何時も何時も、眼が覚めたら寒かった。隙間風が酷いし、布団も薄いから。なのに、今日は手足を伸ばしてもはみ出る事無く、何重にも重ねられた着物が俺に寒さを全く感じさせなかった。枕が違う事に気付いて薄らと瞼を開けると、知らない天井が眼に映った。
「え……?」

此処は何処だろう? なんで俺はこんなとこで寝てるんだ?
慌てて背中を持ち上げ辺りを見回す。無駄に広い、ほとんど何も置かれていない部屋の中だった。まるで神社の中みたいだ。名残惜しいが、布団から出て障子を開けると縁側が続いていた。大きなお屋敷だろうか。そんな所に入った事が無いから実際の所判らないが、なんで自分の家じゃないんだろう、という疑問はすぐに消滅した。

「俺……生きてる?」

両手を見つめて、何度も手を開いたり、拳を作って動く事を確認する。足元を見たって、消えていないから幽霊じゃない。
でもどうしてだ。俺は、飢えに苦しむ村人たちに生贄として納められたはず。実際、昨日の晩は棺から抜け出して森の中を歩き回って……そこでもう一度足元を見たが、生傷だらけだった俺の足は、ほとんどの怪我がふさがっていた。

「やっぱり死んだのかな……」

流石の俺でもこんなに早く傷口が癒えるはずもない。なら死んだのか。がっくりと肩を落とし、両親や幽はどうしているかなと物思いに耽りかけた俺の耳に、人の声が聞こえた。
この声は。そうだ、俺が昨日、こいつになんかの術をかけられて失神したんだ。いや、失神じゃなくて殺されたのか。死ぬのって痛みは無いんだな。良かった。落ち葉が絨毯のように落ちている縁側をぺたぺたと歩き、角を曲がると、そいつは居た。貴族のお屋敷みたいに綺麗な、小さな庭園がそこにあってあんぐりと口を開く。庭石に腰掛けているそいつに俺は恐る恐る近付く。狩衣を纏った男は手に紙と筆を持っていた。

「あの……」

男の、狐の耳がぴくりと俺に向いた。振り向いたそいつはやっぱり人間みたいな顔をしている。人間だとしたら、かなり綺麗な人なのに。

「ああ、やっと眼が覚めたんだ。心配したよ」

眼が覚めたという表現がやや引っかかった。死んでるのに覚めるって可笑しくないか。男は俺を見て嬉しそうな顔をして、紙に一文書き足して折り畳む。まるで文のようだが、妖の癖に誰に手紙なんか。そう思っていたら、男はそれにふっと息を吹きかける。紙が一瞬にして白く輝く、平面的な鳥へと変化した。

「っえ……!?」

吃驚して近付き、もっとよく見ようと見上げるが、紙で出来たような鳥は俺たちの頭上をひらひらと飛んだと思ったら、一定の高さまで飛ぶと幻のように掻き消えた。鳥が消えた辺りを唖然と見つめている俺に男がくすくすと微笑んだ。

「初めて見た? 妖気を吸ったものはなんでも操れるよ。親展の私信に出来る。君の事を知り合いに説明したのさ」
「俺を……?」
「まあそれは追々。ところで、お腹空いてるんじゃない? シズちゃん丸一日寝てたから」
「丸一日!?」

呼ばれ慣れない渾名より先にそちらに驚いた。という事は、俺が昨日だと思っていた出来事は一昨日だったのか。
と、待て待て、だから俺は死んでいるのに日付とか概念はあるのか? 死んでも日付は関係あるのか。

「俺、死んでるんだろ?」
「死んでるように見えるの? 君はまるっと正常に生きてるよ。心音でも聞いてごらん」

はっとして胸に手を当てる。落ち着いて鼓動を探ると、確かにとくんとくんと生きている証拠が動いてる。少しだけ安心した俺は次なる疑問が浮かんだ。

「なんであんたは生かしてんだ……? 妖が人間を生かしておくなんて話聞いてない」
「……。君は今すぐ死にたいの?」
「死にたくない」

まだ生きているなら、このまま生きていたい。だけど俺は捧げられた供物だ。妖は肉体に興味は無いんじゃなかったっけ?

「人間が持ってる俺たちに関する情報なんて、嘘八百や勘違いやこじ付けが多いんだよ。まず、俺たちみたいなのは人間なんか捧げられてもちっとも嬉しくないし食べもしない。食べるのも居るけど、それはかなりの少数派。君が聞いた話の半分以上は間違ってるよ。そんなもの、大人が子供を躾けるのに使う御伽噺さ」
「お、おい!」

とっとと屋敷に向かって歩き出したそいつに向かって叫ぶ。まだ聞きたい事が、と言い掛けたが、肩越しに振り返った男はにっこりと笑った。

「俺は臨也だよ、シズちゃん。“おい”でも“あんた”でもない。おいで」

言われなくても、慌てて追い縋った俺はぺたりとそいつの後ろにくっつく。縁側に昇らず、迂回するように裏手に回る。歩いている内に此処はお屋敷じゃなくて、やっぱり神社やお社の類だと気付いた。その割には像のひとつも置いてなくて殺風景だが。その代わり、周りの景色は素晴らしかった。赤に変わりかけた紅葉の大木が幾つもある。俺の村には、そんなの一本だってありはしなかったのに。朝の冷たい風すらも、風情を感じさせる一要因にしか思えない。
歩き続けていると、言われた通り空腹を感じるようになっていた。しかもなんだかふらふらと足元が覚束なく浮遊感強い。俺は本当に生きているのかともう一度不安に思うくらいには。
やがて他よりも一段だけ低い建物が眼に入る。納屋だろうか、と思いながらついて行くと、臨也がそこの扉を開く。

「入って」

中を覗き込むと、そこは俺の家のものよりも大きく立派な厨房だった。思わず臨也を追い抜かして薪や竃に触れて確認する。

「すげえ」
「お腹空いたら、此処で好きなだけ作ると良いよ。食材はこっち」

言いながら臨也は別の扉を開くとそこには大量の野菜類が置いてあった。ただ、どれもこれも丁寧に包装されたものをそのまま此処に置いたようなぎこちなさがあり、収穫したものには見えなかった。俺の不思議そうな視線に気付いた臨也はやれやれとでも言うように肩を竦める。

「俺は食べる必要が無い種族でさ。だから人が一日に二回や三回も食事するのには正直驚くよ。なんだけど、俺の都合も考えずに人は供物を捧げてくる訳さ。要らないのにね。放置したらご利益が無いと思われるし。何時か使うかもしれないと思って術までかけて保存しておいたんだけど……やっと減りそうだ」
「……良いのか? 俺を、……殺さなくても」

見た事が無いくらいの大量の食料に、俺は此処に来た意味を忘れそうだった。村の人は、病気になって痩せた野菜で食い繋いでいる。幽は今も、食べられなくてお腹を空かせているはずだ。俺と村と天秤にかけたら、どちらが重いかなんて判り切っている。俺が此処に来た理由は村を助ける為なんだ。

「うん?」

曖昧に臨也は濁す。狩衣の袖で口元を覆い、こてんと首を傾げている。困っているというよりは、面白がっているような気配がした。くすくすという笑い声は、俺の耳元まで聞こえている。
俺は臨也に向き合って拳をぎゅっと握る。俺が生かされても、村が飢餓なら意味が無い。そうなったら、大人は俺じゃ神様のお気に召さなかったと判断して次の子供を生贄にするだろう。それが続いたら、幽の次は、物言わぬ赤子だろうか? そんな事は駄目だ。俺は、俺を代償にして村を生かさないといけない。

「……頼む。あんたの力で、村を、助けて欲しい。幽を食べさせてやりたいんだ……」

今すぐに首が跳ねる事も覚悟した。だけど、受け入れないと。俺は一度は死んでいるんだ。今まさに俺は神様に直訴しているんだと思うと怖くなってきたが、相手の事を再認識した途端、土下座した方が良いかと思って、膝を折りかける。そこで臨也がはっきりと言った。

「嫌だよ」

勢いよく頭をあげる。口から袖を退けた臨也は、まるで人間みたいに性悪な笑みで唇を歪めた。

「やろうと思えば可能だよ。俺の力の一部、しかも極々微量を村に注げば良い。それで十年間の豊穣を約束出来る。でーもーね。そんな事したって俺に利益は何もない。だから、やだ」

絶望感で身体の力が抜けた俺はへなへなと地面に膝をついた。駄目だった。俺はこいつに縋るしかないのに。このままじゃ幽が死ぬ。両親も、みんな。俺は最後まで役立たずなのか?
幽との別れの際に、散々流した涙が溢れてきた。情けない。命を張っても、俺が出来る事なんて何も無かったのか。

「……っお、お願い、します……俺はどうなっても良いから……! なんでもするから……。じゃないと、村が死んじゃうんだ……!」

爪を立て地面を削る。十年じゃなくても良い、五年でも、三年、いや、一年でも良い。幽に腹いっぱい食わせてやりたい。俺は死んでも良いんだ、その覚悟はある。だから、生きている内になんとかしないと。
臨也は暫く俺の事をじっと見ていたが、やがて草履の音を引き摺りながら俺の傍に跪いた。相手は神様だと、そう思うと怖かったが、なんとかして顔を上げる。暗い厨房の中、臨也の赤い眼だけが爛々と光っていた。

「じゃあ、条件がある。ひとつだけ、君がそれに頷いてくれるなら、シズちゃんの生まれ故郷を永遠に守ってあげる」
「っ本当か……!? なに、なんだ……?」

命だって捧げる事も出来る。なんだって構わない。たったひとつの条件くらいお安い御用だ。心からそう思った為に迷いは無かった。涙ぐむ俺に臨也はこれまでで一番悪い顔で笑う。驚くほど人間に近い表情で。

「君の魂を貰う。魂魄まで束縛する。つまり、二度と人とは交われないし、故郷にも帰れないし、弟君にも会えない。君の全部を俺のものにする。それでも、良い?」

なんだ。難しい事は判らない。だけど、そんな事か。そんな事で良いなら。
俺はすぐに頷いた。何度も何度も。臨也の狩衣に縋ると、俺よりも一回りも大きい身体で抱き締められる。まるで人間みたいな抱擁。これで、これで、幽は助かるんだ。

「約束、だよ……シズちゃん」
「臨也……」

囁かれた言葉は呪詛のように俺に染み渡る。俺と臨也との間で交わされた契約は、静かにひっそりと、動き始めた。


からんからん、意思を持った傀