俺がその日を意識するように。期待するようにという明確な意思を持って、あいつは毎週金曜日に現れた。
断っておくが別に楽しみとかそういうのではない。ただ、木曜日になると明日も来るのかな、とか思ったり、当日には今日は来ないかもと推測したり。朝から強い雨が降っていた所為で客足も疎らだった。誰も雨の日に出掛けたくなんかない。幾ら週末の手前とはいえど。
からん、とドアのベルが来客を知らせる。顔を上げると馴染みの人物が奥の方に進んでいった。あいつじゃなかったか。そう思った自分にはっとしてぶんぶんと頭を左右に振ると、間を置かずまたドアが開いた。足元だけで判ってしまった。

「やあ」

そんな親しくないだろという意味も込めて軽く睨んでから会釈した。カウンターに居た先輩も少しだけぴりっと緊張が走ったようで、店員の視線が一瞬だけ俺に集められた。気付かない振りをするのも慣れたもので、奴が革靴を鳴らして予約してあったかのような顔で俺の目の前に座った。俺の背後を何気なく擦れ違いながら店長が粗相の無いようにと囁いたのを右から左に流した。

「お任せするから作って」
「オレンジジュースで良いですか」
「お酒混ぜて」
「オレンジジュースで」
「……」

まさに取ってつけたような笑顔で応対すれば何時もの掛け合いなので赤目の不気味な子供が鼻で笑った。

「別に良いじゃん。俺が何飲んでも通報されないよ?」
「オレンジジュースで、宜しいですね?」

こいつ用にもう冷蔵庫に用意してあったそれを了承も無しにグラスへ注いでことりと前に落とす。見るからに高級そうな品の良いスーツなんて着ているが、こいつはまだ高校生だ。怜悧な顔をしているのも相まって着られていないのは素直に見事と賞賛するが、中身は中身。俺は一度も酒を出したことはなかった。

「シズちゃんは固いねえ。なんでもバレなきゃ良いんだよ」

権力者の息子だからと店側は飲ませても良いと暗黙の了解が出来ているし帰りはタクシーがあるから良いのだが、酒を出さないバーにとっとと飽きれば良い。そう思って毎回果汁ジュースしか出さないのに。

「酒が飲みたいなら親に買って貰って家で飲め」
「あれ、未成年ってとこは咎めないの?」
「堂々と居酒屋に出入り出来る面の厚い高三のガキに良心なんてねえだろ」

店長が粗相の無いようになんていうが本来立ち入れない場所に足を運んでいる以上、何を言われても文句は言えないはずだ。私服だと周りの眼が嫌だからね、と臨也は何時からか何時も黒いそれを着てくるが、やや雨に打たれたのか肩の辺りが濡れていた。

「……雨の日くらい来なきゃ良いのに」
「俺が来なかったら、シズちゃん寂しいでしょ?」

にこお、という音が正確だろうか。そんなあどけない笑みだけを見れば、本当にただの子供なのに。俺が此処に勤め出した頃から入り浸るようになった問題児を最初はつまみ出そうとしたんだが、懲りないし権力にものを言わせる嫌なガキ。でも、この店の店員で臨也を邪険に扱う奴なんて俺しか居ないから、俺を辞めさせれば良いものを。

「お前いい加減此処に来るのやめろよ」
「嫌がる割には飲み物出してくれるじゃん。ジュースだけどさ」

肩を竦められて俺は逆に落ちる。出された飲み物は口にはせず、指先でグラスの端を撫でて音を立てる。俺にも微かに聞こえるくらいの小さなものだった。

「お前は」
「なに?」

バーテンダーをしていても俺は特別口数が多い訳じゃない。それだからか、俺が口を開くとすぐに反応して顔を上げてくる。酒を出さないバーに何をしにきているのか、目的は理解しているが理由はとんと知れない。何時もこいつは、言わないから。

「すぐに逸らすよな。俺が聞いたことも、言うことも、全部。偶にはガキみたいにストレートにぶつけてこいよ」

雨の中来るのはやめた方が良いんじゃないかと言ったら、来るのは俺が寂しいからだと言う。
此処に来るの自体をやめろと言ったら、それでも飲み物は出してくれるよね、と言う。俺が聞きたいのはそんなことじゃないのに。

「俺はもっとスマートでかっこいい大人になりたいんだよねえ」

悪びれもせず平然と臨也はグラスを持ち上げた。暫く揺らして薄められたそれを一口だけ運んで眉を顰めた。

「……ジュースは好きじゃないなあ、やっぱり」

それを俺は、少し驚いた顔で見つめていた。口に入れて、含んで、飲み込んで、喉が動くのを。今まで嫌がらせの如く毎回オレンジジュースを出してきたが、臨也が飲んだのは初めてだった。普段と違うことなんてあっただろうかと内心で首を傾げたが、ふうと息を吐いた臨也が珍しく俺から視線を外したのを見てこいつも動揺することなんてあるんだなと他人事のように思った。

「別に、正直に言ったって死ぬわけじゃねえだろ」

いつもいつもこいつの言葉は嘘が見え隠れしていた。嘘の吐き方は俺以上、というより標準の大人の合格ラインを超えている。臨也は上手な嘘吐きだ。
相手に嘘だと気付かせずに信じ込ませることを得手としているが、このバー以外で接点を持っていない以上この子供が外でどんな風に生きているなんて考えることも出来ない。

「死んじゃうんだ、俺。正直になると死ぬ体質なんだよ」

臨也がふと見せた動揺はもう見えない。良い意味でも悪い意味でも切り替えの早い男だ。まるで兎は寂しいと死んじゃうんだよ? とくだらない迷信を言うように。

「正直になることと本音は違うからね。俺は嘘も色々吐くし正直にはならないけど、本音はシズちゃんにあげてるつもり」

本音。本音、か。毎週金曜日に来る臨也とは、少なからず交わした会話がある。その中でどれが本心で、あとは嘘なのか。

「悪いが、お前の本音を俺は知らない」

俺自身も区別なんてつかない。テレパシーなんて使えないし、動作の機微で判るほど親密な仲でも無い。そして俺の今の言葉で臨也は欠片も動じたりしなかった。その言葉は伝わらなくても良い。俺だけが判れば良いとでも言うように。

「なんでこんな所に来たがる? あと2年もすればなんの後ろめたさもなく来れるぞ。何も今じゃなくても……」
「だって」

どうせ答えないだろうと思ったし少し空気を変えようと思って繰り返した質問だった。だけど臨也は俺に“本音”を言う気になったのか笑みを引っ込めてじっと見つめてきた。

「2年後にシズちゃんがまだ此処に居るか判らないじゃない」
「……俺が早々にクビになるんじゃないかって馬鹿にしてんのか」
「勿論違うよ。俺は確証とか保障が無いものは嫌うタチでね」

今度は俺の方が誤魔化す番だった。酒類を提供しない店に臨也が来る目的は俺。その事は、毎回のように俺のところに一直線に来るこいつを見ていればなんとなく判っていた。判らないのは、その理由。今なら白状させられるだろうか。

「俺が居なかったら来ないのか」
「来ないね」
「どうして」
「シズちゃん目当て」

真顔でそんなことを言われても俺としては困るだけなんだが、臨也が着てからずっと拭いているグラスを性懲りも無く拭き続けている辺り俺も動揺しているのかもしれない。年下はどうも苦手だ。

「ホストじゃねえんだぞ」
「そうだね」

何か面白かったのか、くすっと少しだけ笑みを零してくれたお陰で肩肘の力が抜ける。こいつの真顔は嫌に引き込まれるから嫌だ。学生相手に何やってんだと俺も苦笑すると臨也が口を開く。

「ホストにしてはサービス悪すぎだね」
「お気に召しませんでしたら指名を外して頂いても構いませんよ」
「それよりも貸し切っちゃいたいな」

グラスを眼の高さまで持っていって、透明のオレンジ越しに射抜かれる視線。ぞわりと背筋が粟立った。

「どうしたらシズちゃんは俺を対等に見てくれるのかなあ……」
「……?」
「どうしたら俺が本気だって判ってくれるかなあ。準備期間2年は長すぎるよ」

若い内の2年がどれだけ貴重か。俺は今一こいつがしたい事が判らない。理解したらいけないような匂いすらする。この男から感じるのは、嘘と、背徳。

「何が言いたい」
「シズちゃんがお酒出してくれたら教えてあげる」

そうやってまた、お前は巧妙に本心を隠す。有り得ないくらい容易く。

「……じゃああと2年かかるな」

俺がぽそりと吐いた言葉に臨也はむっとした顔をしたが、すぐに何かを思いついたように静かに立ち上がる。帰るのか? 俺が声をかけると臨也は顔を店内に向けて腰に手を当てる。しっかりと眼に焼き付けるように。

「それならシズちゃんに2年待って貰おう。俺じゃなくてシズちゃんが待てば良いんだ」
「なんっ……」

弧を描いた唇を見たと思ったら、唐突に伸びてきた手が胸倉を掴んだ。カウンター越しとはいえ凄い力に引き寄せられ前のめりに倒れる。持っていたグラスを割らないようにそれを持ち上げた事で警戒が外れ、誰も見ていないその場で超至近距離に臨也の顔を見た。生意気にも香るフレグランスが、今の状況に似合わず眼を見開いた。

「え……」

唇の感触よりも、眼の情報が勝った。悪い顔で笑う臨也が、鼻先が触れ合う距離で囁いた。

「浮気したら怒るぜ?」

赤い瞳が離れることで、まるでレーザーのように痕跡を残す。固まった俺を無視して臨也はあっさりとドアから出て行った。勘定は後から代理の奴が持ってくるから何時もスルーだ。え、今。俺何された? てか何言われた? 感触なんてまるで残っていなくてぼんやりと佇んだ。我に帰った時には、既に外は車が通り過ぎる重低音が過ぎ去った後だった。


結局どれが本心だ