俺が先に目が覚めるのは珍しい。細く静かな雨が降っていて、カーテンを少しだけ開けて白んだ空をぼんやり眺めた。
隣に上半身裸の状態で寝ている臨也はどんな時だって隙を見せようとしない。此処で俺が髪でも撫でようものならすぐさま眼を覚ますだろう。それを俺は、なんとなく切なく思っている。触れる事を赦されていないように感じるのだ。
歳を取ってすっかり本数の減った煙草は、依存というよりも習慣になっていてやめられない。でも、多分ライターの音ひとつでこいつは起きてしまう。
枕元に置いてあった携帯は、手に取るとひやりとして一瞬で指先の体温を奪っていった。朝は余り好きじゃない。夜より寒く、孤独を感じる。若い頃は一日の始まりだと意気込んでいたというのに。
こんな風に思う原因になったのは、どれだろう。歳を取ったから? 臨也が淡白だから? 俺が可笑しいのか。昨日一週間ぶりに会った時も、俺は何処か上の空で何度か臨也に気分が悪いのかと問われたくらいだった。別にそんなんじゃない。そうじゃないんだよ。
「……ん」
うつ伏せだった臨也が身動ぎして、俺に背を向ける形に寝返りを打った。背中には、生々しいものと古いものとの差はあったが、埋めるように爪の痕がびっしりあって我ながらぞっとする。今まで臨也が情事の最中に骨折レベルの怪我をしなかったのは俺の自制心が働いたからであるが、流石に爪を立ててしまうのは生理的な反応なのでどうしようもない。気がついたら増えていたという感じなのだ。
視線を落とすと、今まで臨也が背中を落としていたシーツの部分には、黒く変色した線状の血が滲んでいた。シャワーを浴びる時の苦悶の表情を忘れられない。こんな掠り傷と臨也は昔笑っていた。俺に与える負担に比べれば確かに蚊に刺されたようなものなのかもしれない。けれど。初めの頃は臨也を傷付けるのが嫌で嫌で仕方なく、泣きながら俺の腕を縛れと何度も言ったのに聞き入れてくれた事はそんなに無かった。
俺は何を考えているのか。唐突にこんな事を考え出したのは、寒い真冬の朝と、指先に感覚が無くなるくらい握り締めていた携帯の所為だ。ゆっくり開いて着信履歴の欄に眼を通す。友人、上司、腐れ縁、間違い電話、後輩、勧誘。色々あったが、その中でも先月着ていた懐かしい三文字を、俺はこの一ヶ月間ずっと頭にちらつかせていた。向こうは向こうで、心配しているんだろう。この歳になっても未だふらふらしている俺を。幽と違ってそういった話をちらとでも耳にしない俺を。
「へい……き、……そっちは……寒いよな……なんか、……食いたいもの、あるか……っと」
かちかちとメールを打って、言葉の少ないそれを送信する。返信は何時も遅い。一生懸命考えているのか、それとも単に携帯操作に慣れていないだけかもしれない。
やる事が無くなって俺は未だ眠る臨也を盗み見る。三十路手前になったからか、眠っても疲れが昔ほど取れなくなったらしい。全盛期時代の無茶がこうやって現れる。
起きるかもしれないというリスクを承知で俺は臨也の頬に触れたが、予想に反してぴくりとも動かない。なんだか、切ない。触れられないのも切ない、触れられても切ない。触れたらすぐに起きてしまうのは俺に権利が与えられていないようで辛く、触れても起きてくれないのは俺を意識に入れてくれないみたいで、辛い。どっちが良いのか判らない。
「……なんなんだ」
吐き捨てるような言葉と違い、身体は慎重に動かしてベッドから降りて衣服を身に纏う。すっかり冷えてしまったそれに身震いしながら不安定な自分の状態を歳の所為にして振り返らずにマンションを後にした。
年がら年中バーテン服の俺は、夏は死ぬほど暑く冬は死ぬほど寒い。幽がくれたものだからと夏は根性で着続けるが、冬はどうしようもないのでブラウンのコートを羽織っている。前を閉じないのはせめてバーテン服を隠さない為の意地だ。
珍しく後輩と二人だけで珈琲を啜っていると、隣のヴァローナが俺をじっと眺めてくる。初めて会った時は二十歳なのに子供っぽい顔立ちをしていた女だったが、この数年間で随分と成長、というか磨きがかかって美人になった。日本語がまだ不自由な白人美女の表情は何時も作ったような無表情だが、その顔が今日はぼやけて見えるので首を傾げた。
「どうした、疲れてんのか?」
「否定します。私はむしろ、先輩の方が疲労していると推測します」
「俺が?」
喉に通した甘い苦味を何処か他人事のように感じながら、眼を擦ってみると確かにぼやけて見えた。歪んでいたのはヴァローナの表情じゃなくて俺の視界か。
「かもしんねえな」
「多少、睡眠不足の傾向があります。僧も走る、今月は多忙を極めました」
「俺も歳だからよ。お前は若いから良いな」
俺がそう笑いかけた所で上司が戻ってきたのでそのまま立ち上がって缶を捨てる。そう、ヴァローナみたいな歳の時は、俺も色々無茶をしたもんだ。今でも俺の力は健在だが自販機を持ち上げるなんて億劫過ぎる。
「疑問を呈示します」
「ん?」
トムさん待ってくださいよ、と言いかけた俺の背後に言葉がかかったので足を止めて振り返ると、唯一の後輩は微妙な表情――失望と恐怖と期待みたいなごちゃ混ぜの複雑なもの――を浮かべながら言葉を口にした。
「先輩から感じる哀愁。時期は先日電話を取り次いだ頃からです。違いますか? 肯定してください」
「……」
拒否権ねえのかよ、と無言で笑いながら上司の後に続く。追求するなという無言の圧力に、ヴァローナは肩を竦めて俺についてきた。
しかしなおも、俺にしか聞こえない声でヴァローナは聞く。
「日本の風習、独特です」
それだけでこの娘が何を言いたいのか理解した俺は思わず噴き出して、怪訝そうな顔をした上司に何でもないっすとだけ言ってまた振り返る。今度は首だけ。
「俺が年末年始に居ないんじゃないかって思ってんのか」
「……肯定です。先輩がこの池袋に存命している、これが私がこの地に滞在する多大な理由のひとつです」
聞きようによっては俺に気があるみたいにも捉えられるが、むすっとしているヴァローナを見る限り、知り合いが居なくなる事に不安を感じているというか、不貞腐れているようだった。
去年はどうしたかな、と思い出そうとするとすぐに臨也が浮かんだ。ああそうだ、どういう訳かあいつと付き合ってから、年末はあいつと過ごしていた。それまでは三が日まで実家に幽と帰省していたというのに。
ああ、もう。なんなんだ。本当に。ヴァローナは何も言わなかった。
二人に笑いながら一足早く来年も宜しくとふざけて言ったら、「まだ会うだろ」と笑われた。そうですねと肯定していた時に出ていた笑顔は、事務所を出ると一気に消え失せた。自宅に戻って冷えた身体を温める為に浴槽に足を伸ばした。はあ、と声が漏れる辺りやはり疲れているのだろうか。
顎まで湯に浸かりながら、来年までの日付を頭の中で数える。まだ。まだ、ある。
湯船から出て手早く身体を拭き、脱衣所の引き出しに眠っていたそれを取り出す。使い方はしっかり覚えている。何時も世話になっているから。違うのは、色だけ。
支度を終え、少しばかりの荷物を鞄に詰め込む。ガスの元栓も締め、電気も消して忘れ物が無いか見回し、最後に携帯を確認する。もし、もし。連絡があったら。
「……な訳ねえよな」
だが待ち受け画面には、着信もメールも着ていなかった。仕事に出てから今の今まで、一度も眼を落とさなかった携帯は、やはり一度も震えなかったのだ。
手に持っていた携帯を、窓際の棚にある箱の上に置き、電源は切らずに放置した。どうせ何時か充電がなくなって勝手に切れるんだから。
朝は真っ白だった、今は真っ黒な池袋に足を踏み出す。私服に身を包んでちょっと飲み会に行くというような、或いは友人の家に泊まりに行くような、少し弾んだ表情で。
ひとつだけ何時もと違うのは、俺の髪が金じゃなくて真っ黒になっている事だった。
月並みに言おうか。もういやだ