「それなら、三人で食えば良いだろ」
この人は何を言っているのだろう。
出かけようと思った矢先にバイクが故障したので、仕方なく安くない賃金を払って電車に揺られていた。脳裏に、友達以上恋人未満の人を思い浮かべながら。
池袋で自動喧嘩人形と都市伝説扱いされている、金髪バーテン服の男と俺は浅からぬ仲だ。少なくとも俺は極めて恋人に近い友人だと思っている。未だ一線を越えていないのは、相手が厄介な事情を抱えているからである。
「えーっと……」
ホームを出て、余り見慣れているとは言い難い夕方の池袋を一瞥した後、念の為案内板に眼を通してから目的地に歩き始める。道順は一応覚えているとはいえ、慣れていない土地を侮ると痛い眼に遭う。前々回、ショートカットしようと思って路地に入ったら全く違う通りに出てしまい向こうに迎えに来て貰う破目になった。気にしていない、と笑ってくれたがこちらとしてはとんだ失態だったと思う。好きな人にはかっこいい自分を見せたいんだと情けない声で言ったら小突かれたので、それはまあ良い想い出かもしれない。
近くまで来てから着信履歴の一番上の番号にかけてみるが、5コールしても出ないので首を傾げた。着信音に気付いていないのだろうか、と思った瞬間に雑踏に混じって想い人の声がした。
『悪ぃ』
「良いよ。今、何処?」
『露西亜寿司の前』
「あと2分ぐらい」
足早に横断歩道を渡って通話を切る。淡白な連絡事項だけだったが、これだけで俺のテンションは急上昇だ。建物の屋根が見えてきたので鼻歌交じりに目的地に到着すると、そこには何時ものバーテン服じゃなくて私服を纏った、池袋最強の男が立っていた。が、その周囲を三人ほどが取り囲んでいる。一瞬、喧嘩っ早いあいつがまたいちゃもんでもつけられているのではと思ったが一番手前に居たのが黒い服を着た女だったので肩の力を解いた。
「静雄ー!」
俺が大声で呼びかけると、背中を向けていた平和島静雄が振り返った。薄い微笑を浮かべていた表情が、ゆるりとゆるむ。俺を見て、笑ってくれる。無駄におっかないイメージを与えがちな青いサングラスが無い分、随分と柔らかな顔をしている。見惚れていた事に気付いて、立ち止まっていた足を動かして近付いた。
「千景」
特別大きい訳でもないのに、この雑沓の中でもはっきり聞こえるように俺の名前を呼んだ。挨拶はそれだけで良い、というよりも俺が何か言う前に女が高い声で叫んできた。
「ろっちーじゃん! あ、シズちゃんが待ってたのってろっちー?」
「ああ」
「狩沢さーん、変な期待はしないで欲しいっすよ?」
門田は無言で俺に手を挙げた。数ヶ月前に殴り合った仲だったが、今では良き友人関係を築いている。狩沢と遊馬崎は門田経由で知り合った二人だったが、中々にノリが良くて面白い。偶に何を言っているのか判らなくなるけど。
「本屋締まる前に行くぞ」
「はーい」
「そんな焦らなくたって二次元は消えないっすよ!」
「お前らを引き戻すのに時間がかかるんだよ」
静雄と立ち話でもしていたらしいが、門田が呼びかけると二人とも大人しくついていった。白いイタ車に乗り込んで笑顔で手を振ってくるので俺と静雄も控え目に返す。去って行くのを確認してから静雄に眼をやると、視線に気付いた静雄が俺に向かって微笑む。先月よりも、随分と精神的に落ちついたらしい。
「行こうぜ」
流石に有名人の静雄の手を引く事は、眼を引くから叶わなかったけどその分、態度で示す。連れ立って駅の方向まで歩いていく道中、気になっていた質問をぶつける事にした。
「なんか思い出した?」
俺が第一発見者じゃなかったら恐らく信じられなかっただろう。だけど、静雄はある日、余りにも唐突に記憶を喪失した。それを利用して俺は醜い作戦を思いつき、静雄に嘘を吐いて一時期一緒に暮らしていた。だけどそれは結局破綻した。ある男のお陰で。全部知った静雄は俺を殴りつけて出て行ったが半日も経たずに戻ってきてくれた。自分を騙していた俺を赦してくれた挙句、好きだとも言ってくれた。
それから俺は静雄に絶対に嘘を吐かない事を決めた。池袋に舞い戻った静雄はこれ以上は休めないからと、記憶が無いにも関わらずに職場に復帰した。その辺りの事はぼかされたが、当日に正直に白状したらしく、上司からは咎められたらしいがすぐに優しくしてくれた、と嬉しそうに語った。俺が思っていた以上に静雄は周囲に歓迎されている。今日だって覚えていない門田たちとあんなに穏やかな顔で会話する事も出来ていた。それは俺としても良かったと思う。
唯一、良かったと思っていない事がある。当然、静雄と同居出来なくなったのも切ないがそれはまだ我慢出来た。我慢出来ない、というよりストレスの原因になっているのが、新宿に居る黒いあいつだ。
「んー……割と」
「え!?」
隣に静雄が居る幸せに浸っていた俺は、さらりと言われた事にぎょっとして眼を見開いて静雄を見つめる。静雄は自分でも不思議に思っているような顔で小首を傾げた。
「いや、断片的なだけなんだけどよ」
「それでも……いや凄げくね、どんな事?」
「トムさんの顔、なんとなく覚えてるなーと思ったら中学の先輩だった。あと門田も、修学旅行が一緒だったな。土産落として落ち込んでたら慰めてくれた」
「へえ……」
静雄曰く、本当に断片的らしい。一場面が写真のように、時には声もついて頭にちらつくらしい。
「じゃあ俺の事は?」
期待と不安を抱いておどけて聞いてみる。立ち止まった静雄はたっぷり間を置いてからにっと笑った。
「全っ然」
「うえええー! 静雄、俺の事だけ選んで忘れてるんじゃないだろうな!」
「俺の脳がそんな器用な事が出来るかよ。ははっ」
ポケットに手を突っ込みながら静雄は俺を置いて歩き出した。一緒に住んでいた頃とは違う、晴れやかな後ろ姿だ。良い傾向とも言えるし、なんとなく寂しい気もする。俺じゃあ、静雄に届かないのかもしれないと。静雄を変えたのは俺じゃない。静雄を想っているのは、……。
「何暗い顔してんだよ」
いきなり眼の前に静雄の顔が見えて背筋をびくっと撓らせた。心配しているのと、呆れているのとを合わせたような微妙な表情をしている。固まっていた俺はゆっくりと全身の強張りを解いてなんでもないと首を振った。どうにも上手く出来ない。上手くやれない。静雄への罪悪感や後ろめたさは、彼自身に赦される事で和らいでは居たが、必要以上に引きずっているらしい。さっきから頭をちらついているあいつも原因のひとつで。
「……」
折角のデートなのに。辛気臭くなって悪かったな、と俺は精一杯笑って顔を上げようとしたが、その前にその頭を抱えられる。人が居る、のに。
「俺はお前の事も好きだよ。千景」
囁かれた言葉は、俺の身体から毒素を抜く。静雄がこう言ってくれるなら、俺はこれ以上する事は無い。嘘じゃない笑顔を浮かべて今度は俺が静雄を抱き締める。人前なんて気にするな。でもひとつだけ悔しいのは、俺がもっと背が高ければ、彼を腕にすっぽり収められるのに。これじゃあ、俺が抱き付いているみたいだ。
静雄の地元を騒がせる訳にはいかないので、ほんの一瞬で解放して静雄の手を取り走り出す。静雄も軽く文句を言いながら俺についてきたが、口元には誤魔化しきれない笑みがあった。本当に可笑しい。こんな簡単な事なのに。
「俺、マジで静雄が好きだ!」
まるで遠足にでも行くようにはしゃぎながら、眼の前に向かって叫ぶ。俺に手を引かれて後ろをついてくる静雄は「何でかい声で恥ずかしい事言ってんだ」とさっきよりも怒声を強くしたが、それならなんでそんなに笑ってんだよ。
「おっと……千景、ストップ!」
後ろから大声で告げたので何事かと思えば、静雄はポケットから携帯を出して通話ボタンを押してから耳に押し当てた。誰だろうと首を傾げると、静雄はすぐに渋面を作った。
「……は?」
相手から何を聞いたのか、いきなり静雄は顔を横に向けた。何となく予想がつきながらつられてそちらを向くと、やっぱり。携帯を片手に仏頂面でこっちを睨んでいる新宿の情報屋が居たので、奴とは正反対に俺は笑って睨みつけてやった。
「ちょっと、千景君」
「なんすか?」
携帯を仕舞ってから無遠慮に近付いてきた折原臨也が俺を指差しながら穏やかじゃない声で詰め寄る。
「シズちゃん連れて何処行く気?」
「あんたには関係ねーだろ。失せろ」
「君に言われたくないねえ」
折原の視線が静雄と繋がれた右手に注がれたのでこれ見よがしに見せつける。走っている気持ちを落ち着かせようとしているのか、折原は一度口を閉じて深く息を吸った。そしてまるで俺が存在していないかのように静雄を見上げる。
「で、シズちゃんは何で無視したのさ」
「無視?」
毎度の事なので俺と折原の諍いに、一番の当事者だと言うのに辺りに視線をやって暇潰ししていた静雄が意識を傾けた。俺も気になったので静雄を見上げたが、折原の閉じた口はもう開きっぱなしだった。
「メール! 今日一番で送ったのに何で返信しなかったのかって聞いてんの」
「……メール? んなもん来てねえよ」
訳が判らないという顔の静雄は訝しりながらも強い折原の視線に渋々携帯を出した。何度かボタンを押している内にメール画面を開いたのか、指が止まる。同時にぽかんとした顔になったので、事情は察した。申し訳なさそうに折原と携帯を交互に眺める。
「悪かった……てか、こんな深夜に寄越すのも悪いだろ! 寝てるに決まってる」
「そりゃあシズちゃんがその歳にしては健全な生活を送っているのは知ってたけど……メールなんか朝起きたら確認するものでしょ?」
「しねえよ普通」
「するよ普通」
静雄が力なく腕を下ろしたので、開かれたままのメールを見やると、――色々省略するが、要約すれば今日の夜、一緒に食事しないかというものだった。何時来たのか知りたかったが数字が小さくて読み取れなかったが、日付は今日を示しているのは確認出来た。
「兎も角」
俺が静雄の携帯を盗み見たのに気付いていた折原は踏ん反り返って俺を睨む。
「シズちゃんは返して貰うからね」
「静雄はあんたのじゃねえよ。静雄は俺と飯食うんだ」
「それって今日中に決めた事でしょ。昨日シズちゃんと会った時には言ってなかったから。先約は俺だよ」
「んな一方的な約束、静雄は知らなかったんだから無効だ」
先月までは静雄が居る場所で俺と折原が出会う度に仲裁に入っていたが、最近じゃ静雄も飽きたのか慣れたのか、はたまた諦めたのか何も口を挟む事「腹減ったなあ……」とぼんやり呟いた。
「大体わざわざ埼玉から夕食食べる為だけに来るなよ。一人で寄せ鍋でも食べてな」
「はっ、食うなら仲間と友達と女も連れて盛大に100人パーティさせて貰うぜ。友達居ないあんたと違って俺は人望があるんでね」
「言うねえ。ま、俺は100人と食べるよりシズちゃんと二人っきりで食べた方がずっと幸せだし有意義だし、時間の有効活用だよクソ餓鬼」
「孤独な食卓を鼻で笑ってやんよ。なんにせよあんたに静雄は渡さねえし静雄は俺と一緒に居るんだよこの腐れ外道」
無意識に握っている手に力を込めると、握り返された。賛成してくれているのかな、と思ったが、当の静雄は面倒くさそうな顔で「どーすんだよ」と欠伸を噛み殺していた。責める訳じゃないけど、こうなったのって静雄の所為だよな。え、違ったっけ?
「静雄はどっちと食いたい?」
「腹に溜まればどっちでも良い」
「俺と鍋にしようよ、美味しいよ?」
「鍋か……」
不味い、静雄の興味がそっちに移りそうだ。慌てて静雄の前に出て「静雄が前に行きたいって言ってた店、今日空いてるって聞いたんだ」と叫んだら少し表情が明るくなったので良しと思ったのも束の間、後ろからぐっと肩を掴まれた。
「シズちゃんは堅苦しい店なんか好きじゃないんだ。シーズーちゃーん、蟹がいっぱいあるんだ、俺一人じゃ食べられないから手伝って。勿体無いでしょ?」
こいつ静雄の良心に攻撃しやがった。流石に高校から一緒のこいつの方が静雄の性格や行動を熟知しているのか、余り裕福とはいえない生活を送っている静雄としては食べ物を粗末にするのは頂けない事だ。
既に勝ったという顔を俺に見せてきた折原に歯軋りするが、上の静雄はやや唸っていた。
「先に誘ってくれたの千景だから……」
非常に残念そうに眉を下げる静雄の腕を掻っ攫って引き寄せる。だが折原は一歩も引かずに逆に近づいて来る。
「そら見ろ、一人で囲んでな」
「でも……そりゃ、勿体無い、な」
折原は俺が掴んでいるのとは逆の腕を掴んで引っ張る。一番背の高い男を他の二人が両方で引っ張っている構図だから、端から見れば結構シュールな図だと思うけど生憎そんな事に構っちゃいられない。
「静雄は俺と食うんだ!」
「シズちゃんは俺と食べるんだよ!」
「離せよ静雄嫌がってんだろ!」
「何処に眼つけてんのさ、君の事が嫌なんだよ」
まるでシーソーのように引っ張ったり引っ張られたりを繰り返していると、いきなり身体が空中に浮く。余りにも唐突なそれにぎょっとする間も無く振り落とされた。折原も一緒に。
「うおお!?」
地べたに叩き付けられた所為で腰が痛いが、それよりも今まで下手に出ていた静雄が肩を怒らせているのを見た瞬間それが消えた。怒って、る。
「あーごちゃごちゃうるせえなあ! そんなに大事かよ! うぜえから一人で食うぞ」
「嫌だ!」
情けない話だが、そこで折原と綺麗にハモってしまった。歯軋りしながらお互いを睨み付けていると、静雄は腰に両手を当ててとんでもない事を言った。
「それなら、三人で食えば良いだろ」
は?
俺はひとりじゃなかったんだな、と安心したように呟いた後で、静雄はいきなり泣き崩れた。職場に復帰した翌日だ。
呼んでも居ないのにわざわざ新宿まで足を運んでくれたのでてっきり何か思い出したのかと、そうでなくても静雄にとって今の俺が特別になっているのではないかと考えた。だけど彼は、ドアを開けて招き入れるなりそう言って崩れ落ちた。跪いて頭を抱えても、ゆるく拒絶される。
「臨也……」
まだ、まだだ。彼が俺を呼ぶ音は、こういうのじゃなかった。遠慮がちでたどたどしいし、まるで他人を呼ぶような音。最初はそれでも良いと思った。過去にばかり縋るのは愚かな事だとも、頭では理解していた。でも、過去だって、俺と静雄を形作ったひとつなんだ。この八年間を全否定されたような感覚は、ちょっとやそっとじゃ受け入れられない。
「シズちゃん」
断片的な事しか覚えていない彼。不安だったのだろう、自分が知っている人は誰も居ないのに、皆が自分を知っている事に。余りにも一方的で暴力的な事実だ。だけど彼は、子供の頃の殺伐とした環境にはもう居ない。愛すべき人と、愛してくれる人に囲まれている。俺個人の感情では気に入らない分類に入るあの上司も、静雄にとっては孤独な幼少期の支えであったのに代わりは無い。ひょっとしたら、彼の事は覚えていたのかもしれないな。
「臨也、俺……ひとりじゃなかった」
嬉しそうに言う静雄の表情に、胸が痛い。彼が安堵するその世界に俺は居ないのだから。むしろ、あの六条千景と並んで、静雄の世界を掻き乱しているのかもしれない。俺と六条しか静雄には居ないんだと誤解させるような事をしたんだ。
「そうだね」
言いながら俺は、目尻が熱くなるのを感じて精一杯笑いかけた。眼を細める事で誤魔化そうとしたのだけれど、静雄はそれを見て、何を感じたのかは判らない。君が俺だけを見れば良いのにと随分な事を考えている俺に向かって、君は、
「ありがとう」
そうやって笑ってくれたんだ。
そんな事があったばかりだから、暫くは俺と離れた方が良いと思ってあえてこの一ヶ月間は、擦れ違う事もしなかった。静雄が六条のところに居た一ヶ月間よりも苦痛だった。楽しみも何も無い、むしろ静雄が俺から離れるんじゃないかという恐ろしさもあった。だから、彼から電話で会わないかと言われた時はそのまま携帯を潰しそうだった。
「何かあったの?」
バーのカウンター席に居た静雄と軽い世間話をした後に、耐えられなくってこちらから訊ねた。視線をグラスに落としている俺に、静雄はふっと笑い頬杖をついてから口を開いた。
「なんかよ、ちょっとずつ思い出してきてる気がするんだ」
「……そう」
嬉しいか、と問われればそりゃあ嬉しい。今すぐ隣に居る、“恋人”の無防備な身体を抱き締めてキスしたい。そのくらいには飢えているけど、俺と静雄の間にあったのは単なる恋人同士の甘い時間だけじゃない。むしろ、多いのはお互いを憎みあった、それだ。あれだけを抜き取ったら、今すぐ俺は殺されても可笑しくないくらいの事はした。六条は嘘を吐いた事。俺は殺意を向けていた事。静雄に対して後ろめたく、思い出して欲しくない部分だ。それを含めて静雄は俺を好きだと言ってくれたが、記憶の無い状態で同じ事を言ってくれる、と思えるプラス思考な脳みそは持っていない。
「可っ笑しいんだ」
「……?」
訝しんでいるのではなく、思い出して面白がっているような声だ。喉の奥でくっく、と肩を震わせて笑っている彼を見やると、吃驚するぐらい穏やかな眼で見つめられた。
「俺がお前を、池袋中を走り回って追いかけてるんだよ。可笑しいだろ。まるで殺そうとしているみたいに」
「あながち、……間違ってはいないよ」
静雄はそれを変な夢だと解釈しているなら、それでも良い。静雄には自分と俺が付き合っていたという事実を告げてある。その視点から見れば、確かに可笑しな光景だろう。好きな相手に拳を振るい、相手はナイフで己を傷付けようとしている茶番だ。
「また連絡するよ」
先に席を立った俺はレジに代金を支払って店を出る。静雄の記憶は混乱の一途をたどっている。すべて思い出したなら、彼はきっと俺のもとに戻ってくる。でも、記憶が中途半端だったら? 俺が彼を陥れて、様々な罪状を擦り付けた事、高校時代はずっと殺しあってばかりいた事。
それが間違っていたとは思っていない。あの頃は本当に静雄が嫌いだったのだから。いや、好きだったのかもしれないが、俺は自分の感情を憎悪と定義したんだ。静雄だってそれは同じだったはず。そして今じゃ、静雄は俺のものだったんだ。
「……」
つくづく不器用だと感じながら、ゆっくりと言葉を選んでメールを作成する。送信ボタンへ載せた指は、すこしだけ躊躇った。
静雄が何を思い出そうと、俺を再び憎もうとも、俺は静雄を手放しはしない。それだけは絶対だと思いながら、ようやく返信した。返事は来なかった。
あんな事を考えた後だから、返信が無いとかなり不安になる。静雄の事だから夜中に寝ぼけながら確認してすぐ寝てしまい、朝起きたらすっかり忘れていた、なんて事は偶にある話なのでそう悲観的になる事はないと言い聞かせて、仕事がひと段落した後に静雄のアパートを訪ねたがお目当ての人物は留守だった。
仕事かとも思ったが、確か昨日聞いた話じゃ休みじゃなかったっけ、と考え直して池袋へ踏み出した。静雄がよく行きそうな場所を重点的に探したが、何時もだったら俺が池袋に現れれば向こうから勝手に来てくれたのに。と、考えた所で、記憶が無くなってから彼の俺を見つける能力が鈍っていた事を思い出した。
「あんまり余裕が無いのかもね」
俺とした事が、静雄の事になると余裕どころか、かっこいいところのひとつも見せられやしない。少し落ち着こうと伸びをした時に、横から声がかかった。
「あれー、イザイザじゃん!」
狩沢が馴染みのバンの窓から身を乗り出して手を振っていた。門田に挨拶でもするかとそちらに足を向けると、こちらが何も聞いていないのに狩沢が叫んだ。
「ひょっとしてシズちゃん探してるのー!?」
「見たの?」
期待を込めて笑いかけると、狩沢はにっこりとどす黒く笑って自分たちが来た方向を指差した。
「露西亜寿司の前で、ろっちーとデートしてたよーん」
「……」
「狩沢さんそれじゃあ誤解を招くっすよ!」
「えー! だってめっちゃデートって雰囲気だったじゃん、イザイザは何しに」
そこまで聞く事無く俺は走り出していた。話のネタにされようがどうでも良い。六条と一緒だった? シズちゃんが。あの男と、また。
俺は絶対に静雄を諦める気にはならない、それが無くてもあの子供は気に入らない。無条件に、だ。俺のものにならないなら、誰のものにもしたくない。怖くもあった。静雄の気が、六条の方に向いているんじゃないかって。こんなことなら、形振り構わず静雄を得てしまえば良かった。幾らでも方法はあったのに。
露西亜寿司の前まで来ても二人は居なかった。移動したのだろう、此処から何処に行くのか判らない。ただ昼に遊びに来たのなら、もう帰る六条を送る可能性もある。迷ったが、駅の方に走った。同時に昨日の着信履歴を引っ張り出して通話すると、やや間があってから静雄が出た。
「ねえ、何処……居た」
『は?』
居場所を聞こうとした矢先、六条と手を繋いでいるらしい静雄が見えた。その手に激しい嫉視をぎらつかせながら歩み寄ると、気配を感じたのか静雄が俺を見た。続いて六条も。あろう事かにやりと笑われたので俺は睨み付けてやる。
「ちょっと、千景君」
「なんすか?」
声をかけた瞬間、おどけて肩を竦めるから殴ってやろうかと思った。ナイフじゃなく素手で。我ながら落ち着きのない声で詰め寄ると、六条は静雄と繋がれた手を少し持ち上げた。
「シズちゃん連れて何処行く気?」
バイクが無いから、電車かタクシーで来たのだろう。帰るような素振りは見せていないからこれから何処かに行くつもりだろうが、見過ごすほど俺は優しくない。
「あんたには関係ねーだろ。失せろ」
「君に言われたくないねえ」
これを抜け駆けを言わずなんと言うか。これは個人的なものだが、俺はシズちゃんとの接触を今日まで我慢していたというのに、独り占めは頂けないなあ。
当人の静雄はまた始まったという顔で我関せずとそっぽを向いているが、彼に専らの用がある俺は一度深呼吸して気持ちを抑える。感情的に口論したら俺だけが悪役になるから。
「で、シズちゃんは何で無視したのさ」
「無視?」
話しかけられると思っていなかったのか、静雄が驚いてすぐに反応する。これはどうも俺の予想通りらしい。
「メール! 今日一番で送ったのに何で返信しなかったのかって聞いてんの」
「……メール? んなもん来てねえよ」
俺ほど静雄を理解している他人は居ないだろう。本気で知らないという顔をしている静雄に思い出させるべく視線を強くすると、気圧されたのか静雄が携帯を取り出す。すぐに変わった顔色にやっぱりと言いたくなるものだが堪える。
「悪かった……てか、こんな深夜に寄越すのも悪いだろ! 寝てるに決まってる」
結果的に俺からのメールを無視したという事になり、申し訳なさで顔を赤くする静雄に少しだけ溜飲が下がったので語調を弱めた。
「そりゃあシズちゃんがその歳にしては健全な生活を送っているのは知ってたけど……メールなんか朝起きたら確認するものでしょ?」
「しねえよ普通」
「するよ普通」
六条が下ろされた静雄の手にある画面にちらりと視線を向けたので、事情は察したのだろう。これで俺の言い分は正当だ。
「兎も角、シズちゃんは返して貰うからね」
距離を縮めようとすると六条が食って掛かる。
「静雄はあんたのじゃねえよ。静雄は俺と飯食うんだ」
「それって今日中に決めた事でしょ。昨日シズちゃんと会った時には言ってなかったから。先約は俺だよ」
「んな一方的な約束、静雄は知らなかったんだから無効だ」
俺が昨晩、どれだけ言葉を選んで静雄を誘ったか。寝て起きたら忘れていた静雄にも勿論腹が立つが、横から人のものに手を出すこの子供が一番苛々する。
「大体わざわざ埼玉から夕食食べる為だけに来るなよ。一人で寄せ鍋でも食べてな」
「はっ、食うなら仲間と友達と女も連れて盛大に100人パーティさせて貰うぜ。友達居ないあんたと違って俺は人望があるんでね」
「言うねえ。ま、俺は100人と食べるよりシズちゃんと二人っきりで食べた方がずっと幸せだし有意義だし、時間の有効活用だよクソ餓鬼」
「孤独な食卓を鼻で笑ってやんよ。なんにせよあんたに静雄は渡さねえし静雄は俺と一緒に居るんだよこの腐れ外道」
言い終わりの時に、六条が静雄を見上げる。この争いの原点ともいえる男は「どーすんだよ」と面倒臭そうに呟いたが、こうなったら本人に聞いてみるかと思った俺の心を読んだかのように六条が勢いよく訊ねる。
「静雄はどっちと食いたい?」
「腹に溜まればどっちでも良い」
割と期待を込めたのに、静雄の回答は素っ気無かった。というよりも本当に空腹なのだろう。此処は早く決着をつけたい。
「俺と鍋にしようよ、美味しいよ?」
「鍋か……」
繰り返した静雄は家庭の料理が好きだ。静雄の気持ちがやや揺らいだのを感じた俺はもう一押しといきたかったが、その前に六条に遮られた。
「静雄が前に行きたいって言ってた店、今日空いてるって聞いたんだ」
余計な口出ししなくて良いんだと肩を掴んで引っ張る。
「シズちゃんは堅苦しい店なんか好きじゃないんだ。シーズーちゃーん、蟹がいっぱいあるんだ、俺一人じゃ食べられないから手伝って。勿体無いでしょ?」
一ヶ月前に俺の家に連れてきた時も、高級ホテルのような俺の事務所に圧倒されていたのを覚えている。静雄の実家は割と経済的に豊からしいが彼本人はそうじゃない。三食カップラーメンはよくあるし、二食はジャンクフードだったりもする。そんなんでよく身体を壊さなかったものだ。内臓は普通の人間と同じなのに。
勝利の気配を感じながら静雄を見たが、何か引っかかるのか目線を泳がせた。
「先に誘ってくれたの千景だから……」
「そら見ろ、一人で囲んでな」
「でも……そりゃ、勿体無い、な」
図らずとも板挟みとなってしまった静雄は随分と迷っているようだが、此処は譲れない。何処かやけくそになった俺は六条とは逆の腕を捕まえた。
「静雄は俺と食うんだ!」
「シズちゃんは俺と食べるんだよ!」
百歩譲って静雄と晩御飯が一緒に出来ないのは、約束が一方通行だった事もあるから出直す事に妥協は出来る。だとしても、こいつと静雄が一緒なのは絶対に阻止したかった。
「離せよ静雄嫌がってんだろ!」
「何処に眼つけてんのさ、君の事が嫌なんだよ」
そこで静雄に眼を向けると、眉間に深い皺が刻まれていて爆発寸前だと本能で悟った。咄嗟に腕を離そうとしたが少しだけ遅く、そのまま六条と一緒に投げ飛ばされた。事前に察知出来たから、彼と違って無様に声を上げる事も無かったがそれでも結構痛い。
「あーごちゃごちゃうるせえなあ! そんなに大事かよ! うぜえから一人で食うぞ」
「嫌だ!」
不覚だが、シンクロしてしまったらしく綺麗に台詞が重なった。ぎろりと睨みあげれば、静雄が自由になった腕を腰に置いてさも当たり前のように告げた。
「それなら、三人で食えば良いだろ」
は?
「シズちゃん、鋏取って」
「ん」
俺が素手で硬い甲羅をばきりと割っていると、横から臨也が手を伸ばしてきた。こいつも千景もキッチン鋏が無いと綺麗に割れないらしくさっきから悪戦苦闘しているのが少し面白かった。
「あーもう食えねえ」
隣で千景が両腕を投げ出して寝転がった。ぷりぷりと歯応えがあって大きい蟹を贅沢に口の中に入れて頬張る。
「俺もこれで終わりで良い。てか、蟹で腹いっぱいになるとか初めてだ」
「普段だったら雑煮にしても良いんだけどね。三人でも結構ぎりぎりだったね」
臨也は手が荒れると言って、俺や千景と違って鋏で丁寧に割っていたが、疲れてきたのかその手を休ませている。両腕を後ろに投げ出して少し楽な体勢を取ろうとするが、割と無理に詰め込んだ所為か腹が痛い。
結局あの後、じゃんけんで勝った臨也について三人で鍋をつつく事になった。最初は二人ともぶつぶつ文句を言っていたが食事を始めれば三人ともが蟹を食べ慣れていない所為で、ばきりと殻を割る音と、鍋がぐつぐつ煮える音だけが響いていた。
「臨也ぁ、今何時だ?」
「んー……11時くらいかなあ」
「千景お前電車だろ? 送ってくよ」
食後の散歩もしたいと上着を取ろうとしたら臨也に思い切り睨まれた。さっきまで食事で和やかになっていたのに、すぐこれだ。そんなに俺と千景を二人きりにさせたくないのか。
まだ俺は自分の事に関しても、二人に関しても覚えていない事が多いから臨也の気持ちは完全には判らない。だけど、……大丈夫。
「あとで言いたい事がある」
寝そべっている千景に聞こえないように臨也に耳打ちすると、驚きにその眼が見開かれた。ふっと笑って千景の肩を叩いて起き上がらせる。
「千景ー、行くぞ」
「うーい……」
満腹で眠くなっているのか千景がひらひらと手を振る。後片付けを臨也ひとりにさせる事に若干の罪悪感が沸いたのだが、後で戻る予定だと千景に気付かれたら何か言われそうだったので、片手をあげるだけに留めた。新宿駅まですぐ傍だ。
「差額は俺が出すよ」
「良いって。でも、その代わり次は静雄の行きたがった店にしような」
車通りも少なくなった道を連れ立って歩きながら、随分と寒くなった気候に身震いした。
「なあ千景」
臨也の事務所は地価が高い分、駅からとても近い。送っていくといっても、ほんの数分でついてしまう距離だ。その前に話しておきたい事は、幾つかあった。
「俺、千景の事は思い出せねえけどよ、千景っぽい人影みたいなのは薄っすら浮かぶんだ」
「本当か?」
嬉しそうに声を弾ませた千景の気配を感じながら上着のポケットに手を突っ込んで、少しだけ眼を細める。この一ヶ月で、俺は少しだけだが記憶が戻りつつあった。その一部分は、臨也や千景の事も含まれている。
「だけど千景は俺の方を見てねえんだ」
「え、マジで?」
「なんかな、ファーストフードの店っぽい所で、トムさんと一緒に千景を見ている所が浮かぶ。多分千景は俺に気付いてない。そうそうその後で、アカネが……」
「アカネって?」
「あー、こっちの話だからスルーで頼む」
アカネ、その直後に会ったのはヴァローナ。アカネは正真正銘の子供だけどよ、ヴァローナも何処か子供じみてる所があるんだよな。甘党だし。あいつ、すげー変な日本語喋るんだぜ。博識の割にはな。取っ付きにくい雰囲気だけど、クルリとマイルと仲良くできるから、根は良い奴なんだと思う。そういやトムさんが二人についてなんか心配してたけど、なんだったんだろうな。
「……静雄」
俺が駅に入っても、独り言に等しい呟きを吐いて歩いていたら、千景が俺の前まで回って、ぴったりと目の前に立つ。聞かれる質問を予測して、俺は柔らかく笑った。
「正直に答えて欲しい。静雄、本当はもう思い出してんじゃねえのか?」
「……」
笑った、ひたすら、ひっそりと。
「さあな」
終電までまだ時間があったが、強引に千景を改札口に通してやれば、俺はついていけない。何か言いたげだった千景も、俺を見ていたら言葉が引っ込んだのか、切なそうに微笑むだけだった。
そのまま、まるで今生の別れのように背を向けて走り出そうとした千景を、あの時とは逆で俺が引き止める。振り向かない千景に明るい声で、ただ、
「また飯食おうな」
千景は片手だけを挙げて、角を曲がって姿を消した。何処と無く取り残されたような虚しさが襲うが、笑みを崩す事で俺は足を動かす決心がついたようで、さっき居たマンションまで逆戻りすることになった。
奴はとんだ勘違いをしているが、俺は本当に思い出してはいない。欠片みたいな断片的なものが、ちらちらと頭を過ぎるだけ。一瞬浮かんで忘れてしまったものもある。その中にははっきりと千景と思しきものもあったが、完全に思い出していないのにぬか喜びさせるのもどうかな、と思った俺の弱さだ。
そのほんの僅かに得た情報に混乱して戸惑っているのは、俺だ。再び臨也の家に戻ってきた俺が、後片付けに精を出す臨也を見た瞬間に、違和感の無い感情に苛まれる現象に悩まされているのだ。
「おかえり」
同棲している訳でも無いのにそれは違うだろと軽くあしらおうとした。でもその前に臨也に腕を掴まれる。今日何度もされたようなものじゃなく、明確な強い感情を込められて。
「シズちゃん、泣きそうな顔してる」
「んな事……」
「無いの? ふうん。……あいつに何か言われた?」
千景もお前も早とちりばっかりだなと笑い、空いた手で髪をくしゃりと握る。記憶も思考も不明瞭だ。自分で自分が何を言っているのか判っていない時もある。考えが纏まらない。
「昨日……少し思い出せたって言っただろ?」
「……うん」
「本当は、結構……はっきりと浮かんでたんだ。だけど、なんか変……っていうか不思議で」
「俺がシズちゃんを、シズちゃんが俺を殺そうとしているんでしょ?」
半ば鎌かけだったのに臨也は早口に言い切った。くそ、混乱する。思考が途切れる。
「それは事実だよ。最初は俺たち、お互いが大嫌いだったからね。だけど」
弁解か、フォローか、臨也がぎゅっと俺を抱き締める。まだ慣れていない感覚なのに、何処か落ち着く懐かしい温もりに、身体の強張りが解けていく。こいつは、嘘は、何も言っていないんだと、初対面から本能で理解していた。
「今は違う。シズちゃんは俺のだ。千景君には絶対に渡さない」
「……臨也……俺がもうひとつ、不思議に感じてた事があるんだ……」
この間だって此処で、臨也の前で泣いてしまったというのに、俺はまた涙ぐんでしまった。こんな事、千景の前じゃ起きないのに。
「俺は臨也を心底嫌って、憎んで、追いかけているのに。……次の記憶に現れた臨也を見た瞬間、俺は心の底から安心しているんだ。これは、どうしてだ?」
その間の記憶が抜け落ちていて、どういった過程でこの関係になったのかが判らない。あらすじと結末だけを見せられて、俺の心の不安定さは、この曖昧な部分から侵食されていた。だけど臨也はゆるく微笑んだ後でなんの前触れもなく俺にキスしていた。
「こういう事だよ」
そんなんじゃねえよと言いたかったが、心は反してくすくすと笑いが止まらなかった。何度も迫ってくる臨也からのちゅ、と音が鳴る軽いキスを繰り返していたら調子に乗った臨也が俺の唇に指を這わせながら笑った。
「シズちゃんは俺の事、大好きでしょ?」
こいつにだけ答えをくれてやるのは不公平なので、
「さあ?」
と、千景と同じ台詞を吐き出してやった。臨也はそれに関しては追求せずに、だらりと下がっていた俺の手に指を絡めてそっと囁く。
「泊まってく?」
「……ん」
早出だからちゃんと起こせよと告げてまたキスしようとしてくる臨也を引き剥がしてから後片付け、と笑った。振り向きざまに、笑いながら言う。
「お前は俺に嘘吐かねえんだな」
臨也も後ろから抱き付きながら笑った。
「当然」
僕も感情に素直になろうと思う