兄貴は完璧な人だと思ってた。馬鹿みたいに頭が良いし、バレンタインじゃはち切れそうな袋を抱えて帰ってくるくらいモテるし。凄く綺麗な声をしていて話し上手に教え上手。幼い頃に母親が、静雄は橋の下で拾ってきた子なのよ、とからかった時、ああだから兄貴と全然違うのかと信じてしまったくらいだ。一度、本気で俺って他所の子なんだろ、って兄貴に聞いた時に爆笑されてから黒歴史のひとつに数えていた。
兄貴って凄いな、って思った。学校で家族の話になったらさり気なく兄貴の話をして自慢しているくらいに思ってた。俺が兄貴の話をしなくなったのは、中学に上がってから毎日の如く喧嘩するようになってからだ。貿易商で国を跨ぐことが多い両親に代わって兄貴が相手の親に頭を下げた。俺はそれに苛立って益々暴力的になった。人を傷付けることなんて大嫌いなのに、兄貴を詰る大人が居ることが許せなかった。
金髪にして朝帰りが多くなった。
珍しく家に居た母が泣いていた。
兄貴を留学させると言った。
俺を遠ざけたいんだと気付いた。
凄く申し訳ないと情けなくなっていた時に兄貴が降りてきた。俺は残る、静雄は俺が面倒見ると。
そんなことで兄貴が学べる場を奪う結果になるとは気付いていたけれど、俺は兄貴に縋り付いた。常に頭の中には兄貴が居た。兄貴がまだ俺を可愛がってくれるなら俺はそこに付け込む。結局、家事を俺中心でやると約束して話が落ち着いた。俺は兄貴を二人で暮らすことになった。
初めて兄貴に殴られたのは、癖が抜け切らず深夜遅くに帰ってきた時だった。家に灯りがついていなかったから、兄貴は寝ているのだと思った。玄関を開けてすぐに待っていたらしい兄貴に頬を殴られ、俺の知らない顔で俺を見下ろした。
「遅い」
ただ一言だけ俺に寄越して、さっさと自分の部屋に帰ってしまった。いつも優しくて明るい兄貴に暴力されたのなんて、短い人生の中でも記憶にない。翌日の朝になるところっと変わってシズちゃん、とあの声で俺を呼ぶ。夢だったのだろうか、そう考えた浅はかな発想は消え失せる。日が経つにつれエスカレートしていった暴力に俺は抵抗は出来なかった。だって、兄貴だから。
「シズちゃん、今日はいつもより遅かったね。どうしたの?」
「先、生に……課題の出来が、悪かったから……残っていけって」
「そんなの俺が教えてあげるよ。でも遅れるなら必ず連絡しろって言ったよね」
「どっかに携帯落とした……みたいで」
そうじゃない。もし電話した時に兄貴の邪魔になっていたら、機嫌が悪い時だったなら。その場で帰ってこいと怒鳴られただろうし、この課題を落としたら単位が厳しいから残らざるを得なかった。なくしたふりをして携帯は鞄の、奥の奥に隠してある。だけど、兄貴がへえ、と言って俺の鞄を奪う。中身をベッドの上にぶちまけられるのを止められなかった。逆さまにしても出てこないように細工はしたけど、叩きつけるような乱暴さで兄貴は、ついに携帯を見つけてしまった。手にとって俺の方を向く。既にもう俺は震えていた。
「あるじゃん」
「失くした、って思ってた……!」
「シズちゃんは嘘吐きだ」
金属の塊が投げつけられた。骨の部分に当たって凄く痛い。だけど直後に素手で殴られてそちらの方が辛く、泣きたくなったのを無理矢理押さえつける。喚けば兄貴がもっと不機嫌になる。兄貴の迷惑になる。唇を噛み締めて一片の吐息すら零れないように、兄貴のストレスを作っているのは俺なんだから。一通り殴って、蹴って、満足したのかやはり自分の部屋に戻って行く。両親が居なくなってから兄貴は部屋に籠る事が多くなった。俺が悪いことをしないように見張ってる。軋む身体を引き摺って、ご飯の用意をしないと。兄貴が俺みたいなのを傍に置いてくれるのは身の回りの世話が出来るからで。音を立てないように兄貴の部屋の前を通り過ぎた。
どうしよう。
何も入れていない胃が空腹を訴えるが、気に止める事も無くベッドに潜る。無意識に食べ物を求めているのか、爪を噛んでぼんやりと考える。今日も殴られた。兄貴の傍にいない方が良いんじゃないかと最近思い始めてる。俺が居ると兄貴は苛々する。血の味に眉を顰めながら、でも居なくなるだけじゃ駄目だと思い直した。食事の支度も、洗濯も、掃除も俺がしないといけない。兄貴と明確に交わしたひとつの約束だから。なら、何処かに居て、ご飯だけ作ってまた何処かに行く、というのはどうだろう。兄貴には俺が居ない方が良い。そうしよう。
善は急げだ。
俺は家を飛び出した