思い切って母親にどうして俺にはこんな力があるのかと聞いてみたことがある。
半ば予想していた通り、母は困ったように苦笑して、その顔にはありありと判らないと書いてあった。この話題は余り出しちゃいけない、母さんも辛いんだなと子供ながらに察してその後は一度も話には触れなかった。病床に伏した母に負担などかけたくなかった。
今度は父親に、力のことではなく、髪の色について聞いてみた。
少し悩んだ父は、おばあちゃんのお父さんも静雄と同じ髪だったって聞いたことがあると言った。完全なる又聞きだったが、それなら俺と幽や、父親には異国の血が少しでも流れているということなんだとその時は理解した。祖父母の顔すら全くといって良いほど覚えていない俺だが、家族の中にそういう人が居たという話を聞いただけで少しほっとしたんだ。

それなのに、今の俺は、祖父母どころか両親の顔すらうろ覚えだった。何故。毎日、毎日顔を合わせていたのに。離れているのは、たったの数日……。急に寒気を感じて、夢の中から強制的に意識を戻される。背凭れの高い椅子に座らされているのに、置かれている状況がすぐには判断出来なかったが、目の前に赤い光がふたつ並んでいるのを見て笑みを浮かべた。眩しくて眼を細めると狐火が奥の部屋に一目散に飛んでいく。
あの液体に指を突っ込んで、結果に呆然として、急に眠くなってそのまま意識を散らしたのだと思い出した。さっき居た場所と同じで、よく判らない水槽からぽちゃんと音がしたり、見たこともない円形のものがぐるぐる飛んでいたり、おおよそ俺の常識じゃ通用しないことが満ちていて興味をそそられた。

「セルティ?」

狐火が飛んでいった方から、首無しの女性が入ってきた。その手にお盆を持っていて、載っているのは湯気の立つ食事だった。

『私の名前をもう覚えてくれたのか、気分はどうだ? 心配したぞ』
「え?」
「……」

すぐに俺が字を読めないことを思い出したのかお盆を持ったままあたふたし出すセルティに笑みが浮かぶ。なんと言ったのか判らないが、悪い人じゃなさそうだ。

「俺、気絶してたの?」
「……」

判りやすくぶんぶんと頭を縦に振ってくれるセルティに感謝して、はい、いいえで答えられる質問をなんとか考えながらとりあえずお盆を指差した。

「セルティが作ったのか?」

横に振る。

「じゃあ、新羅?」

肯定だ。それにしても野菜や魚が使われた、見るからにヒトの食事だ。美味しそうな匂いに正直にお腹が空く。

「えーと、誰の?」

片手で食事を持ったセルティは俺を指差した。ちょっと予想していたけど、やらしいので驚いた風を装う。

「どうして俺に?」

考えるように一瞬動作を止めた首無しがお盆を机に置くと俺を指差してから自分のお腹を摩る。つまり俺が空腹なんじゃないかと用意してくれた訳だ。

「妖怪って食事しないんじゃなかったっけ?」

こんな見事に料理が出来るのかと思って聞いたんだが、首を傾げたセルティははい、いいえで答えられないのかどうしようと身体を揺らしてその足で何処かに行った。男の声が聞こえたので恐らく新羅を呼びに行ったんだろう。

「起きたんだ! 良かった、結果がそんなに衝撃だったのかい?」

襷がけにした格好で両手を腰に当てた新羅に俺は言葉に詰まった。曖昧にまあ、と濁してからすぐさま話題を切り替えてお盆を指差した。

「新羅が作ってくれたのか?」
「まあね。セルティには味覚が無いから料理が出来ないしね。いや、君の料理は涙が出るくらい美味しいよ!」
『黙れ』

後頭部を殴りながら短く一言だけセルティは綴ってみせた。それと同時に臨也から貰った狐火が戻ってきたのでふわりと頭を撫でるように手を動かす。

「いたた……、あー、臨也の所じゃ大したもの食べてないんだろう? 折角だからどうぞ」

セルティに背中を押され、恐る恐る箸をつける。見た目にも鮮やかなそれは、空腹だということを除いても美味しくて涙ぐみたくなった。

「美味しい」

我知らず顔を綻ばせれば、新羅がセルティに向かって「あいつと違って静雄君は素直だね!」と騒いでいたけど、噛み締めるのに夢中で余り聞いていなかった。

「新羅も食事……てか、食べるのか?」
「当然! むしろこの世界に食事しないで生きられる生き物なんて、セルティくらいじゃない?」
「……でも、臨也が」
「ああ、あいつは例外だよ」

俺からそう遠くない場所に座った新羅は興味深そうに俺をじっと見るので、食事の場面を見つめられるのが苦手な俺は箸を銜えたまま見つめ返した。

「あいつはまるで自分が世界の中心みたいな言い方してるけどね、聞いたかな? 妖でもヒトを喰う種族は確かに居るけど、数は割合で言えば少ない方。逆に全く食事を摂らない種族も、極めて少ないけど存在する。二分されるけどね。セルティみたいに食べられない方と、臨也みたいに食べなくても良い、って方」

ふうん、と正直に意外を示す俺ににっこりしながら舐り箸、と新羅は言った。無作法にはっとして口から箸を出す。

「君はどういう存在なんだろうね。僕としてはしばらく此処に滞在して貰いたいくらい君に興味があるんだけど、あの性悪狐が認めないだろうしねえ、残念無念。あ、セルティ、薬があるかどうか見てきて貰いたいんだけど良い? いつもの」
『棚の奴か? わかった』

笑顔でセルティを送り出している新羅をぼんやり眺めながら、量の多くなかった食事を全部胃に納めて手を合わせた。満腹に近くなるまで食べられるなんて。改めてお礼を言わないといけない、そう思って食器を片付けて話しかけようとしたら、セルティが完全に居なくなってから新羅が笑顔を消した。

「静雄君」

無表情じゃない、真剣な顔だった。吃驚して身体を上げると、ちらちらと後ろを警戒しながら俺にこっそりと話しかける。

「セルティが君を気に入ったみたいだから、これは僕の善意というよりもお節介と思ってくれて構わない」
「なんだ……?」
「臨也に深入りしないほうがいい」

言葉を聴いた途端、ぎくりと背筋が伸びた気がした。俺がなんでだ、とでも言いたそうな顔をしたので、新羅は狐火に視線を逸らして早口に言った。

「教えてくれとは言わないけど、君は臨也に何を求めて、代償に何を支払ったのか。あいつが無償で何かをするなんて有り得ない。臨也は君が思うよりも残酷で、間違っても善人じゃない」

死にたいの? 臨也が俺に言った言葉が、なんとなしに浮かんだ。俺のことを哀れな、可哀想な子だと言った。

「君が助かったのはそりゃあ臨也のお陰かもしれないけど、臨也は本当に君を助けたのか、判ったもんじゃないよ」

新羅がもう一度振り返ってセルティが居ないことを確認すると、今度はしっかり俺の眼を見た。臨也も臨也だけど、この男も俺を見ている訳じゃないとなんとなく理解した。

「臨也の真骨頂は、相手に『そうかも?』って思わせる能力だ。君たちがどんな誓約を結んだのかは知らないけど、人間が思う約束と、僕らにとっての約束は、時に全く違う意味を持つんだ。それを忘れないでくれれば良いよ。あと、気が向いたらうちに来て君のことを調べさせてくれよ、君みたいな成り上がりには大変興味がグボァ!」

いきなり新羅が白目を剥いたのでぎょっとしたら、黒い影のようなものが新羅の頭を直撃していた。その先にはセルティが居て、余計な話をする新羅を粛清したらしい。

『子供を誑かす臨也も臨也だが、すぐに解剖したがるお前もお前だ!』
「そ、そんな……興味はあるけど僕の関心はすべて君にあるんイダダダダダア!!」

けろりと態度が戻った新羅にこいつも大概変な奴だと烙印を押す。でも反応から見て、新羅の前半の言葉は聞こえなかったんだろうか。手で思い切り新羅の頬を抓るセルティに苦笑した。

「あの」
「じっじずおくんだすけで! でもだすげないで!」
「なんか、色々……ありがと」

色々矛盾している発言を繰り返す新羅にも、セルティにも頭を下げた。途端にぴたりと二人とも動きを止めるもんだから照れ臭くなったので「あー、続けていいぞ」と言ったけど、セルティは真っ赤になった新羅の頬からようやく指を離して俺の頭を撫でてくれた。白くて細い女性的な手。でも母親よりも綺麗な健康的な手。後ろで新羅が「セルティ僕も撫でて!」と喚いているが全部華麗に無視するセルティが凄いと思った。

「シズちゃん」

前触れも気配もなく、ふわりと背後の肩口から腕を回されてゆるく抱き寄せられた。この呼び方にも着物の柄にも覚えがあって勢いよく振り返ろうとするが、臨也が俺の首元に顔を寄せているからそれが叶わない。

「あ、遅かったね臨也」

抱き付こうとして殴られたり痴話喧嘩が勃発していた二人も動きを止めて新羅が声をかける。その声に嫌悪感やそれに類する感情が全く込められていないからなんて切り替えの早い男だと内心驚いた。深く関わらない方が良いと言いながら、新羅は臨也とはどういった関係なんだろうか。

「女将に捕まってね。彼女の正体は嫌味とか皮肉とかから派生しているに違いない」
「あはは、まるで君のことだね!」

新羅が笑いながら暴言を吐くのに、臨也もくすくすと笑うだけに留めた。

「臨也?」
「シズちゃんの髪、良い匂いだね」

そう言って俺を解放する臨也を振り返ると、さっきと全く変わらない姿でそこに立っていた。

「手当てしてくれた?」
「軽い栄養失調だけだよ。しっかり食べれば元気になる。飢餓の村に居たはずなのに、それだけで済むなんて」
「そっか、良かったねシズちゃん」

褒めたばかりの俺の髪を撫でながら臨也は俺の手を引いた。新羅の眼鏡の奥にある瞳が、一瞬だけ翳ったような気がした。外された視線の気のせいだろうけど。

「帰ろっか、シズちゃんに字を教えてあげるよ」

俺の知ってる臨也は何処までも優しい。優しすぎて違和感を感じる事も、勘ぐる事も出来ない。それでも握られた手には、きゅうと力を込めた。別れの挨拶もそこそこに外へ出ると、僅かに赤みを増した太陽が傾いていた。

「臨也」

俺と握られていない方の手には、大きな包みを抱えていた。臨也の言っていた買い物だろうけど、そのことは今は触れない。まるで爪を立てるように握り、この喧騒の中じゃ聞き取れないくらいの小声で呟いた。

「俺のこと……臨也は、知ってたのか?」

新羅から差し出されたあの水。恐る恐る触れて、色は変わらなかった。

「知ってたって言ったら?」

正面を向いたまま臨也は口元だけ歪めた。見上げてそれを確認した俺は地面に視線を落とす。

「なんで教えてくれなかった?」
「言ったって君は否定しただろうからね」

臨也は結果を知らないはずなのに、俺を見て笑みを作る。
……色は、変わらなかった。そう思った。指を突っ込んでも、新羅の時のような劇的な変化が無かったから、新羅が土下座の用意をし始めたから、だから。

「白なんて初めて見た」

と、新羅が言った。俺が指を一旦引っ込めることで判明した変化。透明の液体が、ほんの僅かに濁ったんだ。半透明、限りなく薄い白。新羅でさえ見逃しそうになった微々たるものだったが、それが突き付けた現実に、何処か、本当に何処かで予想していた自分を見つけた。

「俺、此処に来る時に、シズちゃんに家族のことを聞いたよね?」
「……ああ」

不意に臨也が口を開く。そう、あの質問をされた時から、薄々、臨也が何を確かめようとしたのか知った。

「君は知ってたんじゃないかなあ、自分が人間じゃない可能性を」

狐の声はとても楽しそうで俺には判らない。元気の無くした俺を慰めるように狐火がうろうろするが、顔は上げられなかった。

「常識で考えて、君の髪の色も、その力も、自然の摂理に従っていれば有り得ないことなんだよ。それでどうして自分が人間だと言い切れる?」

小さな頃は理解しようともしなかった。少し成長したら可笑しいと思うようになった。大きくなると自分が化け物なんだということで解決しようとした。そして今は、別の可能性を突き付けられた。

「自分は人間じゃないって考えたこと、本当に一度も無かったの? 思い出して……」

臨也の猫撫で声に涙が出そうだった。本当に臨也は俺のことをなんでも知っているんだろうか。俺は、自分で自分のことが判らないのに。俺に流れているのは、異国の血じゃなかった。思い出してと言われて、正直にさっき見た夢のことをぽつりと漏らす。黙って聞いていた臨也は唐突に話を変えた。

「俺はね、食べられない訳じゃないんだよ。人間の食べ物だって」
「新羅に聞いた」
「なら話が判って良いね。俺みたいな種族にとって、人間の食べ物は穢れてるんだ。ああ、別に汚いとかそういう意味じゃないよ。もっと妖としての意味でね」

何人かの子供が、擦れ違うたびに臨也に手を振った。律儀に笑顔でそれに応えながら臨也は口を閉じない。

「新羅や正臣君たちみたいなのは、違いはあれどある程度別の血が混ざってるんだ。だから食べられる。だけど俺のような純粋な種族にとって、あれは麻薬だ。口にすれば凄まじくそれが欲しくなって、やがてそれしか食べられなくなる」

判る? と俺に語りかけた問いかけに対して首を振った。

「そして人間と同化する。人間と変わらなくなる。今じゃ時代の流れかもね、そうする妖が増えてる。人間に淡い憧れを抱いて、ヒトの間に降りるんだ。君の先祖は早いうちにその禁を犯したんだろうね。罰として妖の力は失われ、自分の子孫がただのヒトに成り下がる」

臨也はそれを軽蔑しているのだろうか。臨也は人間っぽいけど、新羅よりも妖に近い、ということだろうか。引っかかった俺は、今日何回も聞いた単語を零す。

「なあ、成り上がりってなんだ?」
「シズちゃんみたいなの。ヒトから妖になった奴を総称してそう呼ぶ。随分妖の主観が混じってるね。だって、妖からヒトになるのは成り下がりと言うんだから。まるで人間より妖が尊いみたいだ。俺からしたらどっちも大差無いよ」

強く握り締めた手を労わるように、指先で撫で付けてくる感触に寒気がした。

「シズちゃんは特別だよ。先祖返りだろうね、その髪も怪力も。成り下がりから生まれた成り上がりなんて例外中の例外だ。証拠に君の弟は普通の人間だろう?」

川べりにあの船を出しながら臨也が俺を振り返って無邪気に笑う。なんの不都合も無いだろう? とでも言うように。さっきまでの騒ぎが嘘のように、此処は取り残されたかの如く静かで、不気味だ。深い霧に赤い夕陽が相まって毒の中に居るようだ。“臨也は君が思うより残酷”、新羅の言葉を思い出してぞっとした。

「ねえ、何を考えているの?」

臨也の指先が冷たい。頬を這う感触が、どうしようもなく恐怖を煽る。眼を見開こうにも、眼の前の近過ぎる存在にそんな必要を感じない。

「イ、ザヤ」

唇を撫でる。音がしない、なんの音も聞こえない。俺の世界にはもう臨也しか、居な    。

「シズちゃん、余計な事は考えなくて良いし、」

君には知る必要も無いんだよ。
口付けられる、奪われる。ザア、と視界が消える。狐火よりも強いつよい、臨也の両目の光。……あの狐火に、名前を付けるなら。アカリと、クレナイ、で、どうだろう。臨也のような灯り、臨也のような紅色。初めてよりも乱暴で深い口付けは長く、力の無い俺はくたりと臨也の腕に支えられた。ナリアガリだろうがなんだろうが、こんな時に怪力が出ないなら……俺は、臨也のなんなんだろうな。
臨也の眼しか俺の視界に映らない。その眼が細められる。形からして、笑ったんだ。ニィ、と。ぼやける意識の中で思った。

「約束は約束だよ」

君の髪からは妖の匂いがして綺麗だねと、抱き締められた。ああ、こいつ、本当に俺のことなんでも判ってる。

「……ざ……や」

俺は臨也と約束した。その約束が、守られているのか……俺には知るすべなんて無いと、知っている。

「シズちゃんのこと、大好きになっちゃいそうだあ」

俺がその言葉に笑みを返すことも、何もかも。――俺は狐に囚われた。


繋いで、縛って。貴方が望むな