何時もと変わらない声。
何時もと変わらない姿。
なのに。
インターホンを鳴らして来訪を知らせれば、「開けてある」と悠長な音が告げてきた。不用心な事だ。ノブを回すと本当に何の疑いも無く俺を招き入れ、溜め息を零しながらも身を擦り抜かせたらきちんと鍵を閉めた。短い廊下を渡ってリビングに入ると、静雄はソファに身体を預けて俺の方に顔を向ける。
「ああ、寒かったのか」
まだ何も言っていないのに、俺が片手に下げている安いコンビニの袋の中に肉まんが入っていると判っているらしい。静雄が頼んだのは、最近ご無沙汰だった煙草とチューハイに、甘いモンブラン。コンビニスイーツのレベルの高さを静雄は知っていてプリンと迷ったようだが新発売のキャッチフレーズに折れたらしい。
「店員が全部一緒に入れようとしててさ、若干苛ついたよ」
笑いながらテーブルに商品を並べ、静雄は迷う事なくチューハイの缶を開けて一口飲んでから肉まんに手をかけた。器用にテープを剥がして時折あちちと可愛らしく指を赤くする。微笑ましい光景だけど、俺は静雄の顔を真正面から見ようとはしない。
「あー、肉まん片面だけ冷えてるぞ。新人店員だったのか?」
「よく見てなかったなあ。それでも袋をお分けしますか? くらいの一言は欲しいよねえ」
温めるか逡巡したらしいが、少しばかり冷えた肉まんはそのまま食べる事にしたらしい。皮はぬるくても、中身の具の熱さは凶悪だ。椎茸が唇に乗ると思わず叫びたくなる。
「それくらいちゃんと見とけよ。何の為の眼だ」
朗らかに笑いながら静雄はテレビの方を向く。それによって静雄の意識から俺が外れ、聴こえないように溜め息を吐いた。この半年間、全く外に出ずに休職している池袋の最強は、通り名とは別人のように穏やかに笑う。昔は、幼い子供が親の虐待でその若い命を散らした、などという理不尽なニュースがある度に画面に拳をめり込ませていた。その手で今は甘い酒を啜り、今でもニュースは見たがらないが、こうして流せる程度には落ち着いた。
「オーストラリアって今、真夏だよな」
「そうだね」
「良いな、海。サンタクロースって半袖で、ヨットに乗ってやってくるんだってよ」
寒くて暗い冬の夜に、一年間、自分は良い子で居たと思いながらも不安に感じながら、来るかも判らない、誰かも判らない赤いおじさんを待つのと、どっちが幸せなんだろう。プレゼントを貰えた時の悦びは同じかもしれないけれど。消え入りそうな声で静雄がそう呟くのと、俺が息を呑むのと、言い終えた静雄が俺の方に顔を向けて口元だけで寂しそうに笑うのは、ほとんど、同時。
「海って、何色なんだ? 子供が絵具で書くような真っ青なのじゃなくて、吃驚するぐらいのセルリアンブルーって聞いた。でも水色でもないんだよな。白でもなくて、透明でも無い。でも、どんなに綺麗どころで有名な海も、雨の日は最悪らしいな。おどろおどろしい真っ黒だって」
「シズちゃん」
何時に無く饒舌な静雄と、無口な俺。変な組み合わせは嫌な予感を運んでくる。今テレビで特集をやっている所為で、潮の音が、つれていってしまう。とっくに肉まんを胃の中に収めた静雄は俺の手に半分以上残っている白いそれに、「早く食えよ」と苦笑した。そんな、顔。何時もと同じ。同じところが、何処にも。ああ。
「……シズちゃん」
それを手放して、自由になった両腕で静雄を抱き締める。前振りも何もない行動に、特に驚いた様子の無い静雄は俺の耳元でくすりと笑って背に腕を回してくれる。絵に描いたような、やさしいシズちゃん。俺が好きなシズちゃん。此処に居る。此処に居る。のに。
「ん……」
そっと口付けて、堪えようのない愛しさを正直にぶつける。静雄の瞼が、ゆっくり閉ざされるのを気配で感じる。満たされない心を誤魔化してキスを深めて、お願い。お願い。と何度もやり場のない感情を、押し付けるだけのおこがましい愛。
「は、ん……っ、……」
両手で頬を支えて深く深く呼吸を奪うと、俺の背中のブイネックを鷲掴んで軽く震えを伝えてくる。ああ、俺たちはお互いに怖いんだ。気付いているの、シズちゃん。俺の開けられた瞳はこんなにも君を映しているのに。
「っ……あ、いざ……や……」
熱っぽい視線を送っても、静雄は切れた息で不思議そうな声音を発するだけ。俺はそっと、頬に置いていた手をずらして……静雄の白い肌よりも、更に白い、骨みたいに白い、白い、白い……、眼を覆っている布に手をかけた。抵抗しないながらも、静雄はさっきよりも更に大きく震えた。
「……シズちゃん……ねえ……」
長い睫毛。形の良い瞼。こんな不躾なものを取り去ったら、君はほうら、何時も通り。その眼を、開けない限り。
「俺を……見て」
静雄が一番困るお願い。人形のように、白い顔に、僅かな困惑を浮かべる。痛いくらいに俺の背中に爪を立てて、静雄はゆっくり瞼を開いた。綺麗な綺麗な色の瞳が顔を出すけど、それに微笑みかけても、瞳孔はひくりとも動かない。俺を、見ていない。
「……楽しいか?」
怒っているような、自嘲しているような声が俺の肌に吹きかかる。静雄の眼は、もう、見えていない。
それなのに彼は俺が微笑んでいると判るのだろう。こうやって、顔のパーツである眼が存在するだけで、一気に昔の静雄に戻った気がする。強気な光を、射抜くような感情を純粋に載せた美しい瞳。俺は泣きそうになりながらも、笑みだけは消さずに小さく首を横に振った。その動作にも、瞳は全く反応しない。
「シズちゃんが、好きなんだよ」
「……そうか」
「大好きだから。怖がらないでよ」
「俺は何も怖くない。怖がっているのは、お前だけだ」
生意気な口を、俺は塞いだ。静雄は眼を開けたまま、俺を映さずに口付けをただ受け入れて、その瞼は一度だけ瞬きをした。何処となく震えて、薄らと張ったのは水の膜。嘘ばっかり、俺は、君は。怖くて堪らないはずなのに。
「何処にも行かないで」
そんな言葉が零れて、静雄は眼球を少しだけ下げた。腕を、少しだけ緩めた。その分俺は噛み付くようにキスをして、肩を抱いて、距離が何時もと同じになるように調整をする。静雄が引いたマイナスを、俺がプラスにしようとしている。でもその構成比率は、馬鹿みたいに、俺の色で占めている。
「お願いだから、ずっと俺の傍に居て。シズちゃんは何もしなくて良いの。だから」
静雄の何も見えない眼から、零れた涙はどんな海よりも綺麗なのに。君が憧れるものは、君が思うほど美しいとは思わない。
「……何も」
この半年間で、半分一緒に暮らすようになってから、静雄は何処か切なげに微笑む事が多くなったけど。
今のシズちゃんはとても美しく、そして昔みたいに、俺を小馬鹿にした笑顔を浮かべて。
「何も判っていないのは、お前の方だ」
眼を見開いた俺に、ひっそりと「ざまあみろ」と言って、静雄からのキスを俺は受け入れた。誘われるままに細い身体を掻き抱いて、残されたコミュニケーションツールである声を散々嗄れさせて、途中何度も名前を呼んだら、犯されて泣きながらも笑って呼び返してくれた。ああ、眼が見えなくても、怒らなくても、暴力を振るわなくても、君は君で、俺は君が好きで、君が俺を、俺を。翌日、空になっていたベッドに、俺は何度も判らせてくれよと、静雄の濁ってしまったあの瞳を思い返した。
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