家を空けていたのは、高々12時間程度だ。
とはいえ最近では時間を作ってまで自宅で作業するようにしていたし、招いてまで話し合いを此処でするようには心がけていた。大学生という肩書しか持たない、世間的には一般人にも等しい俺みたいな若輩者はどうしたって先方の方が上の立場になるから、向こうの要求に応えなきゃいけない事が多い。

朝までには帰ってくるから、良い子にしててね?

世間一般に深夜と呼ばれる時間帯には、待ち人が居たって寝ていれば時間は過ぎる。見送りにも来なかったが、明け方の5時に戻り自宅のドアを開けると予想通り過ぎる展開が待ち受けていて笑いが止まらない。声には出さずとも、唇が曲がって徹夜明けなのに自然と気分が上昇する。
扉が閉まると同時にオートロックがかかるが、こんなものがあったって意味はないだろう。廊下を進むと早速それを見つけて開け放たれたドアから中身を見遣る。というより、蝶番がかろうじてぶら下がっただけでもうドアとしての機能なんて保たれてはいない。部屋の中は泥棒でもこんな風にはしないというレベルで散らかっていた。何か獰猛な虎でも暴れたような痕跡で、箪笥がひっくり返って扉が真っ二つに割れている。

「また派手だねえ」

気配がしないからこの部屋には居ないだろう。廊下にごった返した瓦礫と化した家具を避け、事務所に足を運ぶと、ほとんど無傷の給湯室と引き換えに階段上にある資料は紙吹雪以下になっていた。良い子にしててね、がとんだ皮肉になったようだ。
聞こえにくいが電話の音がする。俺のデスクもパソコンが床に落とされ無残なものだ。生きていた機会が着信を知らせ受話器を持ち上げた。

「折原です」

先ほどの商談相手で、朝方だが急な要件で申し訳ないと早口で告げてきた。そうですねえ、と言葉を続けようとした所で唐突に通話が切れる。事故かと思ったが、特有のツー音が聞こえず、受話器を見つめる。代わりに耳障りな現実的な音が近くから聞こえそちらに瞳をずらす。  居た。

「シズちゃん」

壊れたソファの後ろに金髪の子供が立っている。買い与えた時には要らないと突っ返されたクマの人形を抱え、そんな愛らしい調和を乱す右手には鋭利な銀色が光る。驚いている訳でもないのに大きく開かれたヘーゼルの眼は瞬きもせずに俺をじっと見つめ、宿る言葉に身体が震えた。

「……」

さながら人形のような容姿をしており、俺もこの人形を大変に可愛がっている。電話線が二つに分かれている事に対しては何も言わずにおいでと言うと、ようやく瞼を下ろして一瞬だけ俺から視線を失くす。俺が家を出た時には人形用にきちんと上下の服を着せてあげていたのに、近付いてきた子供は何故かワイシャツ一枚しか纏っていない。サイズの合っていないそれはどう見ても俺が高校時代に着ていた制服で。

「寂しかった?」
「……」

俺が差し伸べた手には捕まらず、立ち止まった子供は静雄と言う。殺されそうなほど強い視線は明るいものではなく、どちらかといえば絞殺と言ったじわりとした苦しみにも見た呪詛のようだ。何を思ったか、さっきまであんなに大事そうに抱えていた愛らしいクマの腕を掴み、派手な音をきかせて引き千切った。繊維は思っているよりも強く、子供の腕力ではとても出来る芸当ではないが静雄は違う。

「全部」

びり、びり、時にはぎちぎちと神経を逆撫でしながらばらばらにしていく。綿が宙を転がり、釦で出来た眼が静雄に踏み潰された。

「壊したぞ」

変声期を迎えていない高めの声だが、今は威嚇するように低く奏でられている。

「お前が居ない間に」
「そうだね」

パソコンまで壊されたが、こうなると判っていたから出かける前に全てのバックアップは取ってある。12時間あったとはいえただの子供ひとりが此処まで破壊出来る訳がない。何処までも化け物だと小さくほくそ笑むが、敏感に反応した静雄は用済みになって足の欠片を投げ捨てると片手で背後のソファを持ち上げそのまま俺に振り下ろしてきた。

「お前も壊してやる」

静雄の一瞬の躊躇いを見逃さずに避けると、獲物になったソファは俺の机にぶつかった。心で胸を撫で下ろす。流石に床に叩き付けられたら、防音がされているとはいえ震動で階下の人間に何か言われるかもしれない。

「窓はやめてね」

砕かれれば警察に介入される良い餌をまき散らすことになる。俺自身も、この子供もそれは良い事じゃないので笑いながら言うと落ちていた鋏を投げられた。我ながら暴力的な子になったものだ。

「俺は何でも壊せるぞ……!」

興奮して一気に疲れたのか、肩で息をしながら静雄が叫ぶ。掠れているのは喉が潰れているからで、俺が居ない間に何を叫び続けていたのかは後で盗聴器を調べればいいが、甘美な想像に頬が綻ぶ。前回は俺の名前を1000回近くは呟いていたけど今回はどうなのやら。

「この部屋だって、人間だって!」
「じゃあ、俺も?」
「……そうだ」

見る見る内に泣きそうな顔に歪み、俺に投げる目的でなく机を殴り始めた。普通の物よりは丈夫な素材を使っているので思うように壊すことが出来ず、もどかしく思いながらそれでも拉げる机を殴り、蹴り、同時に拳から噴き出る血で汚れていく。

「したくてやった訳じゃない、でも出来るんだ。俺がしようとしたんじゃない。俺が何かを壊せばみんな俺を化け物って言う!」

振り向いた静雄は両拳が血塗れになるのも気にせずに俺を睨み、瞳に深い悲しみを宿した。

「こんなことも、出来ない癖に! 俺にしか出来ないのに! あいつらは俺を指差して、それで、……俺は化け物じゃない!」

とうとう机まで持ち上げて床に振り下ろした。これはクレームが来るかもしれないなと瞬きの瞬間だけ考えたがすぐに忘れ唇の端を持ち上げる。目の前の怪物を嗤いながら。

「君は化け物だよ」
「……違う!」
「正真正銘、人間じゃない。そんなヒトが居る訳ないだろう? 誰も君が人間だなんて認めてくれないよ」
「……お前もか」
「そう。俺も」

暗く表情を落とした静雄に気付かれないくらいの勢いで近付き目線を合わせた。今度こそ驚いたように形を変える瞳を覗き込んで、極上の毒で抉ってやる。

「だけど俺だけは人間じゃない君を愛してあげられる」

ひくり、と怯えたように身を引く子供の身体を引き寄せてやる。見せかけの抵抗で腕を握られるが全部無視して髪を撫でてやり、薬を流すように、優しく侵す。

「俺は君を認めてあげる。シズちゃんを大事にする」
「……こ、わし」
「壊せるならどうぞやって。でも、俺以外に君を愛せる人は居ないけどね? それとも誰か居たの?」

記憶を辿って眼が揺れ動くが思い当たらなかったのか、ぎゅっとその眼が閉じられる。此処まで来るのに大分時間を使ったのだから、今更思い出されても困る。静雄には自然な形で、静雄を愛した人が誰も居なかったと心に傷という形で刻んである。今のこの子の脳内に存命の弟の姿は無いはずだ。

「愛してるよ。だから俺の傍に居て。シズちゃんが必要なんだ」

抉る、抉る。俺が好きなようにこの子を作るんだ。心臓を抜き取るように優しく心まで壊してあげよう。

「っでも」

静雄の両手が俺の腕を掴むが、落ち着いてきたのか普段の力の抑制を思い出していた。この子は思っている以上に力の使い方を知っている。ただ悲痛な顔をして睫毛を震わせた静雄の言葉から、少しずつ狂気が漏れ出した。

「ずっと一緒、だって……俺が願った事は全部叶えてくれるって言ったのに、臨也が帰ってこないから……!」

朝までには帰ってくるから、良い子にしててね?
そう言って、俺は静雄を残して仕事に出かけた。言葉通りきちんと帰ってきたが、そう告げた時の静雄は面白いくらいに俺に縋った。言葉ではなく眼が告げた。あれは自分を簡単に孤独に落とせる俺に対する強烈な独占欲だ。

「いつも家で仕事してくれるのになんで外に行くんだよ! 俺は嫌だって言った、何処にも、ずっと此処に、って」

さっきまでずっと八つ当たりしていた机に眼を向けるので視線を追うと、隠していると思わせていた携帯の数々がすべて粉々になっていた。どうやら無事なのは今ポケットに入っている三台だけのようだ。

「あれが無かったら臨也は外に行かないんだろっ」

睨む様は必死になっているようで、今回俺が出かける要因になったのは商談相手が電話をかけてきた事が発端だ。全責任がそれにあると言わんばかりの勢いで、憎悪を込めたのか極端に細かく壊されている。この分では自宅の電話は電話線を切るなんて優しさではないレベルで使い物にならなくなっているに違いない。

「なあ、何をしたらずっと此処に居てくれるんだ? どうしたら俺から離れないんだよ、何処にも行くなよ、ずっと俺を、嫌だよ臨也、臨也しか……」

捕まっていた腕を、しがみ付くように背中に回される。華奢な身体の中に化け物が住んでいる癖に、人間に愛を貰いたがる愚かな子供だ。この指も足も、一つひとつ吸い上げてかぶりついてしまいたい。いつの間にか泣いていた静雄の髪を乱して紅を引いたような唇にキスをする。

「そう……シズちゃんにはもう俺しかいないからね」
「知ってる、だから……!」
「他の誰も信じちゃ駄目だよ。愛しても駄目。どうせ返ってこないんだ。君の存在は俺だけ」
「早く捕まえろよ……見張ってろよ、じゃないと俺、臨也が見てない間に逃げるぞ……!」
「出来ない癖に、悪い子だ」

給湯室が無傷だったのは静雄の大好きなプリンと牛乳があるから。だけど、

「玄関も無傷だったよね?」

オートロックなんて静雄の前では無意味なものだ。他にめぼしい鍵なんて何もしていない。閉じ込める必要など無いのだ、ただ外からの侵入者を防げば良い。外へ通じる道というのは今の静雄にとって恐怖の象徴でしかないのだ。

「俺はこれからもシズちゃんを置いて外に出るかもしれないけど」

すべらかな額に唇を寄せる。もうずっと外に出していないお陰で、透き通るような白さだ。

「君を化け物だって言って、シズちゃんを傷付けるような奴はみんな俺が消してるから」
「……」
「大丈夫、俺はシズちゃんをちゃんと守ってるよ」

君が一番欲しいのは己の束縛だろう? 子供が起きているには辛い時間に暴れ回って喉を枯らすくらいには。

「シズちゃんが一番好きなのって、だれ?」
「臨也」

生きた人形は久しぶりに微笑む。あのぬいぐるみだって、俺が与えた時には不機嫌な顔で要らないと言われたものだ。直前に来たファンの女子から貰ったものだと勘違いしていたのだろうが、結局は俺の手から渡されたものだ。それを大事にして俺の目の前で壊す辺り、静雄の不安定さが浮き立って閉じ込めたくなる。

「臨也の一番は?」
「シズちゃん」

嬉しさを滲ませた静雄が珍しく自分からキスを仕掛けてきた。四肢がざわめく。初めて連れてきた時より少し大きくなった身体を抱き上げ獣が暴れた廊下を通りベッドに降ろす。
いつも通り一緒に寝てくれるのだろうと思った静雄が腕を伸ばすが、手は取らずにそのまま覆い被さる。きょとんと眼を丸くするが、この疼きを無視するのは暴力だ。

「俺もシズちゃんを壊せるよ」



我が侭に言う。この檻はあたたか