どうやら今回は御立腹のようだ。
処理は寝ている間にしたとはいえ、シャワーを使った痕跡が無いから、割とレベルの高い怒りだ。建てつけが悪い訳でもないのにドアが開き難く、嫌な悲鳴をあげた時にこれは強引に閉められたようだと直感した。割と昨日は乱暴にした覚えがあるからこれは笑えない。起きた時に、ベッドの空いたスペースに手を載せても全く温かくなかったから早朝に出て行ったのだろう。外に眼を向けると割合激しい雨が降っていた。

「……さむ」

真冬の朝で、上半身に何も纏っていない状態での上の空は自殺行為だ。床に投げ出された衣服を取ろうと屈むと、昨夜静雄が思い切りつけた引っ掻き傷が肌を引っ張って痛んだ。後で脱衣所で確認するが、ひどい有様になっているだろう。若い頃は必死に、抱く時は自分を拘束しろと言ってきた静雄を宥めて、手錠も紐も余り使わなかった。本人が思うよりも、静雄は自分の力を抑制出来ている。俺を傷付けるのがどうしても嫌らしいが、これくらいなんともないのが現実だ。静雄の反応が過剰なだけで。
今日は久しぶりにセルティが来るという事を思い出して肩の関節を鳴らした。ひょっとしたら俺の家でセルティに鉢合わせるのが嫌で静雄は早くに出たのかもしれない。ドアを乱暴に閉めたのは単に力の加減が出来なかっただけだろう。時計を見ればもう八時過ぎだ。静雄には引き篭もりと揶揄されているが俺だって結構忙しい。
パソコンを立ち上げてから珈琲を淹れて慌しい町並みを見下ろした。その内、バイクの形をしている癖に生きているみたいな声を出す、奇天烈な乗り物に乗った奇天烈な人物が来るはずだ。鉢合わせると色々面倒な事が起きるから波江には今日暇を出してある。
不意に充電器に置いていた携帯が震える。プライベート用の携帯だったので不思議に思いながら手に取り、此処にかけられる僅かな人間を思い浮かべながら耳に当てた。

「もしもし」
『ああ、臨也か』
「俺以外だったらどうすんのさドタチン」

懐かしい声にわざとらしく肩を竦める。懐かしい声に肘掛け椅子へ腰掛け、肩で携帯を挟みながら引き出しの箱に中に入れておいたエメリーボードを取り出して爪に当てた。右手の人差し指と中指、薬指の爪だけは他よりも短く切られている。それで思い出したが、そういえば昨日の静雄は注意力散漫で何かに気をとられているようにぼうっとしていた。体調が悪いのかと思ったが俺がそのサインを見逃すはずは無い。俺たちはお互いに本音を言わない、その分、表情や声音のひとつやふたつで感情の機微を受け取れる。以心伝心と言えば聞こえは良いが、実際には観察眼みたいなものだ。

『朝早くに悪いけど、高校時代の先生が亡くなったって聞いたか?』
「ああ……らしいね。俺は担任にはならなかったけど、シズちゃんが高二の時の先生だよね」

仕事に関係ない事は、よっぽどプライベートでない限り大抵波江に処理させていたから言われるまでひとつの事柄としか考えていなかった。指先に力を込めて形を整える。

『俺は卒業後にも連絡とか取り合ってた人だから、葬式には出ようと思うんだけどお前は?』
「え? 俺は良いよ、あんまり好きじゃなかったし」
『好き嫌いで選ぶなよな……静雄はもう知ってると思うか?』

手が止まる。特にそれらしい会話はしなかったが、静雄が普段より口数が少なかったのは不幸があったから? ああ、有り得る。静雄は割と死に敏感だ。自分が規格外な身体をしていて死ににくいというのもある。だからこそ、普通の人間の身体である俺に傷をつけるのが嫌なんだ。

「知ってると思うよ。昨日元気無かった」
『なんだ、会ってたのか? じゃあ俺すぐ行くから、お前も弔電くらい打てよ』
「気が向いたらね」

整え終えた爪に息を吹きかけてヤスリを仕舞う。電話を切った直後に、静雄に連絡しようか迷ったが無理させたことに怒っているならどうせ出てくれないだろう。仕事の休憩時間を俺に割いてくれるとも思えないし。微妙な温度になってしまった珈琲を口に運びながら、立ち上がったパソコンと書類を見比べながらデータを入力していく。波江が居れば雑務はしてくれるんだが、面倒だ。チャイムが鳴った時は一時的に解放されると割かし軽い腰で立ち上がる。

「やあ、新羅は元気かい?」
『普段通りだ』

高校時代に初めて会った時から、セルティの背丈はまるで変わらない。恋仲になっている闇医者は相変わらず童顔だが、間違いなく先に死ぬのはセルティじゃなくて新羅だ。自分より小さな子供だった男がやがて自分と対等になり、そして自分を置いて逝く。先ほどの門田との会話もあり、何気なく話題を振るとセルティは面食らったような素振りを見せた。

『……その時のことは』
「ん?」
『その時に考える』
「行き当たりばったりだなあ。無計画なのは良くない」
『考えられるすべての可能性を考え尽くして、勝手に退屈だと言っている男には言われたくない』

若干機嫌を損ねたようだ。といってもこれで仕事をご破算にするほど俺も愚かじゃないしセルティも子供じゃない。何時ものようにセルティの前に珈琲を置くとヘルメットが向こうを向いた。毎回の嫌がらせを俺は十分に楽しんでいるのに。楽しむというのは心に余裕が無いと出来ないものだ。

『そんなことより、仕事の話だ』
「新羅との将来設計をそんなことなんて言ったらあいつ泣くよ?」
『茶化すな。進まないだろう』
「はいはい」

ファイルの中から一枚のビジネス文書を抜き出してセルティに差し出す。俺からしてみればかなり大事な部分を省略した、所謂運び屋向けの文書だ。とはいってもこの都市伝説は麻薬の売人ではないから、頼む方としても厄介なんだが。アイルランドに居た癖に淀みなく漢字カタカナひらがなが読めるデュラハンはやや間を置いてから忙しなくPDAに打ち出した。

『怪しいな。私は死体遺棄の片棒は担ぎたくない』
「死体なんて一言も書いてないじゃないか。“やんごとなき事情で機能を停止した等身大の物品”だったかな? ロボットかもよ?」
『お前がそういう時は大抵良い事じゃない。悪いがこの仕事は請けないぞ』

資料を置いたセルティは腕を組んで拒否の姿勢を取った。昔は違法な品も平然と運んでくれたのに、随分と一般的な良識が身についてしまったものだ。まあ、そうなると思っていたから俺は同じファイルから別のものを出す。

「冗談だよ。本命はこっち」
『コーヒーといい、嫌がらせも二部構成にしたのか。暇だな』
「シズちゃんみたいなこと言わないでよ」

笑いながら告げるとセルティはまた黙ってヘルメットを傾ける。顎の部分に相当する部分を指先で支えている辺り、思案しているのだろうが、人間と共同生活するとこの化け物は此処までヒトに近くなるのか。猿でもこうは出来まい。とはいっても、俺はセルティを人間扱いしたことは無いが。

『……まあこれなら』
「そうかい? 良かった良かった。どうやら運び屋のファンらしくてねえ、是非にと頼まれたんだよ。報酬は書いてある通り。他にも君をご指名してる依頼が何件かあるけど」
『余り派手な動きはしたくない』

全盛期に比べるとセルティも大人しくなった方だ。専ら余った労力はうら若き青年たちへのお節介と恋人とのいちゃつきに使っているらしい。実に面白くない。

『すまないがこれで失礼する』
「おや、今日は早いね」
『用事があるんだ』
「どうせ新羅関連でしょ。良いねえ」

紹介料としてセルティが札を三枚置いていきさっさと出て行ってしまう。中々俺も信用が無いな。笑ってデスクに戻って情報を整理する。あ、折角セルティが居たんだから、遅い朝食でも作らせればよかったか。新羅が自慢げにセルティの卵料理が美味しいと言っていたのを今更になって思い出し、でも化け物が作った料理は俺よりも信用がないと嘲笑にも似た優越感に浸りながら、震えない携帯を気にも留めず事務作業に没頭した。

夜の帳が落ちきった頃にふと今なら仕事も終わっているだろうと携帯を出す。凝り固まった上半身を伸びをして治してからリダイヤルを押す。第一声は多分極めて不機嫌だろう。何しろ、一週間ぶりに会ったと思ったらろくに会話もせずに寝室に連れ込んでやるだけやったんだから。でも仕方ない、俺は飢えていたし、結果としてそれに答えた静雄も飢えていたに違いないのだから。それにしても年だから、背もたれに触れていた肌がじくじくと痛む。シャワー浴びる時に痛いだろうなあと暢気に考えていたが、何時まで経っても通話音が切れず、ようやく俺は首を傾げた。と、丁度、留守番電話サービスに繋がったので、思っていた以上に静雄は機嫌が悪いらしいのに笑った。

「シズちゃーん、なんで出てくれないのさ。まあ今は良いからさ、機嫌直ったら電話頂戴」

ぷつりと無機質な通話を切り、池袋の方を見やる。色んなもやもやしたものを抱えている静雄は今どうしているだろうか。上司に慰めて貰っているのか、それとも門田と一緒に葬式にでも出向いているのだろうか? 例えどんなに他人から労われても、最終的に俺に会いに来るんだから静雄も大概変わってる。
話をする暇も与えずに押し倒したのは俺だけど、人並みに静雄との会話は楽しみたい。そう思ってメールも入れたが返事は無し。

「こりゃ重症……」

この分じゃ暫くは連絡してくれないだろう。なら俺が池袋まで会いに行かないとなあ、と思いながら日付を確認すれば、年越しまでもう少し。別にじたばたする訳じゃないけど、この時期になると何かをやり残したような気分になる。実際にはそんなことはなくて、ぼけっとしている内に年号は変わる。今年は静雄と過ごせるだろうか。あの、無口で不器用で、寂しがり屋な恋人は。


四日後に池袋に行く用事が出来たので、静雄に会いに行くのも兼ねて顔を出す。クリスマスが終わったと思ったら次に聞こえてくるのは正月の話題。年末は、やっぱり鍋でもしようか。二人で食べようと言い出したら大体恥ずかしがって嫌がるから、新羅の家で食べてから家に連れ込めば良いか。今や新羅の家は一種の社交場のようになっていた。静雄は静かな場所でひとりで過ごすのも好きだが、なんだかんだで大人数で、賑やかな食事の場を共にするのも好きだ。口には出さないだけで。見慣れた金髪二人組みプラスドレッドヘアという三人を探すが特に見当たらない。年末は忙しいからなあ。
ようやく金髪を発見、と思って意気込んでそこに走っていくと、その金髪の正体は静雄の後輩だった。昔、俺が仕事を依頼したこともあるので出来るなら接触は避けたいと身を隠す。そこには静雄の上司も居たが、肝心の本人は居なかった。トイレ休憩だろうか、それともコンビニ? 暫く様子を伺うが、二人は店頭を賑わせているおせちのキャンペーンの話に花を咲かせているだけで、そのままもうひとりを待つことなく歩き出した。

「……風邪でも引いたか」

二人の表情は明るい。ヴァローナカラスと呼ばれる女も、笑顔とまではいかないが穏やかな顔をしている。静雄が居なくても別に気にしていないような態度だ。そのまま仕事なのか住宅地の方へ歩いていった二人を見送って、俺は静雄の家に向かった。やはり体調を崩していたのだろうか、仕事を休まないといけないくらい。変調を見破れなかった自分に眉を顰めながら、タクシーを降りて静まり返ったアパートの階段を登った。一階からは談笑の声が聞こえてくるが、二階は閑静としている。平和島と表札がかかったドアのインターホンを押しても反応が無い。
訝しんで再び電話をかけてみるが、今度は電源を切られた。地下鉄に乗っているのだろうか、あの男が? 仕事をさぼってまで何処かに行きたがるような人物じゃないから、その発想はすぐに消えた。ノブを捻っても鍵がかかっている。明かりもついていない。それに人の気配なんて全く感じない。

「シズちゃーん?」

軽くノックしながら呼びかけても誰も答えない。寝ている時に煙草でも吸いたくなって、コンビニに買いに行ったのかもしれない。それかプリンか。もしかしたらどれを買うのか迷っているのかもしれないから、俺が背中を押しに行くとするか。
そう思いながら階段を降りてもう一度通話ボタンを押してみても結局同じで。

(もう一回……え?)

一番最後まで降りてから、ふと郵便受けに眼が留まる。俺の良好な視力は、密集している中でも平和島と書かれたポストをすぐに発見した。

「……どういうこと」

見事に静雄の郵便受けだけ荷物が溜まっていた。新聞や広告が溢れ返って、異様な光景が映っている。それも、とても今日一日の分じゃない。半分確信しながら、冷えた手でポストを開ける。どっと溢れて来る郵便物を腕でせき止めながら一番奥にある新聞を手にとって日付を確認すると、三日前。

「っ……!」

ガンガンと音を立てながら階段をまた上り、ノブを乱暴に回す。そんなもので開くはずがないのに。一歩下がって全体重を乗せて蹴りを入れると、老朽化したドアはあっさりと進入を赦した。土足で駆け込むと、鼻腔を擽ったのは最近まで生活していたという空気じゃない。

「シズちゃん!」

広くはない家だ。真っ先に寝室に向かったがそこには硬い布団しか待っていない。浴室にも居ない。リビングにも。首を回して台所に足を進めると、冷蔵庫の中はほとんど空だ。水道も使われた形跡が無い。もう一度浴室へ入り洗濯機を開けたが、衣服は一枚も無い。
暗がりでよく見えず電気をつけたが、冷えた空気が漂っているだけで目当てを見つけられない。静雄が居なくなった。

「シズちゃん……」

役立たずの携帯を出してまたかけるが、電源は切られたままだ。悪態をついて何か手がかりが無いか見渡す。テーブルの上には書き置きも何も無い。いや、居なくなった訳じゃない。じゃなきゃ、あの二人があんな明るい顔をしている訳が無い。静雄はちょっと留守にしているだけだ。誰か……門田の家にでも泊まっている、とか? それか、新羅。またはあの上司……。大きな舌打ちの後、着信履歴から門田の名前を引っ張って電話をかける。すぐに出てくれたのは幸いだが、がやがやと耳が痛い。

『おう、どうした』
「シズちゃん知らない?」
『そうそう、俺も聞きたかったんだ。なんだ、知らないのかよ』
「どういうこと?」
『静雄の奴、葬式来なかったんだよ。やっぱ連絡行かなかったんじゃないのか?』

違った。門田の声は嘘なんか吐いていない。それ以上何も言わずに俺は一方的に電話を切り、荒々しく周りを見回すと、オレンジ色のそれがついに眼に入った。

「……」

足元にある物を蹴り飛ばす勢いで近付き取り上げる。紛れも無く静雄が使用しているガラケー。長押しして電源を入れる。すぐに新着メール問い合わせに切り替わったが、いきなり「2/38」と表示されてぞっとした。しかもその直後に充電してください、という不快な音。電源は、静雄の意思で切られたんじゃない。
暫くそれを唖然として見つめていたが、充電器に差し込んですべての着信がきた後で、一番最初のメールまでスクロールする。やっぱり、差出人は俺だ。

「……静雄」

携帯はあるのに、持ち主不在。現代社会じゃ有り得ない。俺は中途半端に充電した静雄の携帯をポケットに突っ込んで部屋を後にする。途中で新羅に連絡したが、こいつは忘年会と称して自宅で飲み会の真っ最中だろう。電話には出なかった。メールで今すぐそっちに行くとだけ打って、蹴破った所為で、俺の部屋以上に閉めにくくなってしまった扉を強引に嵌め込む。別の携帯を出してボタンをプッシュした。

「今すぐ俺が言う事を調べて欲しい。大至急」

そう言いながら、とりあえず現在の宛てである知人の元を尋ねるべくまたタクシーを拾った。


データ上の君なんか要らな