傷付いているというのだろうか。傷付いたと呼ぶのだろうか。
自身の周囲や環境を整頓したつもりなのに、煩わしいものをすべて消したはずなのに。煙草の本数も酒の数も増えていて、心の隙間さえ大きくなったような気がする。無意味に苛々して、自分が判らない。なんだというのだ。
なんだ、俺は。結局傷付いてるのか。もう既に傷付いていたのか。高校の時から、依存にも似た恋慕を抱き続けて、早数年。こんな不毛な感情はやはり早々に消してしまうべきだったんだ。
自分以外誰も居ないはずの部屋の中で、爽やかに陰鬱とした気配を感じて顔を上げる。一方的に別離と決めた日から、一週間後の夜だった。
「珍しく鍵なんてかけちゃってどうしたのさ?」
久しぶりの挨拶もなく、自分の家であるかのように堂々と部屋を横切る。煙草臭いからか、顔を顰めて窓を開け放つ。易々と自分の領域を侵食された事を腹立たしく思いながら脇に置いてあったごみ箱を投げつけるがわざとらしい動きでかわされ、がらんと大きな音だけが響いて動作を止める。口元の笑みが、不愉快だ。
「随分な御挨拶だなあ」
「死ね。出てけ」
「あ、怒ってるの? それとも拗ねてるとか。ごめんね、ちょっと立て込んでて」
仕事でさ。ニィと形作った唇に蹴りを入れてやりたい。新羅の家でそうしたように、無視を決め込むのが一番良い。なんの反応も返さない人間を臨也は嫌う。表面上では愛してると言っても。
「先週なんで俺からの電話切ったの?」
二度とこいつの声なんか聞きたくなかった。去る者を追わない臨也が現在此処に居る事に、多少動揺しているのも確かだ。明らかに接触を避けている素振りを見せたのに。
「……鍵」
「これの事?」
即答されて、逸らしていた視線を臨也に向ける。ポケットに手を突っ込んで銀色のそれを出すが、俺の知っているものではない。俺のは判りやすいように白いキーホルダーをつけておいたので、剥き身のままの鍵に訝しむと臨也は朗らかに笑った。
「ああ、ひょっとしてこっち?」
もうひとつコートから鍵を出す。そちらは俺が知っているものだ。臨也の家に置いてきた、臨也の家の鍵。とするともうひとつはなんだろうか。
「だってシズちゃん、合鍵くれないじゃん?」
だから自分で作ったよと歪んだ笑みを作りながら俺に近付く。その分だけ身体を仰け反らせるが臨也の方が早い。迫ってくる腕は、頑丈な檻のような重さと異質を感じて避けられない。抱き締められている間は思考が止まる。数週間ぶりに触れられた。
「ほっといてごめんね? 寂しかった?」
動き出す思考回路、同時に肌の感触や腕の強さも、髪から香る香水まで理解出来る。やめろと呻いて身体を捩ろうにも、背後のソファと体勢からやりにくい。一番俺の力を奪うのは、背に回されているこの腕だ。俺の熱と臨也の体温が混ざり合うような錯覚は、心地良い嫌悪を産む。俺からすれば“元恋人”なのに、臨也はいとおしむように頬をひと撫でして顔を近付ける。
「っ……や」
唇は、ごめんだ。最大限に拒絶の意思を示したにも関わらず臨也は微笑んだだけで取り次がない。合わさった唇が懐かしい。そこにほんの少しでも快楽を感じてしまった俺は、まだ。
「その顔良いね。凄く良い」
馬鹿馬鹿しい。辛い。どんな顔だと言うのだ。流されて、欠片ほどに残った未練を自覚させられた情けない顔なのだろう。新羅の言う通りに傷付いていた。気付かない振りをしている自分を知っていた。こいつから離れる事が最善だと信じていた。俺はこいつにとっての最上じゃないと、満足出来ない。俺じゃないものを愛でて、優先する現実に嫌気が刺したんだ。
「いざ……や……」
縋り付いた。ずっと前から、気持ちが繋がれば良いとそうし続けてきた。興味が失せたなら何故此処に居る。どうでも良いなら何故会いに来た。何度期待させて、俺を、落とす?
「キスの反応はシズちゃんが一番可愛いや。下手くそだけどね」
その、見下したような眼。
俺にはこいつが、判らない。
「っ離せよ!」
肩を引っ掴んで引き剥がすが、意外そうな顔をされただけで大して距離は開けられない。怒鳴っただけだが、全身の血が一瞬で循環したような熱さを覚えて肩が激しく上下する。
お前はなんて言った。俺になんと言ったんだ。
「なんで怒るの」
心底意味が判らないとでも言いたげに眉を吊り上げる臨也の目の前で、何度も唇を拭う。往復させる袖に煙草の臭いが染み込んでいる。俺の機嫌を伺うように今度は微妙な笑顔を向けてきた。
「シズちゃんは新鮮で飽きないね。そこが好きだよ」
「黙れ死ね」
「でも乱暴は良くないなあ」
今一度近づいて来た臨也に次は殴りかかる。流石にこの近距離では避けられず、鈍い音をたてて肩に当たる。顔にしようかと最初は思ったが流石に思いとどまる。こいつの仕事は人と会うものだ。無理やりコースを下に曲げた所為で、その分、力の加減は抑えられない。
「い……ったいなあ」
咄嗟に心配してしまう程度には、臨也と一緒に居た時間は長かった。悪態を吐き捨てて胸倉を掴み上げる。
「二度と俺にその面見せるな」
「……なんでそんな怒ってんの? 繁盛期だから会えなくてもしょうがないかってシズちゃんが言ったんだろ?」
俺が此処まで怒る理由が判らないのか、本当に。とぼけているようにも、嘘を言っているようにも見えない。臨也の嘘吐きは今に始まった事じゃないから、付き合いの長い俺には判る。この勘は臨也本人に疎まれるほど精度が高いから自信がある。だが、今はそれを多少なりとも疑っていた。
これでは、まるで。
俺が悪いみたいではないか。俺だけが癇癪を起こして、俺だけが理解を示していないような。駆け引きも妥協も何もなしに一方的に臨也を責めているようじゃないか。
それとも、浮気程度は見逃せというのか。それが普通なのだろうか? 俺が異常なのか? 俺が我慢すれば全部収まること、そう、だけれど、そういう問題じゃない。例えそれが普通なのだとしても、胸糞悪いそれが常識なのだとしても、俺は俺個人の感情としてそれを赦せない。誰しも恋人間に約束事のようなものはあるだろう。毎朝必ずおはようのメールをするだとか、週一でデートは必ずだとか、俺たちの間にそういったものはまだ無かった、無かったけれど。
「……判らねえのか」
「俺って素敵で無敵な情報屋さんだけどさ、世界の全部を知ってる訳じゃないんだよ?」
世界のすべてを知らなくても、付き合っている人間のことくらい把握しておけ。臨也にとって俺はそういった対象ではなかったんだろうが。
約束はなくても、俺はそうして欲しかった。つまり言えば、俺を見て欲しかった。約束なんかしなくたって、自主的に。臨也から。
「ならもう良い」
俺は知っての通り、器の小さい男だ。すぐキレるし物に当たる。だけど我慢はしたんだ。ずっとずっと。一度も見なかった臨也の眼を、今日始めて射抜く。俺の反応は面白いか、他の女より? お前にとっての俺は、つまりその程度だ。
「ならもう、別れる。っつーか、もう別れた。鍵置いただろ」
合鍵まで忍んで作った男を、睨む訳でもなくただ見つめる。勝手に幕を下ろす事を許可しないのであれば、俺が自力で引き摺り下ろすまでだ。
「お前ン家にあった俺の私物は全部引き取った。明日からいつも通り勝手に暮らせ。俺は二度と新宿には行かねえ」
荷物が消えている事にも気付かないくらい臨也の関心は薄れていたのなら、あとはとっとと終わらせるだけだ。今となっては単なる黒歴史。このむず痒い感情を押し込めて、無かった事にする。今の俺にはそれしか考えられない。
「……なんで?」
久しぶりに臨也の声を聞いたような気がして、引き合うように見詰め合っていた視線を下げた。だから言っただろう、判らないなら、もう良いって。
「理由なんてねえよ」
「訳もなく別れたいなんて言うの?」
「別れてえんじゃなくて、別れたって言ってんだろ。出てけ」
不意に腕が伸びて顎を掴まれる。正面を向かされて至近距離で不機嫌な目線と噛み合うが、俺もそれ以上に機嫌が悪い。
「理由を聞くまで出ていかないよ」
「……てめえは俺なんか好きじゃねえ癖に」
有りっ丈の悪意に、殺意と憎悪を込めて。俺がそう言うとこれまでで一番不愉快そうな表情に変わる。ついでにかなり怒っている。
「何を根拠にそんな風に思う訳? 俺はこんなにも」
ぐ、と歪な形でもう片方の腕が伸ばされる。俺が殴ったお陰で巧く動かせないのか非常にぎこちない。
「君を愛してるのに」
無表情を引っ込め、打って変わってまるで俺を安心させようとしているかのような優しげな微笑になる。それに愕然としたのも、恐怖を覚えたのも俺だけだ。
こんな風に臨也が言うなんて、ひょっとして俺は勘違いしているのだろうか? 臨也の愛は俺に、きちんと向けられていたのだろうか。忙しかっただけ? 香水も何もかも本当に仕事? じゃあ俺がずっと感じて、押し込めてきた違和感は何だったんだ。
感じない愛なら、伝わっていないのと同じじゃないか。
「なら……」
口が、どうしても聞きたかったことを滑らせてしまう。臨也が、まだ、俺に好意を向けているならと。俺の考えと発想は、間違っているだろうか? 一縷の望みにかけることは愚かだろうか? こんなにも憎らしく思っても、結局。
「なんで浮気した!」
俺が間違っているなら、間違っているとはっきり言って欲しい。どうだろう、そうなのかと、疑っているのは神経を削る。心がぐらつく。臨也がぽかんと口を開けるのを見て、ばつが悪くて俯く。俺が空回っていただけなら、笑い話だけで済むから。
「……え、俺が?」
「他に誰が居る」
「ちょ、待ってよ。有り得ないし、そんな事してないよ?」
臨也の声に誤魔化しを感じない。……じゃあ、やっぱり。
「……俺の勘違いか?」
「そうだよ! 暫く会ってなかったからそんな風に考えちゃったんじゃないの?」
僅かに気が抜ける。臨也はそんな馬鹿なとでも言いたげに両腕を上げた。俺の今までの不安や疑心を不思議にも思うが、違うなら違うで、良い。先に疑ったことを詫びて、少し拗ねてやればまた最初のように戻るのだろうか。
「接してる女性とは仕事上だけのやり取りだよ。プライベートじゃ一切干渉してない」
「……本当に?」
「俺はシズちゃんに嘘なんか吐かないよ。高校の時は言いまくったけど」
そう言って、朗らかに笑う。まだもやもやした気持ちは晴れない。
「でも、……っ俺の反応が、その、どうとか、言ってただろ」
「ん? ああ、あれは本心だよ? シズちゃんいつまで経っても下手なんだから、キス」
「他の奴と、比べたみたいな言い方だった」
「そりゃあ人生の中でプライベートでキスした相手はシズちゃんだけじゃないからね、まあそこは中学とか高校の時の話だから勘弁ね」
片手を挙げて謝るような素振りを見せる臨也に、俺も悪かったと、口を開きかけた。声を発することは出来なかった。
「まあたかだかキスのひとつやふたつで俺の仕事が捗るんだから、適当な関係も良いよね。馬鹿な女は抱き締めただけで情報くれる」
「……は?」
「適当に愛してるなんて吹き込んだらころっと態度変えてくれるから助かるよ。セックスだって金銭の上だけだし。あ、別にこれは仕事なんだし浮気じゃないでしょ? ちゃんと避妊だってしてるし俺はシズちゃんとするのが一番気持ち良いって思ってるし。キスなんて握手みたいなもんで減らないし。だから、シズちゃんの思い過ごしだよ。安心して?」
。 ? 、 。
「だけど女とばっかしてたら俺の大事な大事なシズちゃんが寂しがるかなって。最近してなかったから久しぶりに抱いてあげようかと思って来たんだ。家に呼ぼうとしたら電話の電源切れてるし鍵も忘れてるから迎えに来てあげたよ。俺が来た理由判った? さっきキスしたらぞくぞくしちゃったね。ほーんと、シズちゃんのあの表情、だァい好き。だから続きしようよ」
。 。 ……。
「ッた! どうし、ちょっと何処行くの!?」
シニタイ。
………………………