小学校低学年の頃に俺は転校した。父親の転勤という、引越しの有り触れた理由で。最初は元々の友達に会いたかったり、地元や家が恋しくなって泣いたりもしていたが、一度慣れて、受け入れてしまえば歳の所為もあって逆に現在住んでいる場所を故郷と想うようになる。その為、父親が再度、元住んでいた場所に戻ろうと言った時には俺は馬鹿正直に眉を顰めた。一番の理由は、時期だ。
幼少の頃の最初の引越しの時は、俺と弟にとっては突然だったが、両親は転勤をある程度前から予期していたらしく、年度末に照準を合わせて少しずつ準備していた。だが今回は、本当の本当に突然らしく、もうすぐ年越しだと言うのに俺は転校を余儀なくされる事になる。当然、幽もだ。幽は中学二年、俺は高校二年。あと一年で卒業だというのに。せめて、あと四ヶ月だけでも待てないのかと俺は驚きと不機嫌を隠さずに問いかけたのだが、それ所ではないと言い返された。俺たちと母親が残って父親だけが戻るという手もなくはなかったが、諸々の事情があって出来なかった。

「また転校だね」
「……ああ」

幽も思う所はあったのだろうが、淡々と引越しの準備を始めていた。小さい時は母親の背中を見ていただけだったが、この歳になったら自分の荷物は自分で整理するのが当たり前だ。俺は一年生の時と、二年生の時に撮ったクラス写真を両手に眺める。自分の力で入試に合格して、二年近く過ごした校舎と級友。真面目に通っていたのに、色々な手続きの為に11月の後半からは休みがちになり12月に入ったら送別会を営まれた。幼少の頃にも同じような色紙を貰ったが、やる気のあるメッセージと無いメッセージの差が激しくなっている。関わりの深かった友人からは細かく長く、星などの記号や感嘆符が使われていたがまともに交流していない奴のは「元気でね」の四文字だけだったりもする。

「兄さんは前に住んでた所、覚えてる?」
「あんまり。アイスクリーム屋と公園の場所だけなんとなく覚えてる」

母親は、俺が故郷を離れる時には号泣して嫌がったと後々語ったが、実の所余り詳細は覚えていない。気恥ずかしくてふうんと流してばかり居たし、こちらにはこちらの生活があるからだ。段ボールの中に学用品や雑誌類を押し込んで大分綺麗になった部屋を見回すと、箪笥の奥から古い革表紙のアルバムが顔を出した。表紙には何も書いていないが、一枚捲ると幼少期の写真がびっしり貼ってあって思わず呻いた。記憶が無い頃の写真を見ても、この時の俺は爆発すれば良いと羞恥を煽られるのがオチだ。

「何見てるの?」

幽が肩口に覗き込んできて、ああ、と納得する声が聞こえる。一冊目は丁度幽が生まれた頃のもので、赤ん坊だった幽が寝ているベビーベッドに俺がよじ登ってピースサインを浮かべている。父からはこの時から兄貴ぶっていたな、と笑っていたが俺は覚えていない。一冊目が終わる頃には幽はもう立っていた。

「奥にもまだあるよ」

指差された場所に同じような冊子が積まれていたので開いて見ると、俺が小学校に入学したらしい写真が一番上に来ていた。順番がばらばららしい。運動会や学習発表会などの行事をぱらぱら捲ると、ランドセルを背負った俺に抱き付いている黒髪の子供が写り始めた。

「あ、臨也さん」

俺より先に幽が反応した。こりゃあ懐かしいと無意識にへえ、と声を挙げていた。確か向かい隣に住んでいた幼馴染だ。俺より一個年下で、ませていたが御近所からも学校からも評判の良かった世渡り上手な奴だ。一人っ子だったから若干我侭だったが、俺にとっては幽と同じくもう一人の弟みたいに可愛がっていた。あいつ今何してんのかなと思いながら次のアルバムを手に取ると、この頃には俺の両親も息子たちの写真を撮る趣味に飽きてきたのか、年代の間隔が開いてきた。幽の入学式の次にいきなり夏の運動会に飛んでいる。右手で捲りながら、夏にしては残りのページ数が少ないなと指先で感じ取っていると、そういえば転校したのはこの時期だったと思い出した。

「お前は入学したばっかの時に転校だったよな」
「うん。馴染む前だったから良かったけど、兄さんは辛かったでしょ」

確かに転校するのに反対したような気がするが具体的には思い出せない、と言いながら写真が貼ってあるのとしては最後のページを捲ると、臨也の玄関の前で、俺の後ろ姿が写っている。俺に隠れてよく見えないが、俺が抱き締めているのは臨也だろう。これは俺と臨也が最後の別れを惜しんでいる所、角度からすると親がこっそり撮ったのだろう。

「あー……こんな事もあったなあ」

あんなに親しかった臨也とも連絡は取り合っていなかった。何しろ、転校したのは小学生の頃だから幾らなんでも携帯は持っていない。最初の頃は母親同士が色々連絡していたので臨也の事も話題に昇っていたのだが、一年もすると消えていった。
ふと臨也が握っている花に視線が止まり首を傾げる。だが、忘れていた記憶が洪水のように流れてきて思わず自分の顔を片手で覆った。

『大きくなって帰ってきたら、一緒に暮らしてやるよ』
『やだ。大人になったら俺と結婚しよ?』
『良いよ』

一気に顔に熱が昇った。

「うわあー……!」
「どうしたの?」
「これやばいって、マジで黒歴史……あー死にてえ。無知って犯罪だな、罪だ。あの頃にタイムスリップして訂正したい」

顔だけでなく身体全体から湯気でも出しそうな俺に対し、よく判らないながらも幽は無言で背中をさすってくれた。タイミング悪く母親が顔を出し、俺たちがアルバムを広げているのを見ると「思い出に浸る暇があるなら片付けて頂戴」と笑いながら出て行った。高校生の俺が小学生の自分を呪っているのをよく理解して面白がっているに違いない。何も言わないまま、幽はふらりと立ち上がって自分の部屋に帰っていく。俺は偶に、幽は俺の心を見透かす能力を持っているんじゃないかと思う時がある。例えば、今だ。何故なら部屋を出ていく時に、俺をちらりと哀れみの眼で見てから去って行ったからだ。


年内に引越しと転校を済ませ、新居にしつらえられた自分の部屋のベッドに寝転がった。本来ならあと一週間ぐらい学校に行ったら冬休みだったのに。年賀状をやり取りすると言ったが、年明けに直接言いたかった。折角出来た友達と別れるのは何時になっても慣れやしない。盛大に溜め息を吐きながら、新しく買った時計をサイドテーブルに置いて短針を見つめる。12月の夜は早いけど、8時を過ぎたばかりで寝るには早い。だが引越しの所為で精神的にも肉体的にも疲れていて、真新しい布団にそわそわしながらも、寝付く事は出来そうだった。昨日は丸一日、家具の設置やらなんやらで肉体労働を強いられた所為で強張る筋肉を解す為に伸びをする。なんとなくごろごろしながら過ごした日曜の次は必然的に月曜日で、明日から新しい学校に慣れる為に通う事になる。本格的に転校とみなされるのは年明けの三学期からだが、少しでも馴染めば良いという先方の取り計らいだ。数回しか足を運んだ事のない新たな学び舎に無意識にもう一度溜め息を吐いた。
新居は以前住んでいた所からはやや離れた場所に建てられて、通っていた保育園や小学校からは大分距離がある。俺の知ってる奴なんて誰ひとり居ないんだろうなとごろりと寝返りを打っていると、チャイムが鳴った。聞き慣れていない音を意識の外で聞きながら、母親が玄関で接待している声が聞こえる。今日の午前中は引越し祝いや挨拶を持ってくる近所の人たちの来訪で騒がしかったから、客自体は珍しくない。だが訪問は午前中がマナーだろう、しかも8時なんて夕食時で訪ねるべき時間じゃない。別に明日でも良いのにと布団に潜り込もうとする前に母親が一階から俺を呼ぶ声がして起き上がる。俺に客? 首を傾げながら廊下に出ると、幽も顔を出していた。

「兄さんにお客さんって聴こえたんだけど」

「俺も。学校の人かな」

幽を置いて階段を降り、すぐ傍の玄関口に顔を出す。途中で母親と擦れ違ったが、とても嬉しそうな顔をしていた。

「誰?」
「出れば判るわ。驚くわよぉ」

うふふ、と含み笑いで流しながら夕食の支度に戻る母親に好奇心が沸いて玄関に向かう。がちゃり、とノブを回してドアを外に押し出すと、コートにマフラーをした人影が待っていた。黒髪に変わった色素の眼をした男子、って、

「シズちゃん!」

そう思った瞬間、そいつがいきなり俺に抱き付いてきた。完全に固まった俺は脳内までフリーズしそうになったが、俺をシズちゃんと呼ぶ奴なんて人生の中で一人しか居ない。

「シズちゃんシズちゃんシズちゃんシズちゃんシーズーちゃーん!」
「お、お前、臨也か?」

慌てて引き剥がして確認しようとしたが、臨也はがばっと擦り寄せていた顔だけを持ち上げて至近距離で笑った。息が白いから、外は大分寒いのだろうと今更ながら冷え込んでいる事に気付いたがそんな事お構いなしに臨也が捲くし立てる。

「そうだよ! わあ、シズちゃん久しぶり! 髪の毛染めたんだ。かっこいいよ」
「本当に臨也か? お前、え? 変わってねーな!」

昔よりも少しだけ開いた身長差。相変わらずの黒髪に色の白い肌をしていたが、十分に男らしくなり中性的な顔立ちに知性をちらつかせていた。これが臨也じゃなかったら、素直にモデルさんだろうかと思うくらいには美形になっている。昔から整った顔をしていたが、此処までとは。

「お前、モデルとかやってんの?」
「は? なんで? やってないけど」
「いや、すげー美人になってるから、てっきり……てかやってねえならやれよ。なれるよお前なら」
「シズちゃん口説いてるの? 俺、本気にしちゃうよ?」

臨也はその顔に、幼少期の無邪気さが消え失せたようににやあと意地悪く笑い顔を近付ける。余りに近さに、相手が同性の幼馴染にも関わらず思わず慌てて顔を背ける。つい数日前にアルバムで黒歴史になりそうな告白を思い出していたのも原因の一つだ。あれが無かったら軽くあしらえたのに、一週間前の俺カムバック!

「あれ、シズちゃんってば照れてる? 脈有り? 嬉しいなあ」
「うっせえ! てか顔近えよ退けろよ、からかうな。あとシズちゃんとか呼ぶな、みっともねえ!」

それにしても、臨也が俺をシズちゃんと呼んでいた事は忘れていた。小さい頃は気にしなかったが、この歳になって街中でその名前をもし叫ばれたら俺の黒い歴史に新たな1ページが刻まれるのは眼に見えていた。

「俺の中じゃシズちゃんはシズちゃんだもん」
「呼、ぶ、な。呼んでも返事しねえぞ」
「ちぇ。じゃあ、先輩?」

やけにあっさり引き下がった臨也にほっと息を吐く顔の隙間も無いまま、何処か喪失感みたいなものを同時に感じているのを直感的に理解して複雑な心境を馬鹿正直に顔に出すが、臨也はそれを見てにっこり笑った。

「ならシズちゃん先輩」
「殴るぞ」
「えー」

ぺろっと舌を出した臨也の動作は愛らしいといえばそうなのだが、何処か性的で確信犯なような気がしたので眼を逸らす。そして相変わらず、臨也の後ろから見たらまるでキスしているような体勢になっていると気付いたので今度こそ引き剥がす。

「お前、高校何処なんだ? 東?」

一番最初に疑問に思った事をとりあえず話題逸らしも兼ねて発言してみる。此処らじゃ一番偏差値の高い学校の名前を出すが臨也はすぐに首を振った。

「シズちゃんと同じ学校だよ。それを言いに来たの」
「は!? マジで? てかなんで知ってんだよ!」
「そりゃあ、先生が一個上に転校生が来るぞーって言ってたから。色々俺もコネがあってさ、こっそり教えて貰ったらシズちゃんだったから、俺、嬉しさで死ぬかと思ったよ。幸せの余り天井から飛び降りようとしたら同級生の眼鏡が『落ちれば?』って笑ったからやめといたけど」

興奮からか、大分早口で臨也は言うが、前半の言葉が引っかかって後ろは余り頭に入って来なかった。

「コネってなんだコネって。お前15歳だろ」
「生憎遅生まれのシズちゃんと違って、俺はもう16でーす」
「いやそうじゃなくて」
「うーん、俺ってば学校じゃ優等生ぶってるけど、それじゃ刺激が足りないなあと思ってる花の高校生だからさ? あんまり突っ込まないで?」

にやにやと意地の悪い笑みを浮かべている臨也に嫌な予感がしてそれ以上話を振らない事にした。だが、それを抜きにしても臨也と一緒の学校に行けるのは心強かった。知り合いがいるのと居ないとでは結構違うものだ。

「なあ、同じ学校で本当に? ガセネタじゃねえだろうな」
「本当だって。書類見て確認したし」

それって情報漏洩とか色々問題あるんじゃないかと思ったが、流すと決めた直後なので軽く小突く程度で済ませた。口ではなんと言おうと、しっとりとゆるやかな幸福に包まれた俺は穏やかに笑む。

「良かった……嬉しい」
「……」
「高校でも宜しくな」

照れた頬を引っ掻きながら告げるが、臨也と違って防寒具に身を包んでいない俺はいい加減寒くなってきて両腕を擦って摩擦で少しでも温めようとする。俺が笑った辺りから何故かぼうっとしていた臨也は気を取り直したように笑うと俺にまた抱きついてくる。折角引き離したのに、とやや驚いたが、大きくなっても臨也は変わらないなと成長した弟分を抱き締め返してやった。

「俺がシズちゃんをあっためてあげるよ」
「だから、シズちゃんって呼ぶなって……」

母親が臨也もろとも夕食に誘う事になるまで、多分このままで居るんだろうなと頭の片隅で何気なく思った。


俺たちはあのまま大きくなったん