背後からひっそりと後をつけてくる猫を追い払いながら只管に歩く。真っ直ぐ家に帰って、勉強しないといけないのに。それでも俺の足は止まらなかった。
前の影がふらりと横道に逸れる。見逃さないように歩調を早め、まるで刑事になったかのように壁伝いに移動した。誰も歩いていないような暗い道だ。真昼間なら印象も変わるかもしれないが、陽も落ちかけた黄昏時には影すら不気味に映る。下ばかり見て歩いていた俺はひたりと足を止める。
夕陽の所為じゃない。黒いアスファルトに点々と落ちているのは紛れも無く血だ。しかも全く乾いていない。そして俺の前を歩いているのは、学ランを着た中学生がひとりだけだ。同い年と言う事は判っている。何しろ、同じ高校に願書を出しに受付で出会ったのだから。向こうは俺を視界にも入れていなかったから多分認知していない。
「……」
その同い年の男から、何故血が出ているのか俺は知っている。血を踏まないように注意深く歩みを進めると、他よりも多くの血痕が落ちている場所を見つける。どうやら相手が一時的に止まったらしく、しかしその先に血が見当たらない。気がつけば付かず離れず距離を保っていたはず男が消えていた。脇道なんて一本しかないので、慌ててそこに駆け込む。ビルの隙間な所為で光が全く入って来ないじめっとした場所に、俺は爛々と輝く二つの赤を見つけた。
「っ……!?」
なんで、こっち向いてんだ。血がぽたぽた落ちるのも構わず、俺よりもやや背の低い男は平然と俺を見つめてきた。その、赤で。
「何か用?」
陳腐な言い方を借りるなら、まるで空のような爽やかな声だった。眉根は寄せられ、不快感をありありと示しているのに、声だけは驚くほど綺麗だ。語弊があるかもしれないが、その歪んだ顔も、バランスの取れた肢体も綺麗ではあった。
「あ……」
「ねえ、俺は何か用って聞いてるんだけど。あからさまに追ってきて」
こいつは午前中に願書を出した後、そのまま不良集団に取り囲まれて公園で大立ち回りを繰り広げていた。細身の頼りない身体なのに、10人以上は居たであろう奴らをひとりで撃退して見せた。だが、最後に刃物を持った奴に背中を刺され、その時から手当てらしい手当てもせず公園から逃げて行った。ずっと外から見ていた俺は慌ててそいつの後を追って、此処まで来た。
「あいつらの仲間?」
自分で言って、この男は胡散臭そうに眼を細めた。上背はあるが俺もこいつに負けないぐらい細身で、茶髪ではあるが無害そうに見えたんだろう。俺はまず自分の行動を正当化しようと、血が少しずつ流れ続けている腰辺りに視線を落とした。
「怪我、してるだろ」
「……だから?」
「止血して、治すべきだ」
「はっ」
判りやすく鼻で笑い飛ばしてくれた。明らかに嘲笑と判断出来るそれを浮かべて俺を見る。
「わざわざそんなこと言う為にストーカーしてきた訳? 暇なんだね、羨ましい」
「悪いか」
「悪いね。俺は気分を害された」
善意を押し売ったつもりではなかったが、此処までざっくり切って捨てられると心に来る。だが、俺がこいつを追ってきた理由はそれだけじゃない。それだけじゃないけど、それは今は、関係無い。
こうしている間にも奴のカッターシャツは暗くても判るくらい赤黒く変色していて、濃い血の臭いに僅かながら気分が悪い。
「君の慈善活動に興味は無いよ。金でもくれた方がよっぽど役に立つね」
そう言って俺から視線を外したので、立ち去る気だと瞬間的に理解した俺はポケットを漁って財布を出した。男の眼が少しだけ見開かれる。完全に意表を突かれた様子であることは話題に出さず幾らだ、と早口に言う。すると今度は爽やかだった声すら、ドスを利かせて恐ろしいものに変えてしまった。
「気持ち悪いね、あんた……心底気持ち悪い」
その声に怯えた俺は一先ず財布を後ろ手に隠す。蔑視を向けられるのになんて慣れておらず視線も背けると、男は足早に踵を返してしまった。
「っ待てよ!」
俺の大声に驚いたのか、それとも貧血だったのか。奴は足元をふらつかせて膝を折った。反射神経をフルに発揮させ、細い身体が地面に叩きつけられるのは辛うじて防ぐ。倒れたそいつを受け止める際に、掌にべっとりと血液が付着して生唾を呑み込んだ。
「う、なん……」
歯を食い縛ってうつ伏せに寝かせ学ランを剥ぎ取る。カッターシャツを捲り、傷口を見てやや拍子抜けしてしまった。もう傷口はほとんど塞がっていて、場所が悪かったのか出血がひどいだけらしい。それでも結構な量は流したと思うので鞄の中からタオルを出して傷口を縛り上げる。その瞬間、痛んだのか低く呻いたことで意識を取り戻したらしく、眼を見開いて俺の手を払った。
「触るなよ……!」
蚊を追っ払うかのような軽さだったのに、俺はビンタされたような衝撃が走って吹っ飛ばされる。痛みよりも驚きが勝って眼を丸くすると、奴が……、――が、よろけた足で無理矢理立ちあがって走って行った。
「折原!」
あいつは、他の奴にそう呼ばれていた。名字に違いないけど、折原は一瞬だけ足を止めて、また何処かに消えていってしまった。すっかり夜に近付いた、寒い日のこと。俺の手にはあいつの血だけが残される。折原の瞳とは違う、汚れた黒い液体だった。
何時の間にか擦り寄ってきた猫が、空気を読まずに「にゃあん」と喉を鳴らした。
独りで居る君に