は実のところ臨也よりも先に眠ってしまったらしい。意識を飛ばす前に、臨也の愛しい声が聞こえた気がした。


どうか、今だけは“夢”