距離感っていうのは、人と関わって行く中で外せない重要事項だと思う。
俺は余り人付き合いも得意じゃないし、上手い事も言えないしで決して友達に多く恵まれたとはいえない。その分、得られた友人は大切にしてきたつもりだった。怪力さえ発揮しなければ見た目ぐらいは普通な俺だ、大学に入ってからは声をかけられる事も多くなっていたし、断ったとはいえサークルに誘われた事もある。それは俺自身が、この距離を測りかねて何か惨事を起こす事がないようにする予防線のひとつだった。

俺の領域に此処まで踏み込んできたのは臨也が初めてだった。あいつは俺を好きだと言った。付き合って欲しいとも言った。全部初めての事だ。どうしたらいいのか判らず、相談も出来ずに俺は結局一般論に頼る事にした。男同士じゃ可笑しい、常識を考えろ、立場だってあるし、現実を見ろ……全部俺の感情を置いてけぼりにした言い訳だ。だけどそれしか浮かばなかった。
それでも喰い下がる臨也に俺は嫌な方法で突き放した。それで全部終わらせたつもりだった。なのに今、携帯が震える度に、悪質なメルマガが来たような顔でメールに眼を通す俺が居る。

『この前に言ってたカフェで新作ケーキ出たみたいだから今度一緒に行こうよ』

ご丁寧に添付ファイルでチラシまで映してある。億劫になりながらも片手で操作して返事を打つ。

『そんな時間ねえ』

なんとも素っ気ない文章だ。自覚してやっているんだから大概俺も嫌な奴。一旦シフォンケーキを口に入れようと携帯を下げかけたがすぐにバイブが鳴る。男の癖に返信がすこぶる早く、来たら来たで気になるので渋々開いた。

『えー、シズちゃんもうすぐ春休みでしょ? 遊びに行こうよ(^▽^)/』

そんな送信者のフォルダはアドレスになっている。つまりアドレス帳に登録していないんだが、受信フォルダも送信フォルダもこのアドレスでいっぱいになっていて頭を抱える。どうも向こうは携帯を複数持っているらしくて着拒しても着拒してもキリがなく、しつこいメールに仕方なく一度返信したら調子に乗って毎日来るようになった。

「……」

良い切り返しが浮かばなかったので無視する事に決める。大体こちらは遅い昼食を摂っているというのにモデルの癖に忙しくないのか。すっかり冷えて不味くなった珈琲を一口だけ飲んで、もう飲めたもんじゃないと気付き大人しく甘いケーキだけを貪る事にする。食堂に設置されているテレビはニュースを流していてとりたてて話題にするものもなく、飲み物が無いのでざらつく喉を唾液で流そうとしているとまたメールが来た。

『無視しないでよ。シズちゃんいつになったら暇になるワケ? デートしようよ』

こっちの都合も知らないで催促するような男にとことん胃にむかつきを覚えながら、フォークを銜えたまま両手で操作する。

『今忙しい』

お前が単なる俺の友達なら、こんな邪険に扱わないのにと肩を落とす。覚えたむかつきは何も自己中心に対する嫌悪だけじゃない。美味いと評判のショコラが台無しだ。義務的に口に運び続けるだけで、作った人に申し訳ない。

『俺だってすごーく忙しいよ。すごくね』
『なら働け』

電話は流石に一本も出なかったが、メールだけはなんだかんだ最低一通くらいは毎日返信している。店で臨也に、自分が本気だと伝える為にキスをした。付き合う気はないという、本気。あれから一日と経たずメールと電話の嵐で正直頭を悩ませている。

『働いてる働いてる。それよりもシズちゃんテレビ見てる?』
『出るのか?』

返信が来るまでの間にあの日から最初に臨也に返したメールを引っ張り出す。もう好きとかそういうこと言わないか、って。そうしたら一分ほどで長文メールが返事として受け取らされた。要約すれば、悪いけど諦めないよ、と。どうして臨也は一線を越えたがるのか判らない。俺は友人としての距離感が心地良いのに。

『とりあえず見てて』

あいつには珍しい短文に首を傾げつつ味の無いケーキを完食して席を立つ。テレビの周りには女子の塊が居るので近寄り難いし臨也の言う通りにするのも癪なのでそのままゴミ箱に直行した。無料の水をコップに注いで飲み干せば、その冷たさに背筋がしゃきっと伸びる。

「静雄君」

無意識にため息ばかり零していた俺の肩を叩く。声からして察していたが、後ろに居たのは予想通り高校からの同級生だ。童顔の癖に理知的な雰囲気をかもし出してアンバランス。

「ほら、眉間に皺が寄ってるよ」
「……」

無言で指を立ててほぐすようにマッサージしていると、新羅は実に楽しそうに笑った。

「まだ臨也に悩まされてるのかい? お人好しだね」
「俺としては最大限に酷くしてるつもりなんだぞ」

後で聞けばガードの固い幽からじゃなくて、中学からの同級生だった新羅から俺のアドレスを聞いたらしい。俺の了解もなくと胸倉を掴んだら結構な額を貰ったんだよと泡を吹きながら白状した。

「で、何か用か」

義務である訳でもないのに、医学部であることから堂々と白衣を着ている新羅がこんな中途半端な時間に現れるのは珍しかった。ゆえに理由を問えば、腕時計を確認してから新羅も不思議そうに視線を俺の後ろに向ける。

「臨也がね、静雄が絶対にテレビを見るようにしっかりと捕まえてくれって」
「……なんだそりゃ」
「ひょっとしたら、テレビの生放送で君に告白するのかもよ?」

新羅の顔からは真偽が伺えない。ただずっとにこにこしている辺り、マジなのかと問えばはぐらかされる。
冗談じゃないと軽く青ざめた俺は一瞬だけ女子が集まっているテレビに視線を投げてその場を後にしようとしたが、新羅が慌てて俺を引き止めるのでぎろりと睨んだ。

「待ってくれ! 君がテレビを見なかったら、臨也の奴がセルティに中学時代の僕がやったことをバラすって言うんだ!」
「自業自得だろ!」
「頼むよ、セルティにだけは嫌われるわけにはいかないんだ! その為なら僕は君に……」
「俺に嫌われても良いってことか!」
「……うん!」

2秒ほど間が空いたのは俺への罪悪感かフォローか、もうなんでも良い。縋りつく新羅を引き摺りながら食堂を出ようとしたが新羅が足をドアに引っ掛ける所為で進めない。

「てめっ足外せ!」
「しーずーおー頼むよー!」
「眼鏡割るぞ!」
「ぐっ……それでもセルティに嫌われるよりは!」

段々視線を集めるようになってしまったので顔を蹴り飛ばそうかと乱暴な発想すら浮かんできたが、こいつもこいつで必死なのは判るので忍びない。狭間で揺れていると、遠くで女子の声が聞こえた。

「あ、静雄! あれじゃない!?」
「俺は見ない俺は見ない俺は見ない俺は見ない俺は見ない」
「じゃあせめて聞いて!」
「断る!」

本当にちらっとだけテレビを見たが、女子が群がっている所為で画面どころかテレビすら見えない。その事に気付いて足の力を抜いたが、お節介な彼女たちが食堂中に聞こえるようにボリュームを上げてしまい大後悔だ。

『――……ら緊急記者会見の予定です』

僅かに聞こえたそれに固まり、新羅も本当に? という顔で俺を見上げてきた。携帯を見たがメールは来ていない。いや、別に臨也のことじゃないかもしれない。というか昼間からあいつが出るような番組は無い気がする。別にチェックしている訳ではないが、知り合いがテレビに出るのは結構興奮することなので情報を知りえたら偶に見ていたのだが。
前の女子が少しずれた事で画面の端が見える。バラエティでもドラマでもなくそれはニュースだった。端々に聞こえてきたのは、俺のよく知る名前であって。

『モデルの折原臨也さんが突然の引退表明です! なお今後については、所属事務所は『コメントを控えさせて頂きます』と発言しています。折原さんは本日18時に記者会見を行う予定で――』

「……!」
「……」

同時に顔を見合した。

「引、退?」
「……それほど君に見て欲しかったんだ」

もう一度携帯を見ると点滅していて、弾けるようにそれを確認する。たった一言だけ、『見た?』と。
思い切り唇を噛んで、新羅のゆるくなっていた拘束を振り解いて外に向かう。二度と使うことはないと思っていたこの番号。拒否を解除してから電話をかけると、ものの1コールで朗らかな笑い声が聞こえた。

『ちゃんと見てくれたんだね』
「お前、何考えてんだよ!」
『シズちゃんのことだよ。俺はいつでもどこでも君のことを考えてる』

怒鳴りながら構内を進む俺に擦れ違った同級生がぎょっとしていたが全部無視する。本当にあいつの考えていることなんて判らない。臨也の言葉にはっきりと戸惑いを覚えながら、俺は気の利いた台詞なんて思いつかなかった。

「なんで……!」
『玄関まで来て。いつもの所』

今まさに向かってるだなんて誰が言えようか。入り口に止まっている黒い影に舌打ちして近付くと助手席の窓が開く。あと数時間で報道陣の前に立つ男が運転席でにっこりと笑んで手を上げる。

「やあ」
「臨也……!」
「乗って」

躊躇いとか何も考えずに俺は助手席に殴り込むような勢いで座ると乱暴に扉を閉めた。

「シートベルトをお願いしまーす」
「ンなことより答えろよ、なんで引退なんか!」
「ベルトしないとぴーぴーうるさいよ」

人差し指を唇に当ててウインクするのは物凄く絵になっていたが、カメラマンでもない俺はそれを収める術を知らず脳内に刻みながら、再び舌打ち。かちりと締めたのを横目で確認するとすぐに走らせた。眼鏡をかけた横顔はとても美しかったが混乱しているのでぎろりと睨みながら口を噤む。国道を外れて横道に入り適当な所で車を止める。ハンドブレーキのかかる耳障りな音を聞いた直後に臨也はベルトを外して間髪入れず俺に抱きついてきた。

「いっ!?」
「ああ、2週間ぶりのナマのシズちゃんだ……」

うっとりするように頬擦りしてくるので、勝手に羞恥心を煽られて顔が熱くなる。離れようにもベルトの所為で二重に拘束されている。これも狙いかと思いながら目の前の黒髪に視線を奪われた。

「はあ……、太陽みたいな匂いだねえ……気持ちい」
「っ……」

片手で器用に眼鏡を外した臨也はそろそろと俺の両頬を包むと、実に幸せそうな顔でキスしてきた。ハートマークがつきそうなくらい甘ったるい「んー」という声にぎゅっと眼と唇を閉じ合わせた。

「ざ、や……無視すんな!」
「なにを?」
「なんで引退すんだよ!」

頬が焼けるように熱い。ずっともやもやしていた胸も。数週間ぶりに受けた口付けを喜んだだなんて、そんなこと思ってもいない。

「シズちゃんはどうして俺と付き合ってくれないの?」
「はあ?」

有り得ない質問の返しにはぐらかすなと声を荒げかけたが、臨也の表情が余りにも真剣で凛としていた所為で引っ込んでしまった。聞かれた問いの内容を思い出して考えれば、先日も伝えたことを正直に繰り返した。

「お、俺と、お前じゃ、違いすぎるから」
「何処が?」
「っ何回も言わせんなよ! んなもん、価値観とか、立場とか……!」
「そんなの俺は聞いてないけど、そんなことだろうとは思ってたよ。俺、頭良いからさ」

自慢のような響きだが顔は冗談を言っているようには見えず、押し黙ると臨也は口元を歪めて「だから、偶に馬鹿になりたくなる」と小声で囁いた。

「そうすれば君に、色々考えずに夢中になれる。俺の頭脳をもってしても君はよく判らない存在でね。……だから」
「……?」
「手始めにシズちゃんと同じ土俵に立とうと思ってね」

晴れやかな微笑を浮かべた臨也を、あ、綺麗だな、と思ってしまうくらいには現実味が沸かなかった。

「な……な、」
「俺が一般人になればシズちゃんは俺を見てくれるでしょう?」

何処からそんな自信が湧き出るのか、愛おしいものを触るような手付きで俺の頬を撫でる。手もきちんと手入れしているのか、女性のように滑らかだ。でも浮き出た骨のラインが何処か男性的で、新羅とは違うアンバランスに作られていた。

「俺、の所為?」
「……なんで、せい、になるかな。此処はさ、俺の為。って言ってよ」

それじゃ恩着せがましい? と大して気にしていないような声を出す臨也にまた顔が熱くなる。お前は、俺の所為でどれだけのものを犠牲にしたいんだ。

「んな、軽はずみに辞めるとか……」
「あはは。だから修羅場ったよ。マネージャーに殺されるかと思った。一応、今日辞める訳じゃないよ。まだ契約してる仕事があるしね。半ば軟禁されるかと思ったから、既成事実にしちゃえば良いと思ってマスコミに勝手に発表したんだ。今頃事務所は大忙しだろうね」

こいつの行動の原因が俺にあると思うと眩暈で気絶しそうだった。その行為で、どれだけの人に迷惑がかかると思っている。お前の勝手が皆に負担になるんだぞと。今度こそ怒鳴るように言い付ければ、臨也は驚くどころかむっとした顔になった。

「シズちゃんはどうして何時も、自分を主軸に持ってこないの? 何時でもシズちゃんが気にしているのは世間体だ。一に他人だ。初めて会った時から」

――もしもし、この間お世話になった折原臨也ですけど。あの、羽島君と一緒に居た折原です。そうです。はい。先日はありがとうございました。え? ……ああ、知らなかったんですか? はい、モデルやってます。それで静雄さんとまたご飯食べに行きたいんですけど駄目ですか? ……周りが気になるんでしたら、知ってる店がありますから。まあそう言わず。それじゃあ駅まで来てください。

ちょっと待ってくブツッ

誰がほとんど関わりのない芸能人にへこへこ会いに行くか。ミーハーな奴ならまだしも、俺はよく知りもしない相手と喋るのは苦手だったし、二人きりなんて以ての外だった。

「偶には我侭になってよ。シズちゃんはもっと自分本位になるべきだ。シズちゃんが俺を避けてた理由なんて、どれもこれも君の気持ちなんて入ってない。お前に悪い記事を書かれたら嫌だ。俺に変な噂が立って欲しくない。叩かれて欲しくない……ねえ、俺は君の気持ちを聞いてない」

キスをさせてくれるんだから、気が無い訳じゃないんだろう。本気で嫌っているんじゃないだろ。
言葉は自信に満たされているのに、臨也の表情は何処にも余裕なんて見当たらない。そうであって欲しい。そうでなきゃ嫌だと。そう、言っている。

「……だから、俺は、お前のことが死ぬほど好きでもお前のことは諦めるって」
「それは体面を気にしてでしょ。じゃあ、シズちゃんは俺が普通の大学生だったとしても、そんな風に思った? 君は芸能人である折原臨也を気にしすぎてる」

次の言い訳を探す俺に、臨也は黙って欲しいと視線で告げて、さっきまでの早口が嘘のように優しい声で囁いた。

「……シズちゃんは、俺が嫌い?」

お前が、ただの、ただの折原臨也なら。

「嫌い……じゃ、……ない」
「じゃあ、好き?」
「……」

俺は俺の気持ちも、臨也の気持ちも無視してきたことはちゃんと気付いている。俺は結局、変わらないもの、変えられないものが怖かっただけ。こいつの興味が俺から外れれば寂しく思うし、外れなければ胸が苦しい。そんな俺の我侭に臨也を付き合わせるのが嫌で。

「……す……き」
「ありがとう」

かぶさるように再び俺にキスしてきて、そんな言い方じゃまるで俺が言わされたかのようだと思い軽く臨也の唇を噛んだ。

「っ……?」

素頓狂な何時にない顔へ変わった臨也に笑う。滲む涙の所為で、サマにはならなかったけど。

「礼なんか言うなよ。ばーか」

笑えただろうか。前回も、その前も、歪んだ笑みしか作れなかった俺が。

「……そうだね」

お前の瞳に映る姿じゃ、小さすぎて判らない。滲んだ血を舐めとった臨也の顔が近付いて来たのでぎゅっと眼を閉じると、微かに笑うような気配。

「俺も好きだよ」

胸はもう苦しくない。


主役はふた