ライターの点火音が思いのほか耳に響く。熱に浮かされた脳が夜気に当てられて冷静さを取り戻していく最中で、割り込む形の金属音だった。
ベッドから窓にはほんの5歩。そこから換気扇のスイッチからはほんの2歩。灰皿はベッドから腕一本分だ。気怠い微睡みの中で動く気配はとうに見えない。長い呼気で吐き出された頃合いに裸足の爪先でシーツを掻いた。
「禁煙とは言わないからさあ、灰落とさないでよ」
疲労の発散と蓄積の割合はやや後者に分があるらしく、金髪の人形が睨むのも億劫だと言うように一瞥だけくれてぼんやりと形の良い唇から紫煙を燻らせた。それを吸い込んで噎せ返るような中学生みたいな真似はしないが、クリアになりつつあった視界が曇るのは頂けない。
「どうせ捨てるシーツだろ」
指先でとんとんとフィルターを振る、話を聞かない不作法に眉を寄せるが背けていた顔がこちらに向けられたことで濃く残った色香が僅かに撒き散らされる。首につけたそれは彼の仕事着ではボタンを一番上まで止めないと隠れないだろう。それでも怪しい。
「やだなあ、それじゃ毎回シズちゃんを抱く度にシーツを変える潔癖症だとでも思われてるのかな?」
「他の女を抱く時に不都合なだけだろ、クズ」
存外きれいな手が口元を覆う所為で、人形の表情が判らない。彼が煙草を好むのは、俺との間に壁を作れるという理由も、おぼろげながら存在するのだろう。実際こうして顔を近づけても、人形に口付けることもゆるされない。
「最近はシズちゃんだけなんだけどね」
「きもい。死ね」
頬のひとつでも染めれば可愛げがあるというのに、天国から帰ればいつもの仏頂面。それに疲れと眠気がプラスされて、思うよりも幼く見える。さっきまで歪んでいた眉も切なげな唇も、今の彼を見ていると思い出しにくかった。スラックスだけを履いた裸体のまま頬杖をついて眺めていると、防御の掌が外され思い切り煙が吹きかけられた。
「見んな。腐る」
「ははっ。ひどい言い草だ」
視線でひとを腐らせるなんて、石に変えるメデューサよりも悪質じゃないだろうか。再び口に含もうとした白い手を取り捻り上げる。人形が化け物でも人体の構造は無視し切れないらしく、取り落とした煙草はシーツに沈む。白い贅沢な灰皿にお望み通り押し付けてやれば、とうとうイカレたかという顔をした人形と眼が合った。
「なに? 身体で消して欲しかった?」
「バーベキューは俺のいねえところでやれ。そんで死ね」
苛立ちを隠しきれなくなってきた池袋の喧嘩人形の腕をそのままにシーツに押し付ける。覆い被さった影が伸びて、良い眺めだなと思った。シーツよりも質の良いキャンバスは目の前にある。絵筆なんて持っていないが、そこらに仕込んであるナイフを出すこともせず、爪で肌をなぞる。ほんの数分前まで、舌で、指で、視線で犯した場所だった。
「鼓動が早いね」
「……」
「なにを考えてるの?」
「くたばれ」
粗雑な口調だが俺の手を振り払うようなことはせず好きにさせている。味をしめて脈打つそれを細胞で感じ口の端を上げて笑う。
「君みたいな化け物でも心音は一定だね。ここを突き破ればシズちゃんでも死んでくれるよねえ?」
自身の指を凶器に例えぐっと心臓部分を押す。人形の喉が僅かに動いた気がした。
「シズちゃん?」
喉は、肩が。組み敷いている男の腕が持ち上がり、なんの感慨もなさそうに俺の心臓へと当てられる。俺の指はただの指だ。だが彼の手はそれこそ狂気を孕んでいる。だけれど不思議と殺気は感じない。急所を握られているというのに、俺の中に焦りはない。
たっぷりと時間をかけた後、人形が口を開く。俺を見ながら俺ではない、遠くにある近いものを見ているような無表情だった。
「お前みたいなクズ野郎でも」
く、っと俺の手が揺れる。
「体温はあるんだな」
なにを言いだすのかと。温かみどころか、肌を触れ合わせ、その先の場所まで暴いたというのに。退屈そうな顔で手を放した人形にふつりふつりと怒りに似た感情が湧いてきた。
「君は今までだれに抱かれてきたのかな」
俺以外に経験はないだろう。そんなこと知ってる。だが、そういう意味じゃない。俺の手の感触も身体の熱さも、この池袋最強の人形にはどうだっていいことだった。
知りたくなかったのかと嘲って笑いながら、彼は俺がなにを言っているのか理解出来ないという胡散臭そうな顔を向けてくる。君が煙草で隠していたのは表情だけじゃなさそうだ。
(体温にも気付かないくらい)
俺から逃げることに必死だったの。
「やっぱり俺、シズちゃんが大嫌い」
「ああ、うぜえ。死ね」
視線を落とす。この掌の向こうには血に塗れたあたたかなモノがある。とくりとくりと、意識を集中させて傾けないと判らないような鼓動を伴って。
今度は唇を落とす。身動ぎした静雄が頭の上で悪態をついているのが聞こえるが、全部無視して、花を咲かせた。この先にある、人間のような臓器を抉り出す光景を夢見て。
きっと人形の心はネジ巻き式に違いない。
ネジ巻き人形