勢いで出て来てしまったが、マンションを見上げた時に俺は既に途方に暮れていた。幽に会いに行くのは良いとして、何処に行けば会えるのだろうか?
俺はあいつの連絡先も知らないし家も知らない。あれだけ身近な存在で、喋って、触れたという事から余り実感が沸かなかったが、そういえばあいつは有名人なんだ。なんだろう、こういうのは事務所ってとこに居るものなのか? 例え事務所が判ったとしても一一般人の俺に会わせてくれる訳がない。いや、俺の名前を言えばあいつの方からすっ飛んでくるんじゃないのか?俺は何をすれば良いんだ。
臨也に聞いときゃ良かったとため息をついて、はっと頭を振る。駄目だ、臨也に頼ってちゃ。これは俺が片付けるべき事なんだ。でも、宛ては無い。とぼとぼと歩き続けた結果、俺は自宅とは違うマンションのインターホンを押していた。

「……」

返事が無かった。無理もない。携帯で時間を確認すると11時を過ぎていた。俺みたいな未成年、いや18歳以下は見つかれば補導される時間帯だ。とはいえ俺の目当ての二人はこんな早い時間に寝てしまうほど健康的な生活を送っているのだろうか?
もう一度鳴らす。引き返すという選択肢は既に無かった。マンションを出た瞬間警察に引っ張られてしまうだろうから。更にもう一度鳴らした瞬間、ついに扉が遠慮がちに開いた。

「……よう」

軽く手を上げると、その人物は声を発する事無く、しかし休み無く手を動かし、それを俺に突き付けた。

『どうしたんだ、こんな時間に。何か急ぎの用でもあるのか? それとも臨也と何かあったのか?』
「い、いや……その。別に何かあったって訳じゃ……ねえんだけど……」

そいつは完全に身体を外に出した。何時もの黒すぎるライダースーツじゃなくて、自前なのか可愛らしい寝巻きを着ている。

「セルティに、ちょっと相談っていうか……助けて欲しくて」

その人は昔、何かあったら相談に乗るぞと言ってくれた。それを思い出して俺は、俺以上に異形である友人、セルティの自宅に来ていた。
すぐには話を切り出したくなくて、ヘルメットを被っていないセルティが首を傾けるような動作をしたのを見て、家の中を覗き込んだ。

「てっきり新羅が出てくるかと思ったんだけど……居ないのか?」
『そうじゃない、新羅はお風呂だ。出るか迷ったんだが、ほら、私は接客が出来ないから。でも誰が来たかくらいは知っておこうかと思って覗いたら、お前だったから慌てて出てきたんだ』
「そっか。それで、えーと……」
『とりあえず上がると良い』

促され、セルティの後を追ってリビングまで案内して貰う。昔も幽関連でこの廊下を渡ったな、と自嘲的に笑みながら。そして曲がり角で臨也とばったり会って俺は気絶してしまった事も覚えていた。

『珈琲はどうだ?』
「良いよ、暑いし」
『なら冷えた麦茶がある』

PDAにそう打ち込みながらセルティは台所に向かう。畏まりながらも、俺は交友関係が狭いから、頼れる人など新羅とセルティくらいしか浮かばなかった。その彼女らでも、何も出来ないかもしれないけど。補導されたら色々面倒だから、どこかに避難する必要もあったというのが本音だ。
セルティが俺の前に麦茶の入ったコップを置く。そのまま固まって見つめあう。顔の無いセルティと見つめあうって表現はどうかと思うが、もし眼があったら、多分そうなってるんだろうなとは思う。暫くだんまりを決め込んだが、焦れたのはセルティの方だった。

『それで、何か相談があるんだろう?』
「うん……。あのさ、こんな事は違う奴に聞けとか、そんなこと知らんとか、思うかもしれねえけど……」
『何を言っている。静雄が悩んでいることなら私は何だって聞いてやる』

胸を張りながら力強く言ってくれるセルティに励まされてつい微笑む。言葉を選びながら、とりあえずの状況を説明した。

「羽島幽平って知ってるか?」
『勿論だ。新羅と一緒に応援している子役だな。あの子がどうかしたのか?』

セルティには首が無いから表情が読み取れないが、文面から滲み出るのは、意外。悪い言い方をすれば「そんな事か」で、良い言い方をすれば「臨也関連じゃないのか」という事だ。臨也関連になるのはこれからだが、とりあえず横に置く。

「そう、その子。あいつって何処に住んでるんだろう」
『……な、何か気に入らない事でもあったのか? 自宅にまで殴りこみに行きたいくらいに? もしかして臨也があの子のファンだからだとか?』

まるで勘違いしているセルティを宥める為に俺はそんなんじゃないと笑った。そうだった方がまだマシだと思いながら。

「知らないか?」
『うーん、あの子の自宅なんて考えた事も無かったな。事務所なら判るぞ。“ジャック・オー・ランタン”だ。それにしても、どうして知りたいんだ?』
「あー……」

この事情を知らなきゃ、多分セルティたちは事の大事さを理解してくれないんだろうなあと思い、俺は若干苦笑いしながら「信じてくれよ」と前置きをして、セルティが頷いたのを見てから口を割った。

「羽島幽平って俺の弟なんだ」
『……』

予想通りの反応すぎて笑った。こういう状態だと何を言っても頭に入らないものだから、セルティが何か言うまで待とうと背もたれに身体を預ける。すると、ややあってからセルティがPDAのキーを弾く。ひどく慌てているようだ。

『まっ待て弟だとお前に弟が居たのかそれが羽島幽平だと?』
「まあ……そう。俺も気付いたのは今日なんだけどさ。あいつの本名、平和島幽っていうんだ」

セルティが動揺を現すように、更に何かを打ち込もうとしている時に扉が開き、何故かまだ白衣を着たままタオルで髪を拭いている新羅が入ってきた。

「静雄くんじゃないか、久しぶりだね! 前回会ったのは君が華々しい高校生活をスタートさせて、初日で足を攣った時に治療した以来だね? 君に会えるのは大層嬉しいんだけど、こんな夜に僕とセルティの愛の巣にまで押しかけて一体何の用件だい?」

字面は冷たいが、言い方は実に朗らかだ。別に怒っている訳じゃなくて面白がっているだけだというのに気付くのに俺は何年かかったか。首だけ振り返った俺に対し、セルティはいきなり立ち上がったと思ったらPDAを掲げる。遠くの新羅にも見えるようにフォントがかなり大きい。

『知っていたか新羅! 羽島幽平は静雄の弟なんだぞ!!』

つい一分前に知った事を高々と宣言しているセルティに少しだけ驚く。意外とミーハーなのか? と俺が首を傾げると、新羅は実にけろっとして言った。

「知ってたよ?」
『そうだよな! おろどきだ! ゆうめいじんあがこんな身近な人と知り合いというか兄弟だったなんて私はzつにおどろいtttttt……』

確かに実に驚いているらしい。並んでいる文字が若干支離滅裂なのに苦笑したかったところだが、それよりも新羅の言葉に俺も心底驚いて立ち上がっていた。

「し、知ってた? なんで?」
「君が臨也に拾われる前から、僕と臨也は君の事を知っていたからね。君に平和島幽という実の弟が居ることなんて先刻承知さ。それに三年ほど前に、君自身が臨也に言っていたじゃないか。『俺には幽って弟が居る』って」

そういえばそんな事を言った気がする。その言葉が切欠で俺の左手には一生残りかねない傷が出来たのだが、その場に新羅も居た事をすっかり忘れていた。うっかり納得しかけた俺は違う疑問が脳裏を過ぎった。

「でも、弟が居るのは知っててもそれが羽島幽平だとは限らないじゃねえか」
「うーん。君たち、自覚無いのかもしれないけど、顔そっくりだよ? 瓜二つ。臨也から羽島幽平との関連性を言われなくたって多分疑ったと思うよ」
「ならなんで俺に教えなかったんだよ、俺と羽島が兄弟だって!」
「言わない方が幸せだったんじゃない? 君も臨也も。それに、俺は臨也を敵に回すのは真っ平ごめんだったしね」

若干新羅を舐めていた自分に気付いた。門田と新羅の決定的な違いは此処だ。門田はどちらかというと、俺と臨也を全うな形にさせようと干渉してくるが、新羅は違う。放置しているんじゃなくて、火の粉が飛んでこないように上手く調整しているんだ。だからこいつは俺と臨也にとやかく言わない。何があってもだ。
俺とセルティが唖然としている中で、新羅は少しだけ居心地が悪そうに笑うと、「で、彼がどうしたの?」と流れを切るように発言した。

「私の記憶が正しければ、臨也は幽くんの名前を口にしたら大激怒するんじゃなかったっけ? それともその事でまた喧嘩したの?」
「……幽に会ったんだ。今日出かけたら、偶然会って……。色々あって、俺は幽に会いに行かなきゃいけない」
「……それって本当に偶然かな?」

新羅が何かぼそりと呟いたが、俺が追求する前に塞がれた。

「まあ良いや。でも、会いに行くって言っても、今や彼は芸能人だから簡単には行かないね。昔、診た人の中に事務所の関係者の人が居たから、駄目元で当たってみようか?」
「本当か?」
「期待しないでくれよ」

言いながら新羅は携帯を取り出して何処かに電話し始めた。一旦ソファに腰掛けると、セルティがPDAを俺に向けた。

『その、弟と会う事は、臨也は賛成しているのか?』
「……許可は、取ってない。けど、俺がやらなきゃいけない事だと思うんだ」
『静雄が自主的に何かするなんて珍しいな。応援しているぞ』
「ありがと」
『不謹慎だが、上手くいったらサインを貰ってきてくれ。是非とも!』

もじもじするセルティが面白くて思わず噴き出した。そんな風になればまあ良いんだけど、どうだろうか。
ようやく戻ってきた新羅は何時も通りの笑顔を作ったまま淡々と「とりあえず交渉はしてみたよ」と気軽に告げた。

「本当か」
「まあでも、会わせてくれるかは君次第だけどね」
「どういう事だ?」
「担当っていうか、マネージャーか。うん、その人に会わせてはくれるけど、羽島君に通してくれるかどうかは判らないって事。一応彼らからしたら君は一般人なんだから。身内とはいえね」

新羅の言葉になんとなく違和感を覚える。一緒に暮らしていたのは記憶が無いくらい昔の事で、家族という意識はそれほど強くないから。幽は周りに俺の事を何か話しているのだろうか。話しているなら、どういった事を。どういう気持ちで喋るのだろうか。生き別れた兄について。再会した兄に「弟なんて居ない」と言われたあいつはどう思ったのだろうか。
そこまで考えて、随分思考が幽寄りになっている事にはっとした。俺は幽との問題はどうにか解決したいとは思っているが、臨也と離れたいとは欠片にも思っていない。なんとかなっても、臨也に嫌われるんだったらそこで全部終わりだ。

『静雄? 静雄ー?』
「ん? あ、ごめん、何?」

セルティがずっと俺にPDAを突き付けていたらしいが、音が無いので気付けなかった。セルティはすぐに文章を消すとまた新たな文字を俺に見せてきた。

『もう遅いから今日はうちに泊まっていくと良い』
「でも……」
『臨也には新羅が連絡している。お前だって今からじゃなくて、明日の朝に出かけるんだろう?』
「そうだけど……。……じゃあ、頼めるか?」
『勿論だ』

何処か嬉しそうにセルティが俺を手招きしてテレビの前に座らせる。軽く混乱している俺にコントローラーを渡してきたかと思えば『このステージが難しいから手伝ってくれ。新羅だと一人で勝手にやってしまうから少し腹が立つんだ』という文面が見えて笑った。放っておけば俺が一人で考え込むかもしれないという配慮か、もしくは本気でただゲームを一緒にやりたいだけかもしれない。
セルティの何気ない優しさには何時も癒される。これが終わったら何か礼をしたいな。あからさまに嫉妬の視線を送ってハンカチを噛んでいる新羅の事は都合良く視界から外す事でやり過ごした。



ベッドを提供してくれると言ってくれたが、急な来訪で申し訳無いのでソファで寝させて貰った。自分の部屋とは違う角度から差し込んでくる朝陽に、なんだか昨日今日の行動が全部衝動的で突発的だった事を思い出し今更ながら後悔と恥ずかしさが込み上げてきた。渡りかけた船だからそのまま走るけど。

「うーん……」

思い切り伸びをして、臨也の家とは違う構造のマンションに若干うろたえながら洗面所まで歩く。顔を洗ってから、財布と携帯があるのを確認して玄関まで向かう。迷惑をかけないように早朝に出ようと言う俺の計画だったが、そこまで行く前にセルティとはち合わせた。昨日おやすみと声をかけた時に着ていた寝間着ではなく、見慣れている真っ黒なライダースーツだ。ぎくりと足を止めた俺はおはようというタイミングを見失った。

『勝手に行くつもりだったのか?』

文面は、怒っているというより若干呆れている、と同時に驚いているような感じがしたので、間をとるように俺はとりあえず朝の挨拶を告げた。深夜にシャワーを貸して貰った際に、人様のシャンプーなので何時もとは違う匂いがする髪をなんとなしに撫で付ける。セルティは当然だが新羅もワックスを使わないから整髪料の類が無く、普段は少し浮かせている俺の髪は柔らかく首元まで降りていた。

「うん……まあ、俺の問題だし」
『スタジオの場所も知らないのにか?』

言われて気付いた。セルティは若干、鎌かけだったらしいが俺の眼が見開いたのを見て事実だと認識し肩を竦める。首なしなのに、随分人間らしいな。

『前まで送っていくよ』
「それは悪い。場所だけ教えてくれ」
『複雑だぞ。覚えきれるか』
「なら紙に書いて」
『送った方が早いだろうなあ』
「……お願いします」

素直にぺこりと頭を下げると、セルティは玄関を指差して促す。懐かしい黒バイクを間近に見ていると、低く唸ったので驚いた。よく考えれば、普通じゃないセルティの愛車なんだからそれくらいは当然か。影で作りだしたヘルメットを被ると、勢いよく発進したのでぐっとセルティのお腹辺りに手を回した。昔乗った時にはサイドカーだったから、見える景色も若干違う。朝の通勤時間で寝惚けている人々は、馬のように啼くセルティのバイクに皆驚き、その顔が面白くて思わず笑った。
俺は基本的に行動範囲が限られている。外出だって、有名どころ以外、臨也の家から学校までの道しかほとんど判らない。今までずっと引き籠っていたから、セルティが今走っている所は、本当に同じ池袋なのだろうかという疑問すら湧いてくる。危険なところに行きたがらないのは、遠い昔に化け物呼ばわりされたトラウマが微かにでも残っているから。
注目を集めたくないのか、今までの派手な走行と打って変わって控えめに駐車場に停車したのでよろけながら降りると、俺がヘルメットを差し出してもセルティはPDAを打つ手を休めなかった。

『羽島幽平は午前いっぱいは此処で撮影だというのは公式発表だ。もし何かあったらすぐに呼ぶんだぞ』
「出来るだけ呼ばないように済ませたいけどな」
『私は……本当は気が進まないんだが、静雄は羽島幽平と会ってどうするんだ?』

疑問を残したまま俺を此処に残しておきたくはなかったんだろう。だが、俺自身も何しに此処に来たのかよく判っていないのにセルティに上手く説明出来る気がしない。次第に増えてきた足音が、明るい道路を賑わせるようになってきても俺は黙っていた。太陽が高くなって、セルティの姿を本当の意味で影を作らせるようになっても、ずっと。

「正直、判んねえ」

ありのままを話すと、セルティは肩を震わせて、手を己のヘルメットの方へ持っていった。どうやら笑っているようだ。俺の手からヘルメットを受け取ると、瞬間それは元の影に戻ってセルティの服へ染み込んで行った。

『とりあえずぎくしゃくした関係をどうにかした方が良いな。私には居ないが、兄弟っていいものだ。大事にな』
「……サンキュ」

照れ臭くて軽く手を上げると、セルティは俺の肩を力強く叩き、古風に親指を立ててから、駐車した時の大人しさは別人だったかのように勢いよくアクセルを吹かして外に出て行った。俺よりも化け物に近いセルティ。もしくは化け物そのもののセルティ。俺が彼女に親近感を覚えるように、彼女もまた俺を近しいものだと思って気にかけてくれているのだろうか。
セルティが一緒だとなんとかなるような気がしていたが、ひとりになると一気に無力感に苛まれて俺はとりあえず辺りを見回した。昨夜の打ち合わせじゃ担当者が玄関の前で待っていてくれるんだよな? 闇医者である新羅のコネにいたく感謝しながら俺は玄関とは全く逆方向に歩き出していた事に辿り着くまで気付く事はなかった。



視線って人を驚かせたり、不思議に思わせたり、はたまたどきっとさせる要素があるが、今の俺には間違いなく不快だ。
常人の三倍くらい人見知りが激しい俺は通勤ラッシュのこの時間、入り口近くのガードレールに凭れて時間潰ししている訳だが、平日の朝に私服姿で芸能人が集まる場所をガン見していたら暴動でも起こす気なんじゃないかと警備員に疑われているらしくさっきから俺ばっかり見ている。これは絶対に気のせいじゃない。さっきから数えて137回くらい眼が合ってる。
携帯で時間を確認したがもう9時半になろうとしている。早朝に出たのは全くの無駄足だったらしい。何時まで経ってもそれらしき人物は現れず、臨也が苛立った時によく口にする「あのクソ変態眼鏡」という暴言を吐きそうなところまで不機嫌になっていた。携帯を出して落ち着こうと深呼吸してからボタンをプッシュして、こっそり保存してあったとある留守番を再生させた。

『もしもしシズちゃーん? 授業お疲れ様、そろそろ終わる時間かな? 今日出掛ける事になったからそのまま学校まで迎えに行くから待っててね? じゃあ』

聞くんじゃなかった。ぱたりと携帯を閉じると同時に臨也の家の方向を見やった。臨也に会いたい。もう半日会ってない。生の声も聞いてない。なんか俺、本末転倒な事しているような気がしてきて惨めさが加速するがなんとか抑え込む。
臨也にあいたい。あいたい。いざやに。いざやに、いざやに。

「あー、くそ」

声を吐き出す事でやり過ごす。乱暴に目元を拭って誤魔化していると、ようやく入り口付近に男がひとり現れたがすぐに中に入っていってしまった。違うようだ。
本当にこの時間で合っているのか不安になってきたので新羅に電話しようとしたが、今度は別の男が中から出てきた。周りをきょろきょろ見回している。ひょっとして。
俺がガードレールから腰を上げると同時に男は警備員に何かを言っているらしいが当然だが聞こえない。こっそりと、しかし判りやすく近付くと警備員が目線で促し男が振り返った。

「ああどうもどうも。平和島静雄さん?」
「そう、です」

場違いに明るくしかも物凄く早口だ。こちらが挨拶をする前に男は拍手(かしわで)を打って眉を寄せながら、まるで苦笑いでもするように頬を引き攣らせた。

「ちょっとトラブルがありましてね、えー見ての通り私とても忙しいんです、あと5分くらいしかお時間が取れなくて申し訳ありませんね」
「はあ」

見ての通り、と言われて男の服装を初めて注視するが、何処にでも居そうなサラリーマンが着ているようなもので別にこれで職種が判る訳でもない。今日は特別暑い訳でも無いのに男は汗をかいていて忙しなくハンカチで拭き取っていた。

「ところで御用件は岸谷先生にお伺いしたところー、羽島君についての事だそうですが?」
「あ、はい」

さっきから俺はろくに喋らせて貰っていない事に若干焦りと苛つきを覚えながら、俺も何か言わないとと思って開きかけた口は先方によって閉ざされる。臨也と一緒に子供の頃から色んな企業を見て回ったりしていたから、「相手の話をまず聞く」という習慣が身に染み付いている所為だ。今はこの癖を呪う。

「いやあ彼はまだ幼いのに随分と演技がお上手でしてねえ。最初は話題性だけで盛り上がっていたようなものだったのでこちらとしても嬉しい悲鳴ですよ。えー、で、何の御用でしたっけ?」

殴って良いだろうか。俺は幽の自慢を聞きにきた訳じゃない。それにもう2分は経ってる。あと3分で説明しろってか。3分間スピーチなんて餓鬼の頃に小学校でやった以来だぞおい。

「その、羽島幽平に会いたいんです、けど」

不愉快に眉を吊り上げながらも俺なりに言葉を選んだつもりだった。男はそれを聞いてへらへらと笑いながらまたハンカチを額に当てた。

「昔からですねー、あるんですよ。特にああいう子は他の事務所からも誘いが来ている事が多くてですねえ。変質者とかにも狙われやすくてストーカー被害やそういうキワドイ趣味を持った輩に好意を持たれてしまったり」
「……」
「ですからねー。あの子をプロデュースしてあげるのは俺だーとかそういうお電話も偶にですけど頂くんですね? 貴方はまだお若いですしー。まだ高校生でしょ? 君が関わんなくたって私たちでなんとかするから、ね?」
「……」

俺は色んな企業を見てきた。そしてこういう態度をとる奴も沢山見てきた。えー、つまり、こいつは。

「お引取りください」

俺と幽を会わせる気なんて最初からこれっぽっちもなかった訳だ。ビジネスで使う敬語から高校生の小僧を見下すのに変わったのでよーく判る。とても判る。判りすぎて苦笑も出ない。

「俺は羽島が三流役者になろうがハリウッドスターになろうが全く興味ねえんだよオッサン。だけどあいつに会わなきゃいけねえんだ。俺はあいつの身内だ」
「あー、時代を経る毎に色んな謳い文句や話術がはびこってきてこっちも新人を電話口に立たせる事が出来ないんだよね。でも残念、その手の奴は羽島君の出生が公開された時からちょくちょくあったんだうん。じゃあ」

とどめに汗のしみ込んだハンカチを俺の前でふらふらと振ってから、黄ばんだ歯をにぃっと見せて男は猫背がちな姿勢で再び入り口にUターンしていった。
同時に二人の警備員が俺の前に進行を阻むように立ったのを見て、俺の怒りのメーターは振り切れた。
俺、かなり我慢したよな? 暴言吐かなかったよな? 途中で臨也の名前出して強請ってやる事もしなかったよな? 極めて誠実に対応したよな? そう思うなら俺が今からする行為を応援してくれ。

「お引取りください」

さっきのハゲ(実際は禿げてなかったけど)とは違う声で同じ言葉を言われ、俺は両サイドの肩を掴まれた事で度胸も準備が出来た。がしっとその腕をそれぞれ掴む。かなり体躯の良い二人は、細身の高校生である俺を訝しげに見下ろしていたが、やがて俺が少しずつ力を籠め始めるとその表情に動揺を走らせる。

「な、に」

こいつらの敗因は俺を育てたのは情報屋である折原臨也であるという事を知らなかったという事。そして俺が池袋の喧嘩人形と呼ばれている事を知らなかったという事。特に顔色も変えず、手首の力だけでギリギリと締め上げると痛みを訴え始めた。二人が身を激しく捩り始めたのを見て、俺は既に力が入っていない事を見抜いていた手を思い切り左右に振り払い、勢いよくスタジオに不法侵入を果たした。
やっちまったと思いながら俺は笑っていた。犯罪自慢をする訳じゃないけど、背徳感と高揚感。待ちなさいという叫び声も全部無視して当てずっぽうに目に留まった曲がり角を全部曲がった。かなり広い建物で階段も角も扉も沢山あって迷いそうだ。やがて関係者たちが通路を歩いているのが見えたので走るのをやめる。此処で走り抜けたら不審者丸出しだ。監視カメラなんて気にしていられない。先に幽を見つけられたら俺の勝ち。捕まったら俺の負け。至極簡単だ。
五分ほど歩き続けるが似たような風景に違う観葉植物と簡易椅子が並んでいるだけで、時たま忙しなく他人と擦れ違う程度しか収穫が無い。

「お兄ちゃん?」

俺がきょろきょろと弟を探していると、俺の半分しかない少年が真っ直ぐ俺に近づいてきて、つぶらな瞳で見上げてきた。キッズモデルだろうか、明らかに普通の子供が着る普段着ではない、ゴシック調の衣装を纏っている。

「なんだ?」
「だれかを探してるの?」

何でそう思ったのか判らなかったが、興奮で冷静さと緊張感を欠いていた俺は、膝を屈めて率直に「羽島幽平を知らないか?」と訊ねた。

「幽平くんなら第二スタジオだよ。僕、隣のスタジオだったから」
「そうか、ありがとう。どっちに行けば良いんだ?」
「あっち!」

少年が元気よく指したのは俺が今来た方向だった。軽くお礼を言おうと目線を元に戻すと、何故かとてもはしゃいでいるように見えてその頭をくしゃりと撫でた。

「なんか嬉しい事でもあったのか」
「うん! だって僕、これで次の表紙だよ!」

若干何を言ったのか判らなかったが、首を傾げながらも手早く手を振ってその場を去る。途中で別の警備員に見つかった瞬間「居たぞ!」と叫ばれたお陰で随分と事は大きくなってしまったんだなと冷や汗をかいた。あのハゲからしたら俺は羽島幽平に対してちょっとキワドイ趣味を持った不審者だからな。実の弟に何しようってんだ。
もっと詳しく道を聞けば良かったと今更後悔しながら歩調を緩めるどっかに案内板でも無いかなと思っていると早速また見つかって走り出した。俺が圧倒的に不利な鬼ごっこだ。この分じゃ出入り口もシャットアウトされているのかもな、と思うとこのままじゃ俺は犯罪者だ。臨也怒るかな。前科持ちでも愛してくれるかな。臨也はそういうの無頓着っぽいけど。まああいつ自身が犯罪者だから良いか。退学になったらまた四六時中一緒に居られるし。それはそれで美味しい。
そこかしこに貼ってあるアイドルのポスター。幽のものは無かったけど、どうしてあいつはこの仕事を選んだのだろう。幽を引き取ったのが誰なのか俺は知らない。だけど、おぼろげな記憶で、迎えに来たのは確か黒塗りの車だったはず。子供の眼から見ても、一目で高級車と判る。まあ、今はそんな事考えている暇じゃないと、左角と真正面から警備員に鉢合わせした現実で思い知った。二歩後ずさってから全力で走り出す。相手もプロだからか、俺が焦って体力を使ったからか、このままじゃ追いつかれる。こういう時に都合よく幽は現れないものだろうか。無理か。

「っ……」
「きゃ!?」

慌てて曲がった所為ですぐそこに居た小柄な女性ともろにぶつかってしまう。普段の俺だったら手を取って起こしていただろうが生憎そんな余裕は無い。

「ご、ごめん」

詫びてすぐに走り出そうとしたが、女性は右手に持っていた携帯の画面と俺を何故か見比べるように交互に視線を投げ、勢いよく立ち上がったと思ったら俺の腕を掴んで部屋に引きずり込んだ。投げ飛ばすように中に入れらればたりと扉が閉められる。閉じ込められたのかと思って慌てて扉を蹴破ろうとしたが、すぐ傍にある警備員の足音が止まったのでつい自分の動きも止めてしまった。って、……あれ? 今、俺、この細腕に投げられた?

「聖辺さん、こっちに金髪の男性が来ませんでしたか?」
「は、はい。来ました」

か細い声でそう答えているのが聞こえ、何人もの男が雪崩れ込んできても対応出来るように身構えた。だが、

「そのまま、凄い勢いで、向こうに走っていきました……」
「ありがとうございます!」
「……!?」

なんだ? 庇われたのか? 足音が聞こえなくなってから、控えめに扉が開いた。膝をついてまるでクラウチングスタートの用意でもしているように睨み付けている俺を見て小さく息を呑む。
流石に怖いかと思い、混乱の中で申し訳なさが襲ったので目線を落としながらもう一度「ごめん」と言った。

「なんで助けてくれたんだ?」
「えっと……す、すみません、ご迷惑でしたら……」

何故か深々と頭を下げられたので慌てて両手を振る。男ならまだしも、臨也にしか興味が無い俺でも思考の片隅で可愛いなと思うくらいの美女だ。なんだかその声に聞き覚えがあるような気がしたがすぐに浮かばない。此処に居るのは全員芸能人みたいなものだからテレビで聞いたのかもしれない。

「あんたは……いや良いや。それより、助けてくれたついでに羽島幽平の居場所を教えてくれ」

こんな切羽詰った言い方じゃまるで脅しているみたいだ。内容も脅迫染みてる。怖がって悲鳴をあげるかと思ったが、彼女は握った手を口元にやって少し驚いた顔をした。

「あの……」
「は?」
「……羽島さんの、お兄さん?」
「っ!」

これ以上に驚くどっきりは他に無いだろう。俺が眼を見開いたのを肯定と受け取ったのか、女は背筋を伸ばして深呼吸した。

「わ、私、聖辺ルリって言います。羽島さんとは、あの人が引っ越してきた頃からの知り合いで……父親ぐるみのお付き合いだったんです。羽島さんの本名も知ってます。確か、平和島、」
「幽。……あいつはあんたに、俺の事を喋ったのか?」
「はい。小さい時に。それで昨日、羽島さんに何年ぶりかでお兄さんに会ったって聞いたんです。でも、でも、別人みたいだったって……」

幽が引き取った先はひょっとして彼女の関係者だったのだろうか。だから、役者になった。養父養母が金持ちだったのは芸能関係の職だったから、だろうか?
俺が過程を推測している間、聖辺は落ち着かないように携帯をちらちら見ていた。通報する様子は無さそうだ、むしろ突き出すならさっき絶好の機会があったのだから。知人の兄だからって助けるなんて、あれ?

「なんで俺の事……顔を知っているのか?」
「え?」

聖辺はかなり動揺したように携帯を取り落としそうになった。映っていたのは待ち受けでもメールでもなかったが遠いのでよく判らない。俺が眉を顰めたのを見た彼女は見る見るうちに青ざめたので何か失言でも言ったかと不安になったが、今の俺には一分一秒が惜しいのでもう一度聞いた。

「幽は何処に居る? あんたには迷惑かけないから教えてくれ」
「あ……えっと……。この時間だともう撮影も終わるだろうから控え室だと思うよ。……っ、って!」

そこでまた携帯を見つめる。まるで台本でも読むような口調に首を傾げたが、立ち上がった俺は場所を聞いて扉を開ける。慎重に人の気配が無いかどうか探ると、そのまま部屋を出た。

「あ、あの!」
「……?」
「お名前は……?」
「……平和島、静雄。すげえ世話になった。落ち着いたら礼をさせてくれ」
「い、いえお礼なんて! 気をつけてくださいね」

半分聞き流して俺は走り出した。すぐに聖辺がぎゅっと握り締めていた携帯を開いてボタンを何個か慌てたように押した。

「あの……これで、良かったですか?」

何処かに通話しているのをなんとなく感じながら俺には関係ないと幽の元へ急ぐ。ひょっとしたら、幽が目当てだと既に言ってしまったから、もう保護されているかもしれない。そうなったらかなり厄介だ。焦燥感に駆られていた俺は背後から近づいて来た気配に気付けず、首に後ろから腕を回されてやっと捕まった事を理解した。

「見つけました! 見つけましたよ!」

耳元で若い男の声が叫ぶ。俺は不法侵入者だからか、相手も容赦してこない。ぎりりと締め上げられて声も出せず苦しくなる。そのまま何人もの警備員に取り押さえられ手錠がちらついた時には全力で暴れた。本気を出せば恐らく全員を蹴散らせる。でも、怪我をさせずに、出来るだろうか。人を傷付けるのは、特に喧嘩を吹っかけてきた訳でもない善良な人に手を上げる事は、……。
迷いが仇となり警察まで現れてしまった。がやがやと役者や関係者が遠巻きに見ている中を必死に探すと、その中に、ずっと探し続けた幽が居るのに気がついた。眼を見開く。やっと、やっと見つけた。

「か、……かす、か」

大声が出せない。なんとか幽に気付かせないと。俺は首に腕を回している男の腕を強引に引っぺがし、一瞬呼吸出来た隙をついて、まるでお祭り騒ぎみたいに騒がしい中心ではっきりと叫ぶ。

「っすか、幽! 幽ぁ!」

不意に自分の本名を呼ばれてぎくっとした幽は、恐る恐るといった体で近付いて来た。すぐに婦警と思われる女性が牽制していたが力強く振り払っている。信じられないものを見ているような眼を覚まさせる為に、もう一度。

「幽!!」
「にい、さん」

幽の口が確かにそう綴った。はっとした弟は騒ぎの中心に向かって走り出し、怒声に負けない大声で「やめてください!」と叫んだ。何時も無口な幽の叫び声なんて聞いた事が無い。俺は驚いて動きを止めたが周りはそうじゃない。すると幽は天井の低い廊下に反響するぐらいの、さっきの比じゃない大声を放った。

「やめろ! やめて!」

一体何処からそんな声を出したのか、周りが驚いて幽に視線を向けると、幽はすぐさま俺に駆け寄って拘束を解かせようとしている。混乱している周りに事態を収拾させようとしたのか、

「この人は僕の身内です、僕に用があって来たんです。悪い人じゃありません」

と叫んだ。そんな幽に慌てて近付いて来たのは、あのハゲだった。こいつマネージャーだったのか?

「羽島君何を言ってるんだ」
「チーフ、僕に面会したがっていた人を追い払ったって、僕の兄に向かって、どうして!」

本当は「よくもそんな事を」と言いたかったのだろう。なんとなくそう思った。幽の言葉で、また周りが騒ぎ出し始める。俺の周りから警備員が退くと、幽は俺をじっと見つめた。昨日あんな別れ方をしたのに。ばつが悪くなって、逸らしたかったが、俺も見つめ続けた。幽は激情が少しずつ収まってきたのか、俺の手を取ると役者がたくさん居る方へ歩き出した。

「か、幽?」
「俺の楽屋に行こう」

周りが道を開けていく。その中には聖辺も居て、俺を見てほっと胸を撫で下ろしたような顔をしてくれたので軽く会釈する。暫く歩くと楽屋らしき場所に連れられたので、中に入るとパイプ椅子と机が並んだ質素な部屋が出迎えた。
ぱたんと扉を閉めた弟に名前を呼びかける前にいきなり抱き付かれた。まだトラウマが残っているし、正直怖い。だけど昨日電話口に声を沢山聞いたお陰か、昨日ほど拒絶反応は出なかった。慣れだろうか、すっかり固まった俺に幽は暫く何も言わなかったが、ようやく顔を上げるとぽそりと呟く。昨日初めて羽島幽平としての幽を見た時、まるで機械みたいな奴だと思った。だけど今は、本当に、単なる人間だ。

「帰ってきてくれたの」
「……?」
「そうでしょ? だって、此処に居る。あの人に俺、言ったんだ。俺に兄貴を返してくださいって」

幽からすれば、そういう事になるのだろうか? うっかり流されそうになった俺は慌てて首を横に振った。

「い、いや、そうじゃなくて。俺は……お前と、ただ、話がしたくて」
「話? 話だけ? こんな、俺が見つけなかったら今頃犯罪者になっていたかもしれない危険を冒して俺にお話する為だけに来たの?」

棘のある言い方に理解が追いつかない。こいつは何を怒っているんだろう。とりあえずさっきのハ……マネージャーの時の二の舞にならないよう俺は先手を打つ事にした。

「お前との事は、俺がなんとかしないとと思ったんだ。だって、俺は、その、……お前の兄貴、なんだし」
「……なんとか、って。帰ってきて、くれたんじゃないの? 違うの?」

俺の服をぎゅうと握って、まるで縋るような目線を向けてくる。訳が判らなくなり、そして臨也に植えつけられた幽への恐怖心も手伝って一歩後ずさっていた。

「帰るって……。お前には住んでいる所があるだろ? 俺にだって」
「俺は兄さんと一緒に暮らしたいんだ!」

握られていただけの服が思い切り引かれる。混乱の中、俺が幽の立場だったら、……いや考えられない。じゃあ、俺と臨也との関係に置き換えたら? 俺は、臨也と、一緒に暮らしたい。……そういう事か。

「な、なんでだ?」
「なんでって……兄さんは俺と暮らしたくないの?」
「だって俺は臨也と……」

おろおろしながら言った言葉が、幽の逆鱗に触れたのか。昨日、電話で弟が臨也と言い合いをしていた事をすっかり忘れていた俺は幽の眼光に動けなくなる。

「どうしてあの人が良いの? あの人は普通じゃない。ちょっと話しただけだけど、なんか、理屈じゃなくて、言葉でも言い表しにくいけどあの人は危険なんだ」
「……」

普段なら、例えば紀田がこんな事を言い出していたらすぐさま殴り飛ばしていた。だけど、実弟という立場か、幽の言葉は凄くすんなり入ってくる。元々、臨也の目論見をほんの欠片でも知ってしまった俺は、何時もみたいに臨也を盲信していながら、言葉も出てこなかった。

「あの人に恩でもあるの? 今まであの人に育てて貰ったから? 兄貴はあの人の何処が好きなの? 何を信じられるの?」
「っ、いざや、は」

感覚が麻痺していた俺でも、ぎゅっと拳を握った。臨也の真意がなんだっていうんだ。俺は臨也が好きだし、死ぬまで一緒に居たいと思う。それ以外に何も要らない。必要ない。それを弟だからって、幽だからって、臨也を否定するなら。

「俺を愛してくれる」
「……え……?」

何故か幽がぽかんと口を開いたのを見て、心に醜い感情が芽生える。してやったり、とでも言うのか。

「臨也はこんな俺でも愛してくれる。守ってくれるし傍に居てくれる。お前が、お前が一人だけ引き取られて俺が孤独になって、死にたいとすら思った俺を拾ってくれた。俺が怖くて寝れない時は一晩中起きてて手を握ってくれた。それを、それを、お前はなんだよ。お前は俺を怖がって、一人で俺から離れた癖に。臨也を悪く言うな」
「っ!」

こんな事、心にも思っていなかったはず。いや、思っていたのかもしれないが、もう忘れてしまっていた感情だった。そんな辛く悲しく、押し潰されそうな悲劇は臨也が癒してくれたし忘れさせてくれた。今になっては臨也に会えたんだからどうでも良い事だった。俺を捨てて一人で裕福な家庭に引き取られた弟なんて忘れていた。それを今更になって思い出させるなんて。
俺の中にもたげた臨也への深い愛情と感謝。だけど、俺が幽に思っているのはなんだろう。小さい頃の、郷愁。そう、そうだ。

「臨也は昔の俺も今の俺も大切にしてくれて、何時も一緒に居てくれる……。だけど、お前はもう、俺にとっての過去だ」

不貞腐れたようにぎろりと睨むと、幽は震える手で俺への拘束を解いた。それから役者とは思えないくらい、情けなくてよろけた声を発す。

「それ……本心?」
「……」

打ちのめされたような顔をした弟を見て、少しだけ罪悪感が沸いてきた俺はふいと視線を外した。このまま帰りたい。そう思った所で、俺は此処に来た理由はそんな事じゃないとふと思い出した。

「ごめん。……言い過ぎた」
「……俺もごめん。兄さんを育ててくれた人を悪く言った」

今の台詞はとても人形っぽかった。元から無口だったけど、こんなになってしまうなんて、幽は引き取られてからどうやって過ごしたんだろう。ひょっとしたら、俺以上に孤独な環境、だったのだろうか。思わず口を噤んで、閉ざしてしまうくらいに。俺は握っていた拳の合わせを緩めてから、真っ直ぐに弟を見た。

「幽」
「……?」
「一緒に、住む事は、出来ねえけど……。もし、……お前がこれから、今までの分も俺と、兄としての俺と会いたいって言うなら、拒否しない。お前は臨也以外じゃ、俺の残った、家族だから。それは間違いない。から」
「俺と臨也さん、どっちが好き? 判ってるけど聞かせて欲しい」
「……。ごめん」
「良いから」
「……臨也」

これだけは、どれだけ詰まれても譲れない事だった。恐らく一生変わらない事なのだろう。俺にとって、臨也以上の人が現れる事なんて絶対に無い。俺はそれだけ、俺という存在が持てる愛情の全部を臨也に向けていた。臨也の色彩が好き。白くて綺麗でバランスの良い手足が好き。きちんと整えられた爪先が好き。温かくて優しい匂いが好き。臨也が好き。臨也が、臨也の全部が、俺は好き。臨也を嫌いになって憎むくらいなら潔く死んでやる。

「兄さんの一番は、臨也さんなんだね。……悔しいな、ずっと兄貴の一番は、俺だと思ってた。から」
「……幽」
「俺の事は好き?」
「ああ。さっきは本当にごめん。お前だって、俺と引き離されて辛かったのに。最後までお前が嫌がってたの、忘れてた……」
「うん」

幽は初めて笑みを作った。とてもぎこちなく、すぐに崩れてしまったくらいの、人が作ったものを。俺も笑いかけて昔より低い位置にある気がする頭を撫でると、自然な動作でパイプ椅子に腰掛けた。

「少し時間があるから、ちょっと話しようよ」
「ん? 何だ?」
「兄さん、三年くらい前に、喫茶店のおばさんに会わなかった?」
「そんな昔の事覚えてる訳……ん? さんねん……って、あ、ひょっとして臨也が風邪引いた日か?」
「それは判らないけど」
「俺の事、多分外人だと思ったんだあの人。だって俺が喋ったら驚いた」
「違うよ。振り向いた兄さんが俺と顔がそっくりだったのに驚いたんだよ。あのおばさん、俺がよく食べてたパンを売ってるおばさんで顔見知りだったんだ」
「……え、それ、マジ?」
「本当本当。おばさんも不思議がってさりげなく兄さんの名前と家族について聞いて俺に伝えてきたんだよ。兄さんが池袋に居るって直感で思って、それから池袋で目立つ仕事すれば見つかるかなと思ったんだ」
「あのおばさんが……やっべえ、そんな事もう忘れてた」
  「可笑しいとは思ったんだけどね。池袋の中学校を日替わりで見張ってたのに、兄さんは出てこなかった」
      「……あの時は色々あって学校行ってなかったんだ」
           「本当? ……母さんが毎日休まず学校に行きなさいって言ってたのに。まさか」
                「い、いや、今はちゃんと通ってる。頭悪いけど」
                      「嘘じゃないよね?」
                            「嘘じゃねえ」
                                 「ふうん」
                                    「信じてねえだろ」
                                       「信じてるよ」
                                          「……そう」



結局幽の所を出たのは午後も遅い時間だった。昼食も取らずにお互いの離れていた頃の情報交換が主で、喋りすぎて喉が痛い。スタジオを出ようとするとマスコミがごった返していたのでぎょっとしてから後戻りし、こっそり裏口からタクシーを拾った。本当はセルティに迎えに来て貰おうと思ったんだが、俺+首なしライダーじゃ目立ち過ぎる。
何十時間ぶりに臨也のマンションを見上げた時は、やっと帰ってきた、という心境と疲労で頭がいっぱいだった。今になって黙って出てきた事を咎められるかもしれないと恐怖が襲ってくる。その事で、捨てられたらどうしようとまで考えるが、所詮時間は戻れないので考えても無駄だ。
チャイムは鳴らさず、ロックを外してゆっくりとエントランスに入る。エレベーターのボタンを押したがどれも上の階で止まっていてすぐには来なさそうだったので、俺は今日何度目かの全力疾走で階段を駆け上がった。何十、何百、何千かもしれない、そんな途方も無い数。早く、早く臨也に会いたい。怒られるのは後にして。辿り着いた時にはすっかり息が上がっていて、膝も煩く悲鳴をあげているくらいだった。

「……」

珍しく鍵がかかっていたので、財布の中からカードキーを出して差し込む。静かに俺を迎え入れた懐かしい自宅を見回し、臨也の気配を探る。俺だけが持つ独特の世界を侵す音。その方向に、必ず臨也は居る。事務所の方、何時も臨也が座っている肘掛け椅子辺りから感じられて真っ直ぐに向かう。仕事中だろうかと慎重に扉を開け、隙間から中を覗くと臨也はパソコンに向かいながら誰かと電話していた。

「ええ、勿論……なんでしたら契約中は優先させるように進言しておきます。……はい。受け賜りました、では、そのように」

臨也は受話器を置くと今度は違う場所にかけ始めた。横顔だからよく判らないが、どうも疲れている様子なのでちくりと胸が痛んだ。

「……ああ、こんばんは。情報屋の折原です。首尾よく運んでくれたようですね。いえいえ、そちらの功績ですよ。ご所望はお父上の……でしたよね? ええすぐにでも。……安心してください聖辺さん。私は金の上での交渉には忠実です」

眼を見開く。疲れを隠した臨也の声が、はっきりとあの女性の名前を紡いだ。臨也と聖辺は知り合いだったのだろうか? いや、最初に情報屋の折原、って名乗ったから、依頼人とか? それに父親の……って、家族ぐるみで幽と付き合いがあったんじゃなかったのか? 幽が引き取られた先が聖辺の近所……それは俺の推測だけど。
俺が色々考えている中、臨也は空で暗記しているようにまた別の電話を取った。

「おやそちらからお電話をくださるとは。……え? ああ。だから言ったでしょう、悪巧みは程ほどにしないとって。貴方の首が飛ぼうが繋がろうが私は干渉しないと。まあ羽島君も貴方の事はお気に召していなかったようですし、今更貴方の不正がバレた所で心を痛めるような事はしないでしょう。私の忠告はお聞き入れてくださらなかったのですね。……まあ、今日貴方を首にする原因を作った子、俺のものなんですよね。そういう意味で、運が無かったという事で。次の職探しには協力して差し上げますよ」

直感した。臨也が話しているのは今日俺が接触した人間だ。
なんで、と一瞬思ったが、考えればすぐ判る事だ。つまり臨也は、俺がきちんと出来るように、影で手伝ってくれたと、言うこと。会話の内容から察したのはその答え。臨也はやっぱり正しい。机に積まれている膨大な資料は、全部、俺が今日を生きる為に集めてくれた情報だろうか。
臨也が余裕を装った電話を一方的に切ると、すぐに臨也はふうと息を吐いた。我慢出来なくなって、扉を開けて中に入ると、俺に気付かなかったのか臨也が俺を見て眼を見開いた。かける言葉が見つからなかった俺は、至極普通な言葉を、何時も通りに発音した。

「た、ただいま」

行き先も告げずに、勝手に外に出た事は怒られるだろうな。叱られるのをあらかじめ覚悟しておくと、その後の行動は割と勢いよく出来るものだ。
小走りに臨也の方に近付いて、テストで満点が取れた子供のようにあどけない表情で、俺は小声で囁いた。

「終わらせて、きた。から。臨也はなんにも心配しなくて良い」
「……」

近くで見ると、臨也の目元には隠しきれない疲労の色があって、俺が居ない間どれだけ頑張ってくれたんだろうかと思うと申し訳なさでいっぱいになる。

「……これだけ心配かけといてさ」
「っ、そう、ごめん」
「今更心配するなっていうのは無いんじゃない?」

呆れたように笑った臨也は椅子から立ち上がりながら「これからも心配し続けるよ、シズちゃんの事はね」と歌うように言った。

「怒ってないから顔上げて」
「う……」
「ずっと頑張ったシズちゃんに言う練習してたんだから」

なんの事かと思い、思わず下げていた目線を戻す。すると臨也は何時もと同じかそれ以上に柔らかく笑って、一言。


「おかえり」


広げられた腕に、考える暇もなく俺は飛び込み、抱き着いていた。やっと、此処が俺の、帰る場所。

「臨也、臨也ぁ……」

緊張の糸が切れて俺はぼろぼろと泣き出してしまった。この温もりが欲しかった。俺だけのものが欲しかった。臨也は俺の唯一なんだ。

「おかえりシズちゃん。ずっと、ずっと待ってたよ……?」
「う、っぐ、……いざや、ざやっ……俺、臨也が、すきだ……今日、改めてそう、思ったんだっ……」

俺の唯一にして、俺の絶対。俺は臨也無しじゃ生きられない。臨也が此処に居てくれる事が、俺が生きられる力になる。臨也が出て行った時は俺が待って、俺が出て行った時は臨也が待っていてくれる。それがこんなにも強くて美しいものなのだと、これは今日、臨也が教えてくれた事だ。一緒には居なかったけど、臨也の意思が反映されて今日の結果に結びついた。俺の中では揺ぎ無いすべてだ。

「臨也好きだ、大好きだ……!」

痛む喉もどうでも良くて、ただ触れるだけのキスを何度も重ねる。臨也とこれだけ離れると、俺はその分飢えてしまうんだ。

「大好きだよ、俺も。俺のシズちゃん……ずっと抱き締めてあげるから、シズちゃんも、離れないで?」
「ん……ぅ、ん……! いぁ、や、いざ、臨也……」

俺が出来ない事を臨也が補ってくれる。臨也が出来ない事を俺は助ける。そうやっていけば、臨也と一緒に、ずっと居られるだろうか。臨也と迎えられない終わりは、俺が、壊すだけ。

「ね、シズちゃん」
「……なんだ?」
「俺疲れちゃったからちょっと寝たいな。久しぶりに一緒に寝よ?」
「ん……良いよ」

早朝に活動し始めた事も、人様の家で寝た事もあって俺は既に眠たかったので、臨也に抱えられた後もこくりと頷いた。ああ、このまま本気で寝入ってしまうかもしれない。朝も昼も何も食べていないのに。
まあでも、多分。胃よりも先にこの枯渇した愛情を埋める食事をする羽目になりそうなのは、誘いに頷いた時点で覚悟していたけど。
そこで、俺の戻ってきた日常に加えられたスパイスが震える。

ポケットに突っ込んだままだった携帯が、静かに「平和島幽」からの着信を知らせた。


寂しがりやの僕に、噎せ返るくらいの愛をちょうだ

病欲派生 「終壊」