『虫のごと 声にたててはなかねども 涙のみこそ下に流るれ』
―――清原深養父
停学明けにのろのろと顔を見せた俺に、クラスメイトは挨拶もせず顔を逸らす。水を打ったように一瞬で静まり返った場所へ嫌気が差しているが空気を読まずにおはようと声をかけてきた眼鏡に顔を上げる。
「今回は長かったねえ」
「あのノミ蟲の所為でな」
窓際の自分の席に乱暴に鞄を下ろすと他人の席の癖に我が物顔で新羅が俺の前の椅子に座る。このクラスの中じゃ俺に唯一話しかける事が出来る男だが、へらへらした笑みは余り好きじゃない。小学生の頃からずっとこんな感じだから今更怒る気にもなれない。常に笑っているというのは俺の一番嫌いな男と類する特徴だから新羅の顔を見る度に若干苛っとするのだが、流石にそれは理不尽だろうとは理解している。
「課題は?」
「やった。現代文が馬鹿みてえに面倒臭かった」
「そう言いながらいつも平均点以上取るんだから要領良いよねえ」
「良かったらあいつに嵌められて停学とかねえよ」
クリアファイルに挟まった厚みのあるプリントと付箋の貼られたノートを鞄から出していると、ふと底の方に一冊の本がある事に気付く。この一週間で結局読み切れはしなかった。
「あー……」
「あれ、静雄君って本読むんだ。学校の?」
「いや……図書館の」
休み時間には決まって寝ている俺だったが何時もすんなり眠れる訳じゃない。たかだか10分15分の時間の昼寝は丁度眠気が襲ってきた所で打ち切られる。なら他に暇を潰せるものは無いかと眼をつけたのが本だった。小説なんか滅多に読まない俺は2週間も期限があるのに中々読破出来ない。
それでも隙間を縫うようにして本に眼を通すようになると、次第に読む速度は速くなるし理解も深くなる。此処数ヶ月で文系の教科の成績が上がっているのは気のせいじゃないはず。単なる暇潰しに過ぎなかった本の世界にのめり込むようになった。
だが、俺が図書室に現れると決まって利用者が逃げるように去っていく。図書委員の女子は奥の方に退散してしまい、3分も経てばあっという間に俺一人だ。さっさと帰ろうと借りる本を差し出せばかなり怯えた手で受け取り、投げ捨てるように渡される。それが3度続いたらもう限界だった。図書室で暴れた事なんて無いのに。
「そういえば臨也がさ」
天敵の名前が出た瞬間、本のバーコードを見つめていた俺の眉根に皺が寄った。俺が最後に図書室を利用した時、――本を返そうとして――あいつは図ったように現れた。今までは控えめに逃げていたギャラリーも、俺と臨也という組み合わせになったらそんな事は気にしていられないのかばたばたと全員出て行った。図書委員までもだ。中には明らかに機械を通していないのに慌てる余り本を持って逃げ出した奴も居て、そんな周りを見て俺はうんざりした。
「停学にさせて悪かったから、ってこれを」
俺の機嫌が悪くなったのを敏感に感じ取った新羅はさっきよりも上擦った声で、机の上に白いものを置いた。何の変哲も無い、購買で売られている牛乳パック。それを見て嫌悪感しか湧き出てこなかったがぶつける相手が不在なので目の前の新羅を睨み付けた。
「毒入りだろ」
「未開封だよ」
「あいつなら何か入れたあと蓋を閉じさせるなんて簡単だろ」
「まあそう言わず」
「反吐が出るって言っとけ」
鞄を仕舞って本を開いた俺に受け取る気はまったく無いと悟ったのか、1分も経たず元の位置に戻した。あいつから何かを貰うなんてそれこそ吐き気がする。こっちは随分と不快感や嫌悪感をプレゼントされているのだから。
『シズちゃんが図書室通いしてるって噂聞いたんだけど本当だったんだ。いがーい』
不意に停学前に図書室で鉢合わせた時の事を思い出して思わず持っている背表紙に指が食い込みかけた。だが、これは自分の所有物ではないのだからと理性を総動員させて手の力を抜く。臨也が図書室に現れてから俺は一度もあそこに訪れていない。自分の領域を犯されたというか、気味が悪くて近付きたくなかった。そうなると次は何処で借りれば良いのだろうと迷い、一度も訪れていなかった図書館に足を運んでみたのが数ヶ月前の出来事だ。
本屋で購入するという手もあったがあくまで読書は暇潰しの一環で、趣味とするほどでもないものだった。……それに。
「心なしか、なんだけど」
「あ?」
まだ会話が続いていたのかと思って眼だけ上げると新羅は嬉しそうな笑みを浮かべたまま口走った。
「最近、静雄が楽しそうで良かったよ」
「……訳わかんねえ」
更に続けようとした誤魔化しの言葉は鳴ったチャイムにかき消され、言葉にならなかった。また後で、と軽快に手を振った新羅の後姿を見ながら頬を軽く引っ張る。そんなに顔に出ていたのかと。
「あーあ、みんな行っちゃったよ。知らないかもしれないけどさ、『平和島が図書室に来る、怖いから図書委員辞めたい』って何人かが悩んでるんだ。可哀想にねー、影でつらい思いをしてる子が居るのにシズちゃんは平気な顔して毎週通うんだ。流石は暴力しか知らない化け物だ!」
誰も居なくなった広い空間で演説でもするように得意げな顔をした臨也を前に俺は持ち上げていた机をそのまま維持する。これを投げたら図書室出入り禁止になるかもしれない。折角見つけた楽しみを棒に振りたくは無いが、目の前のこいつのにやにや笑いを消したい。ゆがめて、焦って、苦しい顔でも見せれば俺の気も晴れるのに。
「死ね」
「怖いなー、シズちゃんは黙って大人しくしてればまだ綺麗な方なのに、ほんと勿体無い」
「死ね!」
「ボキャブラリー少ないねえ、そんなので本なんか読めるの? 教科書ですら理解出来てない癖に……おっと」
机を投げるのはやめ、飛び掛って拳を振り上げるが当たらないだろうという事は予想していた。こいつを俺が満足するまで殴れた事なんて一度も無い。だけどそういう言い方をすると俺が暴力に快楽を見出していると思われるから凄く不愉快だ。
「ほうら、シズちゃんには本じゃなくて暴力が似合う」
「失せろ、ノミ蟲!」
臨也が俺が気分を害せば害すほど喜ぶ。初対面から因縁ともいえる相手だが、お互いに関わりたくないなら無視すれば良いものを。それでも奴を見れば身体が勝手に動いてしまうし、後先だって考えられない。理性の糸が震えて、俺はまた破壊を繰り返す。飛び出した臨也を追いかけて廊下を走り抜き、町に繰り出し、殺し合って、嫌でも俺を喧騒に引きずり込む。それに疲れないと言ったら嘘だ、この一年だけでもうこんなぼろぼろなのに、あと二年も続けるなんてぞっとする。
終わらせるには、俺か臨也が死ぬしかない。そんな短絡的な考えになるくらいにはこいつが嫌いで。それと同じくらい俺は俺が嫌いだった。
「……」
何時もより多めの捨て台詞を吐いて、結局見失った。もう俺の中からあの存在を消してしまいたい。
憔悴しきった俺は一旦学校に戻って、未だ無人の図書室に入った。何度も訪れているから手順は判る。ぴっという音を何度か響かせて返却処理を済ませると元の位置に戻す。乱雑になった机を整えて、なんとなしに見回した。もう此処には来ないと心に決めて。
足取りが重い。身体も疲れているし、精神的にもかなり参ってる。最近じゃ家に帰ったら飯食って風呂入って寝るだけだ。日中の大半の時間をすごす学校がこんなに辛いのか。まだ中学の時の方がマシだ。冬休み中だって喧嘩ばかりしていたしこのままじゃ停学でも食らいそうで怖い。ふらふらと歩きながら、知識として知っているだけだった場所に足を運んだ。意を決して中に入ると、見るからに落ち着いた穏やかな雰囲気に呑まれて足を止める。俺には無縁な場所だと思ったからだ。
「……っ」
学校の図書室が利用出来ないなら今度は図書館……と安易な考えをした自分を嘲って引き返そうとした。幽に頼んで弟が持ってる本でも貸して貰おうかと思いながら。だが、俺がどうしようか迷っているとすぐ前を通った従業員の女性が、作らない笑顔で「いらっしゃいませ」と声をかけて、そのまま歩いて行った。正直な話、驚いた。あんな悪意も何もなく話しかけられたのなんて久しぶりだからだ。
「よし……」
居座らなければ良いんだ。そうだ。気合を入れて、さっきよりは軽くなった足で中を進む。金髪の俺がうろうろしたら目立つかな、と思ったが、皆、本に夢中だから誰も俺を見なくて凄く気分が良い。だからといって長居すると俺を知ってる奴が騒ぎ立てるかもしれないから、マフラーで口元を隠してそそくさと館内を歩いて、適当に本を取った。俺が本を選ぶ基準はぴんと着たタイトルや勘なので、一貫性は無い。目立たないように足音を消してカウンターに持っていく。
「ご利用は初めてですか?」
「は、はい」
女性の声だった。やばい、眼を合わせたら怖がられる。そう思って必死に女性の手だけを見た。何か用紙を取り出し、ボールペンと一緒に差し出してきた。
「利用登録が必要となりますので、学生証か保険証をお願いします」
本名が必要だって忘れてた。俺が平和島静雄だって知られたらやっぱり怖がるかもしれない、いやでも俺の事は知らないかもしれない。俺がどうしようか迷っていると、女性の顔が上がるのを気配で感じた。
「お忘れですか?」
「あ、いえ……あります」
咄嗟に出てしまったので、急いで制服のポケットから生徒手帳を出した。それを空けた途端、一瞬手が止まったのでやっぱりバレたかと後悔が襲うが、女性は気にする風もなく事務的に用紙に書き込むとすぐに返してくれた。本の裏のバーコードを読み取り、日付を書き込んだ用紙を挟んで渡された。
「返却期限は本日から15日以内となります」
「っ、はい」
女性の声からは恐怖心は感じられなかった。恐る恐る頭を上げて顔を見ると、視線が噛みあった女性はさっき俺に挨拶した人で思わず眼を丸くしてしまう。10台後半か、20代だろうか、俺より少し年上で、健康的な綺麗な人だった。どくりと心臓が鳴るのに、俺は一瞬気付けないくらいぼうっとしていた。
きょとんとしていた彼女の表情は、俺に向かってにっこりとした笑みに変え、薄い口紅が引かれた唇が開かれた。
「ご利用ありがとうございました」
此処でやっと用件が終わったことに気付いた俺は慌てて何回も頭を下げてお礼を言い、逃げるように立ち去った。優しげで暖かな笑み。ずっと向けられていなかった、悪意以外の感情。営業スマイルかもしれないけど、耳の横で鳴っていると思うくらいにうるさい鼓動に、マフラーを巻いている首筋が暑い、熱いと感じた。すこし緩めて風を通すようにして、ぶるっと背中が震えた。
普段なら時間がかかるそれを丁度一週間で読みきる事が出来、自然な流れで俺はまた図書館に現れた。さり気無く幾つもあるカウンターの方に視線を泳がせると、一番端の同じ場所にまたあの人が座っていた。半ばそれを期待して前回と同じ時間帯に着たのだから当然かもしれない。あの人はバイトなのだろうか、社員かもしれない。俺はなんでもない感じを装って、新しく借りる本を勘で選んで、鞄から先週の本を取り出し重ねて持っていった。別に混んでないから、あの人以外の場所も沢山空いているけど。近いから、と理由を勝手に決めて、俺はまたすみませんと声をかけた。
「本を、返しにきました」
「はい」
同じ声。でも、とてもじゃないけど顔は見れない。覚えていてくれるだろうか、多くの客の内のひとりだから忘れられているかもしれない。そう思って、俺は一体何を期待しているんだと思う。今までの行動も、何も考えず、いやしっかり考えて実行した。これじゃ、まるで。
「もう良いんですか?」
そこで不意に話しかけられてびくっと全身が揺れた。その反動でもろに女性の顔を見てしまい、顔に熱が集まるのが嫌でも判る。
「え、っと?」
「あと十日くらいあるのに、良いんでしょうか、って」
単純に疑問だったから訊ねられたんだろう。純粋な興味が瞳に載っている。ぶんぶんと頭を上下に振ると、面白かったのかくすりと笑って事務処理に入った。機械を持つ手は白くて細くて、爪も綺麗に整われていた。母親以外じゃ女性の手をしっかり見たことなんて無い。
「あと、これも」
今日から借りる本も一緒に差し出せば慣れた手つきで判子を押してくれた。それを受け取る時が、一番距離が近くなる。手は冷たいのに、指先だけが火照って、何を俺は思っているのだろうか。
「返却期限は15日です。ご利用、ありがとうございます」
ぺこりと頭を下げた女性につられて、俺は前回と同じようにかしこまりながらその場を後にする。大事に大事に鞄の奥にしまってゆっくりとファスナーを閉じた。ゆるやかな幸福感、暫く感じていなかった気持ちを、俺の理性は、彼女への憧れなのだろうかと考える。あの大人っぽいけど鼻にかけていない感じが、……。
「……マジかよ」
それが二度目の恋だと気付いた途端、すっかり冷えた風を頬に受けながら俺は頬に何かが伝うのが判った。
人間離れした俺が、あんなすぐ壊れそうな女性に好意を向けるなど。名前も知らない彼女に心を寄せるなど。馬鹿みたいで、辛くて、消えてしまいたい。この思いは胸に仕舞って、でも、あの数分間だけの恋は、ゆるして欲しい。臨也に知られたら笑われそうだ。勿論その笑みは嘲笑以外有り得ない。
俺だって誰かを好きになったり、焦がれたり、したって良いだろう。俺は、恋なんて感情を抱けるくらいには……人間なのだから。
ノミ蟲の陰謀か、帰り道で他校の不良と鉢合わせして全員殴り飛ばし、高一の一月に俺は一週間の停学を喰らった。
虫のように声を立てては泣かないけれど、涙がただただ、見えないところで流れます
古今和歌集の部屋より
あなたの真価を問われる時