帰宅ラッシュに揉まれたかと思ったら、景色が切り替わるのと同時に人が疎らになってきた。田舎の終点駅みたいで、根っから都会が好きな自分は苦笑しか零れない。ぼんやりと高低差の激しい田舎の街を見下ろす。背の高い建物なんてほとんど無い。ほとんどが一軒家でビルなんて以ての外。ほとんど人が居なくなった所で駅へ降りる。田舎にしては大き目の駅らしく、高い位置に造られたそこから目当ての場所を見つけた。
プライベートの方の携帯が鳴っているのに気付いて、階段を降りながら電話に出る。吐く息は真っ白でとても寒い。

『やあ、静雄は見つけたかい?』
「今から殴りに行く所だよ」
『あはは。見つけたんだ。でもまあ、静雄の話も聞いてやりなよ。セルティが言う所によると、悩んでるみたいだったから』
「何に?」

一瞬、セルティを電話口に出せと言おうとして、馬鹿げた考えに一人で笑う。どうも自分が思っている以上に、静雄が居ないというだけで精神的にぐらついているらしい。

『どうもねえ、将来の事とか、考えてるって』
「仕事の事? ……それとも、俺の事?」
『判らない。両方かもしれない。あれだよ、君との関係に区切りをつけたくなったんじゃないかな。アハハ』

脅迫された事について根に持っているのか、新羅の笑い声はそうなってしまえと暗に言っている。反面、静雄の事はきちんと心配しているのだから、中立というより、あいつは若干静雄を贔屓している。

『静雄も君も、お互いに対しては言葉が足りないからね。あ、セルティからの助言だよ。ありがたく聞いてね!』

そのままぶちっと音がするくらい勢いよく電話が切られて画面を見つめる。すぐにメールの受信を始めたので、喋れないセルティなりの伝え方だろうか。新羅の携帯からだろうから、セルティと言いながら、あいつ自身の言葉かもしれない。
届いたメールには、ただ一言だけが入力されていた。

「……」

その内容に、なんとも言えない気分になった俺は失笑を湛えてタクシーに向かって手を挙げる。俺は、自分をどうしたいんだろう。静雄をどうしたいんだろう。そう思いながら、今更ながら厚手のコートを着てくれば良かったとタクシーの中でくしゃみした。


駅前は水に濡れているだけだったのに。向かう道中で雪道になり、久しぶりにこんな積雪量を生で目撃した。とはいっても生活に支障が出るレベルではなく、子供が遊んで楽しめるだけのものだったが。白すぎる道をタイヤで汚しながら、初めて会った時の静雄を思い出した。こんな風にまっさらで、無知だった青年。あれからもう何年経った事やら。
でも、終止符を打つのは、俺の方からだと思っていた。俺から始めた関係なのだから。喧嘩もしながらそれなりに上手く行っていたと思っていたのだけど。まるで静雄と別れる前提で考えを進めている自分に苦笑しながら、高めのタクシー代を今度は料金ぴったりで支払って雪を踏み締めた。靴の裏の、軽いものが押し固められるこの感触が懐かしい。震えながら入口まで進み受付まで進んだ。

「いらっしゃいませ」

和服姿の女性が深々と頭を下げた。これが若い女だったら、割と良い自分の容姿に顔を赤らめたりもするのだが、ベテランだけあって、雪が降っているにしては薄着の男がいきなり現れても、まるで動揺していない。

「平和島静雄という人は宿泊していますか?」

これでハズレだったらどうしようと柄にもなく考えると、台帳も見ずに女性はお泊りでございますと微笑んだ。しかもその後にはっきりと俺を見て口を開く。

「お連れ様ですね? お待ちしておりました。案内致しますのでどうぞ」

本気で何の事か判らない俺は一瞬顔を強張らせたが、不審者と突っ返されないだけマシだ。すぐに笑顔を浮かべてお願いしますと頭を下げる。少し考えただけで、静雄の弟が獲得した旅館の宿泊券はペアだったんだろうと結論に至った。大抵の番組じゃそうだ。とある和室の前で女性が跪き、失礼しますと障子を開く。心臓が跳ね上がるのを感じて胸を手を当てて、平常心、と心で呟く。

「平和島様?」

女性がそう言ったので俺も顔を挙げたが、そこに静雄は居なかった。隅に荷物がきちんと纏めておかれており、開かれた隣の、寝室と思しき場所にも人影はない。随分丁寧に使っているのだなと思いながら、女性も首を傾げた。

「お食事とお風呂を済まされたのは、先ほど確認したのですが……お見えになりませんねえ……」
「何処か、行きそうな場所はありませんか?」
「そうですねえ、図書室に偶にお見えになるのですが、それくらいしか……。こんな寒い日に庭に出るとは思えませんし」
「彼はよく、庭に出るのですか?」
「ええ。窓越しじゃ勿体無いからと」

恐れながらお布団の用意もありますので、と女性は下がっていった。静雄が此処に居るのは確定した訳だが、一体何処に。この旅館の構造も把握していないので行き当たりばったりに探してみる。すると、廊下を渡った時に、外に人影が見えて思わず立ち止まるが、真横を走り去った影は随分小さかった。

「子供?」

しかもこんな寒い日に。考えただけで身震いするが、はしゃぐ子供の声につられて俺も外に出た。此処はまだ新雪でかなり柔らかい。ざくざくと足跡を辿って行くと、段々それは増えてきて、踏み固められている。そして明らかに大人の大きさと思われるものもあって、俺は再び鼓動が速くなるのを感じた。
角を曲がると、石畳の庭に先ほどの人影の正体を見つけた。春になれば見事な花を咲かせるであろう桜の太い幹も、美しい景色も。そして、探し続けた、男の姿も。

「石持ってきた!」
「ああ、じゃあこれで完成だ」

ゆっくりと、穏やかな声。後ろ姿でも判る。黒髪でも。私服でも。なんと声をかけようか迷っていると、静雄の周りには二人の少女が居た。

「あははは! 雪だるまかんっせーい!」
「可愛い! おっきい!」

二人が囲んでいるのは、静雄の腰ほどもある大きな雪だるま。あの二人が――恐らく姉妹だろうが――自力で作るには些か荷が重い。静雄はこの寒い夜に、手を真っ赤にして手伝ってあげていたのだろうか。金髪だったら、彼の髪に落ちる雪は見えにくくて、光に反射してきっときらきらしているように感じるのだろう。でも、実際彼の髪は、闇のように黒く、その頭を白っぽくしている。

「寒くないか?」
「平気だよ。ね?」
「うん。夢だったんだよね、ちーちゃんと同じくらいの雪だるまさん!」

きゃっきゃとはしゃぐ少女の頭を撫でている静雄の横顔は、とても綺麗だった。だけど、池袋に居た頃に比べて随分と、儚くなってしまったように見える。それはこの、白い雪景色の所為だろうか。雪解けと一緒に、消えてしまうのだろうか。
我慢出来なくなって、かける言葉も見つけられずに俺はざくざくと音を立てて三人に近付く。向こうから気付くように仕向けて。最初に振り返ったのは、静雄だった。

「……臨也?」

ああ、良かった。俺を呼ぶ声は、まるで変わっていなかった。
でも、静雄は驚きに眼を見開く事は無かった。俺を見て、俺の名前を呼んで、少しだけ眼を開いただけだ。例えるなら、待ち合わせをした相手が、集合時間より早く着ていたのを見て、「早かったね」と驚く。そんな程度だ。
どうしてそんな顔で俺を見れる。そんな、そんな、何事も無かったかのような。俺だけが不安に思ったかのような。

「お兄ちゃんだあれ?」
「ママのお客さん?」

二人は静雄にしがみ付いて俺を不思議そうに見る。ママ、の意味が判らなくて困った表情を浮かべると、静雄は俺から視線を外して、己の服を掴む二人の髪を撫でた。

「ちはる。ともよ。二人とも、お母さんの手伝いをしなきゃいけないんだろ?」
「あ、そうだったね!」
「えー、もっと遊びたい」
「約束だっただろ。早く行かないと、怒られるぞ」
「はあい」

二人はぱたぱたと走り去って行った。会話から察するに、俺を案内した女性の子供だろうか。だとしたらあの女性は女将。
文字通り静寂が包んで、静々とお互いを見つめた。俺と違って防寒具をきっちりと着ている静雄の口元にはマフラーがあって、静雄の表情を読みにくくしている。耐えきれなくて口を開けたのは、俺だ。

「久しぶりだね」
「……ああ」

会ったら、殴り飛ばして嫌味の一つでも言ってやろうかと思ってた。俺を見て後ろめたい表情をしたり、焦ったような顔をしたら。でも、眼の前の静雄は、俺を見て、消えそうなくらい儚い顔をしていた。これは幻だろうか。雪が見せた俺の幻覚だろうか。
怖くなった俺は、近付いて静雄の様子を伺う。若い頃から縮まらない身長差の所為で、ひっそりと見下ろされて、ゆっくり手を伸ばす。触れた感触は外気の所為で冷やかだったけど、その下にしっかりと静雄の体温を感じられて、思わず肩を掴んで抱き寄せた。

「っ……」

勢いがあった所為で、静雄は軽く息を詰める。その後でぎこちなく背中に腕が回されたのでほっとしていると、静雄は俺の耳元で囁いた。

「此処じゃ寒いから、部屋行こう」

その言葉にぞくりとしたのは俺自身で。俺が頷いて手を繋ごうとすると、一瞬戸惑ったような顔をしたが素直に握らせる。静雄の部屋まで行くと、二人分の布団が準備してあった。

「……昨日までは、一人分しか、敷いてくれなかったな」

静雄がぽつりと言った言葉に振り返る。見間違えようが無いが、やはり違和感が残る。黒髪の平和島静雄は。
和室だが、窓辺の所はフローリングになっている。その部分にはソファがあったので、対面で腰を落ち着ける。普段なら静雄が煙草を取り出す場面だが、その気配すら無い。

「……どうして、染めたの?」

俺の最初の質問はそれだった。それじゃあ、平和島静雄らしくない。俺の表情から考えた事を読み取ったらしい静雄は寂しそうに笑うので俺は二回瞬きした。

「金髪」

言いながら静雄は己の、黒になっている髪にそっと指を通した。

「バーテン服」

自宅から持ち出したのであろう私服に手をかける。

「サングラス」

何もかけていない眼を指差す。

「で、煙草」

髪巻きを指で支えて、口から煙を吐き出す素振りを魅せる。魅せられた。
物憂げに細められた眼と薄く開かれた唇。マフラーを外し、少しだけ傾けて露出した首筋からは艶めかしい香りが漂う。俺の勘違いかもしれない、が。都会と言う名の俗世から抜けると、人は此処まで色っぽくなるのだろうか。

「どれもこれも、池袋の喧嘩人形を差す」

自分が有名人である事を鼻にかけているような様子は無い。ただ、疲れたように溜め息を吐いた。

「それじゃ、目立つだろ」
「……」

口をついて出そうになったのは、俺から逃げたかったから? という言葉。でも、なんとかして噤む。静雄はどうやら表面上は落ち着いているらしいが、内心は激しく何かに突き動かされている。それが動揺なのか、後悔なのかは判らない。

「なんで……」

長年一緒に居た所為で、多くを語らなくても察してくれる。案の定、静雄は俺の一言で理解したのか、眼を伏せた。そして眼を逸らして床に視線を落として、聞き逃しそうなくらいの声で呟いた。


「結婚するかもしれない」


こんな間抜け顔は久しくしていない。というくらい口をあんぐり開けた俺を横目で見た静雄は、可笑しかったのか小さく吹き出した。

「アホ面」
「……」

さっきの言葉は訂正しないのか。有り得ない。え、どうして?

「け、っこん?」
「……そう」

一瞬見せた無邪気な顔は失せ、苦しそうにはにかんだ。
そんな事、そんな事は、

「っ、俺、知らない。聞いてない」
「言ってないから」
「どうして」
「……」

人生でこれ以上の混乱があるだろうか。恋人の口から、結婚するかもしれない、なんて。聞くなんて。その相手は、勿論、俺じゃない。俺は知らない。静雄にそんな相手が居るなんて。相手を、相手は、相手に、俺は。

「かも、って、まだ決まってないの?」
「……」

俺の知らない所で話が進んでいた事にかっと頭に血が昇る。思わず「答えろよ」と声を荒げそうになったが、よく観察すると、静雄も俺と同じくらい混乱しているように見えたので、浮きかけた腰を戻す。

「相手は?」
「……」

黙秘権でも覚えたかと、こんな状況なのに苦笑しそうになった俺に対して、静雄は言いにくそうに口を割った。

「知らない」
「……はあ?」

お前は馬鹿か。知らない相手と結婚するのか。と呆れようとしたが、すぐに言いたい事を理解して俺はそれに対する感想を持つ前に口走ってしまった。

「お見合い?」
「……」

今度は黙って頷かれた。静雄みたいなタイプが、全く知らない人と交際を前提に会える訳が無い。静雄が考えていた事と言うのは、これの事だろうか。静雄は観念したというように息を吐いた。

「……先月。おふくろから電話があった」
「携帯に?」
「ああ」
「持ってるよ」

そう言ってポケットから静雄の携帯を取り出すと、理解したのか「不法侵入だぞ」と苦笑された。俺が蹴破ってでも侵入するって判ってた癖に、と笑うと一瞬眼を丸くして笑われた。

「ひょっとしてお母さんに、結婚しろって言われたの?」
「おふくろは、ストレートには言わなかった。最初は、近況とか、体調とか……そういう話から始まって。そこから、すっげえ回りくどく、……そうだな、結婚しないのかって、聞かれた」

切れてしまっていた静雄の携帯の電源を入れる。すぐに切れてしまうのは眼に見えているから、着信履歴の部分に眼を走らせる。トムさん、新羅、セルティ、臨也、と、その中に混ざって、「母さん」と確かに一件入っていた。ぴー、充電してください。その音が俺と静雄の間を流れ、顔を挙げる。

「……両親からしたら、心配だったんだろうな。30にもなるのに、幽と違ってそういう話を聞かない俺を。長男なのに。幽はテレビで恋愛報道とか偶にあるから、親も安心してたんだろうけど……。俺は、怪力だろ? これの所為で、小さい頃から俺には縁は無かった。おふくろは、俺をこんな風に産んだ事を、……後悔してる」

直後に、言っとくけどと静雄は続けた。

「俺を産んだ事は、誇りに思ってるって言ってた。でも、俺を、真っ当に産む事が出来たら、俺はこんなに苦労する事は無かったのに、ごめんねって」
「判ってるよ。シズちゃんの出生を呪ってる訳じゃないんでしょ? お母さんは、罪悪感があるんだ」
「……ああ。俺はそんな事は気にしていないって、小さい頃から言った。でも、俺がずっと彼女なんて作ってない事を、二人は焦ってる。これじゃあ、この暴力の所為で俺に良い人が出来ないって事を、両親が肯定する事になる」

彼女どころか彼氏なら居るのにね、と茶化す事は出来なかった。弟思いな彼の事だ。両親の事も深く愛しているのだろう。その愛情の深さが、苦悩の深さにもなった。

「若い頃は、それこそ、こんな力のある俺を愛してくれる奴なんか居ないって思ってた。でも、力を理由にして、俺は臆病になってただけなんだ。こんな力があってもなくても、俺を愛してくれる人は、居る」

何故か最後、少しだけ言い淀んだ静雄は俺の方を見ない。彼の携帯を机の上に置く、かたんという音がしてまた口を開いた。

「……親父にも、聞いてみた。俺に結婚して欲しいかって。おふくろには内緒で。そうしたら、……孫の顔が見たいとは言わないから、せめて、良い報せをくれって、言ってた」

図らずも両親の期待が、思った以上に負担になったんだと静雄が口にする。乱暴に頭をかいた後、俺をゆっくりと見据えて頭を傾けた。

「疲れたんだ……。もう、いやだ」

息を呑む。そういう彼の姿が、余りにも艶やかで。

「それが、居なくなった理由?」
「……本当は、この旅行券も、最初は両親にあげようと思ったんだ。親父も定年が近いし、その前に二人で息抜きしろよって、かっこつけたかった。……でも、このザマだ。ペアの宿泊を、俺一人が使った。……そうしたら、お前が来た」

静雄の眼がはっきりと俺を射抜いた。美しいのに弱った瞳。此処に居る間、自分を責め続けた人間がする顔だ。そしてその顔を、ゆっくり疑問に変えていく。

「臨也、どうして此処に来た?」
「……シズちゃんを追いかけに来たに、決まってる」
「どうしてだ?」
「どうしてって。俺は、君の恋人だろう? ……どれだけ探したか。俺も聞きたいよ。新羅達には言って、どうして俺には言わなかったの」

僅かに不機嫌を顔に出すと、静雄は首を傾げる。じっくり言葉を選んでから吐き出されたものは、俺を再び驚かせた。

「臨也は、俺の事が好きなのか?」
「……何言ってんの」
「いや、……俺、なんか、お前と距離が縮まった気がしない」

静雄の突拍子もない発言は何時もの事だ。そして、その発言の意図は静雄の中では繋がっているから、聞かされる側としては全部聞かないと真意が判らないところが厄介だ。つまり俺が追ってきた事を疑問に思っているのは、俺が静雄の事を好きじゃないと思っているから、という事になる。

「距離って? 俺はこの現状に、割と満足しているよ。シズちゃんの事は、まあ今更だけど、好きだから」
「……お前は、寝てる時に俺が触ると起きる」
「セックスの後の事?」
「でも、こないだは、触っても起きなかった」

何処か恥ずかしげに眼を逸らした静雄の思考回路は不可解だが、解けない訳じゃない。ふうと息を吐いて、俺も真っ直ぐ静雄を見つめた。

「シズちゃんは寂しいの? 俺が起きなかったから」
「……多分。でも、起きたら、起きたで、……なんか申し訳無い」
「どっちなの」
「俺にも判んねえ」

戸惑ったような顔。考えるような素振り。静雄は生来の性格で、俺みたいな男に対しても嘘が吐けない。だから言ったことは全部本心なのだろう。事実や真実とは、また違うのかもしれないけれど。

「昔はそんなの気にしなかったけど……おふくろに言われてから、なんか、一気に自覚……ってか、意識した。そういえばお前は、俺が触ると起きる。って事は、触られるのは嫌なんじゃねえかなって。……なのにお前は、俺の手を縛ってくれない」

少しだけ不貞腐れたような顔をした彼に俺は眼を開く。俺が無意識下にやっていた事を、静雄は気にしていた。だけど俺は、俺の方こそ、静雄が俺に触りたくないのだと思った。それは勿論俺が普通の壊れやすい人間だからというのもあるし、初期は行為の最中に泣き叫ぶように腕をシーツに縫い付ける彼に当惑したのも隠す気は無い。回してくれて良い、俺はシズちゃんに簡単に殺されない、信じてと。あの時言う事が出来たなら、こんなに思い悩む事も無かったのだろうか。
くるくると変わる表情を見ながら、静雄は意を決したように少しだけ背筋を伸ばした。

「俺は……その……。お前の事は、ずっと、好き、だったし……だけど、親からしたら、息子が男と付き合ってたら、驚くし、良い顔しないかもしれない。そうしたら、わ……別れろって、言われるかもしれない」
「……シズちゃんは、それが嫌?」

躊躇いがちに首肯した彼を責めようとは思わなかった。

「俺は両親にもう負担かけたくない。二人とももう若くないし、迷惑かけた分、あとは穏やかに過ごして欲しい。軋轢なんて生みたくなかった。だけど今回の件で……臨也も先週なんか喋らなかったから、……気持ちが冷めたのかと思った。だから……キリとつけるなら、今かも。……って」

彼は、真面目だし、割と神経が細い。それでいて他者を気にする。こういった結論に達したのも、全部両親と、……俺の為だ。
その事実にひどく安堵した俺は、ほっと息を吐く。それを見て静雄が眼を丸くしたが、俺は精一杯微笑みかけた。

「会話が無かったのは、ごめんね。久しぶりに会ったし、それに……最近は、シズちゃん、自分を縛れって言わなくなったじゃん? それが嬉しくて、がっついた」
「言ったって、無駄だって判ったからな」

曖昧に笑った静雄に、この机で隔たれた距離が嫌で、俺はすっと立ち上がって近付く。跪くような形で膝を着くと、明らかに静雄の瞳が揺らいだ。

「シズちゃんは俺と別れたい?」
「……」

俺が、折原臨也が言葉にすると一気に心に来るのか、少しだけ眼を潤ませた静雄はふるふると左右に首を振った。

「ほん、とうはっ」
「うん?」
「お前が、追い駆けてくれるの……期待してた」
「シズちゃんが黒髪になろうと、バーテン服を脱いで、サングラスを外したって、俺からは逃げられないよ」

指先にキスを落として、綺麗に整えられた爪に舌を這わせた。この爪が、俺の背中に傷を残す。それが鎖であり、戒めでもある。俺たちを繋ぐのは、それ。携帯なんかなくたって、俺は君を見つけ出した。

「……シズちゃん、俺と結婚しない?」
「……日本じゃ、同性は、」
「判ってる。でも、紙きれに書かなくたって、俺たちが判ってるだけで、良いじゃない。でも、シズちゃんは優しいから、御両親の事が心配なんだね?」

熱を孕んだ瞳が俺とかちあって、そして静雄は頷く。俺はそんな彼の頬を包んで、優しく笑いかける。

「シズちゃんが、この口で」

ゆっくりと唇を撫でる。

「お父さんとお母さんに、『良い人が出来た』って、言えば良いんだよ。シズちゃんの本心を、電話でも二人は判ってくれる。だって、シズちゃんを生み出した二人なんだよ?」

きょとりと眼を丸くした静雄は、直後に笑った。この一ヶ月では御無沙汰だった、シズちゃんの心からの笑顔。

「それとも、シズちゃんにとっては本心じゃないのかな? 俺が無理矢理言わせちゃった事になるのかな?」
「……ばぁか」

赤らんだ頬に掠れた声。喉の奥で笑ってから、俺をばかにする口を塞ぐ。何処か、一緒に居た年数だけでなあなあに過ごしていた事に気付く。静雄が居なくなったと知った時の、あの焦燥感を俺は忘れられない。俺の視界にいるのが、もう当然なんだよ、俺のお嫁さん。変化するのが怖くなったのは、君と居るようになってから。ずっと君を、俺のものに出来たら良いのにと。

「……あ」
「ん……なんだよ?」

深くなる口付けの合間にふと思い出して、素っ頓狂な声を挙げると下から静雄が見上げてくる。座っている静雄と立っている俺では、珍しく身長差が逆転する。朱色が差した目元に微笑み掛けながら、俺は自分の携帯を出して、新羅からのメールを出して静雄に見せる。

【静雄は何時までも待ってはくれないぞ】

ああ、これは本当にセルティの言葉なのか。長年俺と静雄を見ていた、闇医者の方の言葉じゃないのか。
静雄は読み終わると声に出して笑って俺に視線を合わせる。

「新羅の奴、うぜえ」

やっぱり新羅の言葉なんだね。だって君がそう言うんだから。

「シズちゃんに話したい事がいっぱいあるよ」
「都合良い奴」

情欲を迸らせた俺の視線に困ったような顔を浮かべるが、任せてくれる気になったらしく、俺の背を傷付ける腕を首に回して応えてくれた。
布団までの距離すら、今の俺には遠すぎる。この腕の中にある存在だけを今は愛して居たい。俺と同じ、真っ黒な髪に口付けて、

「あとで、俺が金髪に直してあげるよ」

そう口にすると、静雄は嬉しそうに頷いた。


真冬の朝は死ぬほど寒い。隣にあったはずの温もりが消えて一層それを感じて眼をこじ開けた。二つ敷かれているのに、一つしか使っていない布団の中。携帯で時間を確認しようとしたが、枕元に無造作に置かれたコートの中に手を入れても何も入っていない。可笑しい。
着替えが無い状態で性交したのは若干失敗だったなあと自分の行いに苦笑して静雄を探す。だが、隣の部屋で本人の声が聞こえたので、襖をこっそり少しだけ開ける。何故か静雄の手に俺の携帯があった。

「……」

残念ながら携帯をチェックしても浮気現場なんて押さえらんないからね、と勝ち誇って居たら、静雄は電話をしたかったらしく、番号を打ってから耳に当てた。

「……母さん? 俺、静雄。ごめんこんな朝早く……ああ。えっと、あのさ」

静雄は一呼吸置いてから、ちらりと俺の方を見た。ばっちり噛み合った視線にお互いうろたえて俺は曖昧に笑ったが、静雄は顔を真っ赤にしながら俺から視線を思い切り外し……電話口に、こう囁いた。幸せな声で。


「紹介したい人が居るんだ」


ハロー。愛してるよ、12