愛用のもの。歯ブラシ、タオル、枕、コート、パジャマ、鞄。お気に入りのもの。ぬいぐるみ、靴、玩具、お菓子袋、ゲーム。その他、諸々。母親がそれら全部を大きな鞄に押し込んでぱちんと金具を閉じているのを、幽と一緒に後ろから眺めていた。
両親にも、色々都合はあるものだ。理由だって。だけどそれを理解して、頷けるだけの知性を俺はまだ持ち合わせていなかった。
所謂転勤という奴らしい。唐突に決まったそれの所為で、唐突に引越しの準備が始まる。両親は小学校に相談し転校の手続きを取る。その間、ろくに説明もされないまま、俺と幽は現実に置いてきぼりを喰らった。二人も子供の俺たち事細かく説明する時間が惜しかったのだろう、と大人だったら思える。だけど俺たちはまだ、本当に子供だった。住み慣れた土地を離れ、友達とも別れ、気の良いご近所のおばさんたちと会う事はなくなるのだと、引越し当日になっても実感は沸かなかった。俺たちが判っていないんだから、クラスメイトはもっと判っていない。先生たちが指示した「寄せ書きカード」に素直な小学生は、素直な文章を書く。「帰ってきてね」「また遊ぼうね」と、先生が言っていた通りに。これに関しては別に怨んじゃいない、子供なんてそんなもんだ。だけど俺にも、譲れないものはあるんだ。大人が良かれと行う行為に子供はただ流される。反対の意見なんて聞いていられないのだ。
「なあ、幽」
「……なに?」
慌ただしくトラックの荷台に荷物が運び込まれるのを、弟と手を繋いで見学している。両親は従業員を手伝っているが、俺たち二人に荷物は重すぎるから、必然的に、何もしないのが手伝いに直結する。俺の家が空っぽになっていく。幽は逆の手に、何時も寝る時に抱き抱えている猫のぬいぐるみを持っていた。俺の手にはクラスメイトから貰った色紙と花束。気持ちが上手く表せないけど、なんだか寂しい。明日からの帰る場所はこの土地にはもう無い。
「友達にお別れ、言ったか?」
「うん。全員に言ったよ。新しい学校の子は、友達になってくれるかな」
「俺、臨也にまだ言ってない」
「……」
何より此処を離れるのが嫌だった理由。俺は元が付く事になる自宅と反対の家を見上げた。向かい隣に住んでる、一個年下の幼馴染。俺の母親から、あいつの母親に引越しの話が伝わり、母親から俺の引越しを聞いてからあいつは不貞腐れて俺に会ってくれない。家に遊びに行っても、母親が出てきて代わりに謝ってくる。「いざやはしずおくんにあいたくないっていってるの」。それまでは、毎日遊んでいたし、通学団の決まりを破って幽と一緒に、三人で登校していたりもしたのに。
「次に、会えるかどうか判らないんだよ」
幽がぽそりと呟く。俺だって判ってる。だけど、臨也が会ってくれないんだからしょうがないじゃないか。臨也のお母さんに断って部屋の前まで行っても、必ずそこでシャットアウトされる。俺だって引越したくて引越す訳じゃないのに。
「今なら会ってくれるかもしれないよ」
言いながら幽は俺の手を離した。促してくれているのか。会ってくれなかったらどうしようと思いつつ、母親の元まで行って臨也に挨拶してくる旨を説明すると、余り時間が無いから手短にと言われた。幽に手を振って、歩いて10秒の臨也の家のインターホンを押した。臨也の母親は前日の引越し準備を手伝ってくれたばっかりだから申し訳ないけど、すぐに出てきた事に素直に頬を綻ばせる。
「おばさん、臨也は?」
「うーん。何度も静雄君にお別れ言いなさいって言ってるんだけど、どうしても嫌だって……ごめんね、駄々をこねてばっかりで。静雄君とお別れするのが凄く悲しいのね」
「俺も嫌だよ。でも、しょうがないから……」
もう臨也の家で一緒におやつを食べたりゲームしたりする事もなくなるんだな……、そう思って開いた玄関から中を覗き込むと、そこにぽつんと臨也が立っていた。小学校で見かけても明らかに避けられていたから話しかける事は出来なかった。
「臨也」
俺が名前を呼ぶと、ばつが悪そうに臨也はこっちに歩いてきた。臨也の母親はまた準備を手伝ってくれるらしく慌ただしく駆けていく。俺のすぐ後ろでは引越しの騒音が、遠くで聴こえていた。部屋着を着た臨也は俺の眼の前まで来ると、きゅっと唇を結んだ。
「……大人になったら、帰ってくるな」
そう言って、兄貴風を吹かした俺は少しだけ低い位置にある臨也の頭をぽんぽんと撫でた。瞬間、くしゃりと歪んだ弟分は堰を切ったように口を動かす。
「本当に引越しちゃうの? 何時になったら帰ってくるの? 俺、シズちゃんと一緒にいられないなんて絶対に嫌だ!」
言葉を吐き出す事で理性で抑え切れなくなったのか、臨也はくすんくすんと泣き始めた。俺が抱えている色紙や花束がまさに別れを示しているようで、恨めしそうな視線を向けてくる。
「俺だって臨也と一緒に居たいよ」
「嘘だ! だってシズちゃん、勝手に行っちゃうじゃない! 高校とか、大学まで一緒の学校に行こうねって約束したのに!」
それから臨也は俺と、中には一方的に交わした果たされていない約束を並び立てた。小学生にとっては、些細な決まり事さえ人生を左右するように感じるのだ。それは俺も同じで、約束を破る事になる事実に胃がきゅうと締まる。臨也が喚き立てる度、俺は何度だってごめんと言うのだ。
「溜めたお小遣いで、二人でお店のプリン買うって言ったし、自由研究だって一緒のテーマにしよって、シズちゃんが言ったのに!」
「……うん。ごめん。俺、最悪だ。臨也、俺の事、嫌いになっちゃったのか?」
涙声になっているのは十分自覚していた。惨めになるのは、俺自身が言った事なのにそれを一方的に無碍にしてしまう罪悪感から。臨也がずっと俺に会ってくれなかったのはこれらを思い出していた期間なんじゃないかというくらい膨大な量に俺はついそうやって弱気に言葉を漏らす。
まだあるらしい約束を言おうとしていた臨也はぱっとその言葉を呑みこみ、半分八つ当たり気味に俺に抱き付いてきた。
「そんな事ないもん! 俺シズちゃんが大好きだよ! だから行かないでよ、俺の家に住めば良いよ。お母さんにお願いするから」
「……俺だって臨也の事は好きだけど、それは、駄目だ」
子供ながらに、いや子供だからこそ、例え大好きな人と一緒であっても両親と離れるのは怖い。更に泣き出した臨也につられて俺も堪えていた涙が溢れ出した。臨也と話す事で、別れに実感が伴ってきた。本当に俺は臨也と離れて暮らす事になるんだ。
「やだやだやだ! なんで駄目なの? おっきくなったら一緒に暮らそうって言ったじゃん!」
再発した約束攻撃に肩を落とし、鼻を啜る臨也の前に小指を差し出した。涙に濡れた不思議そうな視線を受け止めてなんとか笑いかける。
「どうせ全部破っちまうんだ、もう一個だけ約束する。大きくなって帰ってきたら、一緒に暮らしてやるよ」
年上なりの、精一杯のプライドを持った言葉だった。花束の中から、名前も知らない白い花を一本抜いて臨也に渡す。クラスメイトたちが自ら摘んで来たのか、道端に咲いているような雑草とも思える有り触れた花だった。それを受け取って暫く見つめていた臨也は、前触れ無く顔を上げた。
「やだ」
「は?」
あれだけ顔をくしゃくしゃにして泣いていたのに、臨也は唇を尖らせる。この我侭がっ、と一発殴ろうかと思ったが、その前に臨也が真面目な顔で俺に詰め寄った。
「そんなんじゃシズちゃん、帰ってきてくれなさそうだもん。だから、大人になって、帰ってきたら、俺と結婚しよ?」
「けっこん?」
「うん。知らない? ずっと一緒に居るって事だよ。ね、しよ?」
「……良いよ」
意味が判らない為に、よく考えもせず安易に承諾する。ぱっと顔を輝かせた臨也に、それで良いかと思えたんだ。母親の呼ぶ声に従って、名残惜しかったがようやく抱きついていた腕を臨也が解く。またな、と呟いて玄関を出れば、俺が渡した花を振りながら、
「絶対に絶対に約束だよ!」
と叫ぶ臨也に、泣いた所為で真っ赤になった顔で笑った。父親の運転する車に乗り込みながら、次に此処に来られるのは何時だろうと子供ながらに憂愁の色を浮かべながら。手持ち無沙汰になった俺の手は臨也に渡したのと同じ花を握らせる事で、なんとかやり過ごした。
指輪の代わりに誓いましょう