世間では運動会やら体育祭の真っ最中の期間だが、そんなもの俺には関係ない。文化、芸術の秋だなんて程遠く、喧嘩後の疲労感と気怠さから耳に爽やかなホイッスルの鳴る運動場に戻る気分がせず年に一度の行事だというのにサボる事にした。どうせ俺の力加減ではスポーツなんて楽しめもしないだろう。棒倒しなんかやらせた日には俺ひとりで全部決まるのだから。
高校に入った時からそれなりに眼をつけられていたが、進級して夏休みに入る頃になって喧嘩の量が顕著に増えた。その頃になって、黒幕と思われる人間の名前をちらほら聞くようになっていたんだが、別に俺が周りの恨みを率先して集めている訳でもなく、最初はそういう時期なのだろうと思ったが一向に減る気配を見せない。中には自動車まで使って来たりするのだから俺の心の安息は保たれそうにもない。エスカレートしてきた乱闘騒ぎがその内、喧嘩の域を抜けてしまうのではないかと頭の片隅で僅かに恐れていた。
直射日光を浴びればそれなりに刺激を感じるが、日陰だと風の所為で肌寒いくらいだ。ぐんと気温が低くなって着る服にも困る。学校側は突然秋を見せ始めた季節を見かねて衣替えの移行期間を前倒しにするらしいが、それもまだ訪れない。学ランは流石に早いのでカッターシャツの上にカーディガンを着ていたが、汗の引いてきた身体には鞭を打たれるような厳しさだ。
(どうしようか……)
行事がすべて終わるまであと数時間はあるだろう。このまま教師に何も言わずに無断早退すれば親に連絡が行くかもしれない。サボりすぎて単位が早くも危うい。俺の所為ではない、けれど自業自得だ。文化祭が終わってから、職員室に行って詫びを入れれば頭を下げるのは今日だけで済むだろうと考え、学校側のベンチに腰かけた。日陰だが、木々の隙間から程良く日光が注いでいて眩しくない。人通りも少ないし、だるいし、眠ってしまおうか。最近は特に疲れたのだ。気温の変わり目で体調を崩しかけているのかもしれない。俺だって内面は普通なんだ。
車どころか自転車すら通らない、静かな脇道で午睡を楽しむ事に決め、うつらうつらと意識が夢に誘われる。このままでは寒くて風邪を引くかもしれないが、そうなったらそうなったでその時にどうするのか考えれば良い。今はもう眠りたい。
「……」
身体の力を抜いてすぐに意識を飛ばす。眠りの世界へ足を踏み入れた直後、夢の中で足音が聞こえて身動ぎする。こんな時にまで仕留め損なった奴が邪魔するのかと思ったがその割にコンクリートを歩く音に、気付かれないようにしようという気遣いが見られず敵意も無い。すると腰をつけているベンチが老朽化の悲鳴を上げ、軽く撓む。いきなり断りもなく隣に座られた事に気付き眼を開けるタイミングを完全に失った。
(誰だ……?)
だが、真っ暗な瞼の裏は光を拒絶している。これに抗うのは弟の幽が眼の前で暴漢に襲われでもしない限り振り切れそうにない。誰だろう。散歩に歩き疲れたお年寄りだろうか。だったら席は譲った方が……。夢ながらに善意の意志を決め兼ねていた俺の髪に、ぞわりと感触が移る。傷んだ金髪に指を通している、というより撫でられていた。年寄りが見るからに柄の悪そうな高校生に触る訳がないという疑心からようやく眼を開けるが、同時に肩を引き寄せられてその人物に倒れ込んだ。
「っ……?」
眼に映ったのは黒い服で、ほんの僅かな視覚情報だが思わず触れた身体つきからして男らしい。細見だが、腰や足の長さから見て俺より年上か同じくらいか。顔を見ないと何も判らない。
「こんな所で寝ていたら、幾ら君でも風邪を引くよ」
とても小気味いい声で、俺が予想していたチンピラとは明らかに違う声音だ。この台詞だけ取れば俺を心配してくれたようにも思えるが、この声の主を俺は知らない。にも関わらず身体を男に預けている今の状況は可笑しすぎて逆に身体が動かない。自分で思っているよりも、四肢は疲れているのかもしれなかった。
「だれだ……?」
そして脳も、思っているより疲労感を訴えている。舌足らずな幼い言葉が口から零れ、抱き留められている状況から小学生くらいに戻った気分になる。下がった体温に心地良く、男の体温はとても気持ち良い。服も上質な生地を使っているのか頬が痛くない。男臭さが感じられず、だが平らな身体に母親のような面影も見つけられないが、胸に押し当てられた耳が、とくり、とくりと男の心音を伝えてきた。
「……」
人の心音をこうして聞いたのなんて初めてだ。子供の時に保健の授業で自分の脈を測った事ならあるが、他人が生きる音とは、かくも切ないものなのか。一定のリズムで刻まれる、血を循環させる命の鼓動。
「ん……」
体温や心音は、こんなにも優しいものだったのか。
一瞬で虜にされた俺は知らずの内にもっと聞きたいと身体を身じろがせ、最適な位置まで頭をずらした。頭上で男が微かに呼気を漏らし比例するように心音も気持ち早くなった。初対面の奴に向かって俺は何をしているんだろうと考える暇もなく、夢中になって鼓動を追った。どうせこれは夢なのだ、構わない。
「俺は、折原臨也」
「……折原」
どこかで、聞いたような。此処とは違う現実の世界で。自分の脳内が作り出す景色の中で知らない人間と出会い、名前まで知る事に僅かな昂揚感を覚える。今なら望む世界を構築出来るのかもしれない。この膂力さえ、なくなっている事になっているのか。
「宜しくね、静雄君」
心音のオプションだとでも言うように、冷えた無防備な背中を無骨な掌が這った。眠い。そういえば最近寝不足だったんだ。母親の腹に居る子供は、常にこの音を聞いているのかと不思議な気分になり眼を閉じる。もう限界だ。例えこの男が俺を襲ってくる奴らの黒幕だと噂されているオリハラと同一人物なのだとしても、今は、良いや。
母にあやされる赤子のように、俺は折原の心音でまたしても眠りについた。
舌で転がせる、甘さ