物好きだねえとすれ違いざまに歌われた皮肉に笑みで返すと、白衣を着た男はポケットに手を突っ込んだまま程々にね、と眼鏡の奥の眼をきらりと光らせた。
蓼食う虫も好き好きとは言うが俺自身でも変わった趣向だとは理解していた。粗食を乗せたトレイを指先でバランスを取りながらくるくる回す。麦と玉蜀黍と水。間違っても俺が食べるものじゃない。
厳重に警備のなされているそこを俺は笑みを浮かべたまま進み、ドアの前まで来ると男に向かって頷いた。がちりと扉が開く音がして、どうもと一言だけ告げて身体を滑らせる。真っ白な何も無い部屋の奥に、場違いな銀の檻があった。わざと歩み寄る音を立てながら進むと、中に横たわっていたものが僅かに身動ぎした。
「良かった。まだ生きてたね」
我ながら作っていると自覚している歪な微笑を振りまくと、乱れた髪の下から色白な顔が姿を見せた。前髪に隠れた瞳は末恐ろしいほどにぎらついており、浮かぶ感情は余り快いものではなさそうだ。
上官である俺の元に報告が来ていないのだから、これが生きていることなんて先刻承知だった。それでもそうやって茶化すのは、会話をしようとしない男にかける俺なりのコミュニケーションだ。
「……随分と派手に痛めつけられたねえ」
トレイを床に置き、片膝を立てて中を窺う。近くで見ると、口が僅かに開いて荒い息を繰り返している。呼吸に合わせて身体も上下に揺れており、食まれた髪の毛を退ける余裕も無いらしい。
「身体、向けて」
初めて顔を合わせた頃だったら、俺の言葉など何一つ聞き入れなかった男も胡散臭そうな眼は変わらないが、黙って起き上がると半身をずらす。狭い格子の隙間から両手を差し入れ、肩を掴んで思い切り押し込む。
「っ……!」
「はい、治った」
外された関節を正してやったというのに悲鳴ひとつ上げない。だが衝撃は堪え切れなかったのか、息を詰めた男は肩で息をし始める。爪が尖っているくらいしか差は無いが、この男は妖怪と呼ばれる存在である。と言っても俺が活動している地域では滅多に現れないから、暴れていたこいつを捕まえるのは軍を動かすレベルで多数の人間が駆り出された。結果、かなり手荒な方法で大人しくさせられたらしく、初めてこいつを見た時には血だらけで人間だったらありえない方向に手足が曲がっていた。にも関わらず、特に手当てもしていないのに自力で治してしまって、此処に居る。
「あとは特に無いね」
怪我の具合を見る振りをして顔を覗き込むと、ぼさぼさの髪の隙間から俺を睨む。触るなという意思表示らしいが、振り解けないのは手足に嵌められた枷の所為。この檻も特別だった。当初は何度か脱走を試みたらしいが、その度に日頃ストレスが溜まっている隊員の格好のサンドバッグと化した。個人的に興味が沸いた俺は、そんな地位でもないのに毎日自ら食事を運んでやっている。
「君さあ」
妖怪については判らない事も多い。知能のふり幅が広い事や基本的に人前に出たがらない性質である事、一般的に認知されているのはこれくらいだ。目の前の男は俺よりも背が高く、金色の髪と緑の瞳を持った、目付きが鷹のような奴だ。人型のものほど知能は高いと聞くが、この男はこの一ヶ月囚われていても一言も喋らない。偶に唸ったり息を呑むような音だけを搾り出すらしい。
「使えなさそうだから、上が処分するって検討してるんだけど」
軍には戦争に必要なものしか求めない。当初は、大暴れしたこいつを使えるんじゃないかと捕らえた上層部も、内部から壊されることを懸念して正式にこの化け物を抹殺しようとしている。逸早くそれを知った俺が親切心で教えてやると、青年がぴくりと反応する。俺以外の連中は、この男は喋らないから頭が悪いものだと思っている。だが、こうして俺の言葉に的確に反応出来る辺り、恐らくこいつは人の言葉を理解している。躾けた犬が声を合図にするのとは違う。完全に自分の言語として。
「俺は勿体無いなあと思うんだよね。君は獣や畜生には見えないし」
最初に報告を受けた時には、この男が化け狐だと聞いた。しかし、直接実物を見たら、思わず上司が居る前で鼻で笑ってしまった。「狐には見えないけどねえ」と、籠を足で遊ばせながら俺が口元を吊り上げる。背後から、捕獲した隊員が混乱していて狐と見間違えたそうですと声が聞こえた。成程、報告書に記載されていた動物とは思えない。
結局こいつがなんの妖怪かは判っていない。興味本位でがしゃんと音を立てると、横たわっていたそれが僅かに身動ぎした。呪詛でも唱えるような息遣いだ。背筋がぞくりと粟立ったのは気の所為じゃない。
「……まあ、まずは食べようか」
手袋を外して、麦を手のひらに載せる。慣れた手付きで男の口元まで持っていくと、何度か躊躇ったあと、歯を立てないようにそっと口に入れる。最初の頃は噛み千切られるんじゃないかと冷や冷やした。しかし床に置かれたものはこの男は食べようとしない。首を晒すような体勢が恐ろしいのか、単にプライドが高いのか。遠慮がちに俺の手のひらに残る残滓を舌で舐める。器に盛った水を差し出せば、唇で挟んで上手に傾けて飲む。小さな玉蜀黍をゆっくり租借したので、もう一杯。喉を鳴らして嚥下したのを確認してトレイに全部戻した。
「一日一食、しかもこんな量でよく生きていられるね」
「……」
男は枷の鎖を鳴らしながら、眉を顰めて身体の向きをずらす。出来る事なら俺を視界に入れたくないと思っている顔だが、自由が制限されすぎていて思うように動けないのだろう。こんな狭い場所に閉じ込められていたら、俺だったら背が縮みそうだ。
人の言葉を理解出来ても、やはり喋る事は出来ないのだろうか。毎日此処に来て、石像に向かって独り言を呟いているような気分だ。
「辛くないわけないよね。そう思って……」
懐の包みを解いてくすねて来たパンを出すと、男が顔をこちらに戻す。食欲には勝てないのか、じっと俺の手を見つめた。
「『あんな獣の餌なんて麦だけで十分だ』なーんて言われてたけど、ようやくチャンスを得たから持って来たよ。食べるでしょ?」
まだ焼かれて一時間も経っていない。香ばしい香りにすん、と鼻を鳴らした青年に微笑んで、一口サイズより少し大きめに千切る。手が使えない男の為に、何時ものように隙間から手を入れたが、思うところがあるのかそれを口にしなかった。
「毒でも入ってると思ってる?」
「……」
ふいと逸らされた顔に苦笑してどうしたものかと思ったが、やがて諦めたような顔をしたので食べてくれるのかと腕を持ち上げかけたが、交差された状態で手首を拘束されている妖怪は、指でまるで手招きするような動作をした。
向こうから何かアクションを起こしてきたのはこの一ヶ月で初めてだった。割と素で驚いた俺を他所に、彼は不機嫌そうな顔をしたままもう一度指を手前に引いた。
「近付けって?」
「……」
その言葉に彼は首を横に振る。やはり明確に俺の言葉が判るらしい。と言う事は今まで無視し続けられていたという事か。
「じゃあ、なに?」
あからさまに嫌そうな顔をしつつ、男は自分の両手を上下に振る。
「手?」
「……」
今度は頷いたので、一度パンを置いて俺は何も持っていない手を鉄格子の隙間から差し出す。切り落とされるかもしれないという考えはあるにはあったが、そんな不穏な気配を彼からは感じなかった。
すると彼は俺の手のひらの上に、爪でくすぐったくない程度の強さで指を滑らせた。一瞬何をしているのか判らなかったが、男は文字を書いているらしい。そう理解した瞬間、ぞくっとまた背筋が喜ぶ。
『俺は けものじゃない』
俺の手に書いた妖怪の初めての言葉だった。若干信じられなかった。人語を解するのはまだ許容範囲だが、妖怪なのにヒトの文字が書けるとは。これなら喋ることなど朝飯前じゃないか。
ぽかんとしている俺に対し違う解釈をしたのか、むっとした男はさっきよりも強い筆圧で文字をくゆらせた。
『毒の鳥の種だ 毒入りかなんて すぐわかる』
「……毒の鳥? 有名なのは鴆だけど」
『それに近い』
狐どころか、哺乳類ですらなかったのか。男が行動を起こした事が嬉しくて堪らない俺は割と本気で笑みを浮かべ、今この瞬間しか機会が無いかもしれないと居住まいと正した。
「今まで、喋ってくれなかったじゃないか」
『しゃべったところで 俺を離す気なんてないだろう』
「ならなんで俺には話してくれた?」
『おまえは ちがうような気がしたから』
面倒くさそうに髪を振った男に興奮が隠しきれているか不安になりながらも俺は少し声が上ずるのを感じた。
「君の名前は? 教えて」
俺がそう言うと明らかに狼狽したような顔を見せる。首を傾げて先を促すと、迷いながら爪の筆先を躍らせる。
『おまえらは俺をけものとか 呼ぶから 名前なんて興味ないと思っていた』
「俺は何回も聞いてたじゃん」
『変わってるな』
「なんとでも」
『 静雄』
何度もふらふら指先を彷徨わせたあと、そう綴る。声に出していたら、ケッと吐き捨てるような顔だった。話しかけてくれたは良いが、俺を完全に信用した訳じゃないとぎらついた視線が訴えている。
「静かな雄?」
画数が多い字なので確認すると、静雄がこくりと頷く。なるほどこの一ヶ月無言を貫いた男に相応しいかもしれない。口元がつりあがるのを感じながら逆に静雄の手を取る。驚いて引っ込めようとしたその手首を捕まえて、指を躍らせる。
「俺は臨也。臨む、なり」
『臨也』
真似をして床に俺の名前を書く静雄が面白くて、汚れてしまった金の髪を指先で梳く。固まった彼が俺を凝視してくるので手を握ったまま瞳を見つめる。
「君は喋る事は出来ないの?」
「……」
「出来ない?」
『いろいろ 不都合がある』
躊躇いながらも、書くとなると素早く文字を綴った男はばつが悪そうに俺の視線から逃げようと顔をずらす。はて、不都合とはなんだろうか。妖怪の社会の事には、人間はとんと疎い。俺も例外ではなく、情報収集が趣味とはいえ誰も知らなければ俺も知る事は出来ない。
「喋ったら罰せられるとか、そういうルールがあるの?」
「……」
静雄はあからさまに音が出ないように溜め息をつくと、また俺の手のひらに指を置く。大分慣れてきた感触だが、漏らさないようにしっかりと神経を注ぐ。
『俺は 歌鳥の一種だ』
「へえ、でも歌が歌えるならなおさら声を出さないと」
「……」
『他人においそれと 聞かせられるようなものじゃない 仲間内でさえ めったなことじゃ歌わない 俺の種は 声を出さなくてもあるていどは 意思の疎通ができる』
相変わらず俺を不審がっているような眼をしている。その割には饒舌だが、本人も自分がおしゃべりなのを不思議に思っているような感じがした。
「聞きたいなあ、君の歌」
「……」
「それとも君の歌は、人魚姫のように人を誑かして海に誘い、殺してしまうような代物なのかな?」
「……」
うっとりしながら俺が言うと、幾分か戸惑うような表情を浮かべて俺の手から指を離す。この囚われた鳥は一体どんな歌を囀るのか。捕らえられたままでは自由な歌声は響かないのか。
それなら俺がする事はひとつだけだ。俺の雰囲気が変わったのを敏感に感じ取り、静雄がこちらを向いた。
「じゃあ君を解放してあげるよ」
「……!」
今までで一番驚いた顔をした静雄だったが、俺はコートの中に手を突っ込んでリングに通された夥しい数の鍵を見せびらかす。左右に振る度に、エメラルドのような瞳がうつらうつらと反射して輝いている。
「どっち道、君をこのまま殺すのは実に勿体無いからね。その内逃がしてあげようと思ってたんだけど……良い機会だ」
「……」
「俺は君を自由にしてあげる。その代わり俺になにか歌ってよ。……ああ、信じられない? なら、先に」
まずは一番大きな鍵を差し込んで檻の扉を開ける。本当に自分を拘束するものがなくなると知り、開いた途端、静雄は器用に縛られている四肢を使って外に這い出る。じとりと俺を見上げたので、すぐに足枷を外し、次に手枷の鍵穴にも突っ込んでかちりと音を響かせた。暫く軽い炎症を起こしていた手首を撫で摩っていた静雄はむすっとした顔で俺の手を強引に掴む。
『おまえ 変わってる』
「さっきも言ったよね、それ」
「……」
100近くある鍵の中から迷わず、正確に鍵を選んだ俺を少しは信用する気になったのか、覚束ない身体を持ち上げる為に足を地に着けて立ち上がった静雄は迷うように視線を彷徨わせる。立ち姿を見たのは初めてだったが、俺よりも背が高いのは意外だった。これが背中から翼でも生えていようものなら、その凛々しさに見るものは眼を、心を奪われるに違いない。
「……なのに、人間が君の羽を捥いだんだ」
ぽつりと無表情で呟いた言葉を聞き取った静雄は、慎重にといった体で、俺の腕を伸ばす。てっきりまた筆談がしたいのかと思い腕を上げかけたが、その前に静雄は俺の頬にそっと指を這わせる。眼に映る、此処にあるものを確かめるような手つきで。
「……やっぱり変わってるな」
余りにも呆気なく彼は言葉を繋いだ。予想よりもずっと低く、俺の身体をすり抜けて、背筋を駆け抜けるような音。
「君は……静雄というんだよね」
「そうだ」
「静雄。羽がなくて飛べない君に残された才能を俺に見せて」
ほとんど判らないくらい小さく彼は頷いた。その間にも顔色は悪いし、体力も落ちているだろうから余り無理はさせられないだろうけど。籠の上に腰掛けると、静雄は眼を閉じて痩せた唇をかき開いた。
律儀に従わなくたって、もう力なんて戻っているだろうに。今までの恨みを込めて、その長い爪で俺の心臓を抉れば良い。彼にはその権利がある。だからチャンスをやろうと、俺もしっかりと眼を閉じて無防備な身体を晒した。
……、……。……。…………。……、…………。
……彼の歌は、馬鹿みたいにまっすぐで。
それなのに単調で、技巧もへったくれもなくて。
それじゃあ歌鳥なんか程遠いよ、と。そうやって笑ってやった。何故か俺は泣いていた。
熱い瞼を抉じ開けて、唇を閉じた静雄に賞賛の拍手を送る。大の男が泣き出したのに静雄は大いに驚いたのかその綺麗な眼を丸くしていた。
「今度は、是非、」
腰掛けていた檻から離れ、傍に寄る。毒を吐く歌い鳥の頭を引き寄せて額に唇を触れさせた。
「翼を生やした君に会いたいよ」
「っ……」
ばっと俺から離れたかと思ったら思い切り睨まれた。額を手の甲で何度も拭っているのを見る辺り不愉快だったのだおうが、そこまで拒まれると俺としても悲しいなあ。
「ふ、ざけてんじゃねえぞてめえ」
「あはは、小鳥の癖にドスが利いてるねえ」
「ぶっ殺すぞ!!」
「君の望みは俺を殺すことじゃなくて此処から逃げることでしょ?」
部屋の隅の床を引っぺがしてそこに静雄を突き落とす。
「隠し通路は作っておくべきだよねえ。誰の為かは知らないけど」
「てめえ……!」
「そのまままっすぐ進んで。出る時は鉄格子があるからそれくらい破壊しなよ。出来なきゃ戻ってきな」
「誰が! 死んでも戻るか!」
怒りで顔を真っ赤にしながら俺に呪詛を吐いて静雄は姿を消した。足音さえも聞こえなくなってから、俺は強張っていた肩の力を抜く。そして誤魔化していた涙をなんとか拭い終え、ふ、と息を吐く。静雄を逃がした事への隠蔽工作や罪のなすり付けをしないといけないなあと思いながら。
「……確かに俺は変わってるかな」
本当は逃がそうと思って鍵を持ってきた訳じゃなかった。結局彼の口に入れられる事は無かったパンには、確かに強い睡眠剤が入っていた。だがそれは、ただあの美しい生き物を俺だけのものにしたかったという気の迷いからだった。深く眠った彼を何処かに連れ去ろうと。結局はバレちゃったけど。
「気の迷い、ねえ」
知人の眼鏡の「物好き」という遠回しな罵り言葉を思い浮かべ、遠くで何かが盛大に壊れるような音に俺はどす黒く笑った。それを見る者は誰も居なかったけど。
「そういう事にしておこうか」
やっぱり俺、あの子が欲しくなっちゃったなあ。
会いに来てよ、カナリア