年中、家で過ごしていた俺にとってクーラーの無い夏という有り得ない環境に何度かバテてしまった。
そもそも何で学校には職員室や会議室といった教員が出入りする場所じゃないと冷房が無いんだ。金のある私立、または公立でも進学校だと教室や体育館にも完備されているらしいが、冗談じゃない。今まで適温の中で不自由無く暮らしてきた身体が悲鳴をあげている。
「うー……うー……」
教室で突っ伏し死に掛けた俺を見かね、クラスメイトの女子達が髪のゴムをくれた。縛った事が無いので首を傾げると、興奮しながら彼女たちは俺の前髪を上げる。風が額を通って中々に涼しかったので家に帰るまでそのままだった。
帰宅して臨也の不思議そうな顔でようやく容姿が何時もと違うと気付き、鏡で見た若干女々しい姿に顔に赤みが差した。クラスメイトが俺を見てくすくす笑っていた理由が判った。
「拗ねないでよ、似合ってるよ?」
「違げーよ、暑いだけだ……」
クーラーの効いたリビングで、教室と同じように机に突っ伏した俺。臨也がよく冷えた牛乳を持ってきてくれたけど、じわりと肌に纏わり付く汗は不快以外の何者でもない。
俺が牛乳を喉に通しているとデスク上の電話が鳴り響き臨也が応対しているのを眼の端で眺めていた。電話に出ると誰でもワントーン声が上がるものだけど、臨也の声は本当に吃驚するぐらい爽やかだ。
「いえ、使い方は貴方に一任致しますよ。その件に関しては、私は一切干渉致しませんので、ええ。確実にバレない、という保障は出来かねますが首が繋がると良いですね。良い報告をお待ちしておりますよ」
首、という単語でなんとなくセルティが浮かんだ。今朝方、登校中に遠くでセルティのバイクっぽい馬の嘶きが聞こえたけど、セルティって睡眠が必要なのだろうか? 余りそういった話はしないから判らないが、もし人並みに睡眠が必要ならこんな朝早くから仕事なんてセルティは真面目だな。
受話器を置いた臨也はにこりと微笑みながら近付いて来た。最近は臨也も忙しくて、毎日会ってはいるけど会話出来るのは1時間も満たないなんてよくあった。その理由の一端には夏バテした俺が動けないというものがある。汗をかくと体力を消費する。身体の熱気とクーラーの冷気に挟まれ、上気した頬を腕に乗せて眠りそうになる。
「そのまま寝ちゃ駄目だよ、風邪引くから」
「えー……」
そう言いながら臨也は俺の後ろに周り、汗ばむ金髪を撫でる。くすぐったいのか気持ち良いのか判らない感触に眼を閉じそうになるが、軽く身体を振ってもがいた。
「どうしたの?」
「汗臭いから駄目だ……」
割と潔癖な臨也だから、触れさせたくない。面倒ながらシャワーを浴びようと椅子を引く。向き合った臨也は片手に書類のようなものを持っている。やはり忙しいんだなと眉を落とし、甘えたい衝動を堪えた。切なげな表情を浮かべると臨也がそっと顔を近づけてくる。一瞬だけ息を呑む音を出して眼を閉じる。触れるだけ、でも柔らかく長い口付け。疲れも倦怠も無視して蕩けそうになる意志はぼやりと霞み、手持ち無沙汰な両手を後ろに投げ出す。
「ん……臨也……」
泣きそうなくらいに震えた声。何でも良い、臨也と触れ合っていられるなら。無意識に欲しい、とでも言うように頭をこてんと傾ける。臨也は微笑んで唇を重ねる。せり上がる安心感と、じわじわと昇る熱。もしこの世から臨也が消えたら俺は生きられないんだろうなと何気無く感じ、少しずつ与えられる幸福を身に宿す。臨也が俺にくれる全幅の感情だけで俺はこんなにも満たされるんだ。
「明日、ちょっと出掛けようか」
「ん……?」
「何か美味しいものでも食べに行こうよ」
「仕事は?」
「キリが付きそうだから」
哀しげな俺を見て気遣ってくれたのだろうか。だとしたらこんな嬉しい事は他に無い。頷いた俺に向かって臨也は笑って頬を撫でた。さっきより元気になった俺は「風呂入ってくる」と告げてぱたぱたと風呂場に向かった。
俺は甘えるばっかりだけど、臨也は優しいなあ。昔、俺も何か役に立ちたいと言った時には、俺が居れば良いと笑ってくれたけど。俺も臨也が居れば良い。口元を吊り上げながら俺は指先で唇をなぞる。臨也の感触。忘れられない。
午前中は家を空ける臨也との待ち合わせはファーストフード店の前だった。また嫌な喧嘩に巻き込まれるかもと目立たないように隅に隠れた。仕事が終わったら出先から此処まで来てくれるはず。
直射日光が苦手な俺は極力日陰を探した。店内に入ればクーラーもついているが何も買わないのに入店するのは気が引ける。手で団扇を作っていると通行人が俺に目線を向けてきた。
「静雄?」
聞き覚えのある声に意識を傾ける。精悍な顔立ちをした長身の男。門田だった。車に乗っていないのも珍しいなと軽く手を上げた。
「先月ぶりだな。少しは落ち着いたか?」
「ああ……前は悪かった。迷惑かけて」
以前、数年ぶりに再会した門田とは穏やかじゃない会話をした。専ら悪いのは俺なんだが、怒っていた上に臨也が居なくて不安定だった為に詫びも入れていなかった。素直に頭を下げると門田は無表情を崩さないまま制した。
「いや、俺も軽はずみな事を言って悪かったと思っている」
「今日はなんで此処に?」
「俺だって街中くらい出歩くさ」
苦笑する門田に俺はふうんと声をかける。その間に派手な化粧をした女子が俺の肩にぶつかり、詫びも入れずに走って行った。一気に顔を顰めた俺だが此処で怒るのも器が小さいと溜め息を吐いた。
「あー、なるほど」
「何が?」
「今日確か、羽島幽平がブクロでロケだったな。狩沢がそんな事言ってた」
なんだか聞き覚えがある名前だがすぐには浮かんでこない。少し昔の記憶を巡らせると、臨也の妹の顔が浮かんだ。そうだ、あの二人がファンだと明言していた俳優の名前だ。
我ながら記憶力の良い自分を褒めるが、道理で何時もより人が多いんだと不快感を顔に出した。とんだ迷惑だ。
「お前は臨也と待ち合わせか?」
「ああ。でも連絡着てないから暫くかかりそうだ」
「なら折角だし見に行くか? 狩沢と遊馬崎がお前に会いたがってたしな」
前から何度か門田の口から聞かされる名前だ。門田が行動を共にしているんだから出来た人間なんだろうとイメージを膨らませる。興味はあったが俺は首を振る。
「でも勝手に離れられないから」
「時間あるんだろ? こんな目に付く場所に居ると絡まれるぞ。それに歩いて5分もしない」
少し唸る。待ち合わせの場所に居なかったら臨也はきっと心配する。そして怒る。折角の休日に二人で出掛けるのだからそれは避けたい。とはいえ臨也は出先から此処までタクシーで来るはずだし、到着10分前にメールするとも言っていた。歩いて5分なら連絡を受けてから戻っても十分間に合う。
個人的に芸能人を生で見るのは、別に特別好きな人物じゃなくても興奮するものだ。何かの話題になるかもしれないし。
「じゃあちょっとだけ」
「判った」
歩き出した門田の背を追う。俺は自分でも背が高い分類だと思っているが、流石に門田の方が大きかった。肩幅もあるし。
「なあ門田、臨也って学生のときはどんな奴だった?」
「ん? ……そうだな、とりあえずまあ普通じゃなかった。人の弱みとかどっから嗅ぎ付けるのか、あいつに失脚させられた教師は何人居たか。授業もサボってばっかりで、その割にペーパーテストは毎回学年上位でな。運動神経も良かったし、あのツラだから女子がよく群がってた」
褒めているのか貶しているのかよく判らないが、正直な評価に俺はへえと関心を寄せた。俺の記憶がはっきりしている頃には、既に臨也は社会人だったから。
「人間観察とか言って、全然関係無い不良同士の抗争を煽いだり。悪趣味な事ばっかりしていたが、お前と暮らすようになってからぴたりと大人しくなって驚いたぞ」
「そうなのか?」
少なかれ俺は臨也に影響を与えているのかと思うと少し嬉しくなった。正直に声を弾ませた俺に向かって門田は笑った。
「あいつは寂しがり屋だから、傍に居てやれよ」
「当然」
前回とは違う事を言う門田だったが別に気にならない。俺の狂気を真正面から受け止めた事のある門田なら、それが正しいと判っているのだろう。門田は臨也やセルティとはまた違う優しさを持っている。力強くて、過ちを振り返らせてくれるような言葉。でも臨也に関する事だけは俺は譲る気はなかったけど。その結果が、あの日の、殺意。また違う形で侘びをしようと心に決めた。
ロケ地は公園だった。噴水の周りにスタッフやカメラマンがごまんと居る。長身の俺でも爪先立ちしないととても中の光景は見えない。横の門田も同じらしく手でひさしを作っている。周りの女たちは口々に俳優の名前を叫んでいた。
その声が一層高まり思わず耳を覆う。車から出てきたのは主演らしき20代か30代の男女。観客に向かって機嫌良く手を振るその後ろから恐ろしく無表情な少年が姿を見せた。
「なんだあれ、餓鬼じゃん」
「酷い言い草だな、あれが羽島幽平だってのによ。まあ知名度は主役級の二人に比べりゃ劣るが、まだ子供なのに役者だぞ」
幼い顔立ちには似合わないくらいの完璧な無表情。あそこまで表情が出ない子供も珍しい。俺は巷じゃ喧嘩人形なんて呼ばれているが、あいつこそ人形じゃないか?
まるでロボットのようになんの感慨も無く手を左右に揺らしている。距離があったが、真正面から眺めるとなんだか違和感を感じる。はて、なんだろうか。
「なんか見たことあるような……」
「そりゃあな。有名人だぞ?」
そういう意味じゃないんだけどなあ、と思いながらじっと眺める。しかし男を見つめる趣味は無いのでポケットから携帯を取り出す。まだ連絡が無かった。
肩を竦めて何気無く周囲の女が持つ団扇を見る。手作りなのか「羽島幽平」とプリントされたそれに首を傾げた。字を眼で見たのは初めてだが妙に見覚えがある。それにしても「ユウヘイ」に幽霊のゆうを使うなんて珍しいな。芸名だろうが、もっと他の漢字もあっただろうに。
「あいつら何処に居るんだか……声優も来るからどうのこうのって言ってたのに。……ん?」
連れの二人を探すようにきょろきょろしていた門田が急に素っ頓狂な声を上げる。それは周囲も同じで、やっと気付いた俺は騒ぎの中心に眼を向ける。どうやら羽島幽平がスタッフが呼んでいるのに動こうとしないらしい。
なんだあいつ、気分悪いのか? と他人ながら心配していると、羽島と眼が合った。驚いた。それはそれは。だが向こうの方が驚いたらしく、無感情レベルでまっさらだった表情にさっと赤みが差し、眼を大きく見開いた。
「俺……?」
自意識の高いファンだったら「幽平くんが私を見てくれた!」なんて言い出しそうだが生憎俺は違う。それに、視線に明確な意思を感じた。明らかな動揺。羽島が唇を動かしているが、当然聞き取れないし遠すぎて読み取れない。なんだか面倒な事になりそうだと直感した俺は視線を反らした。
もう一度携帯を見つめると、何時の間にか着信が入っていた。1分前だ。当然臨也からで、もうすぐ着くという旨。心臓が高鳴った俺は門田に別れを告げようと顔を上げかけた。しかしそれは叶わない。後ろから来た大柄な男がいきなり俺を掴んで引っ張ったからだ。
「あっ!? なに、んだてめえ!」
「静雄!?」
見ず知らずの男だったが、いつも通り俺は腕を振るおうとする。だが何か特別な格闘技でもやっているのか、腕が痺れて力が入らない。先月サイモンに喧嘩を取り押さえられた時みたいに。吃驚するほどに身体の自由を奪われた俺はずるずると引きずられ、衆人環視の中、車に押し込まれた。
「なにしやがる!!」
これはもう警察に通報しても良いレベルだろう。いい大人が15歳の高校生に暴行したんだから。だがふと、俺が警察に保護されたら色々法律のラインを踏んでいる臨也に迷惑がかかるんじゃと思ったが、そのままの勢いで携帯を出そうとした俺を、男は先ほどの力とは打って変わって慌てたような声を出した。
「すんません、俺もよく判らんのです」
「はあ?」
申し訳なさそうに頭を下げる男に訳が判らない。冷静になって車をよく見ると、どう見ても一般人が乗る普通乗用車じゃない。よく臨也と得意先に出る時に先方が用意するものに似ている。
どういう事だと腕を振り払って睨みつけた。
「羽島さんが貴方を連れて来い、と……」
「なんであいつが。芸能人は一般人を拉致しても良いなんて法律知らねえぞ!」
「いやあその、ただ事ではなさそうでしたし……って、あ?」
俺が乗っている後部座席の反対側が開く。そこからぬっと現れたのは、名前の通り幽霊みたいに佇む色白の美少年。無表情のクールキャラで通っているらしいその顔を驚きと焦りの色で埋めている。
だが相手が世界一の美人だったとしても俺は殴りつけていただろう。事実、その顔を見て嫌悪感を剥き出しにした俺は羽島の胸倉を掴んだ。此処でやり返したら絶対に俺の方が悪者になるなんて事は考えなかった。とりあえずこの白い肌を殴りつけなきゃ気がすまない。
「なにしやがんだてめえ、餓鬼だったら何しても良いって勘違いしてんじゃねーだろうな」
不良だったら竦み上がる。それぐらいの威圧感で凄む俺に、年下の羽島は顔色を変えない。むしろ、すっと色が戻ってきた。喉から零れた声は予想よりも低く、震えているが、ぞっとする程に無機質だった。
「ひとつ、だけ……」
「ああ?」
「質問に答えて欲しいんです」
天下のアイドルに質問される為に俺は連れてこられたのか? 臨也と過ごせる貴重な休日の約束に遅れそうになってまで?
冗談じゃない、俺にとっては有名人100人とお近づきになるよりも、臨也に構って貰える事の方が名誉だ。いきなり他人の自由を奪う非常識な事をしておいて謝りもしないなんて、近頃の子供は皆こうなのか。
「臨也が待ってるんだ……とっとと退け、腹が立ってんだよ俺は」
「……?」
「早くしろ、その商品潰すぞ! 俺は殴りてえ訳じゃねえんだよ」
売り物と揶揄した顔を睨みながら俺は気が立っている為に、細い首に指を絡める。一種の脅しだったんだが、羽島はすっと酸素を吸って、俺の眼をまっすぐに見た。
「貴方の名前は、……『平和島静雄』……ですか……?」
「……え?」
なんで、芸能人なんかが俺の名前を知ってるんだ?
この近辺の学生なら話は別だが、有名人にまで名が知られているなんて有り得ない。俳優って事は余り学校にも行っていないんじゃないのか。それは判らないが、混乱している俺の表情から正解だと読み取った羽島はぽつりと「やっぱり」と囁き、自分の首を掴んでいる俺の腕を握った。冷たい手だった。
「そう……金髪だったけど、顔は全然変わってないし……短気なとこも、その声も……。“暴力が嫌い”なところも」
「なっ……」
なんで知っている、と言いそうになった言葉を飲み込む。俺はこいつを知っている。こいつの手の感触を知っている。こいつの声も、表情も、「何処かで」知っている。
「あ……あ……」
怯えにも似た表情で、無様な声を漏らす俺に羽島は詰め寄る。いや違う、こいつは羽島幽平なんて名前じゃない。
目の前の「 」は、ゆっくりと整った唇で残酷な名前を囀った。
「兄さん、だよね」
「……っ!」
俺の中で何かが弾ける音が聞こえた。
小学生の時に生き別れ、一度は思い出し、そして再び封印した、たった一人の肉親。
「かすか……」
「やっと……やっと会えた」
羽島幽平こと、平和島幽。俺の実の弟。もう居ないと思っていた家族。
余りに強い衝撃に俺は力なく指を外す。眼に怯えを宿し、恐怖に身体を震えさせる俺に対し幽はどう解釈したのか、細い両腕を俺の背に回し抱き締める。
懐かしい温もりは、
「生きてたんだね、兄さん」
俺の精神を破壊した。
「う……うあ……」
「兄さん?」
「うああああああ!!」
気付けば俺は頭を抱えて絶叫していた。それにびくっと幽は身を引き、俺の背後でまさかの兄弟の再会を非現実的な眼で見ていた男も驚きを隠さない。
駄目だ、侵食される。蝕まれる。俺の世界が、壊れる。踏み荒らされる。犯される。亀裂が走る。雨、雷雨、豪雨。入れてはいけない。人格否定。釘。刃。焼く。
「っ……どう、したの? 兄さん」
焦点の合わない血走った眼。俺にとっての存在の否定。駄目だ、眼の前のこいつは。受け入れられない。認められない。信じたら、いけない。
既に俺にとって平和島幽という名前は実弟という懐かしい響きではなく、平和島静雄を覆す呪われた音。
「呼ぶなあっ、言うな、俺を、俺を、呼ぶな、俺は、俺は、兄じゃない!!」
「兄さん……?」
「違う。お前は違うっ。俺の弟なんか、違う! 俺に弟なんて居ない!! 居ない居ない、知らない、違うっ!」
片手で眼の辺りを押さえ、空いた左手で眼の前の弟を指差した。洪水のようになだれ込む情報量。俺の理性を焼き殺し、細められた瞳は苦痛しか宿さない。心臓の音がよく聴こえる。誰かが囁きかける。とてもとても甘く優しい声で。
「だって、だって、居ない!! 居ない、存在しない。誰も、違う。違う違う、居ないって、だって、だって、」
俺の脳髄を支配したのは、あの男。
「――臨也がそう言った!!」
一気に眼の前の少年への恐怖心を募らせた俺は狂ったように叫びながら、助手席に向かって拳を突き出す。撓んだそれに息を漏らす幽。痛みが左手を貫き、その感覚にほんの僅か、糸みたいに細いが理性が戻る。左手に残る臨也への忠誠と信頼、感情、本能。幽は俺を乱す。支配する。幽と接触するという事は、臨也に捨てられるという事。捻じ込まれた擦り込みは否応が無しに俺を絶望に突き落とし、俺と臨也の世界の崩壊の音を奏でる。欠けそうになるくらいに歯を噛み締め、今や人間味を帯びた幽の眼を一瞥すると、糸はぷっつんと切れた。
「来るな、来るなっ……いやだああああ!!」
数年ぶりに再会した弟に全力で背を向け、男を突き飛ばした。ノブを押すのももどかしく、今まで生きて来た中で最も強くドアを蹴り飛ばした。俺の全力を受けたドアは見事に弾け飛び、周囲が唖然と口を開ける。それにひっと息を呑む俺は門田の姿を見つけるがすぐに逃げ出す。反対側から出て来た幽の声が、何時までも追いかけてくるようだった。
「兄さん! 待って兄貴! 兄貴!」
突如姿を消した羽島幽平が一般人の近くで、顔を歪ませて兄に叫ぶ。尋常じゃない光景に気付かない周囲は携帯で写真を撮ろうと興奮しながら近づいてきたため、幽は俺を追えなかった。
振り返るのも恐ろしく、通行人を突き飛ばしながら俺はひたすら走った。頭の中で反響するのは昔の幽と今の幽の声。忘れようとしたはずの記憶。忘れたはずの記憶。すぐに浮かぶのは臨也の嘲笑。侮蔑。あの眼をまた向けられるなんて耐えられない。無我夢中で携帯を出した俺は、約束の時間から10分ほど遅れている事にも気付かず、また画面に着信とメールが入っている事にも眼をくれず、痙攣するように言う事をきかない指を動かし臨也の携帯番号を打ち込んだ。
「臨也、いざや、いざやっ」
耳に押し当て、無機質な呼び出し音に不安が煽られる。早く、早く。
2コールで音が途切れる。向こうが何か言う前に、はっと眼を開いた俺は走りながら叫んだ。
「臨也! 助けて臨也、臨也ぁ!!」
『どうしたの?』
俺がこんなに取り乱しているのに、臨也は吃驚する訳でも、息を呑む訳でもなく、少しだけ早口で聞いてきた。怯える俺は状況を説明出来ずに馬鹿みたいに繰り返した。
「助けて、助けてくれ。嫌だ臨也っ。俺、俺、壊れそう……! 臨也ぁ!」
『……落ち着いてシズちゃん。一度止まって。で、右向いて』
静かな声が鼓膜から脳に伝わり、理解した俺はよろよろと足をゆっくり止める。祈るような気持ちで首を横に向けると、携帯を耳から離している臨也が居た。待ち合わせ場所とは違う、店と店の間の狭い路地。なんでそんな所に居るんだなんて一切考えず、携帯の通話を切らないまま握り締め、臨也に歩み寄る。人の流れを寸断するような俺に不快な視線を送ってくる通行人も何人か居たが全部無視し縋るように臨也に抱きつく。
かたかたと小刻みに震えている俺に何も言わず臨也はそっと抱き締めてくれる。臨也の胸に頬を押し当て、一気に力が抜けた俺は膝を折ってしまう。怖い映画を見た小学生のようにぽろぽろと涙を零し、全力疾走の後なので激しく呼吸を繰り返し胸を上下させる。
「い、ざや……臨也。たすけて……」
憔悴しきった俺は臨也の服を鷲掴む腕以外に力を入れられず、回らない舌で告げる。臨也は何もかも知っているから、ひょっとしたら俺と幽が会った事も把握済みかもしれない。どうしようもなくそれが怖くて、恐る恐る見上げる。もしかして俺を軽蔑しているかもしれないなんて思いながら。
だが臨也はこの上なく綺麗で、優しい笑顔を浮かべていた。毒気の抜かれた俺が思わず口元を緩ませるくらいには。
「大丈夫だよ」
何の説明もしていないのに。やっぱり臨也は全部知っているんだ。
そんな確信のようなものを感じ、知っているのに俺を咎めない臨也に縋りついた。
「大丈夫。シズちゃんは俺が守ってあげるよ」
「いざやぁ……」
壊れかけた俺の心を治してくれる。そっと涙を拭うように頬を撫でる臨也の手に擦り寄る。何時の間にか俺が落とした携帯を拾い上げた臨也は俺を立たせ、大通りに出てタクシーを拾う。その間も1ミリたりとも臨也から離れなかった。俺をタクシーに押し込んだ臨也は自分は乗らず、俺が走ってきた方向を向いた。
――。
そこで臨也が何か囁いたが聞き取れない。入ってこない臨也に不安げに瞳を揺らす。そんな俺に視線を落とすとにこりと笑い、同じように乗り込む。離れるのが嫌でぎゅっと腕を掴んだ。進み出したタクシーは無情にも幽が居た方向に進む。怖いもの見たさに、公園を横切る時に顔を上げる。ロケは続行されていたが、羽島幽平の姿は見当たらない。ひょっとして俺を探しているのかと思うと恐ろしく、ぐっと顔を隠した。その所為で、臨也がどれだけ欲望に満ちた表情を俺に向けているのかを知る事が出来なかった。
自宅に戻ってソファに腰掛ける。慣れ親しんだ場所に来ると人は安心感で忘れていた疲労感に襲われる。俺も例外ではなく、何時に無く疲弊した身体をソファに預け、キッチンに消えた臨也が炭酸飲料のプルトップを押し開く音を意識の外で聞いていた。やがて戻ってきた臨也の手には、半分予想通り飲み物の缶が握られていたが、半分予想が外れ、それは炭酸ではなく酒だった。
「シズちゃんも飲む?」
「……俺、未成年……」
「固いなあ、今時小学生でも舐めてるよ」
発泡を喉に押し込む臨也の感情が読めない。絶望的なまでに読めない。
付き合いが長いから、怒っている臨也が何をどう考えているのかは大筋だけでも判るもの。なのに、今、眼の前に居る男が怒っているのかそうでないのかすら判らない。だから、投げかけられた言葉にもかなり消極的に応える。
「いざ、や」
「なに?」
本当に臨也は知っているんだろうか。知っているなら何故怒らない? 知らないなら何故聞かない?
色んな感情がぐるぐると回る俺に近付いてきた臨也は顔を覗き込む。何時もの笑顔。しかし何処か無機質な気がして、俺は唇を噛む。黙っていたら報復が恐ろしい。此処まで来たら印象の問題ではないが、俺から言った方が臨也の怒りは鎮まってくれる気がした。
「……っ、その……」
追及してくれた方が言いやすいのに、臨也は黙ったまま、片手にビールを持ったまま俺を見下ろす。これが俺のけじめ。大きく息を吸い込んだ俺はそれを言葉にして吐き出す。
「か……幽、に……会った」
「へえ」
大して興味も無さそうに臨也は缶を唇に当てる。なんなんだ、昔は俺が幽の名前を口にしただけで怒り狂ったのに。幽よりも臨也への恐怖の比重が高まってきた俺は、少しでも判って貰いたい想いで震える口を饒舌にする。
「俺、俺は……気付かなかった。でも、向こうは俺に気付いて……。いきなり連れ込まれて、なにするって言ったら、俺の名前を確認してきて……触られて、そこで幽だって思い出して……。そう、したら……す、凄く怖くなって……俺が壊れそうになって、頭が焼け落ちそうになった。それで、……それでっ」
拒絶されたくない。顔を見る勇気は無いけど、ぐっと臨也の服を掴んだ。昔は振り払われてしまったそれ。浮かぶ汗がフラッシュバックする過去を連想させるが頑なに離さない。臨也の手が動く気配にぎゅっと眼を閉じる。助けてくれ、臨也。お願いだ、嫌わないでくれ。そんな気持ちを溢れさせながらも臨也の感情を真正面から受け止められる程俺は強くない。震えが止まらない俺の顎に臨也が触れた。持ち上げられる間もなく、ばっと顔を上げた。
「言ったでしょ、シズちゃん。大丈夫だって」
「あ……あ、……臨也っ」
赦してくれた。思わず臨也が缶を落とすぐらいに勢いよく首に抱きつく。俺を救うのは、臨也のこの温もりだけだ。
「好きだ臨也……っ、ずっと一緒、そう、だろ?」
すぐ近くにある臨也の唇が醜悪な形で甘く歪んだ。
「そうだよ」
まるで酒のように紅に酔う。
「俺はね、幽くんよりも俺を選んでくれたのが嬉しいんだよ」
囁かれた言葉が嘘か本当かなんて考えずに素直に鵜呑みにする。堰を切った俺の理性が良い子を演じた。
「あ、あいつ、勝手に俺の世界に入ろうと、してきてっ、だから俺、俺に弟なんて居ない、って言った! 俺を兄なんて呼ぶな、って、言い返した! それなのにずっと言うから、どうしたのって、聞くから、居ないってずっと言って、あいつが俺を壊そうとするから! 俺が信じるもの全部全部、壊そうとするから!!」
嗚咽の混じった絶叫に臨也は笑みを絶やさず、俺の背を撫で続ける。縋りつく腕は益々力を増し、弟の幽を全否定する。だってそうしないと臨也に嫌われる。あいつを加害者にしないと俺が壊れる。臨也によってではなく、過去に起こった出来事ゆえに自主的に俺は幽を拒絶した。俺にとって幽は、一番最後の鍵であり、俺が作り上げた世界を最も壊しうる存在だった。ゆえに俺とあいつは呪われる。俺の中に流れる血が、細胞が、神経が、あいつを求めながら拒絶する。
「大丈夫だよシズちゃん。俺が傍に居るよ。一緒に俺たちの居場所、守っていこうね」
「っ臨也、いざやぁ、っう、ぅ……俺、あいつ要らない……俺は臨也だけ居れば良いっ! あんな奴見たくない、なんで俺の前に現れるんだ、臨也、あいつが俺の中で、俺を呼ぶっ……! 臨也……たすけて……」
「シズちゃん」
傷付いて血を、涙を流す俺の心を包むように、臨也はそっとキスをする。
俺にとっては臨也。臨也だけがすべてなんだ。
「大丈夫、大丈夫」
何度も何度もそう言いながら、俺を落ち着かせるようにキスを繰り返した。赤く腫れた目元に痛々しいとでも言うように苦笑して見つめてくれる。息の上がる俺は促されるままに深呼吸して呼吸を整える。
素直に言って良かった。臨也の言う通りにすれば臨也は優しくしてくれる。大事にしてくれるし、愛してもくれる。熱を逃がすようにほうと息を吐く。俺を撫でる臨也の手付きは温かかった。泣き疲れた俺が重心を預けると、肩を抱かれてソファに沈む。高校に入ってから一回もしていなかった懐かしい腕枕に重たい瞼を瞬かせる。微笑んだ臨也につられて笑みを返し、狭いソファに縮こまるように並んだ。
微睡む俺の意識を破ったのは電話の音だった。浅い眠りを妨害され眼を開ける。外を見れば既に真っ暗で、寝る前には居た臨也の温もりも傍に無い。一気に不安になって上半身を勢いよく起こすと、丁度紅茶を持って部屋を横切る臨也を見つけて安堵した。
「起きちゃった?」
「ん……、電話鳴ってる」
結局二人で出掛ける約束はうやむやになってしまったが、別に今日しか機会が無い訳じゃない。臨也は手が離せないらしいので、夜の池袋を見やりながらデスクの上の電話に向かって歩いた。
「はい、折原です」
それにしても事務所に電話なんか珍しいな。大体ある程度交流を持つようになると直接携帯にかけてくることが多いのに。そう思いながら目元を擦り寝惚けた声を極力殺して電話口に出る。相手は落ち着き払った男の声だった。
『折原臨也さんの事務所ですか?』
「そうですけど」
『折原さんはお見えになりますか?』
「居ますけど……。少々お待ち下さい」
保留ボタンを押して臨也に視線を送る。何やら資料らしきファイルを探していたらしい臨也はそれに気付くと、まるで待っていたとばかりに深く笑みを作って近付いてきた。あ、しまった、相手の名前聞くの忘れた。俺は電話対応が苦手なんだよな、何回やっても慣れない。
「誰?」
「ごめん、聞き忘れた。臨也の事務所かって聞いてきた。30代くらいの男。四木さんの声じゃない」
「ふうん?」
俺から受話器を受け取った臨也は機嫌良い声で「大変お待たせ致しました、折原です」と応じる。待たせたといっても10秒くらいなのに。臨也曰く例え1秒だろうがこうやって応えるのがマナーらしいけど俺には判らない。
寝起きの頭を起こそうと俺も何か飲もうかなと考えていると、臨也はまるで紀田を初めて此処に連れてきた時みたいに嬉しそうな声を出した。
「ええ、良いですよ。……はい。はい、確かに。……、では代わって頂けますか? 何分、本人の口から聞きたいですから」
言った傍から臨也は受話器を下げる。もう切るのか? と首を傾げようになったが、何故か臨也はスピーカーのボタンを押した。視線が俺と絡み合う。俺にも聞けって事だろうか。素直に近付いた事を後悔した。電話口から聴こえて来たくぐもった幼い声に聞き覚えがあったからだ。
『もしもし、……イザヤさんですか?』
「え、……っ!?」
口を押さえて数歩後ずさる。青ざめた俺の顔を見ながら臨也は、スピーカーを使っていると悟らせないように普段通りの声を装った。
「そうですけど、どうして君のような有名人が僕に連絡なんかを? 年若くして入った業界に嫌気が差したかな?」
「い、い、や、なんでっ」
裏返りながらも小声で動揺を発する。相手の声は電話越しでもよく判る弟のもの。人形のような抑揚の無い声も戻っている。
何で此処に連絡して来たんだ、俺が此処に居る事を知っているのか? だとしたらどうして。
『聞きたい事があるんです』
「僕に答えられる事ならなんでもどうぞ。ただしある程度、線を越すような質問にはお代を頂きますが」
『……平和島静雄さんを知っていますか?』
なんてストレートな聞き方だ。我が弟ながら恐ろしい。臨也がにやつきながら俺に視線を寄越す。必死に首を横に振った。感情が途切れて上手く言葉を繋げない。臨也は顔を受話器に戻すとけろっととんでも無い事を口にした。
「本人が知らないって言ってますけど?」
「なっ……!」
『……』
思考が止まる。信じられない想いで。
『そこに……兄が居るんですか?』
「へえ、君は弟なんだ? 残念だけど静雄くんは君の事なんとも思ってないよ」
『兄に代わってください。今すぐに』
「それは出来ない相談だね。幾ら積まれても」
臨也はどっかりと机に腰掛ける。恐々とした眼で受話器を凝視する俺を一瞥すると淀みなく言葉を紡いだ。
「君も直接見ただろうけど、シズちゃんは既に君が知っている平和島静雄じゃあないんだ。君を見て怯えただろう? 無理に会ったってお互い傷付くだけさ。言っとくけどこれはシズちゃんの意思だし、彼自身が君の事を拒んでいる。それは判るでしょ? わざわざ無価値で無意義な無駄な時間を過ごすのは人生の浪費だよ」
『意味が無いかどうかは僕が決めます。貴方は俺と兄と話させたくないだけじゃないですか?』
子供とは思えない幽の声に俺は身震いした。大人顔負けの緊迫感、何故そんなに俺を欲しがる? 俺ははっきりとお前を拒絶したのに。何で。
見知らぬものに追われているような感覚が恐ろしく、臨也の腕を掴んだ。心細げに見上げる俺に軽く口付けると、そのままの体勢で臨也は言う。一切の容赦の無い声で。
「はははっ、勿論、話させたくないよ。だってそうすると俺のシズちゃんが君によって傷付く事になるからね」
向こうで幽が息を呑む音が聞こえた。沈黙に畳みかけるのは、臨也。
「君は今までもシズちゃん無しで生きてこれたじゃないか。もう十分だろう? お互い大きくなったんだ。シズちゃんも君無しで立派に成長しているよ。遠く離れていた人間に対して今更兄弟としての情を押しつけるなんてひどいなあ。それじゃまるで借金苦で子供を捨てて逃げた親が、子供が金持ちになった途端に戻ってくるようなものじゃないか。そんな事しなくたって、シズちゃんは君の事を忘れて幸せに生きているよ」
臨也が俺に視線を落としたので無言で頷く。臨也が幽に対し毒を吐く事について何の感情も沸いて来なかった。強いて言うなら、ああ、臨也はこんなに俺の事大事に思ってくれてるんだな、って。皮肉にも臨也への感情を強める俺は甘えるように頬を擦り寄せた。
『……違う』
直りかけていた機嫌が一気に損ねられる。電話口の幽の声は震えていたが、今まで以上にはっきりとしていた。何処か遠い場所ではなく、眼の前で話しているかのように。それに俺は眼を、耳を奪われた。
『兄さんは自分の意思で俺を忘れて……幸せになったんじゃない』
「……へえ、根拠は?」
臨也が表情を歪ませた。これは余り面白く思っていない証拠だ。実際眼が全く笑っていない。
『貴方がそうさせたんでしょう、イザヤさん』
幽の声に、はったりや鎌かけは感じられない。本心からそう思っている声だ。無意味にまっすぐで正直な所は変わっていないな……。なんて考えた所で、そう考えた自分に驚いた。変わっていない? 俺は幽を知らないはずなのに。そんな事思うなんて間違ってる。俺は一体どうしたんだ。
『だって兄さんは……俺を攻撃しなかった。俺を壊そうとはしなかった。そして……こうも言った』
『“だってイザヤがそう言ったから”』
確かに俺はそう言った、だから何だという。
『貴方が兄を変えたんです。兄は人間に怯える人じゃ無かった。誰よりも人を尊重出来る優しい人だった。それなのに……兄さんはまるで誰かの言いつけを守るように俺から逃げた。“イザヤがそう言ったから”』
俺は何時の間にか受話器に眼が釘付けになっていた。幽の言葉が俺の鼓膜を、脳を犯して這いずり回る。何だ? こいつは、俺の弟は何が言いたいんだ。
『貴方は兄貴にとって良くない』
決定打だった。幽の声に迷いは無い。まるで決別を切り出すかのような強い言霊。俺は隣で臨也がゆるりと動いた事にも気付かないくらい動揺していた。今までだったら、俺や臨也の邪魔をする奴は誰だって怒りを露にした俺が、気圧された。言葉を忘れた。
『俺じゃなくて、貴方が誰よりも兄貴を傷付ける。兄貴はそれに気付いていないだけだ』
初めて臨也以外に恐怖を感じた。
『俺に兄貴を返してください』
「……喋らせすぎたな」
見上げればそこに鉄壁の無表情を晒す臨也が居て、吐き捨てるようにそう言った。幽にとってアドバンテージとなったのは、この会話を俺が聞いていると知らなかった事だ。それが強気に出られる要因となり、何時の間にか臨也の考えを狂わせ、幽に一本取られた。事実、俺の頭の中は幽で一杯だったから。
「残念だけどこれ以上君がシズちゃんに介入するのは俺の計画には入っていないからこの辺で失礼するよ」
『っ待ってください、あに』
臨也は最初からそうするべきだったという顔で一方的に電話を切った。そのまま足早に何処かへ行くかと思えば電話線を抜く。その動作を恐ろしい眼で見ている俺の傍に寄ると、くしゃりと髪を撫でられる。不安が倍増した。
「大丈夫? シズちゃん」
今日何回も聞いた言葉が、俺の中には入って来なかった。
(……俺は、……間違っているのか?)
俺は気付いていない、だけ? 俺を傷付けているのは臨也? そんなはずない。そんなわけない。違う、あいつの言う事は信じちゃいけない。返してくれって、何時俺はお前のものになったんだ。俺は、俺は臨也のもので、“貴方が兄を変えたんです”いやそんなんじゃない、これが俺であって“兄貴は気付いていないだけ”違う、知ってる。これが、俺だ。俺なんだ。だって、だって、……あれ? いざやが、そう、いった。あいつの言う通り。
「シズちゃん?」
真っ青な顔で俯く俺は臨也の機嫌が極度に悪い事に気付けなかった。俺の首を絞めるかのように伸ばされた手を俺は反射的に取る。驚いたような臨也を見上げ、弱りきった眼を揺らした。
「お……俺、臨也のもの。……間違って、ない。違うのはあいつ。俺は知ってる、ちゃんと知ってる。俺の絶対は臨也だって。ずっと一緒だって。ち、違う、のか?」
俺にとっては1+1は2じゃないと言われたぐらいに、当たり前を覆されたような気分だ。正常な機能で動いていない俺を見た臨也はすっと怒りを鎮め、抱き締めてくれる。俺は動揺していた。その証拠に、普段の俺だったら気付けた。臨也も微かに震えているって事に。
「シズちゃんは俺が守ってあげる。誰にも傷付けさせない」
吹き込まれる言葉。一般的な意味で正気を取り戻しかけていた俺は、他人のようにその台詞を分析し、眼を見開く。その言葉の裏には「俺以外が君を傷付けるなんて赦さない」「君を傷付けて良いのは俺だけ」という意味を持っている。悟ってしまった。気付きたくなかった。俺の心に影を落とす張本人が臨也だって。
正しいのは俺でもない、臨也でもない。でも幽が正しいのかも判らない。俺は、やっぱり間違っているのだろうか。
「……」
腕の中の俺が一切の反応を返さない。臨也が訝しげに俺の顔を覗き込み、眉を寄せる。愁眉というよりも不信そうな顔。俺の唇が戦慄く。何か、何か言わないと。何が正しいのか俺には判らないが、これだけは間違っていない。俺は臨也無しじゃ生きられない事、臨也に捨てられる事が俺の精神の死である事。
「い、ざ」
「仕事、しなきゃね」
畳み掛けられた台詞に身が竦み上がる。立った臨也がほんの僅かに視線を俺に落とした。軽蔑、いや、無関心? どうでも良い? そんな感情が込められている事を真っ白になった頭で理解する。臨也が俺を見ていない。
「なんっ」
「俺だって暇じゃないんだよ」
今日だって合い間の時間に出掛ける予定だったんだ。それを潰したのは他でもない俺。臨也にとっては無駄以外の何者でもない空白の時間だったんだろう。でも俺にとっては人生の方向が変わったかもしれない時間だったのに。臨也は、例えどんな事でも、自分以外で俺の心が揺れるのは気に入らないというのか。
「……」
言葉を失くし座り込む俺を無視して臨也がデスクに座る。完全に接触を遮断されたように複数台のパソコンを立ち上げ、ファイリングしてあった資料に視線を落とし始める。俺を居ないものとして意識すら向けてこない臨也に、心と神経が侵される。俺は今、臨也の世界に居ない。
「ぅ……」
俺を世界に入れてくれない。こんな苦痛、他にあるだろうか。泣き叫びたい気持ちをぐっと押し込み、臨也の機嫌が直るまで待とうと、そっと立ち上がって事務所を後にする。扉を閉める時にちらりと中を覗き込むが、臨也は視界にすら俺を侵入させない。睫毛の手前まで来た涙を瞬きで誤魔化し、ゆっくりと扉を閉めた。
俺の頭の中はぐちゃぐちゃだ。今まで信じて来たものを本人にすら曖昧な形で違うと言われたような感覚、じゃあ俺は何を信じれば良いんだ。幽は俺に何がしたかったんだ。纏まらない考えの所為で普段以上に不明瞭な思考回路。可笑しい、今までだったら俺はすぐにでも臨也に縋り付いて慰めて貰っていたというのに。なのに、臨也に得体のしれない恐怖のようなものを感じていた。臨也は俺に、何をして欲しいっていうんだ。
ベッドに潜り込んでも頭が冴えてて眠れない。俺はどうすれば良い。どうしたら臨也に赦して貰える?
(俺の弟ってだけで俺以上に理不尽な暴力に見舞われた)
(その救急箱、幾つ目だ?)
(離れて欲しい。もう俺じゃお前を守りきれない)
『別に』(無理しなくて、良いのに)
掻き乱された思考は臨也ではなく幽にシフトが向けられた。遠い過去に、そんな事を思った気がしたんだ。幽は俺の何を知っているんだ、と考えた時に、じゃあ俺は幽の何を知っているんだろうと、じっと眼を閉じて考えてみる。
髪が闇色だった頃から、俺たち兄弟は周りから顔以外は「似てない」と言われてきた。幼少から割と背が高く運動好きだったからそれなりに筋肉もついていた俺と違い、幽は細面でもやしのように白く線が細かった。感情がストレートに出る俺と、極めて冷静に物事を判断する幽。似ていたのは好みくらいだった。俺も幽も甘い物が好きで、小さな頃はよく取り合って喧嘩もした。それだけ。
「……それだけ」
口に出して、ぽつりと。今思えば、俺は幽の事をそれほど意識した事が無かったのだろうか? 特に目ぼしい事を覚えていない。例えば家族でキャンプに行って遊んだ、だとか、毎日一緒に登校して帰りには寄り道した、とか。これほどまで覚えていないと俺にとって幽は重要な人物じゃなかったという事だろう。
幽が口数の少ない奴だったという事も大きい。印象に残るほど、会話した事が無いんだろうか。というより幽と喋った記憶がない。
「……?」
じゃあ、さっき、思ったのは誰の何に対してだ? 俺は誰に喋ったんだ? 俺の何に対して、そいつは「別に」と答えたんだ?
『大丈夫。 ないよ』
幽の口元がフラッシュバックする。何時の事だ? しかもなんて言ったのか正確に聞き取れない。そう、俺の本当の親が亡くなった次の日くらいだ。葬儀を済ませた後、そう、あいつは俺に抱き付きながらそう言った。でも肝心な所が判らない。ノイズが奔るんだ。
「なんだ……」
幽は何に対して「大丈夫」と言ったんだ。その続きに何を言ったんだ。どうして俺は思い出せないのに、歯が震えるほどその言葉を恐れているんだ?
身体の寒気と震えを抑える為に肩を抱いても、むしろ震え方を自覚して更に怖気づくという悪循環だった。この震えは幽じゃなくて臨也によって起こされているんじゃないだろうか。暗い外を見ながら恐ろしい考えに蓋をしようとするが、溢れ出したそれはもう止まらない。このまま臨也の機嫌が悪いままだったら、俺はどうすれば良いんだ。
廊下で佇んでいた俺は扉が開く音で飛び上がる。臨也の声が「ご飯だよ」と告げてくるが、余りに素っ気ない。慌ててリビングまで戻ると、テーブルには一人分しか置いてない。臨也は休みなくキーボードに何かを打ち込んでいて俺を見ない。
「食べない、のか?」
人生で最も勇気を振り絞って訊ねたが、
「俺は良い」
と返されてもう何も言えなくなった。臨也が視界に入るのに、この余りにも孤独な食卓は無いんじゃないか。いっそ死にたくなって、縮こまって箸を握る。涙が零れそうになって、気付かれないように目元を拭った。何時も俺は、何かあったら臨也に相談していた。臨也が必ず答えをくれたし、十中八九それは正答だった。それに従えば俺に怖いものなんて何も無かった。なのに、今回のはなんだ。俺は何処を、何を間違えた? 何時もと同じくらいなのに恐ろしく固く感じる牛肉を無理矢理喉に流し込んで臨也を横目に見るが、相変わらずあからさまに俺を避けていた。全然噛んだ覚えが無いのに皿の上から消えた食べ物に食事を終えていた事に気がついて、皿をフォークでかちかちする音しかしないので、ゆっくり椅子を引いた。俺の中じゃ疑問しか浮かばない。色んな事に対してなんでと考える様は、さながら自我の芽生えたばかりの児童だ。
「……どうして」
その気持ちを、ぽつりと口にする。臨也には聞こえていないと思っていた。しょんぼりしながら食器を片付けて、まるで習慣のように臨也を見る。相変わらず俺を見てくれないが、作業の手は止まっていた。軽く首を傾げるが、何か言葉をかけて欲しいと同時に今は臨也の言葉が怖く、俺はその場を後にした。自分の部屋に入ってから、ずるずると扉伝いに腰を抜かす。膝を抱えて顔を埋めても、解決策なんて何も見つからなかった。だらだらと時間だけが過ぎる中、廊下の板を踏む音で、自分が泣いている事に気付いて慌てて涙を払う。背中の扉の向こうに臨也の気配を感じて身を強張らせる。臨也の近くに居るのがこんなに怖いと思った事は無い。普段だったらどれだけ臨也を怒らせたって、臨也に縋っていた。なのに今回だけは。
「俺だってなんでも出来る訳じゃないんだよ」
扉越しにそんな声が聞こえてきてぞっとした。すぐに臨也の気配が無くなった辺り、聞かせたくない独り言だったのだろうか。そこでふと、考えが浮かんで涙が引っ込んだ。
そうか、何で俺が臨也を頼らなかったのか。臨也にはどうしようもないと理解していたからだ。どうにか出来るのは俺だけなんだ。これは俺と幽の問題だ。今までは、必ず問題は臨也の方からだった。俺の人間関係は全部臨也関連だったから、臨也が対処出来たのは当然だ。でも今回だけは違う、臨也じゃなくて、俺の問題。幽の事は情報として知っていただろうけど、俺と臨也がどう過ごしたかは知っていても、何を話したのかは知りえない。臨也はどうにもならないと判っていたから苛立っていたのか?
「っ……」
扉を開けるのが怖くて、息も殺して押し黙った。既に臨也は傍に居ないと判りながら、離れた温もりを追えなかった。
俺は、俺で何かをするべきだ。俺は、……独りで幽に会いに行けるだろうか?
出来る、とは断言出来なかった。長年かけて、水面下で臨也に植えつけられた幽への恐怖心は、「なんとかしなきゃいけない」なんていう仮初の義務感で払拭出来る程安くない。事実、数年前に幽に会いたいと思った気持ちを俺は忘れかけていた。俺の左手に残る傷跡。薄らとしか残っていないそれ。
「……」
このままじゃ臨也に赦しては貰えないのだろう。何気なく、そう思った。
ベッドに充電したまま投げ出してあった携帯と財布をポケットに突っ込み、部屋を出る。ちらりと臨也の居る方を見てから、そっと玄関まで向かい、夜の池袋に踏み出す。
幽に会いに行こう。
籠の鳥は、帰る為に外に出た