少女は怯えていた。
本能的な恐怖であり、この感覚を覚えるようになったのはつい半年ほど前から。それなりに活気付いた街で育った娘は喰う物にも着る物にも寝る場所にも困らず、“普通に”楽しく生きていた。それが破られたのは、半年前に兄弟二人を同時に喪ってからだ。
病でも戦でも無い。もっとひどい。判別がつかなくなるほどの醜さで喰い荒されたのだ。二人とも着ていたものと僅かに残った肉片で自分の兄弟だと認識出来、同時に悲しみと嫌悪に襲われ家族の温かみは昔に比べて小さくなってしまった。
獣の仕業だろうかと誰もが最初は思っていた。街の外には凶暴な畜生が生息していたが、向こうは人間を怖がっていた。確かに子供がひとりで歩いていたら襲われる可能性もあっただろうが、二十を幾らか超えた大の大人ふたりが揃って死んでしまったのだ。当然、街を出る時には、ふたりともそれなりの装備を身に着けていた。なのにそれらは使われた形跡もなく、死体の横に転がっていた。
少女は悲しみに暮れ、残った両親と四人の兄弟で身を寄せ合った。悲劇はそれだけに留まらず、今度は違う家の子供が死んでしまった。同じく身体を食い散らかされて。ぴりぴりと神経を張っていた見張りが断末魔の叫びを聞いて現場に向かったが、獣の足跡など何処にも無く、不気味な咆哮だけが背筋を凍らせた。
それからは間隔を開けず、また大人も子供も区別が無い。死人の数が二桁になる頃には、疑心暗鬼になって街中が夜を歩かず、また昼間も眼を合わさないようにして、ひっそりと歩く。少女は家族で固まって床につく。
しかし、今日は違った。少女は怯えるのと同時に、言い知れぬ胸の鼓動を感じていた。何時もなら一番奥の部屋で眠るのに、こっそりと床を抜け出した少女は、玄関の傍の格子から外を覗いていた。夜だとしても静かすぎる。町の活気は既に過去のものとなり果てている事に寂しさを感じながら。
危険を承知で娘が外を見ているのは、今日の朝方にあった出来事が原因だ。
朝、太陽が昇るのを待ってから娘が水を汲みに行こうとすると、人もまばらになってしまった道に、異質が現れたのだ。
まるで僧のように全身を黒い衣で覆い、笠を被ったふたりの人影だ。とても目立つその姿に、暫く姿を見せなかった住人も興味をそそられたように視線を集めた。足取りは悠々としており、少女は神仏に仕える者だと思った。
笠を目深に被っている所為で顔はよく見えない。しかし、背は少女の倍近くある長身で、身体付きからふたりとも男性だと察した。父親よりも華奢だったが、女性的な雰囲気はまるで感じない。片方の背が高い方は、もうひとりの方と違い、赤い派手な帯を結び袖を襷掛けにしている。少女の幻覚か、赤い帯を巻いている男の傍に赤い光がふよふよと浮いているような気がした。
そんなふたりが少女の前を通り過ぎる。娘の背が低かったお陰で、隠されていた顔が少しだけ眼に映る。どちらも黒髪で、とても美しい顔をしている。よくは見えなかったが、顔の形からそう思ったのだ。やはりお坊さんなのかもしれない、あんな高価そうな着物を着ているのだし、少女はそう思って、こっそり後をつける事にした。他の住人も後はつけずとも、視線を何時までも投げかけていた。
やがてふたりは案内もされていないのに、街の長のところまでやってきた。長の家に入って行くのに、少女と同じく好奇心に負けた子供たちが集まっている。中を伺うと、笠も外さず長の前にふたりは立っていた。長の老齢の男性は戸惑ったように何者ですか、と口走っている。神仏に仕える者にしては、余りにその姿は不気味なのだ。
やがて背の低い方が、笠を、本当に僅かに持ち上げた。後ろからでは見えないが、長がその仕草にはっと息を呑むのが判る。すると彼は、少女が思わず天気を確認してしまうくらいの綺麗な、青空のような声で言った。
「お困りですか?」
それだけを。長は慌てふためいた様子で、そこで少女はある噂を思い出す。
――異形に蝕まれた村に、ひっそりと男がふたり現れる。そしてその男は、一言だけ訊ねるのだ。それに頷けば、多額の報酬と引き換えに異形を葬ってくれる。 そんな噂だ。
噂通り、男はそれっきり何も喋らない。長も噂を思い出したのか、なんと答えようか迷っている様子だ。本来ならば住人を集めて意見を聞きたい所なのだが、彼が次に起こす行動次第でふたりは此処を去っていくだろう。あのふたりなら、謎の獣を退治してくれるのではないか? 少女は熱い視線を背中にぶつけ、長は子供たちの眼差しに心を決めたのか、深々と頭を下げて、お幾らですかと聞き返した。
何時の間にか少女の背後には大人も集まっており、中には、あのふたりが犯人なんじゃないかと囁く者も居た。自ら事件を起こし、金だけ貰っていく。犯人なら去れば異形など現れまい。成程、と少女も疑念の思いを浮かべたが、逆に金さえ払えば出て行ってくれるなら、死んでしまったふたりの兄も安らかに眠れるだろうと思った。
長の命令で、街から収穫物や金銭が集められた。根こそぎ持って行く気かと思ったが、持てないからそんなには要らないと男は言い、未だ一言も喋らない赤い帯の男が器用に風呂敷に纏めた。あれだけでは男ふたりが生活するには一週間も持たないだろうに。結局包まれたのは集まった貢物の四分の一以下程度だ。
確かに受け取りました、夜までお待ち下さい。穏やかな声で男は言うと、見物客から道を譲られながら長の元を後にする。誰もがそのまま逃げるのではないかと思ったが、やはり誰に案内される訳でも無いのに、ふたりは判っているとばかりに誰も住んでいない小屋を探し当ててその中に入って行った。そこで夜まで過ごすのだろう。暫くは皆が小屋を見つめていたが、これで安心だとばかりに散り散りになっていく。少女も早速家族に報告しようと家まで走った。
小さくはっきりと胸が高鳴っているのが判る。静まり返った辺りには犬一匹歩いていない。少女はあのふたりが現れるのを待っている。ふたりが何をするのかも興味があるし、また兄の仇を一目見てみたい。興奮で眠気は吹き飛び、万が一の為に傍に鍬と鎌を置いてある。ひょっとしたら今日は来ないのかもしれないが、少女はじっと何かが起こるのを待つ。
やがて月明かりが雲に遮られ、少女が少し飽き始めた頃、人の気配を感じて立ち上がる。狭い格子からではまだ見えないが、ふたり分の足音だ。姿が視認出来ると、見付かるのを恐れてしゃがみ込む。朝と全く変わらない装いのふたりはそのまま少女の家の前を歩き、そして歩みを止めた。なんだろう、そう思って再び背伸びして外を見ると、少女からは確認出来ない位置にある何かをふたりは見ているらしい。角度があって、それが何かまでは判らない。
するとどういう事が、少女が一瞬眼を離した間にふたりの姿が消えてしまった。驚いて思わず閉ざされていた扉を開けて外に出る。眼にした光景に少女は眼を見開き尻餅をついた。なんと形容すれば良いのか、そこに居たのは確かに異形だった。これが、そうか――妖か。
赤い帯の男は到底人間には持ち上げられないような巨大な木で妖を吹き飛ばした。確か街の外れにあった桜の木。重さに耐えられなかったのか、何十年と生きたそれがふたつに折れる。臆する事もなく男は高く跳躍して今度は蹴り飛ばす。もうひとりの男はそれを見上げているだけだ。
あのふたりは人間じゃないんだろうかと、少女の頭に考えが浮かんだ。少なくとも、助走があるとはいえ足だけで屋根の高さまで跳べる人間など見た事が無い。兄の仇などともう考えてなどいられない。呆然と非現実としてその光景を受け止めていた少女は再び眼を見開く。妖の攻撃で男の顔面が潰されたように見え、見開いた直後に眼を閉じる。しかし妖の叫び声が響いたので恐る恐る見上げてみれば、笠の紐を切られただけで済んだらしく、地面に降り立った男は無傷だった。
そこで、戦いを見つめていた男に振り返る。同時に雲が退けられて月明かりで満たされる。少女は瞠目した。確かに朝は黒だったその男の髪は、今は輝く蜂蜜色だった。
「臨也」
なんと言ったのかは聞き取れなかったが、言われた相手の笠が僅かに動いた事から頷いたのだろう。金髪の青年は柔らかく微笑んでまた妖に向かっていった。その後ろで、呼ばれた男が懐から何かを出す。遠すぎてよく見えないが、掌で包まれる黒光りするものだ。弱った妖を、金の男が押さえつける。浮いているその姿を見上げて、男は手のものを影に突き刺す。断末魔さえ聞こえず、呆気なく妖が消え去った。それを拾い上げて仕舞い込み、何か話しているようだが聞き取れない。
「……一旦帰るか」
金髪の青年がそう言い、ふたりは街の出口の方向で歩き出した。少女はそれをぼんやりと見つめる。彼らは僧ではないけれど、妖を狩った。何者なのだろう。
「……」
――と、そこで、笠で顔を隠している男が肩口に振り返り、眼が合う。今まで無視を決め込まれていたので存在を知られていないと思っていたのに。そして、隣の彼に気付かれないようにその唇が弧を描き、綺麗に薄く開かれた。なんて毒々しい紅い眼、あれは人間じゃないと少女は悟ったが、それは無意味になる。
ふっと少女の眼から生気が消える。そのままくたりと地面に身体を横たえたが、瞼は開かれたまま。痛みも衝撃もなく、何が起こったか判らず娘は身体を動かそうとしたが、そこではたと気付いた。
私はあの男に殺された。
久しぶりに本物だったな。満足感に包まれてうとうとしていると、頬杖をついていた臨也が俺の方を見た。
「疲れた?」
「んー……歩き疲れた」
戦うこと自体はそこまでじゃない。ただ辺鄙な場所にある街だったから、そこまでの道のりが面倒臭いだけだ。笠も破れたから戻ったら縫わないと。
「社が恋しい……」
「やっぱり疲れてるじゃない。まあ、帰ったら少しのんびりしようか」
臨也は疲れなんて感じさせずけろっとしているからこれは体力の差だけじゃないと思ってる。船の淵から指先を出して水に触れる。こうでもしていないと眠りそうだ。傍に紅が寄ってきて笑いかける。初めて餌を与えた時よりも少し大きくなっている。口は無いけど大丈夫かと心配してくれているのが判るので、心が癒された。
「臨也は平気なのかよ」
「まあね。シズちゃんと出掛けるのは楽しいよ」
「……どーも」
紅、頼むから俺の顔を隠せ。どうせバレるんだろうけど、無いよりマシだ。証拠に臨也がにやにやしてる。
「まず新羅のとこ行くんだろ? あいつ喜びそうだ」
自然を装って話題を変えて様子を伺う。眼を細めて頷く臨也を横目で確認し、新羅のはしゃぐ姿を想像して笑みを零す。
「シズちゃんって誰かの役に立てるのが好きだよね」
その言葉に意識を傾ける。臨也は変わらず微笑んでいて、俺は水に浸した指を曲げてすくい取る。言われてみれば、まあ、そうかもしれない。他人への奉仕が好きだ。
「今まで迷惑かけてたから」
怪力しか能の無い俺が、何か出来るならと。臨也は俺に付き合わされているのだが、文句も言わない。見えないように眉を落とすとくすくす笑い声がした。
「君が望むなら何でもしてあげるよ」
「……ばーか」
臨也の方に顔を向けると、赤い眼と視線が絡む。臨也の外見の中でも俺はこの赤が気に入っていた。引き寄せられるように広げられた臨也の腕に収まると、耳元に顔が埋められる。
「良い匂い」
以前にも言われた言葉だったが、心地良く響いて俺は微笑んだ。今日はまだ眠れそうにない。
「好きだ」
俺を捕らえるこの存在が。
「愛してるよ」
僕は嘘を吐きませんと嘯く