ドアを開いて俺だと確認すると、眼鏡の上から上目遣いに微妙な苦笑いを浮かべた。長年の付き合いから察するに「なんか来やがった」的な顔だ。自分の家かのように堂々と白衣を退かして中に入ると、ぺたぺたとスリッパの音を出しながら早足についてきた。

「セルティなら仕事だよ」

リビングに誰も居ない事を不思議に思った俺へ先手を打った。俺を此処に誘ったのは彼女なのに? という意味を込めて振り返る。

「だから、伝言。すぐ終わらせるからくつろいでいてだって。セルティは静雄ばっかり構って!」

急用なら仕方ないか。だが誘っておいて本人が居ないなんて誰かと同じで少々苛っとしてしまい舌打ちしながら煙草を出した。セルティに罪は無いセルティは悪くないセルティとあいつは違うぶつぶつぶつ

「その荷物どうしたの?」
「ん?」

気を利かせて灰皿と珈琲を机に置きながらきちんと換気扇のスイッチも入れている。戻りながら俺がソファの横に置いた鞄を指した。

「今日休みだったんでしょ?」
「まあな」

間違っても回収した借金なんかじゃないという意味で頷く。珈琲を飲もうとカップを手に取ったがすぐに眉を寄せる。いつもなら言わなくたって甘くしてくれるのに、匂いも色も無糖そのものだ。

「喧嘩売ってんのか」
「あ、気付いた?」

はは、と声を上げる新羅の笑い方に少々違和感を感じ取る。眉を顰めながら砂糖何処だと腰を上げかけたがその前に新羅にしては早口の声で制された。

「何かあった?」
「……」
「なんか心此処に在らず、って感じだったからさ」

何処が? お前の話にもきちんと反応していたし、珈琲にだって気がついた。至極冷静で居たつもりなので怒るというよりも疑問を覚える。

「ほらまた考え込んでる」
「……それはお前の所為だろ」

折角全部済ませて良い気分だったのに台無しだ。誤魔化すようにライターで煙草の先端に火をつけ、煙を燻らせる。あと2本しかない。

「臨也と何かあった?」
「金輪際俺の前であいつの名前を出すな」

睨む為に顔をあげると、いつもなら土下座の用意をしている新羅は眼を細めて笑っていた。偶にこいつが判らなくなって困る。睨むのはやめて俯くと同時に着信音が鳴った。セルティだろう。

「付き合ってたんじゃないの?」

無視を決め込んで通話ボタンを押そうとしたが、ふと思い出す。セルティが俺に電話なんてする訳ない。喋れないのだから。初めて画面を見つめると、見覚えが全くない……訳ではないが、暗記している訳でもない番号が眼に映る。

「……はい」
『ちょっと』

やっぱり。こいつに喋らせたらいけないと一言聞いただけで俺は躊躇い無く電話を切った。ついでに時間も確認したが、俺が出て行ってからまだ半日程度しか経っていない。割と早かったな。
はあ、と息を吐き出して携帯を机に置くと、またかかってきた。舌打ちして通話を切り、ついでに電源も切る。臨也が携帯を何台持っているかなんて知らないが、10台以上はあるだろう。その都度に着信拒否していてはキリがないかもしれないが、俺に興味なんてないあいつがそれほどしつこくかけてくるとは思っていない。

「ひょっとして喧嘩してるの?」
「別れた」

臨也が俺と付き合っているという意識があったかは謎だが、言ってきたのは向こうからだ。2ヶ月も続いたのは奇跡に近い。後半の1ヶ月はほとんど会っていなかったけど。

「その様子じゃあいつは諦めてないみたいじゃない? なんて言って別れたのさ」
「なんも言ってねえよ。ノミ蟲が他の女と遊んでるみたいだから、俺もこのお遊戯から下ろさせて貰っただけだ」

煙を吐き出しながら淡々と話す自分が居る事に気付く。胸も、心も痛まない。あいつにとっての俺も、俺にとってのあいつもその程度だったんだ。電話だって鍵が置いてあった事を不思議に思って確認してきただけだろう。

「仕事の関係ではないのかい? 遊ぶったって高校時代彼女を一日置きに変えてたような奴だよ。気にしすぎじゃない?」
「お前はセルティが仕事の関係だからって他の男と毎日毎晩べたべたしてても浮気じゃねえって言うのか」
「セルティはそんなことしないよ! え、ていうか静雄は臨也が浮気してると思ってるの?」

軽く笑いながら眼鏡を押し上げる新羅を今度こそ睨み付けると、素直に申し訳ありませんでした! と額を机に擦り付けた。短くなった毒を灰皿に押し付けてもう一本火をつけた。

「えーっと、あの男の事だよ? ずっと君に執着してきたのに。依頼で女性と接触するなんて日常茶飯事じゃないか。それとも何か証拠とか確信とかあるの?」

証拠、証拠か。完全にお互いにしか恋愛感情を向けていない新羅とセルティには判らないだろう。気配のようなものが薄れていることを。形容出来ない気持ち悪さを感じるのだ。纏う雰囲気や、ふとした手の動き、所作。会話の糸口。会う度に変わる香水の匂いと、出掛ける前と後で違う服装。そして、何よりも。

「なーんも感じねえんだよな」

あいつの言葉だとかそういうものに。マネキンが喋っているようだ。俺の事なんか頭の片隅にしか置いていないような、その他大勢に対するものと同じような話し方をする。一応ひと月の間はずっと悩んでいたのだ。結論も淀みなく出てくる。

「つまり遊ばれてたか、暇潰しか、気紛れか、なんかの勘違いか、騙されてたか、どうでもよくなったか、飽きたかだ。どれでも好きな理由を選んで良いぞ」
「なんだか前々から用意していた言い訳みたいなもんだね」

その中には君の気持ちが欠片も含まれていないよと笑う。それに俺は怒る訳でもなく、そうかもしれねえとだけ返す。新羅と話した時点で、何かしら言われるのは覚悟していた。心に決めた事を捩子曲げるつもりはなかったが。
丁度灰皿に煙草を置いた時に新羅の家の電話が鳴った。顔を見合わせ、小走りに受話器を取るのをぼんやりと見送った。

「もしもし。あれっ珍しいねこっちにかけるなんて。……あ、そうそう、携帯は寝室に置きっぱなしだったごめん。気付かなかったよ。……へ? 来てないけど?」

この嘘は俺でも見抜けねえなと苦笑しながら新羅の役者ぶりに心で拍手を送る。あの何も判らないような、とぼけてけろっとしたような喋り方は俺には出来ない。見かけたら連絡するよと早々に電話を切った新羅は肩を竦めながらキッチンに入っていった。

「僕みたいな清廉潔白な人間は、嘘を吐くのにもすごく罪悪感を感じてしまうね!」
「誰がなんだって?」

セルティには会いたいけど雨も降り出しそうな気配だったので大人しく立ち上がる。最近暑くなってきた所為で、空調の利いた新羅の家から離れるのは少し勿体無いが仕方ない。

「帰るわ」
「セルティに会っていかないの? あと珈琲も」
「また今度にする。次は砂糖入れろよ」

玄関まで歩きながらブラックを出された事に対する嫌味を考えたがやめておく。そういう気分ではない。

「大丈夫かい?」
「何が?」
「元気がないからさ」

何を言っているんだと少し瞠目した。彼女に似てきたのか、若干心配性だなと靴を履いて振り返る。

「しがらみが無くなったから、むしろ気分が良いくらいだぜ」

マンションから出ようとした時、嫌に低い新羅の声に呼び止められた。

「違うよ」
「……?」

「だって此処に来た時、怖いくらい傷付いた顔をしていたじゃないか」

拉げるほどの勢いでドアを閉めた。


口実だって知ってる。そんな