お釣りは取っときなよ、と言って紙幣を二枚投げてタクシーを降りた。まだ夕方と呼べる時間帯だというのにすっかり真っ暗になってしまったが、東京の空は明るい。星なんて見えないし、月が顔を出している訳でもないけど。目的の闇医者の部屋からは、ドアの外からも賑わっている声が聞こえてきて在宅を確認する。インターホンを鳴らしても出てくる気配が無く、腹が立って何度も何度も押すと扉の奥から俺に向かって返事が来た。

「どちらさまですかー?」

この未だに幼い声は竜ヶ峰帝人か。余り呂律が回っていないからこれは結構酔っている。

「俺だよ」
「臨也さんですか? 可笑しいなあ」

がちりと鍵を開ける音がした瞬間、開くのを待たず俺はぐっとノブを引っ張った。向こう側で、まさかいきなり開くとは思っていなかったらしい帝人がよろけて俺の方に倒れかかってきた。人に頼まれたり、勧められたりすると断れない性格が仇となったのか顔は真っ赤で酒の匂いがすごい。

「退いて」

しかし今は彼に構っている暇は無いので玄関に置き去りにしてリビングに進む。乱暴に扉を開けると全員が一斉に俺を見た。

「誰だっ……」

たの? と新羅は言いたかったんだろう、帝人に。一様にテンションが上がっていると思われる中でも新羅だけは余り酔っていないように見える。のらりくらりとかわすのが上手いからな。見慣れた来良の後輩や門田と親交のある男女などでかなり大人数だが、他には一瞥もくれずに新羅を睨んだ。
当の本人は、最初はへらへらしていたが俺の怒気に当てられたのかその表情に焦りが見え始めて、俺は落ちつく為に一度肩を落とした。

「なんだ臨也、誘わなかったのそんなに怒らなくたって良いじゃないか、大体誘わなくたってこうやって嗅ぎ付けて勝手に来る……」
「そんなんじゃない」

談笑を中断して皆が俺を見上げているが、その中に意中の相手は居ない。一番可能性が高いとしたら此処だと思ったのに。ひょっとして隠しているんじゃないかと考えた俺はそれだけ言って勝手に客用の寝室に向かったが、骨組みだけで布団の敷かれていないベッドしかない。じゃあ浴室? 新羅の部屋? 来るなりいきなり自分の家をあら探しし始めた俺に新羅が慌てて追いかけてきた。

「どうしたんだよ、忘れ物?」
「シズちゃんは?」
「は? 静雄?」

隠しだてするなら脅すまでと俺はポケットの中でナイフを躍らせるが、新羅は真剣な俺の顔を見たあと、何故かいきなり笑い出した。

「なんだ、静雄を探してるの? なら此処には居ないよ」
「なら何処に居るの」

俺ですら静雄の行方を知らないのに、この中立ぶった男が認知しているなんて腹立たしく、焦って苛ついている俺は旧友の胸倉を掴み上げた。

「知らない知らない! ナイフ仕舞って!」
「あ? 知ってるって言っただろ!」
「言ってない! 此処には居ないって言っただけ! 静雄なら旅行だよ!」
「……旅行?」

新羅の叫び声を聞き付けたらしいセルティが、闇医者の背後から現れた。喉元にナイフを突き付けられている恋人に驚いたセルティが影を伸ばして俺の手首を拘束する。ぎりぎりと絞めあげられて握力が消える。舌打ちしてナイフが俺の手から零れ落ちてもセルティは無い眼で俺を睨んでいるようだった。胸倉も解放すると、よろよろと崩れた新羅が俺を見上げて溜め息を吐いた。

「君は本人から聞いていないの? 先月から言ってたんだよ? 年末の前にちょっと出かけてくるって。どうしたのって聞いたら、なんかいきなり自然が見たくなったって言って、そう、セルティに綺麗な景色をいっぱい撮ってくるから楽しみにしてろって……」

セルティの拘束が俺の手を圧迫しても、その痛みが吹っ飛ぶくらい俺は驚いた。そんなことか、と安堵した瞬間にいや違うと違和感が鬩ぎ合う。俺の良すぎる頭は色んな事を一瞬で考えてしまい、暫く無言で居ると、セルティも様子が可笑しいのを理解したらしく、影を消してPDAに何事か打ち込んだ。

『何処に行くのか詳細は聞いていないが、別に暗い顔はしていなかったぞ。お前は何をそんなに心配しているんだ?』

その文字を見た新羅は苦笑して乾いた笑い声を上げた。

「内緒にされたから焦ったんじゃない? 僕だって君がいきなり消えたらそれは驚くよ」
『私はそんなことはしない』

旅行。じゃあ、あの上司と後輩は静雄が居ない理由を、正当な理由を知っていたから気にしていなかったのか。ちょっと早い遠出をしていて、土産が楽しみだなと話し込んでいたのか? だけど、静雄はどうして俺には何も言わなかった? 少し考えただけでも、それらしいことは仄めかしてすらいなかった。俺たちは、恋人、なのに?

「そんなに心配なら静雄に連絡でもすれば良いじゃないか」

その言葉ではっとした俺はポケットから、オレンジ色のそれを出す。新羅も、携帯を見て少しだけ眼を見開いた。

「それ、静雄のだよね?」
「シズちゃんの家に置き去りにされてた。幾らなんでも、携帯と財布を旅行で忘れる訳ないだろ」
「うっかりしてた、とか」
「……シズちゃんはカメラなんて持ってない。携帯もなしにどうやって写真を撮るの」
「インスタントなんて何処にでも売ってるだろ」

そう言いながらも、新羅は少しだけ真面目にこの件を考えるようになったのか、茶化すような響きは無くなっていた。こういう可能性もあるだろう、と述べているだけ。

「じゃあなんでシズちゃんは俺には何も言わなかったのさ。ドタチンは知らないっぽいけど、職場の人は知ってたみたいだし」
「……あー、言いづらいけどさ。なんか、喧嘩したの? 最近の静雄の様子はどうだった?」

眼を伏せて、心当たりを探る。そう、確かに上の空だったことが多いし口数も減っていたような気がする。俺の背中に瘡蓋になって残っている静雄の爪痕がいきなりじくじく痛んだように感じ、舌打ちして己の肩を掴んだ。本当に単なる骨休めだったとしたら、ひとりで舞いあがっている俺はなんなんだ。

「邪魔したね」

礼らしい礼も言わずに二人の横を通り過ぎて真っ直ぐ玄関に向かおうとすると、新羅が盛大に「あ!」と叫んだので思わず振り返る。

「なんだよ」
「そういえば静雄に、臨也には言ったのかって聞いたんだ」

驚いた完全に身体を向けて「なんて答えたの」と早口に言うと、新羅は無表情のままはっきりと、

「言った、って」
「っ……」

奥歯を噛むと、もう用は無いと言わんばかりに踵を返す。俺は本当に何も聞いていない。静雄の口から、何処かに出かけるなんて。此処一ヶ月の記憶を掘り返したって、……確かにこの一ヶ月は何処となく元気が無かったような、気はしたけど。
俺がぱたりと玄関を閉めたあとに、ぽつりと新羅が呟いた。

「……顔に嘘とは書いてあったけどね」


結局俺の勘違い、つまらない思い違いかと思うと非常に不愉快だった。静雄について認知していない事があるなど、腹立たしいことこの上ない。静雄の言動など今でも意味不明なことがあるが、それでもあいつを一番理解しているのは俺だと思っていたのに。帰ってきたら問い詰めてやると思いながら夜道を歩いていると、携帯が震えたので手に取る。そういえば静雄について色々調べろと命令していた事を思い出し、徒労に終わった事を詫びようと電話に出た。

「もしもし」
『折原さん、色々、お耳に入れたい事が……』
「ああその事だけど、もう……」

そう言いかけた所で、静雄が何処に行ったのかくらいは知りたいと思い直し、でも、と口走ろうとしたら向こうから無機質で、それでも上擦った声が聞こえたので意識を傾ける。

『いやいや聞いてくださいよ。この数日で、平和島の目撃情報を片っ端から調べたんですけど、無いんですよね』
「……そりゃそうだね。彼は旅行に行ったそうだ」
『あいや、そうじゃなくて。無いんですよ、目撃情報』
「だから……」

今まで単なる諜報員としての立場を守っていた男が、少し声を張り上げて俺の鼓膜を揺さぶった。

『無いんです。平和島静雄は池袋から一歩も出ていません』
「は?」

何を言っているんだ、彼は、何処か遠い、自然がある場所に……。

『彼が移動に使いそうな手段は全部調べさせました。一番可能性の高い鉄道関係なんですけど、池袋駅に、平和島静雄はこの一週間一度も姿を見せていません。何分有名人で、目立つ男ですから、駅員にしろ一般人にしろ、必ず目につくはずです。でもそれがありません。一応、飛行機や船なども考えましたが……』

それも無いと。むしろ、余り裕福とはいえない静雄がそれらの手段を使うとは思えなかった。

『平和島静雄は免許を持っていません。ですので、レンタカーを借りる事も不可能です。タクシーも、そういった証言は無いそうです』

どういう事だ。これでは静雄は未だ池袋に居るようなものではないか。だけど、周囲に、俺は旅行に行くと宣言していて、その通り姿を消した。何時の間にか立ち止まっていた俺は、調べ直せと声を荒げようとしたが、男は少しトーンを下げた。

『……ですが、池袋駅に、“平和島静雄に酷似した黒髪の男”の目撃は、ありました』
「……平和島幽。静雄の弟じゃない?」
『彼は平和島静雄以上の有名人です。第一彼は免許を持っています。わざわざ電車に乗るメリットがありません。また、何人かは羽島幽平と間違えたらしいですが、サインや握手にはひとつも応じなかったそうです』

その男の特徴は、身長は180センチ前後、細身でブラウンのコート、真っ黒な癖っ毛。手荷物は少し大き目の鞄がひとつ。サングラスもバーテン服も纏っていなかったが、髪を金にすれば池袋最強の男そのものだったと。向かった先の方向は判るが、何処まで行ったかは不明。
短時間で何十人もの人間を使って情報をかき集めた男に普段なら世辞のひとつでも言っているが、余裕のない俺は判った、と一言告げて電話を切った。

「……」

既に電源が落ちてしまっている静雄の携帯を握る。ひやりと、俺の指先から熱を奪っていく。その割には、吸収はしてくれず、何時までも温度は低いまま。静雄は結局何処へ行ったのだ。何時になったら帰ってくるんだ。俺の、所に。何故静雄は俺の手から離れたんだ。

「俺、何かしたかな」

自嘲的に笑って空を仰ぐ。彼は今頃、この寒い12月に何をしているのだろうか。この池袋を離れて、何を想っているのだろうか。何故こんなことをしたんだろうか。
皆には告げたことを、どうして俺だけに。俺が嫌いになった、とか。飽きた、とか。つい先週に会ったばかりなのに。その時にもっと、話を聞くべきだったのだろうか。この背中の傷が最後の静雄の痕跡になってしまうのか。
そんな事、赦すものか。


旅行に行くのなら自宅にそれらしいものがあるはずと再び静雄の家に戻る。相変わらず寒々しい空気が俺を歓迎してくれるが、今度は気にせずチラシを漁る。どれも不動産や食料品など関係ないものばかり。ごみ箱をひっくり返しても捨てていない。
その間にも携帯は多方面からの連絡を絶え間なく受信していた。ほとんどが空振りや無関係のもの。方面は特定出来たから、静雄の失踪の理由を流すと、即座に切り替えて調べてくれる。フォルダが少しずつ埋まって行く。具体的な地名が出ない事も、静雄の家に手がかりが残っていない事もムカつく。こうなると判って隠蔽したのだったら、本当にかなり前から計画していたんだろう。

「……ん」

また新たな報せが携帯に届く。メールに眼を通していく内、「黒髪」という単語にふと動きを止める。静雄を最後に池袋で見かけたという情報は、俺が最後に奴を抱いた日で止まる。あの時はまだ金髪だった、そう。すぐに脱衣所のごみ箱を遠慮なく散らかせば、使用済みのそれが顔を出した。

「はあ……マジかよ」

静雄が黒髪にしたというのに対し、半信半疑だった。出逢った頃から金髪だった彼を、そう簡単に黒で塗り潰せるものかと。だが、こうして最近使われたと思われる黒染めを見つけてしまったからには信じるしかあるまい。池袋で見かけた目撃報告は真実だったんだ。
そこで丁度良く電話が鳴った。99%裏が取れているもの、重要なもの以外はメールで知らせろと言いつけてあるので、恐らくビンゴを引いたのだろう。電話口に出たのは、先ほど男とは違う人物だった。

『折原さーん! 多分見つけました、あたし!』

姦しい女の声に眉の一つでも顰めたかったが、女の言葉へ意識を取られた俺は挨拶も無しに、すぐ「どうだった?」と口にした。

『何処かに出かけてるなら、絶対ホテルか旅館に泊まってると思ったんですよお! だから、片っ端から電話をかけて、危篤の家族が居るっていう名目で、親類を名乗って“平和島静雄”って名前で泊まっている人が居ないか聞いたんです!』

結果が聞きたいだけの俺は舌打ちしそうになったのをなんとか堪える。なんで女って生き物はこんな回りくどくて、主観を入り混ぜて報告するんだろう。吊りあがった眉や不機嫌な声を隠そうと躍起になって「で?」と口走る。

『もしかしたら偽名使ってるかなーと思ったんですけどお、いや、ほんとあたし頑張った……』
「だから、どうだったのって」
『居ました! 池袋から割と遠い旅館です、CMやってるじゃないですかあ』

ようやく女が言った地名と旅館名には聞き覚えがあった。歴史は浅いが、山間に近いだけあって、冬場は雪見露天風呂が楽しめる――そんなコマーシャルの謳い文句を思い出した。だが、確か規模が小さく、部屋数が少ない旅館だ。しかも旅館が雪見風呂を売りにしているのだから、冬場は混むはず。それなのに、こんな時期に静雄が部屋を取れるだろうか? 俺が考えている間にも無駄な事を喋っていた女は、ようやく俺の疑問を解く答えを吐き出した。

『電話係の人がまだ新人っぽかったから聞き出せたんですけどお、予約を取ったのは俳優の弟さんらしいですよ? 番組の獲得商品! よくあるじゃないですか、テレビの前の視聴者10名様に豪華賞品をプレゼント! みたいな企画! 番組の方では、ゲストで出てた羽島君がゲットしたらしいですう。でも本人は忙しいからお兄さんに譲ったんだと思いますよお』

ああ、そうかと嫌に納得した俺はまだ相手が喋っているのにありがとうと一言呟いて電話を切った。静雄の弟が、余計な真似を。恐らく嫌われているであろう、恋人が溺愛している青年を思い出した。兄思いの彼だったら十分有り得る。旅館も宣言に一役買って貰って喜んだことだろう。
腹立たしいのは静雄がその事を俺に言わなかった事で。隠しだてする事か? ひとりで。そんな場所に赴いて。帰ってきて土産のひとつでも渡そうものならそのまま殴ってやろうか。いやむしろ土産なんて俺には買ってこないかもしれない。うん。だけど、俺から黙って離れた事は、赦さない。

「……ちっ」

その身ひとつで、俺の足は池袋駅へ向かった。


チェス盤に君は居ないけ