既に午前授業となっていた学校には、金曜日になる頃には少しだけ慣れていた。どのクラスに入るかは判らなかったので、全クラスを一日交替で所属していた為、固定の友人は出来にくかったが、顔馴染みを作るのは年が明けてから本腰を入れれば良い。それよりも問題は、午前の授業が終わると同時に俺が居る教室に必ず現れる、奴だ。

「シーズーちゃん!」

俺を話をなーんにも聞いていなかったのか、臨也は上級生のクラスだと言うのに遠慮なく俺の名前を叫ぶ。初めてこれをされた時には死ぬほど恥ずかしくこまっしゃくれたこいつを窓から投げ飛ばそうかと思うくらいだった。

「シズちゃん、一緒に帰ろー?」
「いーざーやー? 俺の事は、シズちゃんって呼ぶな、って、俺、毎日繰り返してるよな? 聞き入れない耳は要らないって事で千切っても良いんだな?」

俺の凄みを意に介さず、臨也はずるずると俺を教室から引っ張り出して腕を組み始める。転校したばかりだから確信は無いが、臨也はこの学校の中じゃ割と有名人の分類に入るらしい。コネがある、というくらいだから随分やんちゃしているのだろうと予想はしていた。だが、二日目に登校した時に、臨也と知り合いというだけで俺の周りに人がたかった。中には明らかに臨也に好意を持っている女子も居て面食らう。確かに面は良いからモテるんじゃないかとその日の内に事実を確かめた。だが、

「彼女? 居ないよ、固定の子は。告白されたら適当に遊んであげるけどね」

とさらりと言った時、こいつはもう小さい時の可愛い臨也じゃないんだなと少し寂しい気持ちになった。何時の間にか俺よりも女性経験を持つとは。僻んでいる訳じゃない。少しばかり常識を逸脱した怪力がある所為で、告白された事どころか、特定の相手を好きになった事すら俺はなかった。
そんな、この数年間で変わっていた臨也の人物像を少しずつ矯正しながら毎日を過ごす。なんだかんだ毎日一緒に登校して一緒に下校していた。臨也の家から俺の家まで結構距離があるのに、必ずこいつは俺の玄関のチャイムを鳴らす。学校内で有名な臨也と転校生の俺。嫌でも注目を浴びる二人が腕を組んでいるのを目撃された所為で同時にお互いにとって不名誉な噂が早速流されたが臨也は鼻歌を歌って全く気にしている様子が無い。小学生の頃の告白と言い、こんなに意識しているのは俺だけなのだろうか。

「ねえシズちゃん、お昼何処で食べよっか?」
「……」
「あーもう、じゃあ、先輩。お昼何処にしますかぁー?」
「……なんでも良い」

流石に腕は離させたが、コートとコートが触れ合うくらいには密着してくる。こいつが本当にただの弟分ならなあと肩を落とした俺の腕を臨也が引っ張る。記憶がおぼろげな時期に住んでいた場所の地理なんてほとんど覚えていない。臨也に連れ回されるがまま喫茶店に足を踏み入れ、コートを脱いで背凭れにかけると一気に疲労を覚えて両腕を伸ばした。

「疲れた? 一週間じゃ慣れないよねえ。まあ明日から冬休みだし、年越しまではのんびり出来るよ」
「はー、やっぱ転校なんてするもんじゃねえなあ……餓鬼ん時も馴染むのすっげえ大変だったし」
「でもシ……先輩、俺の学年じゃ結構人気ありますよー?」

呼ばれかけた名前にひと睨みで黙らせると、渋々といった体で敬語を使われる。こいつの敬語は白々しいので好きじゃないが致し方無いだろう。頬杖をつきながらけらけら笑う臨也に首を傾げる。

「人気って。まだ正式に転校してもねえのに」
「だって普通にイケメンだし背高いし。女子がきゃあきゃあうるさいよ」
「実感ねえ」

美醜は兎も角、背が高い自覚はあった。小さい頃から背の順は大体後ろから数えた方が早かったし。臨也が適当にセットメニューを頼んでいるのを眺める。店員に注文を告げている声は澄んでいて何処か人を安心させるし、横顔は大人びていて十分に色気を放っている。

「なあ臨也」
「なんですー?」
「お前の敬語気持ち悪いからタメで良い。ってそうじゃなくて、お前なんで彼女作んねーんだよ?」

別に下心があって聞いた訳じゃ無く、女には困らなさそうな外見なのにと不思議に思っただけだ。だが、臨也は無表情で俺をじっと見た後、朗らかに微笑んで周囲を見回した。

「ん?」
「誰にも聞かれたくないんだけどさ」

改めてそう言われると、好奇心の芽が出てきて俺も背筋を伸ばした。少しだけ身を乗り出すと、臨也は視線を右往左往してぼそりと呟く。

「相談あるんだけど、良い?」
「お、おう」

臨也が俺に何かを持ちかけるなんて初めてだ。なんだか頼られたような気分になって、高揚した気持ちに従って臨也を促す。

「誰にも言わないでよ?」
「勿論だ」
「あのね」

たっぷり焦らした後、余裕ぶって再び頬杖をついた臨也はゆっくりと口を開く。

「俺、好きな人が居るんだ」
「……へ?」

まさか、臨也の口からそんな言葉を聞くとは思っていなかった。告白されたら誰とでも付き合うと明言していたから、随分軟派に育ったもんだと嘆いていたのに。
同時に説明しがたい、胃の中の重りがすーっと消えていったような感覚に襲われた。俺はこの感覚の名前を知っていたが、強引に無視した。

「……どんな人なんだ?」

無理矢理笑みを形作りながら問う。もし俺がこの話題に対して関心を寄せていないなら「へえ」で済んだだろうし、純粋に興味が沸いたなら「それでどうしたいんだ?」と聞き返しただろう。だけど俺は、その人の人物像を聞きたかった。
臨也は俺がこの話を真剣に聞いてくれると察知したのか、表情を明るくして特徴を紡ぎ出す。

「んーとね。まずすっごく可愛い。あと照れ屋でちょっとシャイ。口下手だけど優しくて、俺がずっと片想いしてる人だよ」

指折り数えながら俺に語る臨也の顔はとても穏やかで自然と笑みが零れるが、どうにも自分では上手く笑えていない気がして思わず口元を手で抑える。あれ、ひょっとしてこの一週間、臨也が昼食に俺を店に連れ出していた理由はこの相談をしたかったからだろうか。いきなり黙った俺の顔を覗き込んできた臨也に吃驚して慌てて手を振った。

「ご、ごめんなんでもない。高校同じなのか? その人」
「うん。おんなじ、高校。だよ」

ゆっくり言葉を切る仕草に意味深なものを感じたが気のせいだろうと、何時の間にかからからになっていた喉に冷水を流し込む。何故か、臨也が恋焦がれている女子が居るんだと知ったら、割とショックを受けている自分が居る事にショックを受けた。俺はまだこいつの兄貴分で居たいんだろうか。自由に恋愛が出来る臨也を内心妬んでるのだろうか。そんな醜い感情こいつの前で見せたくないと思って精一杯笑ってみせた。

「頑張れよ。応援するから」
「ありがとー。あ、で、シズちゃんにお願いがあるんだけど」
「シズちゃん言うな。なんだよ?」

臨也は鞄を漁りながら俺から視線を外す。その隙に歪んだ表情を修正する。落ちつけ落ちつけ、と連呼しているとまだ鞄の中身を探している臨也がさらりと言った。

「まだ言ってなかったと思うんだけどさ、俺、妹が居るんだけど」
「……は?」
「だから、妹。9個下に二人。あ、双子ね」
「下手な嘘だな」
「いや嘘じゃないから。そう言うと思って……ほら」

そう言って臨也は右手で手帳を取り出し中身を開くと、一枚の写真が挟み込んであった。差し出されたそれを見ると、懐かしい臨也の両親と、高校の学ランを着ている臨也、そしてその前にそっくりな可愛いらしい新顔が二つあった。

「マジかよ……?」
「引越してから生まれたから知らないよね。名前は、三つ編みがマイル、ショートカットがクルリ」
「へえ……可愛いじゃん」

随分と歳の離れた兄妹だが、臨也が急速に大人っぽくなったのは妹が出来たからだろうか。俺が写真を見つめていると、臨也がもう一度言った。

「で、お願いなんだけどさ。今二人は両親について外国に居るんだけど、年末年始は帰ってくる訳。親がさあ、お兄ちゃんなんだからクリスマスプレゼントの一つや二つくらい買ってあげなさいって言うから買わなきゃいけないんだけど、それに付き合ってくれない?」
「おい! 聞いてねえぞ」
「なにが?」

けろっとした臨也に俺は喰ってかかる。両親も妹も居ない? そんな事、この一週間一度も言わなかったじゃないか。さも家には家族と温かい食事が待っていると言わんばかりに何時も帰っていたのに。確かに先週の日曜日、俺の家で夕食をご馳走した時は、「家に帰っても誰も居ないから」とは笑って言っていたが、俺の家の料理が食べたいが為の冗談かと思っていた。現に俺の両親も冗談だと受け取っていたのに。
俺がそう詰め寄っても臨也は表情を崩さなかった。

「今更だなあ。小学生の時だって結構出張ばっかで居なかったじゃん。最初はそりゃ寂しかったけどもう慣れちゃったよ。親居ないと色々楽だよー? 金は送ってくれるし。まあ、洗濯とか自炊とかは面倒だけどね」
「んなこと、言うなよ……。年末年始って具体的に何時帰ってくるんだ?」
「1日から三が日までじゃない? 来年にしか戻れないよ」
「じゃあそれまでうちに泊まれ」

言った直後、臨也があんぐりと口を開けたのを見て俺は自分が何を口走ったか理解した。おいおい、さっき自分の気持ちを再認識したというか脈無しって判ったんじゃなかったのか。
だけど、暗い12月に家族無しで臨也を過ごさせるなんて出来なかった。俺がこの一週間、何気無く話していた両親や幽の事を聞いて、臨也の方こそ俺が恨めしかったんじゃないだろうか。俺は一旦自分の心を整理して、さっきよりも落ちついた声で続ける。

「父さんと母さんは説得するから。空き部屋はねえけど俺の部屋、一人で使うには広いし……どうした?」

何時の間にか額辺りを抑えて机に向かって目線を投げている臨也に気がついた。

「自覚あるの……? いや無自覚……? シズちゃんらしいけど、これは、もう……誘ってるとしか思えないよね……く、やられた……」

何か臨也が囁いているが、全く聴こえないぐらいの独り言だった。俯くぐらい嫌なのだろうかと思い、「嫌ならごめん」とぼそぼそ呟けば、一瞬で顔をあげた臨也がとても嬉しそうな声で言う。

「良いよ! いや違う、お願いします! 嬉しい、シズちゃんの方から誘ってくれるなんて! お邪魔しても良い? ついでにクルリとマイルの件もお願い出来ない?」
「ん? あ、まあ、良いけど。でもシズちゃんって言うなよ。俺じゃそんな、小学生くらいの女子が欲しがりそうなものなんて判らんけど」
「ついてきてくれるだけで良いよ」

運ばれてきた料理にも手をつけず臨也が嬉しそうにはしゃぐのを見て、小学生の頃は一日交替でお互いの家に泊まっていた事を思い出して、次はその話題を振る。そう、それだ。きっかけはそれだった。だから俺は、臨也に、大きくなったら一緒に住もうと言ったんだ。出張で居ない臨也の両親に代わって俺が臨也を守ってやりたかったんだ。
その保護欲は、やがて大きくなり、次第に収拾がつかなくなり、俺でも判らなくなるくらい複雑になってしまった。俺は、臨也に片想いの相手が居ると知った時、感じた感情、感覚の名前を知っている。……知っていたんだ。

「あいつら餓鬼の癖に生意気でさあ」
「子供だから我侭なんだろ。譲ってやれよ、兄貴」
「まあ好きな人見てたら吹っ飛ぶけどさ」
「はは、ベタ惚れだな、気持ち悪いぞ」
「酷! 応援するって言ったじゃん!」
「冗談だ。ま、俺じゃ本当に応援ぐらいしか出来ねえから頑張れよ」
「絶対叶えるから平気だし。シズちゃん、諦めて」
「何言ってんだか。あと、シズちゃんって呼、ぶ、な」

それは多分、人は、「失恋」と呼んでいる。


口は災い。だから、ナイシ