冬は好きだ。それなりに。寒さを理由に臨也にすり寄ることが出来る。空調なんて常に適温だから寒すぎるなんて環境に晒されたこともないけど、チャンスとばかりに「寒い」のたった一言だけでテレビを見ている臨也が笑いながら抱き着くのを了承してくれる。別に理由なんて無くたって臨也が嫌がることなんて滅多にないもののこれは俺の羞恥心を僅かにでも軽減させる為だ。

「シズちゃんは抱っこが好きだねえ」
「……ん」

別に、と返しても良かったんだが素直に返事すれば、機嫌を良くした臨也が大抵そのまま撫でてくれる。指通しは悪いはずなのに金髪を梳く手は止まらない。ほかほかと温まってきてテレビの音が遠くなる。携帯が震えて臨也がメールを確認している間、俺だけ構えよと言いたいのをぐっと堪えてカレンダーに視線を移した。

「新羅たちがシズちゃんの好きなケーキ聞いてるよ。何が良い?」
「ケーキ?」
「誕生日だからだろう。セルティの手作りは食べさせられないけどね」

ケーキ、ケーキか。聞いた話じゃセルティは余り料理が出来ないらしく、食べさせられている新羅は時たまに涙の笑みを浮かべているらしい。それよりも臨也が淀みなく誕生日と口にしたのに、俺は嬉しいやらむず痒いやらでとりあえず臨也の腹に頭を埋めた。

「臨也のと被んなきゃなんでもいい」
「そっか。聞き分けの良い子は好きだよ」

臨也が俺のために何か用意しているのは長年の経験から判っているけど、面と向かって勝ち誇った顔をしながら言えるほど厚顔じゃない。どうせ用意してんだろ、ぐらいのニュアンスで。対して臨也が言うのは、俺から贈られたものを優先してくれるんだろう? ということで。判り切ったことを聞くなと腹にぐりぐり頭を押し付けた。

「あはは、痛いよシズちゃん」
「穴でも開いちまえ」
「君が言うと、結構現実味があって怖いね。動けなくなったら看病してくれる?」
「……お前の態度による」

ひどいな、なんて微塵も思っていない態度を口にして俺の耳たぶを擽った。顔を上げろと言われているので、図らずも上目遣いになりながら言う通りにすれば、まぶしいくらいの赤い眼が細められた。

「キスしようか?」

熱っぽい吐息と一緒に熱望されたら断る理由もない訳で。大人ぶって仕方ないな、と表情だけ作って臨也の身体によじ登る。

「好きにすれば」

気取るのに失敗した俺の言葉は臨也の唇に飲み込まれた。甘い。
べろりと口内を舌が這う。いつも動きについていけなくて、自分から伸ばし始めた頃にはもう息が上がってる。合わさった唇の感触だけに神経を注いで、引き寄せる為に回した腕のお陰で無防備になっている脇腹を臨也の手が摩った。

「っん」

僅かに呼気を漏らして威嚇してみても、そろりそろりと伸びる手が止まらない。真昼間だぞ、自重しろよ、自分でもちょっと期待しているのは棚に上げて睨んでも、どうせ見透かされている。どうしたものかと悩んでいると、今まで余計な音をシャットアウトしていた耳がチャイムが鳴る音を拾った。しかもかなり連続で。

「……舞流か?」

臨也の表情から窺うに約束があった訳じゃないんだろう。突然の訪問でこんな乱暴なチャイムの鳴らし方はなんとなく臨也の妹を思い出した。

「……ちっ」

はむ、と音がするくらい勢いよく俺にキスするのを最後に、臨也は機嫌悪そうに、でも丁寧に俺を下ろした。九瑠璃と舞流だったら摘み出して箱詰めにして両親の所に郵送してやると物騒な事を呟きながら。その必死さに少しだけ笑ってほどほどにしておけよ、と後姿に投げかけられるくらいには臨也の姿は面白かった。
待っている間にと思って机の上に置いておいた携帯を手に取ると点滅していて、セルティからだろうかと胸を躍らせた。

「幽?」

表示されたのは暫く会っていない実の弟だ。撮影の差し入れで水菓子を貰ったから、臨也さんの所に送っておくね。と短く表示されている。電話すると臨也が怒るので、偶にだがメールのやり取りだけはしていた。この分だと明日の誕生日にも何か送ってくる気だろうか、と首を傾げながら礼を告げる文面を打っていると、玄関の方で女の嗚咽が聞こえた。

「……?」

舞流じゃない、と直感で思った俺はメール作成中の携帯を放り出してこっそり事務所を横切った。中途半端に開いていたドアから覗き見ると、臨也の背中と、それに回された細腕が視界に入る。顔は見えないが背丈や服装から推測するに、臨也の信者だろう。無遠慮に臨也の背中を掴む腕。ばき、と手元から鈍い音がした。

(なんで……そんな、気軽に)
(臨也は俺のもんだぞ)

会話も聞こえない、漏れる醜い嗚咽で女が泣いているのが判るけどそれに臨也がなんと返しているかまでは。
偶に頭の可笑しい三ヶ島みたいな奴が癇癪を起こして此処に来ることがある。臨也の口八丁に丸め込まれて帰る頃には笑顔を浮かべて、「折原さんに相談して良かった」とか言い残していくのだ。俺がまだ小学生だった時は、女受けする人形みたいな顔に可愛いなんて黄色い声で叫ばれたが俺には不愉快以外の何者でもなくて。

(臨也と一緒に住んでるからってポイント稼ぎしようとしてたなんて)

実質、彼女らから渡された菓子類や人形は全部捨てていた。臨也以外に喋ろうとしない人形に、次第に評判は悪くなっていったけど。好んで話しかけてきたのは三ヶ島くらいだ。俺は全部無視していたから記憶には余り残らず。

(……離せよ)

さっきまで自分が縋り付いていた場所が他の奴に盗られる。臨也も、臨也もそんな奴ほっとけよ。頭なんか撫でるな、臨也、触るな、臨也臨也、声、手が、くそ、 ドアの木片が、手に喰いこんだ。

「――!」

常なら我慢が出来たはずのそれをしなかったのは、特別というものに焦がれた子供だからだ。
破壊しかねない勢いでドアをこじ開けて、驚いた二人がこちらを振り向く前に足音荒く近付いて、想像よりも華奢だった女の腕を掴む。壊しかねない細腕、だけど臨也が居るのなら。抑止力を信じて、無慈悲に玄関の方に突き飛ばす。たたらを踏む女に眼もくれず、眼を見開いている臨也に近付いて抱き着いた。

(此処は、俺の、場所なんだ)

他の誰でもない、俺だけが触れていい、ゆるされた場所だ。慰めも気休めも与えてやるものか。此処から臨也に齎されるのは俺だけで良い。

「失せろ」

行きすぎた殺意すら込めて、尻餅をついた女に牙を剥く。涙に濡れて状況を呑み込めていない面は醜くて気分が悪い。金髪から覗く視線に息を呑んで縋るように臨也に目線を移した。流石の臨也も俺の行動には驚いたようで固まっていたが、俺の心情を察してくれたのか先ほどと同じように優しく髪を撫で始めた。

「やきもち焼きだなあシズちゃんは」

判ってる、紀田とかと同じようにこの女も利用している奴のひとりなんだろうって。でも、一時でも臨也の胸を借りる事が出来る権利はそう易々と渡さない。

「ああ、君のことはなんだか興味無くなっちゃったからとっとと帰ってくれる?」

こういう臨也の声は心底そう思っている証拠で、一気に冷やかになった声にやはり混乱している女は本能的に逃げた方が良いと、落ちていた鞄を拾うと新たに出てきた涙を拭いながら走って玄関を出て行った。足音が遠ざかって、つけっぱなしのテレビの音が判別出来るようになるまで、微動だにせず体勢を変えない。

「……我慢出来なくなっちゃった?」

可能な限り臨也の仕事の邪魔はしない、が俺が自分で作ったルールだったのに。暗に臨也にそう言われても、俺の湧き上がった感情は収まるところを知らない。抱き締める腕に力が増し、臨也が息苦しさに呼吸を漏らすのを感じる。キリキリと音が鳴り始めても、まだ、

「っ……し、……」

俺の背を優しく撫でていた手が浮く。肩が強張って、表情や声に苦悶の色がちらつく。顔を埋めているから俺には見えないけど。

「な、に……嫉妬、した……? や、っぱ、やきもち、かい?」

やきもち? そんなもので、

(片付けるな)

ようやく顔を上げた俺は、臨也のシャツを唇で挟み込んで引っ張り、肩を露出させる。日に焼けない白い肌。浮き出た鎖骨の上を猫のように舐めると、痕でもつけたがっているんだろうと解釈した臨也は特に抵抗しない。
感情は、羨望。憎悪と疑心と焦燥に、収まらない暴走。この身体も、なにもかもぜんぶ、(俺の、ものだ)。

「……っはあ」

大きく息を吸って、同じくらい大きく口を開く。臨也の眼に一閃、動揺が支配するのにもお構いなしに。
そのまま、なんの手加減もなく臨也の肩に噛み付いた。

「っぐ……!」

猫の甘噛みなんて洒落にならないくらいに、挟み込んで、歯型なんて可愛いものじゃ済ませない。

「シ、ズちゃ……!」

相当痛いのか珍しく臨也が俺の行動に制止をかけようとしている。人間的な防衛本能からだが、俺はますます犬歯を喰いこませるように顎の力を強くする。ぶちぶちと肌が裂けて、舌に血の味を感じた。

「……は」

腕に全く力が入らなくなったのか、ぶらんと臨也の手が重力に従う。腕を喰い切らんと獣のように息を荒くするのに、耳元にある臨也の口からは快楽に打ち震えた哄笑が聞こえた。

「い、いよ、シズちゃん……可愛いねえ……」

心がすっと薙いでくる。俺は別に臨也に苦しんで欲しいとか、苦悶の声が聴きたい訳じゃないので素直に、ゆっくりと牙を抜く。俺の唾液でべとべとになった肩口は真っ赤に染まりながらも周囲は真っ青に変わっている。臨也の均衡の取れた身体には不似合いなひどい傷跡を、それこそ小動物のように舐めてやる。ちょっとだけ気が晴れたなんて思いながら、足に力が入らなくなった臨也が壁伝いにずるずると腰をつけた。

「ははは、シズちゃんの、噛み癖なんて……もうすっかり治ったと思ってたのに」

それは此処に来た当時の事だろうか。誘拐まがいで連れてこられて、臨也に怯えて、比喩的に噛み付いていた時期。

「……物理的な意味で噛んだのは、初めてだろうが」
「すごく気持ち良かったよ。死ぬ時は腹上死を考えてたけど、シズちゃんに食べられて死ぬのも悪くないなあ。肩を噛み切られるんじゃないかって思ったらやばいくらい興奮したよ」

いつもと違って座り込んでいるのは臨也で、それを見て満足しているのは俺。嗜虐的な趣向は持ち合わせてないが、ハイネックでも着ない限り意図して隠さないとこの傷は見えるだろう。すこしだけそれに愉悦を覚え、滲む血が止まるまで傷口に舌を這わせ続けた。

「……ん?」

嬉しそうな顔で俺を見ていた臨也がふと動いたかと思えば、携帯のバイブが鳴っていたらしく、連絡先を見るとそのまま出た。

「折原です」

お前なんで俺に噛まれたのか全然判ってねえみたいだなと関節を鳴らすが、宥めるようによしよしと頭を撫でられてぐうの音も出ない。俺を抑えるのには単純な動作だけで事足りるのだ。

「ええ、判りました。すぐ向かいます」

……仕事か。臨也の声で判るが、むかつく。

「何処行くんだ」
「粟楠の方だね」
「……」

なら同行は無理か。一度強引に臨也についていったら、案の定子供を連れた臨也が舐められる形になって簡単にキレた俺がヤクザ相手に暴走した。重鎮に気に入られていた(四木さんは組員が俺にボコられるのを感慨深げに見ていた)のでなんとかなったけどあの視線は好きじゃない。元々俺が臨也に引き取られたのは、化け物と罵られるのに耐えがたい苦痛と恐怖を味わってストレスになったからだ。俺の力に純粋に怯える子供も、粘つくような侮蔑を向けてくる大人も、俺は苦手だ。

「……いつ、」

それを払拭してくれた臨也は、俺の世界に等しいんだ。

「帰ってくる?」

折角凪いだ心がまた淀んでくる。家に取り残されるのは好きじゃない。此処には臨也の残り香しかない。

「日付が変わる前には」

痺れて動かなかった右腕がようやく自由に可動するようになったらしく、両腕で俺を抱き締めてくれた。瞳が戦慄く。

「必ず帰ってくるよ」

伏せた事によってはっきり視界に入る生々しい傷跡を見下ろしながら、流石にこれを止める訳にはいかないなとため息をついて身を乗り出す。歯は出さず、唇だけを頬に落とした。

「絶対だぞ」
「指切りでもする?」
「噛むぞ」
「流石に噛み切られちゃうなあ」

そっと頬を撫でていた小指に視線を下ろす。確かにこの細指じゃ、俺が本気で噛み付いたら千切れそうだ。指切りの代わりにそっと甘く噛んで軽く歯形を残した。数分で消えるだろうけど。

「1秒でも遅れたら噛み切ってやる」

噛むのがまた癖になっちゃ困るなあ、なんて全然困ってなさそうに臨也は呟くが、時間が惜しいのかようやく立ち上がる。行ってきますのキスが落とされて、明日でこいつと一緒に過ごすのはこれで何年目なんだろうと後姿を見ながらぼんやり考えた。



不平も不満も言うつもりは無い。思いはするけど。狙ってんじゃないのかってくらい帰りが遅い臨也を部屋で待ちながら、普段なら寝ている時刻に時計をじっと見つめている。秒針が妙に速い。実際はそう感じているだけで、携帯でも同じ時間を示しているだけだから単に体感時間が違うだけだ。

「……日付変わるぞー……」

俺だけしか聞こえないような声で告げても、無駄に広いこの家の中では反響もしない。抱えている枕が熱くなってきて何度か持ち替える。1月の夜はとても寒い。暦から見ても同じことだが、捨てきれない希望から暖房はリビングにもつけてある。平日の明日は学校だというのに余り遅くまで起きていると、しっぺ返しに嘆くのは俺だというのに。別に日付が変わった瞬間じゃなくたって良い、明日の朝でも十分だと思いながらもむくれ顔になるのは機嫌が悪い訳で。去年のあいつの時は抱き着いておめでとうと言ってやったのに、臨也の馬鹿、アホ、ノミ!

そうやって心で罵った時に限って臨也は現れるものだ。電気も消したままの部屋でひとり怒る俺の意識の中に気配が入る。俺だけが感じる、あいつだけに感じる特別なもの。俺はなんとなしに臨也が近くに居ない時のことを世界と呼んでいる。そして世界に臨也が入ってきた時にだけ察知出来る。背筋が震える。帰ってきた。臨也が日付前に帰ってくると断言したのだから、約束は違わないと知ってはいるけど、それでも不安には、なるから。

いざ帰ってきたとなればどんな顔をすれば良いのか判らない。これではおめでとうと言われるのを待っているみたいではないか。……と考えながら、祝って欲しいのは事実なので否めない。開き直って祝えと命令してやるのも悪くない。やっぱり臨也の方から言って欲しいのだけど。
頭から毛布を被っていると、鍵が開く音がした。ひたひたとスリッパの音が耳に心地良い。事務所の方ではなく真っ直ぐ俺の部屋に向かってきている。寝ていると思っているのだろうか、それとも臨也も気付いているのか、此処に俺が待ってると。時計を見れば、あと4分だ。

「シズちゃん?」

ノックの返事も待たず臨也が部屋に入ってきた。それと同時に俺はぎゅっと眼を閉じて顔をずらす。臨也が笑う気配を感じたが気にしない事にして、意識だけを向ける。

「遅えぞ」
「でも間に合ったよ? 俺の指も繋がったね。あと3分もある。」
「それまで眼閉じてる」
「なんで?」

ベッドが振動で沈む。隣に座った臨也が面白がっている顔をしているのが手に取るように判って、無駄に緊張して火照った頬を誤魔化さない。どうせ覗き込んででも見たがるだろうから。

「教えねえ」
「えー、俺に隠し事?」

形だけの拗ねている声に、俺もわざと口をへの字に曲げて不機嫌を装った。見透かされて馬鹿にされるような気持ちでほくそ笑んでいるだろうに。俺を俺よりも知っている癖に。

「素直に日付変わった瞬間に俺の顔が見たいって言いなよ」
「うるせえ」
「じゃあ悪戯しちゃおうか」

耳元で囁かれた声に力を抜かれたように、呆気なく肩を押されて仰向けに倒れる。衝撃で開きそうになった瞼を臨也の手が覆う。暗い視界の中で口付けられるのを感じ取って、抱き締めていた枕が零れ落ちた。

「っ……ぁ……」
「開けちゃ駄目だよ」

念を押すように吹き込まれ、臨也の手が離れて影が遠ざかる。手の分、空いていた距離を詰めて抑え付けられた。行き場のない両手を手探りで臨也の体に触れさせ、脇腹から、胸元まで滑らせて、首に回すと臨也が機嫌良く笑うのが判った。

「……ざや」
「24時、越えたよ」

かけられた魔法が解け崩れたかのように、ゆっくりと眼を開けた。キスしたままの距離を保っていたのかとても近い。暗くたってその赤い眼だけは射殺さんばかりの強さで視線を貫くから、俺はこの上なく柔らかく微笑む練習をするのだ。もう一度だけ名前を呼んだら、額を合わせて今度は臨也が眼を閉じた。

「誕生日おめでとうシズちゃん」
「……ん」
「昨日も今日も変わらず俺のものでいてくれて嬉しいよ。来年以降もそうなるようにお祝いと呪いをあげよう」

何よりも重く、暗く、切ないものであるけれど、これが俺たちの愛し方だと知っているから、俺はやはり微笑み返して愛してると囁いてやる。恨みつらみのようにあの噛み痕が身体に残されれば良いと心から信じながら。


見せびらかしてよ、猛犬注意と、その傷を