なるべく音を立てないように階段を昇って。忍び足で部屋に近付いて。ぶるぶると震える手を無理矢理押さえつけて。
ほんの僅かに鳴った音は、床に食事の盆を置いたもの。炊きたての白米にかき玉汁、お浸しに豚の生姜焼き。作られてすぐのはずの料理たちは、口に運ばれるまでの間に少しずつ冷めていく。今日は、あの男が気付くまでどのくらいだろうか。声をかけるのも、部屋に入るのも憚られる。

「っ……」

息を呑んで、ひとつ、ふたつ離れた自分の部屋に逃げるように飛び込む。建てつけが悪いのか、キィ、と僅かに悲鳴を上げたもののその後の音沙汰は無い。ベッドに潜り込んで一切生活音の無いように息を顰めているにも関わらず、浮いた汗と荒い息遣いに涙が出そうだ。
殊更ゆっくりと携帯を操作して、外のニュースを確認する。メールはほとんどしない。常にサイレントマナーモードに設定してあるそれが着信を知らせる事は稀で、うるさいテレビをつける訳にも行かず情報は携帯でしか得られない。

その時、ふたつ隣の部屋から足音が聞こえた。俺と違って隠す気もなく、堂々としたもの。近付いてきてる。携帯を閉じて丸々と、ドアが開く音の直後にがしゃんと陶器のひび割れた音色が奏でられて窒息しそうになった。
あからさまに聞こえる舌打ち。どうしよう、どうしよう。窓には備え付けの格子があるから、高校生になったばかりの俺が通り抜けられるようなものじゃない。逃げられない。ひたり、ひたりと近付く足音が俺を追い詰める。

「ねえ」

無遠慮にドアが開かれ、飛ぶように布団から出る。顔に不機嫌を刻んだ男が縮こまっている俺を睨みつけた。

「なんでドアの手前に飯が置いてあるの? 開けたらぐちゃぐちゃになるに決まってるだろ」

、だって。そんな言い訳が赦される相手じゃない。ぺたりと座り込んだままの俺は小さな声で「ごめんなさい」とだけ呟いた。壁に凭れた男が眉を顰めてなんだって? とさっきよりも強い口調で言ったので土下座でもするように頭を下げた。

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
「……あのさあ」

重心を預けていた身体を俺の方に持ってくる。視界に足が映ったので必死で後ずさっても、ベッドひとつ分しか距離は無い。

「俺はなんで、って聞いたんだけど」
「う、ご、めんな、さい。か、かた……片付ける、から」

部屋に入ったら、勝手に入ってくるなと怒鳴るだろう? 声をかけたら、うるさいんだよと罵るんだろう? でも、食事を届けないと、もっと怒るんだろう。じゃあどうすれば良いんだよ、わざわざ一階までご足労くださいなんて言えば良いのか。俺がベッドから降りようとすると、一歩距離を詰めた奴が思い切り腕を振った。次に来る衝撃を予感して咄嗟に眼を瞑り、こめかみ辺りに走った痛みでベッドに沈んだ。

「頭の悪い奴だなあ。な、ん、で、って聞いたの。判る? 如何なる理由があって俺の部屋の前に置いたの?」

本気には程遠くても、年上の男に殴られればそれなりに痛いに決まってる。軽い脳震盪に悩みながら言葉を突っ返させると、苛ついたのか今度は肩を足で踏みつけられる。折れる、と瞬間的に思った俺はぼろぼろと涙を零しながら詰まっていた喉をこじ開けた。

「あ……あ、兄貴に、声、かけたら怒ると思ったから……!」
「あっそ」

大して興味もなさそうに足が解放される。痛みで肩が上手く動かない気がするが、腕を組んだ男の目線が早くしなよ、と言外に告げてきたので弾け飛ぶが如くベッドから起きて相手の部屋の前に跪く。勢いよく開けられたのか、折角作った夕食は無残に飛び散っていた。素手で、割られた食器を片付けながら雑巾を持ってきて丁寧に拭いていく。臭いが残ったら、また明日辺りに蹴られる。一階に降りてポリ袋にゴミを入れ、俺の分として残しておいた食事を新しい器に移して持って行く。今日は夕飯は抜きみたいだ。

「兄貴……」

未だ俺の部屋に居た男に声をかける。娯楽のほとんどない場所だが、クラスメイトから回ってきたファッション雑誌に眼を通していたので、ようやくこちらに視線を向ける。一瞬、両親がまだ居た頃の優しい兄の表情をしていた気がした。
兄貴が近付いてくる。俺の身体は丈夫だから、兄貴のストレス発散には都合が良いんだろう。痕だって残らない。残ったとしても、警察なんかに行く気は全くなかったけど。こんな人でも、偶に俺に見せる優しさが好きなんだ。

「シズちゃんは」

盆を持っている所為で両手がふさがっている。防御も何も出来ない、無防備な状態で、兄の手が迫ってきた。これを落としたらもう食事が無い。作り直したら音がする。包丁、鍋、炊飯器。俺がたてる音に神経質な彼を刺激したくない。殴られたって落とす訳にはいかない、そう思ってぎゅっと握ると同時に兄貴が俺の髪を掴んだ。そのまま顔を近付けて笑う。俺を愛しているんじゃないかと疑ってしまうくらいに柔らかい表情で。

「可愛いなあ」

言ってること、やってることが、中々釣り合わない。ほんの僅かに腫れた頬をとっくりと見つめた後、俺の手から食事を引っ手繰って部屋に引っ込んで行った。同時に、音がするからと俺は最近風呂に入っていないことを思い出した。


そろそろ俺を殺そうと思