夏休みに数時間だけ登校する必要性を感じない。生徒の安否確認や学校に戻る為の切り替えとはきちんと理解している。登校日なのだから欠席する訳にもいかずだらだらと毎日臨也と一緒に居られる時間を満喫していた俺は機嫌悪く学校に向かう。高校生になるまでは毎日夏休みだったのだからそちらの習慣の方が根強く残っている。直射日光が辛い。早く帰って臨也の顔を見たい。波江が作った冷たいものが食べたい。豚冷しゃぶとか……そうめんとか……。終業するなりそそくさと校門を出て家路を急ぐ俺はふと習慣で携帯を出す。マナーモードにしていたお陰で気付かなかったがメールが二件。片方はたった今来た奴だ。

「臨也」

俺の携帯に連絡してくる奴なんて極僅かで、当然のように最初に連想するのは家に居るであろう臨也だ。立ち止まって内容を確認すると、「裏門から出て」と一行だけの文章だった。正門から出たばかりだが臨也が言うならと逆戻りして校庭を横切る。青春を謳歌している気の早い運動部がもう部活の用意をしていて俺には考えられない。こんな炎天下で野球とかサッカーとか殺す気か。
人気のぐっと少なくなった裏庭も素通りし手入れのされていない雑草を鬱陶しく思いながら、頑丈な施錠がされているのを無視して開けようとするが、錠前を破壊するのは流石に防犯云々の関係で拙いと気付けたので仕方なく熱せられた金属の門に手をつく。細見で身軽な身体は簡単に宙を舞い、勢いを利用して両足を向こう側に投げ出して腕の反動で無事に向こう側に着地した。

「よっと」

正門よりは道が狭く車通りだって少ないが、それなりに舗装されたアスファルトだ。此処に来いと言ったという事は臨也が居る可能性が高いので気温とは関係なく身体を熱くさせながらきょろきょろと気配を探す。神聖な学び舎のすぐ傍だというのに、非常に不似合な黒い高級車が停まっていて多分これだろうと近付く。

「……」

とはいえスモークガラスの所為で中が見えないし、もし違ったらかなり間抜けで失礼だよなあと苦笑しながら額の汗を拭って向こうからのアクションを待っていたら後部座席のドアが開き焦がれた待ち人が顔を出した。

「遅いよシズちゃん」
「臨也!」

駆け寄ると臨也が俺が入れるように座席をずらす。念の為に誰も見ていない事を確認してから乗り込むと、汗をかいた身にはしみるくらいには程良い冷房が入っていて別世界だ。扉を閉めると同時に車が動き出したので本当に俺を待っていたんだと悟る。予想より数十分早く臨也に会えた事が嬉しくそのままの勢いで抱き着くと髪を掻き分けるようにしてちゅ、と軽くリップ音が唇に聞こえた。

「5時間と23分ぶりだね」
「これでも急いで来たんだぞ」
「どうせメール気付かないで正門から出たんでしょ」
「……なんで知ってんだよ」

表情はゆるめながら問うても、シズちゃんのことならなんでも、のお決まり台詞しか聞こえてこないのは承知の上で。人目が無いのを良い事に今度は俺からキスを仕掛け、鞄から使っていないタオルを出して首筋を伝う汗を拭う。ぱたぱたと手で仰げば臨也が空調の向きを調整してくれた。

「今日は何処行くんだ? 今朝は聞いてなかったぞ」
「粟楠。急な用事なんだけど、転び方によっては一日かかりそうだったから。シズちゃんを置いてったら可哀想だと思って」
「そん時は家に入れてやらねえ」
「ひどいな。俺の家なのに」

そうめんは食べ損ねたが臨也が居るなら昼飯無しでも良い……事もないが、馴染みのある所なら軽食くらいは出してくれるかもしれない。四木さんは結構俺に良くしてくれるしなあとあの人が出るか判らないのに決めつけているくらいには空腹だ。

「腹減った」
「夜に豪華なの作ってあげるからお昼は我慢してくれる?」
「えー……」

ただ一日ごろごろしているだけならそれでも別に良いが流石に午前中に学校に行ったばかりだ。とはいえ臨也が何も用意していないという事は本当に急に入った仕事なのだろうから、俺も少しは譲歩するべきだろう。頷けば宜しいという言葉と一緒に額に唇が落ちる。これだけでまあいっかと思えるのだから安いものだ。

「イタ飯が良い」
「パスタとか? じゃあ張り切っちゃうよ」
「最近喰ってない気がしたから」

小奇麗な外装のビルの前で下される。フロアに足を踏み入れれば何人かが臨也に小さな本を手渡して、タイトルを見る事もなく臨也はそれを仕舞い込む。ぴったりと紙が合わさって開かれた形跡の薄いそれ。中身に何が入ってるかなんて想像に易くて適当に天井の内装に興味を持っているふりをした。臨也の仕事に口は出さないのが俺の自分で決めたルールのひとつだ。

「クリームソースな」
「俺はナポリタンな気分」

堅気な雰囲気など捨て置いたような場所において日常の会話をするのは別に油断しているからじゃない。車に乗っている時から臨也は警戒していたし俺だって何かあった時に動ける用意はしていた。招待されるというのは命の保障があるという事に結びつきはしない。雑談を交えながら部屋に通されると、大きなソファとテーブルが置いてある一角、そして壁際にはそれを小規模にした感じの場所がある。いつもの事なので目配せすると臨也が真夏の癖に着ていた上着を俺に渡してきた。

「暑いなら着てくるなよ」
「シズちゃんにとってはタオルみたいなもんでしょ」

それが無いと眠れぬ赤子じゃあるまいし。悪態をついた言葉は靴音に紛れて届かない。俺は角にある小さな一人掛けの椅子に座り臨也が中心に腰かけるのを見ていた。仕事内容は聞こえないくらいには遠く、何かあったら走り出せるくらいには近く。すぐに話し始めた臨也の声は断片的過ぎて喋ってるんだな、としか判らない。

「学校帰りですか」

臨也の背中を穴が開きそうなくらいに見つめていると、聞き覚えのある低い声が頭上から振ってきて顔を上げた。臨也とは対象に、大抵は白いスーツを着ていると記憶していた。

「お邪魔してます」
「学生も大変ですね」
「四木さんほどじゃないっすよ」

粟楠の中じゃ大分俺に寛容な方だ。初めて来た時は中学生程度だった俺を軽視していちゃもんをつけてきた組員を吹っ飛ばしても「ほう」と言うだけでボクシングの観戦をしているような顔をしていた人だ。
冷房が効きすぎているくらいなのを気にしてか、出されたのは湯気のたつほうじ茶だった。啜りながら臨也の方を見てふと思い出した俺はすぐにその顔を戻す。

「あっ、あの四木さん、この間の煎餅、美味しかったです」
「そりゃあ良かったです。じゃあ、こっちもどうぞ」

手土産と称して俺が小さい時から何かと俺に食べ物を与えてくれた。何処か普通のやくざと違う雰囲気のこの人を尊敬していたし、内心臨也のことを快く思っていないと知っているから嫉妬もしなかった。この場には不似合な可愛らしい白い箱を出され、パッケージだけで中身が予想出来た。

「3時にはまだ早いですが」
「いや、そんな良いっすよ。俺もう高校生ですよ」

とは言ったものの、蜜がたっぷりかけられた苺タルトを眼の前にして中々気持ちが引っ張られる。すきっ腹なのも大きい。ひょっとしたらお茶が出てきたのも口直しが出来るようにしてくれたのかもしれなかった。

「貴方の扱いを間違えると、良い商売が出来なさそうですからね」
「んー……じゃあ頂きます」

俺の機嫌を取ることで臨也と円滑な取引がしたいとあっけらかんに言ってくれたので、そっちの方が気が楽になる。媚びる態度は嫌いだからだ。商売道具にしたいとはっきり告げられた方が遠慮しなくて済む。でも俺に構い過ぎると逆に臨也が不機嫌になるって四木さん知ってんのかなあと思いつつ、目の前の甘そうなタルトにフォークを入れた。

「四木さんって子供が好きそうなのよく知ってますね。俺がちっちゃい時に饅頭くれたじゃないですか。あれ気に入ってんす」
「私が買ってくる訳じゃないんですけどね。そういうのが判りそうな奴が居るだけで」
「へー。もう子連れとかなんすか。あ、詮索する訳じゃないから答えなくて大丈夫っす!」
「気にしなくて良いですよ。未婚の奴ですが、女子供に好かれやすいらしくてね」

粟楠にも色々居るんだなと思いながら簡単に相槌を打った。さくさくした食感と冷えた苺が凄く美味しい。気を抜かずに臨也周囲の人間に時折目線を投げる。臨也も若いから舐められる事は多々ある。だから暴漢に襲われたりは割とよくある事だが、俺が一緒の時は全部俺が片付けていた。初めて同行した時に不良に囲まれた事は印象に強く残っていて、懐かしいなあとお茶を流し込んだ。

「そういや今日は四木さんが話しなくて良いんすか?」
「ええ。私の管轄じゃありませんから」
「大抵四木さんだからそっちに慣れちゃって。俺に気ィ使ってくれてんのかなって思ったら悪いから……」

最後のひとかけを口に入れる。空腹のお陰で大分食べるペースが速かった。臨也の方を見てもまだ話は終わる気配を見せないので先にごみを片付けようとするが、その前に違う組員に持っていかれて慌てて制止をかけた。

「あ、俺が片付けますよ」
「お気になさらず。客人ですからのんびりしてください。まあ、此処じゃ厳しいかもしれませんが」

何十と歳が離れている俺にさえ常に敬語を使ってくれるこの人の腹の内は判りにくい。それはある意味当然で、俺はこの人を何も知らない。知ろうとしなかった。俺が欲するのは、丁度立ち上がった黒い服のあいつだけだ。

「帰るよ」
「もう済んだのか?」
「上手く転がったんだよ」

俺が持ち上げた上着に袖を通すと、俺たちが喋っている間は一度も振り返らなかったはずなのに「ケーキありがとうございました」と告げてにこやかに笑った。ちょっと怒ってるかも、と内心で首を振る。俺よりもよっぽど臨也の機嫌を取るべきだ。

「今度は俺が何か持ってきますね」
「期待してますよ」

臨也に手を引かれながら元来た道を辿る。裏口から出ると同じ車が待っていたが、足を止めた臨也が振り返って微笑んだ。

「このまま買い物に行こうか。見送りは結構です」

運転手に後半だけ告げて、決めると早いのかすぐに俺を連れて歩き出す。元々臨也は街を歩く事が好きだ。中々昼間の照り返しが眩しいが、雲もそれなりに出てきたお陰で眼を細めるほどでもなくなった。

「四木さんに何貰ったの?」
「タルト」
「じゃあデザートはタルトにしよう」

俺が他人から施されたものに関しては、その記憶と情報を上書きしたいんだろう。臨也の独占欲が気持ち良くて頷くと、繋がれた手を握り返した。人通りの多い所では流石に手を繋ぐ事は出来ない、それを残念に思いながら細い道から大通りに出ようとすると、直前に臨也にキスされる。吃驚する間もないくらい短いものだった。

「甘い」
「……分けて欲しいのかよ」
「俺は砂糖で誤魔化したようなスイーツよりは、素直なままの君が欲しいね」

そっと表の世界に踏み込み、あっという間に雑踏に飲まれる。世間には夏休みなんて関係ないのだろう、客引きの声が大きく聞こえ、はぐれないようにぴったりと臨也の肩に引っ付いた。

「あ、セルティ」

遠くからでもよく聞こえる、都会にはありえない馬のような嘶き。姿は見えないが近くに居るのだろう、予想を立ててそちらの方向を見ると隣の臨也がくすくす笑った。

「どうした」
「彼女はまだ躍起になって首を探してるんだなと思って」
「首?」
「そ。運び屋にだって元々顔があったんだよ。誰かに盗まれたらしいけどね」

セルティの顔か。想像した事なかったけど、そういえば新羅はとても可愛いとか美人とか言ってたな。てっきりあれは性格の事だと思っていたが、顔の事だったのだろうか。いや内面だろう。新羅がセルティに嘘吐くとは思えないし。

「首なんて盗んで何するんだ」
「さあ? 盗んだ人に聞くしかないね。そうだなあ、シズちゃんの生首だったら俺、欲しいよ」

貪欲な濁りが瞳に映る。どうせ誰も見ていないだろうとこっそり手を取り、首以外もちゃんと愛せという意味を込めてつねってやった。

「痛い痛いっ、シズちゃんだって俺の生首欲しいでしょ?」

普通の人間が聞いたらドン引きする内容かもしれないが、もし臨也が首だけになったとしても、悲しいは悲しいけどちゃんと愛せると思う。うっとりと艶めいた表情をする臨也に、そしたら毎日抱き締めて眠れると照れ隠しに言う。実際どうするかはその時によるけど。

「俺はお前の身体も好きだし……」
「身体? 他には?」
「……顔?」
「うわー、ちょっと彼氏の褒める所を無理矢理探した女子高生みたいじゃん。性格とかさあ」
「大前提過ぎて忘れてた」

首なしだろうが顔なしだろうが、俺を愛してくれる臨也が俺は好きだ。そこはもう前提として存在しているから改まって言う事じゃない。勿論、男にしては綺麗で整っている顔だって、甘いテノールの声だって。

「……俺って臨也の嫌いな所がない気がする」

あれ? いや一個くらいはあるんじゃないか……。真剣に考えるがすぐには浮かばない。内面、内面、と考えているとある一点にだけ辿り着いた。臨也ばっかりが俺の事を知っているような気がして、もっと俺だって臨也を判りたい。俺を試すようにわざと他の人間を構う所ははっきり言って直して欲しいかもしれない。

「余所見しすぎな所は嫌いだ」
「んー? 正臣君とか?」
「お前紀田の事そういう眼で見てたのか?」

臨也の情愛も性欲も全部俺に向いていれば良いのに。咎める意味で繋いだ手にぎりぎりと力を込めるが、痛がる前に臨也の顔が至近距離に近付いた。眉目秀麗、そんな四字熟語がよく似合う美しい造形だ。

「疑ってる? 不安?」
「……紀田がお前に触った瞬間に殺す」
「どっちを?」
「紀田に決まってんだろ」

それよりも触れる前に腕をへし折ってるかもしれない。あいつの顔を思い出したらむかついてきたと苛立ちを隠さない俺に臨也が歩を速めながら小声で囁いた。

「じゃあ確かめよっか?」
「あ?」
「今日、帰ったら」

握り合った掌が熱くなる。炎天下なのだから当たり前だ、そしてそれをお互い離そうとはしない。

「一緒にパスタ作って」

こくりと喉が鳴る。未だ満たされない空腹は別の食欲も連れてきているのだ。

「タルトも食べて」

内容とは比例せず、声はとても爽やかだ。

「最後にベッドで、シズちゃんが知りたいこと教えてあげる」

紀田とそういう関係なのか、って。
判り切った所を、そんなプライベートなところまで持ち込みたくはない。陽気の悪戯とは無関係に赤くなる顔に絞り出す声は、この喧騒の中でも臨也は正確に聞き取ってくれた。

「聞かねえ、から」
「から?」
「……確かめるだけで良い」

お前は俺のもので、俺はお前のものなんだっていう、確認。それだけで充分に満たされてくれる。

「妬いてる時のシズちゃんはすごく可愛いから、めちゃくちゃに抱いてやれると思ったのになあ」
「そういう時のお前はすげえ意地悪いから、朝にめちゃくちゃ後悔させられるんだよ」

恥ずかしい言葉や、姿も惜しみなく見せられる。思い出すのも結構刺激的なのでかぶりを振って中断した。

「真昼間から変な事言うな。それよりパスタ……」

ふと周囲に気を配ってみると、いつも買い物する店をとうに通り過ぎている事に気付く。振り返るがもう見えない。いつの間にこんなに進んだんだろう。だけど臨也は歩調をまるで緩めない。

「臨也、店」
「あ、気付いちゃった?」
「……何考えてんだ?」

遅くなる所か、どんどん速くなっている気がする。この異常にようやく警戒し始めた俺は人通りの少ない方の道に何気なく視線を向けた。切り替わる景色の中、同方向に走る人影が一瞬だけ眼の端に捕えた。

「……つけられてる?」
「穏やかな夕食計画を邪魔されたね」
「やくざか」
「判らない。あんだけ睨まれちゃ背中がむず痒かったよ。こっちはまだ気付いてないって事にしたいから前だけ向いててくれる?」

自宅はバレてるだろう。そのまま帰るのも良いが日を改められるだけだ。なら俺が居る内に遭遇した方が良い。

「顔を割りたいから出来れば正面で鉢合わせたいね。人数は少ないっぽいから偵察だけかも」
「お前に恨みでもあんのか」
「心当たりを探したらキリが無いから諦めてるよ」

俺と繋がれていない方の手から金属音がするからいつでもナイフが出せるようにしているんだろう。やれやれと肩を竦めながら大して大事だと思っていなさそうな臨也は仕掛けるよと呟いて、俺の手をぐいと引っ張り人気のない路地に入った。帰宅コースとしては有り得ないから向こうも何か考えるだろう。どっちにしたって俺がぶっ飛ばすが。安全性を考えて一旦手を離した。

「ただのチンピラだったりして」
「それか勘違いかもしれねえぞ」

日が傾きかけてきたとはいえ、夏の路地が暗いのは少々不気味だ。どうやら行き止まりのようで、俺より先に進む臨也の背中を見ながら振り返るが、明るい世界が映っただけで特に異常がない。壁を調べる臨也に、やっぱり単なる気のせいかも、……。風切り音に気付いたのは俺が先だった。その先は車一台通れる程度の狭い場所、黒ずんだ何かを視界に入れた途端、音の正体が凶器だと知った。

「――!」

名前を叫ぶ余裕も時間もなく、必死に腕を伸ばして臨也の身体を掴んだ。成程、行き止まりだ。それもトラックがぴったりはまる程度のスペース。唯一の出入り口からは10メートル近くある。絶対に避け切れないトラップだ。ひとりなら絶対避けられない。俺でも無理だ。だから俺は掴んだ臨也の身体を、さっきまで自分が居たただひとつの逃げ場に投げた。目の前に迫ったのは無骨な、剥き出された金属の柱に有刺鉄線の塊。一瞬でそれを視界に入れた俺は、それらの荷物の積んだ荷台に赤い布が巻かれているのが見えた。車の全長より長い荷を運ぶ時につけるもの、法律は守ってる癖に人を轢くのに使うなんてアンバランス、だ。

「シズちゃん――!!」

臨也の声が聞こえる前に、有り得ない重量が俺を襲った。単なるトラックだけなら受け止める事も出来ただろうが、何分こっちに向けている玩具が鋭利過ぎるし、大体間に合わなかっただろう。痺れと衝撃に遅れて全身を強く打つ。おまけにぶつかったら紐が切れるようになっていたらしく、地面に伏せた俺の上に常人なら陥没も免れないであろう鉄の塊と刃が落ちてきた。一瞬意識が飛びかける。なんとか生きていると手足の指を動かして確認すると今度は殺意と憎悪に憤怒が湧き上がってきた。

「……く、も……」

瞼に何かが伝い、眼の中に入ってきて痛い。上に乗る鉄骨を退けて額に触れると、ぱっくり割れているらしく吃驚するぐらいの出血を理解したがそんな事くらいではこの激情は収まらず、足を固定する柱も思い切り蹴り飛ばした。

「シズちゃん」

ぱき、ばき、と踏み締める音は臨也がこっちに近付いてきているらしい。足元が崩れたら臨也の身体じゃただでは済まない。それも含めて急いで立ち上がれる程度に障害物を蹴散らすと血が昇っているらしい俺は今しがた俺を轢いたトラックを睨んだ。

「……殺す」
「シズちゃん」
「殺すぶっ殺す」

立ち上がって臨也の無傷を確かめてから俺は運転席に向かおうとするが、その足を引き留められる。

「すごい傷だ、早く治療しないと」
「あいつを殺してからだ」
「駄目だ。君の身体に傷跡が残るなんてゆるさない。犯人は俺があとで見つけ出すから」
「先に殺す、殺しておかないと気が済まない」

予想以上に血が出ているらしく、口内に溜まったのを唾と一緒に吐き捨てた。俺でもこんなんだ、臨也だったら、

「そんなの後で良いから。」
「あいつはお前を狙った!」

臨也が路地に入ってからトラックが動き出した。俺じゃなくて始末したかったのは臨也だ。

「お前を殺そうとした、絶対に許さない! 俺からお前を奪おうとしたんだ、殺さないと駄目だ、お前を狙ってやったんだ! 生きてること後悔させてやる」

腕に巻き付いていた有刺鉄線を素手で引き千切る。非常に嫌な音をたてたそれは無残に拉げ、俺は足元の重そうな鉄骨を無理矢理持ち上げてまた歩き出した。制服が砂埃と血で汚れ、所々が切り裂かれてもう使い物にならないだろう。

「殺す、殺すっ、手足引き千切って眼の前で折り畳んでやる、お前に手を出したんだ」
「……シズちゃん」

ぎぃ、ぎぃ、そんな風に金属の先端を引き摺りながら歩いていた俺に、状況に不似合な凍えた声がする。殺意に塗られた心がひび割れるくらいには、鋭く。

「第一運転手なんて最初から乗ってない。……俺の命令が聞けないなら捨てるよ」



「……え」

振り向きざま、支えを無くした柱が轟音と共にアスファルトに叩き付けられ形に沿って凹んだ。粉塵を物ともせず、俺は虚無の世界に取り残された気分になった。

「なん、て?」
「捨てるって言った」

臨也の声がとてもとても冷たい。憎しみすら現しているその表情は、臨也が非常に怒っていると気付かされ俺が抱いていた感情が全部どうでも良い事のように思えた。

「……い、いや。だ」

この距離が遠い。臨也の、あの言葉は。他人にとってはなんてことのないフレーズかもしれないけれど。

「嫌だいや、いやだ、臨也捨てないで!」

駆け寄って両腕を掴む。何処まで本気なんだろうか、この左手が切り落とされるのか。最後までこの拠り所に縋って居たく、ずるずると力が抜けて膝をつきながら必死で腰に抱き着いた。

「なら俺の言うこと聞く?」
「聞く、なんでも、聞くから、それだけは嫌だ。死んでも、嫌だ……!」

ショックにぐらついた身体は、何故か臨也にしがみ付くことすら出来ないくらいに脆くなってしまった。あ、れ? 眩暈にありえない疲労感が襲う。

「シズちゃん」

声がぶれて聞こえる。優しい声を少し取り戻した臨也の表情もろくに見えない。力の入らない身体を抱き寄せられたが震えが止まらない。怯えもあるけど、これはなんだ、俺の支配に関係していない。

「臨也」

呼吸が深くなるが続かない。掴まっている臨也の服がべたつき、俺の血を吸っているのが判る。こんなに出血したのは初めてかもしれない、冷えていく感覚がどうしようもなく怖く何度も抱き締めてくれる身体に向かって名前を呼ぶ。
臨也が電話しているらしく、内容からして多分セルティだ。意識が繋げない。臨也、と発音しきれないまま半開きの口をそのままにだらんと腕が落ちる。

「……!」

臨也の声が聞こえない。



状況を察するのにかなり時間を要した。口周りを邪魔する呼吸器なんて大仰なものがつけられていて、視界には白い天井と爽やかなグリーンのカーテンが映り、身体は関節が固まってひどくぎこちない。左手に点滴の管が見え、よく刺さったなと感心しながら、右手がとても温かいのに嬉しさを覚えて目線を下げた。

「……」

しっかりと握られた掌同士、持ち主はやはり臨也だった。何故か空いた手には臨也が普段持ち歩くものの中では一番鋭く大型のナイフが添えられていたが、俺は臨也を殺そうとしたトラックに轢かれたのだと思い出す。点滴の所為で動かない左手に涙が浮かびかけ、伏せて眠る臨也を起こそうと右手に微弱な力を込めた。

「……あ」

浅い眠りだったらしく、身動ぎした臨也はすぐに手を見、そして俺の顔に視線を移す。俺の眼が開いていると気付くなり、疲れているような顔を輝かせて抱き締めるように肩口に顔を埋めてきた。

「シズちゃん、シズちゃん」

なんだかとても懐かしい。右手で呼吸器を外しなんとか最愛の名前を口にしようとするが、掠れて空気音しかしない。それでも充分だというように微笑んだ臨也がかさついた唇にキスをくれた。聞きたいことが山ほどあるが、どれも言葉の形になってはくれない。掌で文字を書き「どうなった」と問うと、臨也は目元を擦りながら浮かせていた腰を椅子に落ち着けた。

「二日……三日くらい寝てた。血、流し過ぎちゃったみたいで一時は意識不明だったんだ。新羅もセルティも慌ててたよ」

此処は新羅の家か。呼吸器を元に戻して首だけで周囲を窺うと、明け方だからまだ寝てると思うよと臨也が笑う。その服は珍しく白のワイシャツでサイズ的に新羅のものかもしれないと思った。

「大分傷口塞がったけど……暫くは安静だって。流石はシズちゃん、一本も骨が折れてなかったよ」

俺だったら9割方死んでたと呟かれ、あの時強引に臨也を放り投げて良かったと心底胸を撫で下ろした。テーブルに置かれていた携帯を取り何やら操作すると、俺の方を見て綺麗に笑む。

「君をそんなにした連中は俺から手を回しておいたから。シズちゃんが死んだら、もっと苦しめてやろうと思ったんだけど……あの世行きくらいで勘弁してあげた」

身を乗り出した臨也が、俺のワイシャツのボタンを外す。なるほど傷はもうほとんど消えていたが、強く打ったものは流石にまだ赤みがある。それでも打撲や切り傷はもうなかったことになりかけていた。その肌の上を、臨也の白い手が触れる。敏感になっているのか、やけに強く感じた。

「……シズちゃんの身体に、こんなに傷をつけられるなんてねえ」

笑っていない眼が、臨也もこれに関して怒っているのだと理解させるには十二分な威力を放っていた。俺の所有物に、と言葉の端に言っている。ごめん、と口の形だけで作ると、臨也は腰を屈め、ちゅ、と肌に唇を滑らせていく。鎖骨の下に吸い付くと、はっきり赤を見せつける。自分からは見えない位置に不満を覚えたが、臨也は手際よくボタンを付け直し、新羅を呼びに行くのか目配せして部屋を出ていく。その間に腕を持ち上げたり膝を曲げたりしたが特に痛みは感じない。切れていた額には絆創膏すら貼られていないようだ。

「静雄君! 起きたんだね。セルティがとても心配していて妬けちゃったよ!」
「先に医者の仕事してくれない?」
「なんだよ、静雄君を殺そうとした癖に」

言葉に引っかかりを覚えて顔を向けると、新羅は言葉の意味とは裏腹ににっこにっこと眼鏡をかけ直した。

「出血がひどいから輸血した方が良いって言ったのに、臨也なんて答えたと思う?」

臨也に顔を向けたが、表情からは何も読み取れない。臨也が俺を殺す? そんなの、だって、……でも最後にあの言葉を言われたのはとても心に来た。突き刺さった。思い出して身震いしたが新羅はお構いなしだ。

「『そんなので生き延びるくらいなら俺がシズちゃんを殺すよ』って。怖いよねーずっと君にナイフ突き付けてたし」

後ろからセルティが慌てて入ってきて俺に水の入ったコップを差し出した。同時にPDAで会話しようとしたらしいが、臨也が横から奪い取り当たり前のように自分の口に含む。意図が読めたので呼吸器を外すと頬を支えられて口移しを受けた。たった一杯の水分だが、生き返った心地がしてゆっくりと嚥下する。なんとか潤った喉で、もう一度発音した。

「……いざや」

やっと言えた。がらがら声で、舌だって縺れているけど。目の前でくすりと笑った臨也はシーツの上に置き去りにされていたナイフを手に取ると、くるくると掌で弄びながら俺を見つめた。

「君の中に他人の血が入るなんて」
「……」
「君は俺が決める。材料は俺が選ぶ。そこに見ず知らずの血を入れるなんて。汚らわしい」
「そんな理由で輸血を拒んで静雄君を生死の境に彷徨わせたんだよ! 殴って良いと思うよ!」

後ろで合いの手を入れるような気軽さで臨也の非情さを主張する新羅だが、俺の眼には臨也しか映っていない。

「シズちゃんの生命力を信じたんだよ。君の身体に俺以外の何かを受け入れさせるくらいなら……そう、思ってね。怒る?」

握られていた手を見つめる。この身体は、まだ俺なんだ。別の何かで形成されている訳じゃないんだと思うと、心が休まった。だけどほんの少しだけ、臨也と同じ血液型だったら良かったのにと拗ねてはみたりする。血まで臨也と共有出来るならそれはそれは素晴らしい事なのに。

「ん……嬉しい。そう、して、欲しかった」
「だよね」

他人の不純物と俺が混じり合うくらいなら殺した方がマシ。
結局臨也のナイフは使われなかった事になるが、きらりと輝く刃部分に臨也の顔が映る。疲れ切った表情は、俺が寝ている間ずっと付き添ってくれてたんだなと想像に容易い。殺すと口では言っても、俺を生かしたかったのか。

「退院まで安静にしてなきゃね」
「もう動ける」
「え! じゃあ静雄君、治療費の代わりにちょっと採血だけでも……」

相変わらず新羅は俺の身体に興味があるらしいが、後ろでセルティが影で腕を捻り上げていて見事だ。漫才のような二人に笑う臨也の袖を引っ張り、ろくに睡眠などとっていないだろう臨也に一緒に寝ようぜとキスをねだった。臨也が細胞単位で俺を愛してくれてるときちんと確かめられたのだから、口付ける臨也の片手にあるナイフに貫かれるのも、悪くないかもしれない。

「……」

ぷつりと臨也の唇を少し噛むと、目線でゆるしを貰ったのでそっと吸うように唇を合わせた。甘美な麻薬のようにも思え、完全に傷がふさがるまで血の味しかしないキスを繰り返す。

「いざ……」
「なに?」
「まだ俺のこと……捨ててない、よな?」

鈍った左手を動かして出来るだけ隠すようにシーツに沈めた。この腕が繋がっている限りは、俺も臨也と一緒に居られる、から。

「臨也が、捨てる、……って、言ったから……!」

苦しさに涙さえ出そうになりかけていると、頭を抱えられて隠していた左手に触れる。隙間を埋めるように指を通すと安心感から力が抜ける。この手は、俺を拒絶していない。

「シズちゃんは俺のものだよ。君は俺の為に生きてる」

まだ必要とされているなら、殺されるまできちんと傍に居よう。この関係の終止符を打つ鍵は互いが持っているから。俺はお前の為だけに生きているよと、束縛の左手を握り締めた。
血も肌も、毒されているように、浄化されているようにも感じる。癖になったら怖いなと今更な自己防衛を嗤った。もう、手遅れ。


君の主成分は、