夜の冷えた空気を肺に取り込んで、意味もなく背筋を伸ばす。木々の隙間から見えた三日月は遠く、気が付けば身震いしていた。

誰にも袖を遠された事が無いであろう、糊の利いた真っ白な装束。延々と歩き続けた結果として、何も履いていない素足には石や枯れ枝を踏み潰した代償として汚れ、傷付いていた。最初は足に亀裂が入るたびに苛まれる激痛に呻いていたが、痛みに無頓着になる頃、俺の視界に泉が入ってきた。

「……知らなかった」

此処に、泉があるという事を。それもそのはず、人が侵す事が出来ない神聖な森、付喪神がおられるとする場所だ。俺だけじゃなく、他の人間も誰一人として知らないだろう。何時も垣根の外から見ていた分じゃ、信心深くない俺はただの薄暗くて気色悪い森としか思っていなかった。事実、進むにつれ緑は濃くなり、薄気味悪くて不気味だ。なのにこんな美しい場所も有るのかと、少なからず驚いた事も事実だ。

「い、って……」

神聖な泉を汚す事になるかもしれない。頭の片隅では思いつつも、喉の渇きと足の激痛には抗えなかった。白い着物なのに無視して膝をついて土をつけ、手のひらに掬って喉に流し込む。それだけじゃ足りなくて、顔を泉に沈めて直接飲む。刺すように冷たいが、生気は沸いてきた。息が乱れるくらいに飲んだら、今度は足を中に入れる。水が傷口から沁みて思わず眼をぎゅっと閉じる事で、そうする事にも意味を見出せなくなっていた。
どうせ死ぬのに、中途半端に生きても仕方ない。死ぬ前に神の領域を侵した事で罰が加えられるかもしれない。と、信仰心の欠片もない頭で考える。俺は道が判らないで彷徨っているという意味では迷子なのだが、自主的に迷い込んだという意味では単なる散歩だ。死への片道切符。

「……幽」

木の葉で翳って、今じゃよく見えなくなっている月の方に視線を向けながら弟の名前を呟いた。あいつは無事だろうか。他の村人に何もされていないと良いんだが。俺の安い命で、あいつの命は救えただろうか。
ぶんぶんと頭を激しく振った。駄目だ、帰りたいなどと考えたら。木箱から抜け出して戻った俺を見たら今度はきっと二人とも殺される。それじゃ意味が無い。犠牲になるのは俺だけで良いんだ。
帰らずの意思を固め直し、旅立ってきた村から出来るだけ離れるべく、俺は立ち上がった。剥き出しの足はもうどうでも良かった。泉をぐるりと迂回して先に進もうと考え、水の影響で湿った地面を踏みしめた。枯れ枝が無いため、まだこちらの方が痛みが少ない。
大分時間をかけて、元居た位置から見て反対側の近くまで来た。草の茂みが揺れ、正体の判らない動物の足音が聞こえる。慣れたとはいえ、間近で突然音がすれば誰だって驚くし恐怖心を煽られる。そこで極力下だけを見て進んでいると、何故か人間が通ったような道がある事に首を傾げた。土や草が踏み均されていて、定期的に人間が通っている感じがした。獣の足跡じゃない。

「……人間が居るのか?」

呟きながら、薄暗い道の奥を見ようと目線を上げる。すると、二歩先は真っ暗なのに、よく見えないが米粒くらいの白いものが見えた。しかもそれは動いて、近付いてくる。段々と輪郭が大きくなってきた。何だ、鬼火か? あの大きさは蛍じゃないだろう。それに蛍の時期はもうとっくに終わっている。
その光は一定の大きさになると、今度はしゃん、しゃんという音までするようになった。音は規則正しい感覚で鳴り響き、その音に合わせて光もまた揺れた。そして小さくだが、こちらに歩いてくるような音まで聞こえてきた。鬼火を携えた何かがこっちに来る。
俺は逃げ出さなかった。恐怖心が全く無かった訳じゃない。神と呼ばれる獣かもしれない、食い殺されるかもしれない。鬼かもしれない、と色々思う所はあったが、好奇心が勝った。死ぬ行く前に、他の人間の誰も見た事が無いものを見てみたい。子供ながらの、単純で、無邪気すぎる理由から。石のように固まって動かない俺は、じっとその光を見つめ続けた。かなり近くまで来て、ようやく俺は、揺れる光の正体が提灯である事に気付いた。

「……」

揺れる度、鳴っていた音は、提灯の下に取り付けられていた鈴だった。しゃん、しゃりん。その提灯を持つのが何なのかは、まだ判らない。提灯の大きさにしてはかなり広く辺りを照らしていたが、肝心の持ち手の姿は映し出されない。まるで提灯が独りでに浮いているかのようだ。足音が聞こえなかったら、きっとそう思ったに違いない。そしてようやく、音が止んだ。ぼんやりと浮かび上がる影は、人のものによく似ていた。だが場所が場所だけに、人間だとは思っていなかった。物の怪の類か、妖か。そんなものと相対している俺も、身体の内に化け物を飼っているというのに。

「っ……」
「珍しいね」

息を呑んだ俺に、闇が語りかけてきて言葉を失う。まるで人間の男の声じゃないか、と。揺れた振動で、それが笑ったのが判った。

「この場所には人間は近付かないと聞くのに。君のような人の子が、何故、此処に入った?」
「……」

俺は一体何に話しかけられているんだ? 一気に恐ろしくなり、そいつが俺の理解出来る言語で喋りかけているにも関わらず、俺は理解する事が出来なかった。
何も答えない俺に、その影が少しだけ動く。上の部分が傾いた事から、多分、首を傾げるに相応する動きをしたんだろう。そいつが完全に人型なのか判らなかった。

「痴呆かい?」
「……」
「それとも、言葉が話せなくて親に捨てられたか。でも、君、それはどういう事?」

そいつは提灯を少し上に持ち上げ、俺の装束がよく見えるようにする。白い装束。白しかない装束。左前にしつらえられた、それ。

「生きている内に死に装束を纏うなんて。右と左の概念が判らない訳じゃないよね? 帯はきちんと結んであるし」
「……俺、は」

ついに口を開く事に成功した俺に、そいつはもっと嬉しそうな反応をした。空気が揺れたんだ。

「此処に……死にに、来た」
「どうして?」
「……神様への供物。……俺は生贄だ」

俺が此処に来た理由。死に装束を纏っていた理由。村へ帰らない理由。それが、この言葉だけで説明される。天災と飢饉。両方に苛まれた村人は子供を人身御供として捧げる事で加護を受けようとした。

「君が、俺達への生贄?」

その言葉で、そいつが人間じゃないことがはっきりしたが、どうでも良くなっていた俺は誰にも打ち明けなかった胸のうちをぽつぽつと吐露する。

「最初は、選ばれたのは俺の弟だった……。だけど、馬鹿力で村に被害を出していたのは俺だ。素直で、大人しくて、優しいあいつが村のために死ぬなんて納得出来なくて……だから、頼んだ。弟は赦してくれ、代わりに俺が死ぬから、って。そうしたら」

大人たちはすぐに俺に代えた。余りにあっさりと変更した事に驚き、容易に疑問を持つぐらいには。だけど、俺が迷惑ばっかりかけて他の村人に冷遇されてきた両親にも、これで少しは恩返し出来るだろう。そう思って、俺は自分の気持ちにも、棺桶代わりの木箱にも蓋をしたんだ。

「だけど出てきちゃったんだ?」
「俺を運んだ大人たちの気配がしなくなったのを見計らって、外に出た。怖かったけど……最後に少しくらい、森の中を見て回りたかった。それで、此処まで来た」

言いたい事、聞いて欲しかった事はそれだけだった。こんな役立たずの俺でも何かに報えたと思いたかった。する事が無くて、足の裏で砂利を転がすと、そいつは提灯を振って鈴を鳴らした。

「という事は」
「あ……?」
「君は、俺に捧げられた訳だ。俺の為に一度は死んじゃった訳だ」
「……まあ、そうなる。というか、棺桶に入れられた事を一回と数えるなら、これから、もう一回死ぬ」
「どうして?」
「どうしてって……あんたに捧げられるって事は、死ぬって事だろうが」

捧ぐのは、世俗に穢れた肉体ではなく、手垢のついていない生命だ。自分でさえ侵す事が出来ない領域を捧ぐ事が、その人間そのものを捧ぐ事に繋がる。

「死にたいの?」
「そんな事は……無い」

直接的な言葉に、俺は脳裏に幽の顔を思い浮かべた。あんなに別れを惜しんだ弟。最後にはお互い泣きながら、俺はあいつに「ごめん」と「ありがとう」を繰り返すしかなかった。ぎゅっと唇を噛んでいると、しゃらん、と鈴の音がすぐ傍で聞こえて顔を上げる。そいつは、何時の間にか目の前に居た。
提灯の灯りがそいつを照らした。一瞬、俺はそいつを人間だと勘違いした。そのぐらい人間に似ていた。むしろ、頭にぴんと載っている獣の耳以外は全部人間だった。

「き……つ、ね……?」
「妖狐でも、九尾でも、白狐でも、お稲荷様でもなんでも良いよ? 人が思うほど、俺達は自分の種族に興味は無いんだ。でもね、名前はある。俺は稲荷神の、臨也」
「イザヤ?」
「そう。君は? 哀れな人の子」
「……静雄」

しゃん。またそいつが提灯を振る。鬼火だと思っていたそいつは狐火だったようだ。灯りが照らすその化け狐……イザヤはまるで人間みたいに薄く笑い、空いている左手を軽く振ると、一瞬で獣道の周りに小さな炎が点される。まるで案内されているかのようだ。

「しずお……静雄、か。君は生きる。だから、打ち合わせは直して」
「……」

冷え切った手で、意図して直さなかった左前を本来の位置に戻す。帯を結びなおす間、臨也は一瞬も俺から眼を離さなかった。
帯から手を離した瞬間、臨也の左手が俺の両手を握る。まるで体温を感じない無機質な感触にぞっとしたが、刹那、触れられた部分から一瞬にして温もりが駆け巡った。一気に温まった身体に吃驚して臨也を見上げると、にっこりと微笑まれる。益々人間にしか見えなくて混乱していると、臨也の手が文字通り俺の眼の前を通過する。くらりと視界が反転し、気付けば臨也に抱きかかえられていた。何かの術をかけられたのはすぐに理解出来た。

「君は俺のものになる。……判った? シズちゃん」
「……」

急激な眠気に襲われながら、奇妙な呼び名を咎めるのと、返事代わりに清潔すぎる黒い狩衣を握って眼を閉じた。狐に誑かされたというのに、俺は数時間ぶりに、笑っていた。


まるで同属を見つけたような安心