決して人を傷付ける事に快楽を覚える訳ではない。そんな趣味も趣向も持ち合わせては居ない。
だけれど、ストイックかつ神聖の気配を感じるバーテン服を切り裂く度、愉悦にも似たひそやかな感情を抱く。繊維が引っ掛かり、最後まで意地を見せる感触を強引に引き裂いて、そしてそれを纏う男の歪んだ顔を堪能するのだ。

「っ……」

それなのに。
押さえ付け、馬乗りになって、その位置から切りやすい胸元や腹にナイフを走らせる。中々に力の要る作業だが、もう慣れっこになっていて、滑らかな切り口になる為のコツさえも覚えていた。その下の肌には紙で切ったような細い筋しか血は浮かばないけれど。

「ねえ」

一通り滅茶苦茶にした、そう思って俺は笑う。有り得ない。此処まで裂いたのは初めてだ。ずたずたに切り裂かれたそれに、池袋の喧嘩人形はぼんやりと視線だけくれて俺を見た。

「なんで抵抗しないの」

俺が静雄を押し倒す? 押さえ付ける? そんなこと出来る訳がない。力の差なんてここらに住んでる人間なら、一瞥だけしたら理解出来るのに。俺が無傷で彼の服を引き裂けるのはこいつが動かないからだ。
薬だって打っていない。拘束すらしていない。最近池袋に行っても会わない男を偶然見つけて、ひとりになったところを狙って背中から地面に倒す。静雄の住んでいるアパートの周りは人気が全く無くて不気味なくらいだ。

「俺の思い通りになるシズちゃんなんて気持ち悪いだけなんだけど」

この男はそう、俺の言うことなんて何も聞かないし、策略に嵌っても最後は俺の計画を裏切る。その孤高の力に嫉妬にも似た憧れを抱き、苛立ちを憎悪に変えた。静雄は無表情のまま俺を見つめていたが、ナイフを畳んで、両手で首を締め付ける。立派な成人男性の全力だというのに、少し眉を顰めただけで静雄は呻きすらしない。絞殺なんて出来やしない。むしろ両手を俺が自主的に封じられている状態なので諦めてまたナイフを出した。

「なに、シズちゃん。なんか悪いものでも食べた? 幽君から貰った大事な服なんでしょ?」

今までちょっと、袖がほんのちょっと切られただけで見ず知らずの相手にですら激怒していた君がらしくないよ。俺だよ? こうしているのは折原臨也だよ? 君が無条件に殺意を抱く相手じゃないか。

「……幽には」

ようやく喋り出した静雄は眼を細めて静々と呟く。

「あとで、謝る」
「……ふうん」

可笑しい。可笑しい。こんな平和島静雄は気持ち悪い。別人だろうか? 俺を見て怒らないし物を投げないこの男がこれほどまでに不気味だとは。顔を軽く背けた静雄は「重い」と一言だけ告げてきた。

「君さあ、シズちゃんだよね? 違うの? 違うならシズちゃんを出しなよ。俺はあいつで遊ぶのが好きなんだ」

目線をずらしていた静雄が何言ってんだこいつと顔に表情を浮かべる。だけど瞳がぴったりと俺の視界を捉えるので、負けじと笑みを作りながらナイフで生地の破片を退けた。

「なんで怒らないの? 俺が何かすれば自分の被害が無くてもキレた癖に」
「……」
「今のシズちゃんはつまらないよ。まるで俺が愛する人間みたいだ。それとも隙をつこうとしてるの?」

言いながらそれは違うと察していた。何しろ殺気がこれっぽっちも感じられなくて拍子抜けしたくらいだ。酔っているのかとも思ったが顔は真っ白でそんな気配は皆無。人並みに頭でもぶつけたかと冷笑すると、静雄が一呼吸置いてからぽそりと言葉を吐き出した。

「そうだな」
「なに? 何に対しての肯定?」
「お前の意味不明な、全人類に振りまいてる愛情」

夜だということを除いても、静雄の顔色は余り良くなくて。それでも胸に無意識に置いた手のひらから鼓動は伝わってくる。

「今の俺は人間みたいか?」
「シズちゃんは何時まで経っても化け物だよ、何言ってんの? まあ、確かにそれっぽくは見えるね」
「なら愛せるか?」

言っていることの意味を図りかねて笑みを引っ込める。不快感を隠さずに眉を顰めると、静雄も同じように眉根を寄せた。俺が静雄を愛す。茶番にもならない冗談だが、それに付き合ってやるのも悪くはないかもしれない。

「そうだね、今のシズちゃんなら、俺も愛してあげようかな」
「……そうか」

ほんの少しだけ柔らかな表情になった静雄に、胸に湧き上がるのは嘲り。俺は愛してあげると言ったその口で哄笑しながら5ミリも刺さらない肉体にナイフを突き立てた。

「馬鹿じゃないの? お前なんか誰も愛してなんかくれないよ。一生、お前がお前である限り」

笑い声を上げながら何度も静雄の肌に繰り返し突き刺す。俺の好きなようにされる静雄なんて珍しすぎて、逆にそれを楽しめば良いじゃないか。静雄のことで戸惑うなんてらしくない。

「シズちゃんは化け物のまま生きて化け物のままで死ぬ、その間に誰かに愛されることなんて無い。可哀想に」

俺の思い通りになる化け物に用はないし、ならない化け物はただの邪魔だ。今日こそ、その眼でも潰せば殺せるんじゃないだろうか? 半ば興奮してナイフを逆手に持ち直すと、屍のように動かなかった静雄がまた、ひっそりと顔を上げた。

「それでも」
「うん?」

彼は実に不器用に微笑んで、俺の背筋が凍った。

「人間だったら、お前にだけは愛される」

言葉を租借出来ないなんて今まで無かった。どんなに衝撃的な言葉も、突然の告白にも俺は動じなかったつもりだった。俺のあらゆる意味で聡い脳が、それだけでこの男の意図を汲んだ。
平和島静雄が、俺に愛されたがっている。
「……だから怒らないの?」
「怒らなければ怪力も出ない」
「俺に好き勝手されても?」
「人間はみんなお前に踊らされてる」

何処か遠くを見るような顔で苦笑した静雄はサングラスを外して、まぶしそうに俺を見た。

「お前の愛とやらの対象になってみたかった。俺もその他大勢になれば良いと思った」

言い終わる前に、俺はナイフを持っているにも関わらず素手で静雄を殴りつけていた。ほんの少し顔をずらしただけの、俺の手の方が被害をこうむる。そんな理不尽な力関係に俺はぎろりと目の前の成り損ないを睨み付けた。

「化け物の癖に人間になろうとするなよ、お前は一生お前なんだよ! それに」

思い切り馬鹿にしたような笑みを作って静雄に向けても、何故か彼は少しも表情を変えなかった。

「何かの奇跡でシズちゃんが俺と同じ人間になったとしてもね、お前だけは愛してあげないよ」
「……」

そんなこと一生無いけどね。付け加えて俺は長身の男から身体を離す。額に僅かに汗をかいていたのを気付けないくらいには本気で、そんな俺を静雄はぼんやり見上げてきた。視線が、哀れなものでも見るような、小動物に向けるようなもので俺は強烈な憎しみに駆られその場を後にする。上半身を上げた静雄が俺の背中をじっと見つめてくる視線を早々に振り払いたくて、知りもしない路地に回る。あいつの眼が離れても、動悸が治まりそうに無い。くそ、くそ。早く死ねよ。


今更、君をその他大勢に見るなんて出来な