臨也が寝ていた俺に着せていたのは自分の着物らしいが、身長差がかなりある所為で歩くとどうしても引き摺ってしまう。しかも今まで俺が着ていたような奴じゃなくてとても高価そうな生地に刺繍が施されてあって、むき出しの土の上で米を炊く時は襷がけにするのも憚られるので、必死に持ち上げて作業していた。汚すまいと汗をかくくらいに躍起になって、それって逆効果な気がするなあと思いながら洗い物を済ませた後に限界なので着替えさせて欲しいというと臨也は不思議そうに首を傾げた。
「それ気に入らない? シズちゃんに似合うかなと思ったんだけど」
「いやその……もっと、普通ので良いんだ。汚さないようにするのすっげえ疲れるから……」
汚しても良いのにー、と間延びした声にこいつは俺と違って随分と裕福な暮らしをしてるんだという思いで若干惨めになった。妖と人間にも貧富の差はあるんだな。臨也が引き出しの中からきちんと畳まれた着物を選んでるのを見つめながら、立派な建物であるにも関わらず少し汚れているのが気になった。畳の上には綿埃が舞っているし天井の隅には蜘蛛の巣が張ってある。部屋自体も陰鬱な雰囲気で畳は何処か湿っているような感じがした。
「これとか?」
差し出したそれはどう見ても貴族が着ているような礼服で冗談じゃないと俺は激しく首を左右に振った。悪いと思いながら覗き込むとどれも似たような高価なものばかりで眩暈がした。それから訪問着やら付け下げやらを畳に広げていくので、俺は臨也と平行して畳む作業に追われた。
「じゃあどんなのが良いの?」
「俺らが着るようなのねーのかよ! 作務衣で良いから」
「そんなの無い。あ、じゃあ」
臨也は奥の引き出しから、他と比べるとまだ地味に見える洒落着を出した。ただしやはり臨也の大きさなのか、そのまま着たらまた俺は苦悩する事になるだろう。察してくれたのか、臨也は一先ず広げてから、おもむろに鋏で布を裁ち始めた。
「おい!?」
「ぴったりの奴は後で買おう」
勿体無いと思いながら臨也はすぱっと綺麗に裁ってしまった。かなり丈が短くなって俺が普段着ているのと大差なくなった。こいつと同じ常識で物事を考えたら自分の頭は吹っ飛びそうだと思った俺は、臨也に針と糸を借りて解れを縫い直してから袖を通した。全体的に大きいが不快という程ではない。散らかした他の着物を仕舞ってから臨也は俺を手招きして外に出る。大分身軽になった俺はぱたぱたと後をついていくと、「出掛けるよ」という声に眼を丸くした。
「何処に?」
「つけば判る。お買い物も兼ねてね」
こんな森の奥から訪ねるような場所でもあるのだろうか。妖でも出掛けるんだなと変に感心した俺は草履を履く時間も惜しく急いで臨也についていった。
臨也が住んでいた社は木々の隙間から木漏れ日が差し込んで暖かかったが、一歩外れるとすぐに昼だというのに真っ暗になって怖くなってきた。もうすぐ冬だという事も関係なくぶるりと背筋を震わせた俺は、この帰らずの森の中で唯一の味方である臨也から出来るだけ離れまいと少し距離を縮めた。一連の動作は臨也の背後で行ったのに、狩衣に隠された臨也の右手が差し出されて、逡巡したが素直に握ると安心出来た。何処に行くんだろうな、という疑問は5分も歩かずに辿り着いた湖を見つけて振り払った。此処で臨也と会ったんだ。
「此処は……?」
俺の問いに臨也は答えなかった。何か小声で囁いたかと思ったら、余りにも前触れ無く目の前に船が現れた。突然の事に悲鳴も出なかった俺に対し当たり前のようにそれに乗り込むと、臨也は一度離した手をまた俺に差し出した。笑っている臨也に真意が掴めない俺は操られたようにふらふらと船に足をつけた。体重を受けてゆらゆら傾くそれは、漆塗りで見た事もないくらい綺麗なもの。腰をつけたら、漕ぎ手も居ないのに勝手に動き出してそろそろ俺の心臓は握り潰されそうだ。
「驚いてる?」
「判ってるならもうちょっと気を使って欲しい……でも、なんか、わくわくする」
「はは。俺たちからすれば人の技術力を身に付けたいものだね。妖力を奪われたら俺たち本当に何も出来なくなるから。ひとつの力に頼りすぎた種族だから」
寛ぐようにぐっと背筋を伸ばした臨也は、少し距離の開いた位置に座る俺を笑ったままじっと見つめる。臨也に見つめられるのは、ちょっと苦手かもしれない。
「着くまで暇だから、シズちゃんについて色々聞きたいなあ」
「俺?」
「ああでもそれじゃ不公平か。じゃあ、交互に質問しようよ。最初はシズちゃんからね。なんでも聞いて」
俺がただ丸い湖だと思っていたそこは、一本だけ、茂る木の葉によって見えないくらい暗い水路があった。そこに向かって進むと、まるで四方全部が星空みたいに真っ暗で、きらきらと何かが輝いていた。驚いて手を伸ばすと、葉っぱの感触が指を切ったのでちゃんと此処は森らしいが、視覚が可笑しくなったのだろうか。人の手が及ばない深淵の謎に、俺は少し考えてから口を開いた。
「なんで俺を殺さないんだ?」
「またそれか」
口ぶりはうんざりしているようだが、顔は心底楽しそうで不思議だった。もぞもぞと親指同士を擦り合わせて「だって意味判んねえから」と呟くと臨也は気楽に足を組んだ。
「俺はね、シズちゃんを殺すよりももっと楽しい事を思いついたんだよ。遊びたいんだ」
「退屈なのか、妖って」
「とても暇だよ。さっきも言ったけど、妖には技術なんてものはない、何かを生み出すという事は出来ないんだ。何も生まれないから、それを好んでする奴なんて滅多に居ない。俺の知り合いだと変な医者が一人だけ。ただでたらめに長い寿命を好き勝手に過ごすのさ」
「臨也は俺が来る前は何をしてたんだ?」
「質問は二個目だから、後でね。次は俺の質問」
真っ暗な中でも臨也の赤い眼だけはまるで別の生き物みたいに光っていて、俺の眼球が赤で潰されそうだ。臨也は少し考える素振りを見せてから笑いながら問う。
「シズちゃんの家族の事、教えてよ」
「家族……。両親と弟。でも、母さんの方は、最近ちょっと病気がちだった」
「流行り病かな?」
「多分。医者に見せる金なんか無かったし、そもそも医者の所に行くまで、母さんの体力が持つか判らなかったから……。食べる物も無かった」
「家族ってそれだけ? 祖父母とか」
「祖父は知らないけど、祖母は俺が……うーん、七つくらいの時に死んだ。あんまり覚えてない」
わざわざ聞きたい事があると言って始まった質問の往来なのに、一番最初に聞くのは俺以外の事なんだなと思うと、ふと考えが過ぎって俺は二個目の質問を消費してしまった。
「臨也は、家族とか居るのか?」
「まあね。妹が居るよ、二人」
「妖にも兄妹って居るんだ。どんなの? やっぱり狐?」
「人で言う所の腹違いだけどね。俺以上に俗世に興味がある姦しい二人だよ」
臨也がおもむろに指をぱちんと鳴らすと、火の球が俺の傍を二つ、ふわりと浮かんだ。程よく暖かくて明るくなり、周囲の星みたいな光が消えた。
「シズちゃんは人間が好き?」
「なんだそれ。……なんか人間って分類されると、変な感じするけど……好き」
「じゃあシズちゃんを俺に捧げた村の大人は?」
「……好きじゃない。だって、最初は俺じゃなくて弟にしようとしたから。そりゃ、どうしようもなかったから仕方なく子供を……」
「違うよ」
光のお陰で、臨也の白い顔が仄かに照らされる。面白いものを見るような、ぞくぞくと快楽に打ち震えているような笑顔を浮かべている。余りに人間らしい顔にぞっとしたのは俺自身。
「村の大人は最初からシズちゃんを殺そうとしていたんだよ」
「っ……違う、最初は幽を」
「仕向けただけさ。不思議に思わなかった? 君が愛する弟を救おうと名乗り出た時、どうして大人はすぐに君に照準を変えたの?」
「……」
その事を考えなかった訳じゃない。だけど答えなんてどうせ見つからなくて、幽が助かれば良いや、と思って蓋をした疑問だった。意味が判らなくて眉を潜めた俺に、臨也はその眼を細めて意地悪く唇を吊り上げた。
「答えはとても簡単だよ。もし、最初から君を生贄にすると宣言していたら、君は嫌がるだろう? 君には怪力があってちょっと短気みたいだから、拒否して暴れられたら元も子もない。でも、君の弟を仮初の犠牲に選ぶ事で、君の良心を利用したのさ。優しい君はこう考えるだろう、“俺の所為でカスカを殺す訳にはいかない、代わりに俺が”って。あたかも自分から犠牲を好んで選んだと錯覚させる事で、村人は見事に君を村から追い出して排除する事に成功したんだ」
なんだ、それ。と。言えたら楽だったかもしれない。
あいつらは、俺の気持ちを踏み台にしたというのか。
「気付かなかったんだ? 可哀想なシズちゃん。厄介払いして、しかも村は豊かに作物を作れる。一石二鳥を狙った。なんて卑しくて醜い生き物だろうね、人は。己の利益の為なら君みたいな幼い命を犠牲にする事に心を痛めない種族。あははは。……それでも君は人間が好き?」
臨也とは出会ってたったの二日だというのに、俺の心も性格も全部把握しているような言葉を持って攻撃してくる。心を、抉られる。残酷すぎる真実にまた俺は寒さとは無関係に身体が震えた。
俺は村に貢献したんじゃない。俺は、人間に裏切られたんだ。
「っ、お、れ」
「うん?」
「なん、どうし……でも、……俺、どうやって、生きれば良い……?」
言葉は支離滅裂だった。気持ちも追いつかなかった。愚かな俺は自らを絶望に追いやった原因を恨み、それを思い知らせた目の前の男に縋っていた。臨也の言葉が嘘だろうと本当だろうと、俺はもう、戻れない。
ギシ、と船がやや傾く。目線を上げると、臨也が立ち上がっていた。ほんの数歩の距離を跨いで、項垂れる俺の目の前に跪く。
「泣かないでシズちゃん」
伸びてきた臨也の両手が俺の頬を包む。こいつの言葉に、慰めるなんて響きは全く感じなかった。己の言葉で壊れる子供を心底蔑んで、愛おしく思っているような顔をしていた。ああ、この手は、この声は、何時か俺を狂わせるのだろう。今から、そんな予感がした。
それでも俺はこの手を取らなきゃ、生きていけない。
「臨也も」
「なに?」
「暇潰しが終わったら、理由をつけて俺を捨てるんだろ……」
臨也の眼が、とても嬉しそうに輝いた。
「そんな人間みたいな事はしないよ」
「だって俺は、シズちゃんと同じ化け物だ」
この眼に何時か、俺は殺される。
「どうして俺が化け物だって知ってるんだ」
その盟約に頷いたのは他でもない俺だから。
「俺のものになった瞬間、君の事は全部知ってる……もうじき着くよ。シズちゃんもきっと気に入る場所だ」
「どんなところ?」
「シズちゃんは質問ばっかりだね。良いよ、教えてあげる。君みたいな化け物が住む里だよ」
臨也の手がするりと俺の頬を撫で上げ、黒く塗り潰された爪で、俺の瞼をなぞって閉じさせる。
「君は俺のもの。君の憂いは俺が食べてあげる。禁断の林檎もすっぱい葡萄も嫌いだけど、この味は癖になりそうだからね」
言い終わりに萎む言葉、唇に触れた初めての感触は冷たくて、そして口から何かを思い切り吸われたような感覚に身体の力が抜ける。震える瞼を抉じ開けて目の前の男を瞳に映すと、何かをこくりと租借して不気味なくらい赤い舌で唇を舐め上げた。
「ゴチソウサマ」
これは俺の予想だけど、臨也が喰らったのは、ヒトに裏切られたくらいで涙を零す、脆弱な心。根底に残った未練。触れたら崩れそうな、ヒトへの希望。事実、唇が離れた瞬間、俺の心は随分と軽く晴れやかになって、呼吸がしやすくなった。
「シズちゃんは、化け物の俺は好き?」
臨也からの最後の質問に、俺は黙って頷いた。
初めましては甘美な味