兆候はあったような気がする。
二日連続で学校を休んで、平日の池袋を臨也と二人で買い物に出掛けた。俺の持ち物は量が余り無い。その数少ない物は臨也が買い与えてくれたもので、自分で選んだものはほとんど無かった。臨也の部屋のサイドテーブルにひっそりと厳かに存在を主張している硝子時計がひとつくらいだ。しかもこれは俺の所有物じゃない。
休みの日はごろごろしている俺には服も必要ないと思っていたんだが、俺に色々着せてみたいという文句に押し切られ店の中で俺は着せ替え人形と化した。ワンランク高い店なのか店員も随分落ち着いていてどう見たって高校生が真昼間に来ているのに何も言わない。最初は気が乗らなかった俺も幾つも購入する内に楽しくなってきて、それを見た臨也が服に合う腕時計でも買おうかと言い出してきたので流石にそれは断った。壊しそうだし。
昼は軽食だけだったので久々の外食は胸が躍った。夕食は俺の希望で和食になったが、案内された料亭は常連なのか行き着けなのか一番奥の静かな場所に通されて、雰囲気に気圧されておどおどしていた俺も臨也が隣に居ると安心出来て箸が進む。
帰りのタクシーの中では充実感から強い眠気に襲われた。こてんと頭を預けると優しい手付きで肩を抱かれて一気に睡魔に身を任せる。なんかもう、死んでも良いかも。そんなレベルで幸せだった。頭がふわふわして視界がぼやけていても気にせず、風呂にも入らずその日は寝てしまった。
そんな判り難い兆候は経験が無い俺には知り得るはずがなく、そういった結果は翌日の朝に降りかかった。
「……」
何だろう。死ぬほど頭が痛い気がする。今まで頭が痛いなんて後頭部を殴られたとか、そんな時にしか意識していなかったけど、これは可笑しい。思わず息を吐き出して、同時に呻き声が上がる。身体を持ち上げようとしたら、少し振っただけで頭が凄く痛い。おまけに鉛で出来ているかのような重さだ。
訳が判らなくて、でもなんだか言い知れぬ不安に襲われた俺はとりあえずこの状況を臨也に伝えないといけないと考えてふらふらとベッドから降りる。時計を見ると九時過ぎで、土曜の朝としてはそこそこの時間だったが今は兎に角この頭痛をなんとかしたい。ドアノブを掴むと恐ろしいほどに冷たくて思わず指が滑る。寒気を走らせながらノブを回そうとするが力が入らない。
「っ……」
力が入らない、なんて。そんな冗談面白くない。俺は人間じゃ有り得ないレベルの怪力だってのに。らしくない。
そう思って思い切り力を込めると今度はばきっと音を立てて折れてしまった。少しだけほっとする。力が無くなった訳じゃないらしい……って、あ。これじゃ開かない。仕方なく修理をお願いしようと内心で侘びを入れて殴ってドアを破壊した。ぺたぺたと歩を進めながら足取りは非常に重い。足が進まない。内臓式の足元灯が分身しているように見える。事務所までなんとか到達しないと、とそう思った所で一歩が出ない。だけど上半身は進む。一抹の恐怖と倦怠感を感じながら廊下にばったりと倒れてしまった。打ち付けた全身が非常に痛い。床ってこんなに冷たかったのか。
「……う」
立ち上がるという発想が浮かばず、暫くどうしたものかとぐったりしていたら、物音を聞きつけたのか前の方にある扉が開く。顔だけ見せた臨也が床に寝転んでいる俺を見て一瞬固まり、すぐに駆け寄ってくれた。
「どうしたの?」
「……」
俺の身体を起こそうとしてくれたらしいが、力が入らなくてほぼ全体重をかけてしまう。不安定な体勢では臨也は支えきれず、上半身だけを中途半端に起こした形となった。とりあえず変調を訴えたかったが口を開けただけでなんだか吐きそうだった。
「シズちゃん……?」
心配そうに眉を下げた臨也の服を掴む。これだけの力しか出なかったが、言いたい事は察してくれたらしい。すると臨也がそっと俺の額に手を当てる。最初は冷たい温度に驚いたが、すぐにその低温が心地良くなって眼を閉じた。
「結構、高いね……」
困ったような声を出したのが聞こえて瞼を開けようとしたが、臨也の手に阻まれて苦笑された。なんか遠い昔にもこんな感じの事があった気がする。何処だったか、思い出そうとしたがその前に臨也に抱えられてまた部屋に逆戻りする。頭痛は相変わらずだがこの温かさを失いたくなくてしがみ付くように身体を寄せる。ベッドに下ろされてもまだ臨也の服を掴んだままだった。
「うー……」
「昨日ちょっとはしゃぎ過ぎたかな。一昨日は緊張しっぱなしだったしね……」
小声で囁きながら臨也が俺を寝かし付け、待ってて、と言葉を残して離れかけたので思い切り腕を握る。驚いた臨也だったが、構っていられなくて、気分が悪いながらも必死に身体を動かす。
「い……いい」
「なんて?」
「此処に居ろっ……」
臨也にとっては迷惑だったかもしれない願い。普段なら、普通なら、仕事中の邪魔をしたくなくてこんな我侭は言わなかった。だけど今は違うんだ。臨也が居なくなったら全部終わる気がする。形容出来ない恐怖が俺の手の力を抜かせなかった。
案の定臨也は少し表情を曇らせる。はあ、と息を吐きながらも続ける。
「ごめ……邪魔、かも……しれねえけど……なんか……怖い……」
ぐ、と少し引っ張る事で気持ちを込める。嫌がられるかなと頭をよぎったが、屈んだ臨也は眼にかかる俺の前髪を穏やかに払った。
「傍に居るよ。でも、薬とか色々持ってこないと。辛いでしょ?」
「……いい、いい」
力なくふるふると横に頭を振る。途端に痛みと後悔に襲われるが、臨也を視界に捉えておきたい。
「良くない。こんな熱高いのに。相当苦しいはずだよ」
「要らないっ……ここ、此処に……」
自分が体調不良だということはなんとか理解している。今まで病気知らずだったから余り実感は沸かないが、確かに昔、臨也が風邪を引いた時の症状に似ている。鏡が無いから判らないが俺の顔は赤いはずだ。止まらない寒気に空いた手で肩を抱くが収まる気配は無い。すると、目の前が翳るのと同時に臨也が俺の頭を抱えた。
「シズちゃん。もし立場が逆だったら、シズちゃんは俺を治したいだろう?」
「……」
「俺もシズちゃんが苦しんでるのは見たくないよ。早く治した方が良い。すぐ戻ってくるから、ね?」
折角、臨也がこの上なく優しい顔をしているのに涙で滲んでよく見えない。俺が頷こうか迷っている内に臨也は何かを思いついたようにポケットに手を突っ込んだ。
「それなら」
手の中にあるものを操作すると、枕元に置いてあった俺の携帯が震えた。電話を取ると、臨也が自分の携帯を耳に当てる。
「ほら、これなら離れても会話出来る」
「……おう」
家の中で通話するなんて、と若干可笑しかったので少しだけ微笑む。直後に頭痛えと呟いたので意味は無かったかもしれないが、臨也はそのまま足早に去って行った。その瞬間一気に寂しくなって咳を零しながら電話口に声を投げる。
「臨也……」
『聞こえてるよー。頭痛だけ?』
「……さむい」
『あとは? 吐き気とか、腹痛とか、眩暈とか』
「ん……気持ち悪い……」
『了解。なにか食べた方が良いね。プリンあったかなあ……』
声が遠ざかったような気がしたので、必死に意識を集中させる。だが、呼びかけても反応しなくなってしまい軽くパニックになる。徒歩10秒の距離が異常に遠い。
まるで臨也が居なくなってしまったような錯覚に襲われ覚束ない足を無理矢理床につけて歩く。寒いし、気分悪いし、臨也は居ないで最悪だ。プリンは給湯室の冷蔵庫に入れておいた覚えがあるから事務所の方に向かう。のそりとした動きで、鏡張りの臨也のデスクが見える所まで来てその場に蹲る。
「うー……」
「ちょっとシズちゃん!」
電話だけでなく直接臨也の声が聞こえたので顔を上げたかったがもうそんな元気も無い。すぐに抱き締められて全身の力が抜けた。
「待っててって言ったのに……」
「だって、お前が……何も、言わねえから」
物言わぬ携帯電話に用は無い。臨也の顔も見れないくらいに弱っていたが、有りっ丈の力を込めて首に腕を巻きつける。臨也の溜め息だけが耳元で聞こえた。
「不安?」
「……」
若干呆れられてんのかな、と思ったがそれに悲しむ余裕も無い。呻くように肯定すると臨也が俺の顔と自分の顔をつき合わせる。勝手に潤む眼だったが、臨也の優しい顔に少しだけ寒気が収まった気がした。
「風邪を引くと誰でも不安になったり、心細くなるんだよ。シズちゃんは俺が居なくなると怖いんだろう?」
「……ん。でも、……迷惑なら、戻る」
怖い。無音が痛いし、寒さが寂しさと一緒くたになって襲ってくる。絡めた腕をきゅうと強くすれば今度はくすりと笑われた。
「シズちゃんはもっと俺に迷惑かけなよ。俺もシズちゃんを独りにしたくないな。布団を持ってくるからソファで寝よっか」
再び俺を抱き上げて、よく二人でテレビを見る大きなソファに横たえる。ベッドほど広くは無いが軽い寝返りなら打てるぐらいだ。俺の口元にキスしてから臨也は文字通り風のように去って風のように戻ってきた。部屋から此処まで抜け出してきた俺がまた臨也を追わないように往復走って着たらしい。布団と毛布をそのまま抱えて持ってきたようで、近い部屋から持ってきたのか俺のじゃなくて臨也のだ。
「臨也、仕事……」
「此処まできて仕事の心配なんてしないの。弱ってるシズちゃんなんてあんまり見ないから新鮮だなあ……不謹慎だけどさ、ちょっと嬉しい」
「……なんで?」
「んー? だってさ、今シズちゃんは確実に俺の事しか考えてないでしょ?」
悪い顔で笑った臨也は布団を首まで被る俺の唇を軽く吸うようにキスを落とす。遊ぶようで啄ばむよう。ぶわっとまた熱が上がった気がして俺は頭まで布団を引き上げた。そんな俺を布団ごとよしよしと撫でるから、口元まで下げながら、
「普段からお前の事しか考えてねえよ」
と本音をぼそりと漏らしたが、それで臨也を驚かせる事は出来なかったらしく汗ばんだ前髪を退けると涼やかな笑みを浮かべたまま立ち上がる。思わず臨也の行き先を眼で追うが、すぐ傍の給湯室に入っただけで、常に臨也の気配と、姿と、声があるから安心出来た。
タオルで汗を拭いながら、別の冷やしたタオルを額に置く。適度の冷たさにそっと眼を閉じる。前に学校の保健室で見た冷えピタなるものはこの家には無い。
「咳が出たり喋れない訳じゃないから、多分風邪じゃないかな。単に疲れたんだろうね。新羅を呼ぶよ」
一昨日に迷惑をかけた友人の顔を思い浮かべながら眼を開ける。高い天井がぼやけていたが、来客というフレーズから俺は臨也の方を向く。
「今日、誰か来るのか……?」
来るなら客用のソファで病人が寝ている訳にもいかない。取引先だったら駄目だ。最悪、四木さん辺りなら大丈夫かも……と考えていたら新羅にメールを打ち終わった臨也は俺の頬を撫でる。
「誰も来ないから安心して。あ、でも正臣君は来るかな」
弱っていたはずの俺は、一気に眉間に皺を寄せたが臨也は動じない。取引先の方がまだ良かった、かもしれない。無言でなんであいつを連れてくるオーラを臨也に向けて発信した。
「シズちゃんも正臣君と仲良くすれば良いのに」
「あいつが、お前にっ、近付く、から……!」
歳が近い事もあって俺はあいつに対抗心に近いものを抱いていた。臨也が俺じゃなくて同世代の紀田に興味を示すのがとても面白くない。前回来たのは結構前だが、それも俺が居る時に来た時の事だ。俺が真面目に学校に行ってる間にあいつは事務所に入り浸っているらしい。臨也からそんな事を聞いた事はないが俺の勘だ。その日は決まって臨也の機嫌も良いから。
「それに仲良くなって欲しいなんて思ってねえだろ……」
「あは、バレた? うん。シズちゃんは俺だけ見てれば良いんだよ。俺が眼に入れても痛くないのは君だけだ」
言葉の意味はよく判らなかったが、臨也も俺が居れば良いと言ってくれているのだと解釈して少し胸がすっきりする。
「なんで紀田が来るんだよ……」
「ちょっと沙樹を使ってね。……そろそろ、均衡が崩れるよ」
最近は町にも黄色いのが沢山居るが俺には全く関係ないと全部スルーしてきた。今更その事が頭に浮かんだが、臨也が俺に触れてくれる手の感触に意識を集中させる。頭が痛いから考えたくない。臨也のひんやりした指が肌の上を伝うのに、喉が渇いた俺は本当に何も考えずに臨也の指を銜えた。
「っ……」
「ん……」
口の中は凄く熱くてしかもからからだった。冷たいものを求めた俺の舌が、人肌の臨也の指を舐める。爪先の隙間に舌を突き入れるように、歯で臨也の爪を少し齧る。物足りなくなって更に奥まで誘おうとするが、それより先に引き抜かれて俺は文句を言うように目線をあげた。
「月並みに言うけど、誘ってる?」
「……へ」
「まあ病人を抱くほど下衆じゃないつもりだけどね、俺は」
俺はただ、冷たいものが欲しかっただけだったが思い返せば確かに変な事をしたかもしれない。仕方なく自分の指の側面を唇に当ててやり過ごそうとしたが効果は余り無い。
「のど、渇いた……」
「了解」
給湯室に向かった臨也はしばらく棚を漁るような音を響かせていたが、500mlのミネラルウォーターのペットボトルとグラスを持ってきた。逆の手に薬のケースを持ってきたので俺はタオルを一旦外して重い身体を持ち上げる。滅多に薬なんか飲まない俺は寝転んだままじゃ巧く飲み込めないからだ。
「飲めそう?」
「へいき……」
俺が瞼を何回か開閉している内に、臨也は錠剤を口に入れてペットボトルの水をそのまま流し込む。両腕を伸ばした俺に近付いて、少し俺の頭を上向きにさせて口付ける。待ち望んだ冷たい液体と不躾な小さな異物を、何も考えないようにして嚥下した。臨也がちゃんと薬を飲み込んだか確認するように舌を入れてきたので小さく唸る事で知らせる。
「ふぁ……」
「シズちゃんの歳じゃもう一個飲まないと」
「えー……」
「そう言わないの」
「だって苦いから……」
薬の苦味は喉にうっと来るから嫌いだ。思わず吐き出したくなる。苦味を感じなくなるくらい切羽詰っている時は良いけど。昔に睡眠薬を噛み砕いて飲んだ時みたいに。あの時は全く味を感じなかったな……とそんな事を考えている内に、笑った臨也がもう一個を口に放り込んだので大人しく待つ。重なる唇に眼を閉じた。
二個目はさっきほど上手く飲めずに、水だけ喉を通り錠剤が舌に残ってしまいぎゅっと眉を顰める。
「ん……みず、みずっ……」
「ちょっと待って」
口を閉じると唾液と一緒に僅かに溶けた錠剤の味を感じてしまうので半開きにしたまま臨也に縋る。口移しで与えられる水に、ばくばくとうるさい心臓の音を聞きながら必死に飲み込む。体力が削られているのか、短い間に息を止めていただけでもう辛い。縋っていた手が自然に落ちて臨也の胸に引き寄せられた。
「はあ……」
「プリン食べられそう?」
正直なところ、気分が悪くて卵の味を口の中に想像しただけで身震いした。何か食べないといけないのは理解してるけど水以外何も要らないのが本音だ。俺が動かないで居ると、あやすように背を撫でられて少し落ち着く。
「……寝る」
「そっか。それが良いかもね」
臨也が微笑むのを気配で感じて、俺はまた布団を被った。臨也に抱きしめられていた方が穏やかで幸せだけど、自分で行動出来ない今の俺じゃただの役立たずだから素直に瞼を閉じる練習をする。両腕をソファに乗せて俺の様子を伺っている臨也を知っていたので、眠気を覚えながら目の前の臨也を見つめた。
「居てくれんの……?」
「当然。手、握ろうか」
伸ばされた右手に、俺も右腕だけを布団から出してそっと重ねた。俺の体温が高いのか、臨也が低いのか。横向きに身体を変え、握った右手を左手でも覆う。臨也が近くなった気がして、嬉しくて微笑む。おやすみなさい、という臨也の声で俺はすぐに眠りに落ちた。といっても微睡みの中で、ずっとうとうとしているような状態だったが。
その睡眠の邪魔が入ったのは突然だった。1時間ほど意識を落とせていたのに。臨也以外の気配が俺の意識の中に入ってきたお陰でうっすらと眼を開く。だが、思ったよりも体調は良くなっていないらしく頭はぼうっとしたままだ。
握っていたはずの手には何もなく、少しだけ寂しい。眼が覚めた時に臨也は目の前には居ないだろうとは思っていたけど。寝返りを打とうとした時に、布団の上に重みを感じたので少しだけ頭を持ち上げる。視界は霞むが、感触と色と匂いで判った。臨也が何時も着ている、ファー付きの黒いコートだ。
「……」
傍に居られない代わりにかけてくれたのだろうか。そうでないにしろ、嬉しくてじわりと視界が滲む。それを手にとって、布団の中に引きずり込む。皺にならないように気を使いながらぎゅっと握る。布団と毛布も臨也のものだから、臨也に抱きしめられているみたいで心強かった。
身体がだるい、そういえば臨也は何処なんだろうと考えた所でふと部屋に気配を感じるが重くて動けない。これは臨也のものじゃない。見なくても判る。波江か? 波江にしてはすごい刺々しい……あ。
「……寝てる?」
「起こしちゃだめだよ」
ソファの上から無遠慮に俺を覗き込む二つの影がなんなのかやっと理解した。そういえば来るとは聞いてたけど、この女も一緒だとは思わなかった。起こしたくないなら喋るな。むしろ帰れ。
睨みたかったが本当に身体が重くて動きたくない。寝ているふりをしていればその内何処かに消えてくれるだろうと狸寝入りする事に決めた。
「喧嘩人形なんて呼ばれてるのに、可愛いね」
「本人に言ったら殺されそうだぜ」
可愛いと言ったのが紀田だったら殺してたかもしれない。だが女の三ヶ島に言われるのも結構強い不快感だ。むかむかしてきて頭痛が助長されているような気がする。早くどっか行け。むしろ帰れ。なんかさっきも同じこと思った気が……。
「あ、正臣、晴れて来たよ」
三ヶ島の言葉で今日の天気は、朝は悪かったらしい。ガラス張りの方へ行った三ヶ島と違い、何故か紀田はこの場に残ったらしく気配が動かない。というかよくものこのこと俺の前に現れたな、と前回会った時の事を思い出してしまったので段々気分ではなく機嫌が悪くなってきた。
「……」
視線を感じる。人の寝てる顔がそんなに面白いんだろうか。臨也だったら「シズちゃんの寝顔すごく好き。可愛くて苛めたくなる」とか言い出す。というか昔にそう言われた。印象深い言葉は一字一句違わず覚えているから間違いないだろう。
ふと突っ立っていた紀田が俺の方に身を乗り出す。顔を覗き込まれているらしく非常に不愉快で眉が動かなかったのが奇跡だ。
「なんであんたみたいな人が、折原臨也に従ってんだよ」
何を言われたのか聞き取れなかった。それぐらい小声だったが、臨也の名前が呟かれたのくらいしか判らず、俺は眼を開きかけたが瞼も重い。すると、何を思ったのか紀田が俺の方に手を伸ばしてきたのを気配で感じた。
「触るな」
俺が言う前に、遠くから聞こえた。今度こそ眼を開けて、そちらを見る。何かファイルのようなものを持っている臨也が無表情で紀田を睨み付けていて少しだけ驚く。紀田の前じゃ、何時も笑ってたのに。紀田も吃驚したのか、中途半端に手を浮かせていて臨也を凝視していた。臨也の冷たい怒りが部屋を満たす。
「それは俺のだ。君でも触らせないよ」
早足で近付いてきた臨也を避けるように紀田は後ずさった。ソファの隙間に腰を下ろした臨也は上気した俺の頬をゆっくり撫でる。
「シズちゃん起きてるでしょ?」
「……ああ」
蚊の囁くような声だが、その答えに臨也は満足したらしい。
「気分はどう?」
「あんまり良くない……」
「新羅は夜にしか来られないらしいから、お昼はどうしよっか」
「……食べる」
流石に朝から薬と水しか口にしていないのは不味いだろう。身動ぎして、コートありがと、ともごもご言うと、臨也は中学生二人から死角になっている事を良い事に、屈んで俺に口付けた。臨也の身体の動きでバレたかもしれない。
「シズちゃんの風邪が移るといけないからちょっと場所を変えようか」
何時もの胡散臭い笑顔を取り戻した臨也が二人に向かって言葉を投げる。俺からは二人の事は見えないが、紀田は逃げるように、三ヶ島はいつも通りの貼り付けた笑みで俺にお大事にと告げてから外に出た。臨也もその後を追おうとしたが腕を捕まえて引き倒した。
「夜、夜に」
「なあに?」
大きな声が出せないから、臨也の背中に腕を回して必死に言葉を繋ごうとする。頬に差した赤みは熱の所為だけじゃない。
「臨也、と、一緒に、寝たい」
一昨日も、昨日も一緒に寝たけど。今日も、明日も、明々後日もそうしたい。
「良いよ」
嬉しそうに顔を綻ばせたと思ったら、言い終わった直後にキスされる。病人を労ってか、何時もよりずっと軽めで短い。俺をソファに寝かし付けながら、腹に一色ありそうな顔で笑った。
「その代わり元気になったら襲っちゃうからね。誘ってくれちゃってさ」
お前は馬鹿か、の意で睨みつけてやるが俺の人を殺せそうな視線と噂されるそれは臨也には全く効果が無い。それどころか、俺が睨みつければ嬉しそうにする臨也に俺はそろそろ学習した方が良いのかもしれない。すぐに戻ってくると言い残した臨也の気配を心で感じながら、さっきまでの不安感が少しだけ凪いだ気がした。
昼食はお前が食わせてくれるプリンで良いぞ。
特効薬は口移し