平和島静雄には好きな相手が居るらしい。
そんなことを、高校に入ってから何人目か判らない彼女から聞いた。話がふと途切れた時の穴埋め程度の話題として。気が付いたら興味もない女を置いて歩いてきた廊下を逆戻り。離れた教室には、目的の青年は居なかった。
「シズちゃんは?」
日直だったのか、前の授業で使われた黒板を綺麗に掃除していた新羅は眼鏡の奥の眼を丸くする。
「あれ? 一日交代で彼女を替える折原君が何の用だい」
皮肉でも嫌味でもないのだろう、けらけらと笑う新羅に動揺を悟られないように笑顔を作って腕を組んだ。
「一生彼女が出来なさそうなシズちゃんを探してるんだけど?」
「また喧嘩かい? それと、彼女なら静雄だって出来るんじゃないかな」
無愛想だけど顔は良いしね、と所詮見た目だけで女と付き合っている俺に対して見かけ上の辛辣な言葉を投げかけたが俺の欲する答えでもなく、取り繕うのをやめて眉根を寄せた。
「どういうこと」
「……えっ、本当に知らないの? 今、下級生の子に呼び出されたところだよ」
新羅は眼鏡をかけ直し、黒板消しをラブレターにでも見立てて俺に両手で差し出してきた。きらきらとした眼差しや作り声はその女を真似しているらしい。
「『平和島先輩、お昼休みにちょっとだけ良いですかっ』って、静雄は純粋でものをストレートに言う子が好きだから、律儀に裏庭に出かけて行ったよ。誰かさんみたいに嘘ばっかり言う口は大嫌いらしいけどね」
「っ……今日は随分とシズちゃんに肩入れするねえ」
「そりゃあそうさ。僕は静雄の友達だからね。……それにしても遅かったね臨也」
鼻で笑い飛ばして踵を返す。他人から聞かされて気付けなかった事を不愉快に思いながら。これで俺たちの関係に亀裂は全く入らないのだから不思議なものだ。不思議だけど不自然ではない、それよりも今はと足早に階段を降りる。窓から覗くと、死角になる場所へ金色がゆらゆらと移動しているのが見えた。待ち人が居るのか、ぺこりと会釈したらしい。そこからは完全に見えなくなり、舌打ちを零しながら足を速めた。
上履きのまま中庭に走ると、まさに新羅が再現した通り、何かを静雄に差し出している少女が見えた。生憎俺からは、金髪の人形の後姿しか見えない。
「……」
「……」
「……」
「……」
何か言葉を交わしているようだが、流石に聞き取れない。少女は艶のある黒髪のストレートヘアで、スカートも膝丈で着崩しのない真面目な容貌をしていた。顔を真っ赤にして必死に何かを伝えているようで、純朴とか守ってあげたくなる、とでも表現したくなるような娘だ。絵に描いたような優等生である彼女が、停学ばかり喰らう静雄の何処に惹かれたのか理解に苦しむ。
「……!」
「……」
「……」
「……」
また何か、今度は少女が手を顔に当てた。打ちひしがれているような、震える小柄な肩を静雄は見つめているのだろうか。やがて先ほどと同じように、いやそれよりもしっかりと頭を下げた。いよいよ少女は泣き出して、同じく会釈して走り去っていった。残された静雄は、余りにも頼りない雰囲気を纏っていた。
「……」
予鈴のチャイムが耳に届き、廊下で生徒が走る音が此処まで聞こえてくる。そっと後ろから近付き、足音に気付いた静雄がゆっくり振り返る。俺だと気付くと悲しげな眼が見開かれたが、何時もの咆哮のような怒鳴り声は浴びせてこない。絡んだ視線も、一瞬で逸らされた。
「振ったの?」
「……ああ」
正直に答えるとは思っていなかったので、驚きが顔に出ないようにへえ、と間を置かず声をかける。
「あの子、結構人気あるんだよ。文学少女って感じで、あんまり恋愛に興味なさそうな顔してたのに」
金髪の不良と称される先輩に告白するだけの度胸はあったらしい。肩を竦めて勿体ないことしたね、と言う意志を告げると、静雄は彼女が去って行った方向を横目で見た。
「ああいう子は、俺みたいな奴とは関わらない方が良い」
「彼女の為を思って、とか? シズちゃんにそんな人間っぽいっていうか、男前な感情があったんだねえ」
「人気あるんだろ。他に良い奴なんて沢山いるさ」
俺の挑発を気にも留めていないように振る舞って、静雄は俺とは逆方向に歩き出す。まるで干渉をゆるされていないようで腹が立ち思い切り腕を掴んで振り返らせる。
「離せよ」
「君らしくないね」
偶然合わさった一度目以外に静雄は俺を見ようとしない。時には笑みさえ浮かべて俺に物を投げる癖に。癖に、癖に!
「てめえの理想を俺に押し付けるな」
「……シズちゃんには好きな人が居るって聞いたんだけど。誰?」
真偽を問いたくて思わず早口になるのに気付きながら、身体を近付けた事で威圧感を覚えたらしい静雄が後退りしながら唇を噛んだ。
「折角、告白されたのに断っちゃうってことは他に居るんだろう?」
「黙れ」
「クラスメイト? 年上? 俺の知ってる子?」
「死ね。好きな奴なんていねえ」
色恋沙汰を指摘されているというのに、静雄の顔は赤くなる所か、やや青くさえなっている。琥珀色の瞳が俺を見ない事に苛立ってぐっと顔を近付けると驚いた静雄がようやく俺を直視した。金縛りにでもなったかのように微動だにしなかったが、五時限目のチャイムが聞こえた瞬間にはっと顔色を変えて俺の拘束から逃れてしまう。伸ばしかけた腕は、空中で止まってしまった。
「シズちゃん」
静雄は、余りひとを拒絶しない。関わりを恐れても、結びつきに憧れているから。だから俺が腕を掴めば、必ず彼は足を止める。そう思っていたのに静雄の背中から感じるのは、明確な拒絶。
校舎とは違う方向に走って行ってしまった静雄の姿は、まるで先ほど振られた少女のようだった。
「今頃追いかけてさ。可哀想に、静雄はもう逃げちゃったよ」