コップを拭く手が乱暴なのは自覚していたが、この苛々は他人には理解出来ないだろう。新しくバーテンの仕事を始めた俺。幽が今度こそ首になりませんようにと大量にバーテン服を送ってくれたから、頑張ろうとは思う。だが、完全に欲求不満の俺はコップにさえ殺意を沸かせるくらいに溜まっていた。
この一週間、俺は誰にも触れていなかった。新しく働き始めたばかりだから忙しかったのも自覚している。だが、何時ものように連絡しても、断られるか、電話さえ繋がらない。そういう時期は偶にあるが、こうも全員と重なると不思議に思う。

「……ちっ」

抱かれる事に慣れた身体は、少しの刺激でもすぐに情事を連想させる。からんからん、と入口のベルが鳴る。奥に居た俺は眼も向けずに「いらっしゃいませ」と呟いた。洗い場から別のコップを取り出しながら顔を上げると、ひどく見覚えがありすぎる顔があって逆に現実味をなくした。

「……へ?」

臨也が、無表情のまま立っていた。
思わずグラスを取り落とした所為で、床に落ちたそれがかしゃんと音を立てる。暫く臨也と見つめ合い続けたが隣の先輩のひと睨みで我を取り戻し、慌てて客の方に向かって「失礼しました」と粗相を詫びて跪く。割れはしなかったがひびの入ったそれはもう使えない。眼は無残なグラスを眺めていたが、心と心臓は臨也を意識していて混乱を誘う。
たっぷりと時間をかけて立ち上がると、臨也はまだそこに居た。幻覚じゃなかったのか、と若干肩を落とすと、臨也が親指を立ててくい、と自分の肩越しを指す。そっちに向かって背を向けた臨也を渋々追う。薄暗い従業員用トイレの中で待っていた臨也に顔を逸らした。

「何の用だ」

努めて冷静を装ったつもりだった。なのに、語尾は震えるし小声だしで台無しだ。臨也は腕を組んだまま俺にじとりとした視線を向けてくる。

「シズちゃんさ、もう売りやるのやめなよ」
「あ?」

何を言いに来たのかと思えばそんな事か。馬鹿馬鹿しい。俺はなおも顔を逸らしたままで吐き捨てる。

「てめえには関係ねえだろ」
「あるね」

詰め寄ってきた臨也に向かって拳を振り出す。近付くな、という警告だ。だが、先ほどまで水に触れていた事とは関係なく、俺の手は驚くほど冷たかった。
俺の化け物の力をよく知っている臨也は、ぴたりと足を止めた。じっと暫く腹の探りあいのように睨み合うが、ふっと息を吐き出した臨也は、そのまま歩き出した。

「なっ……」

俺に殴られればただじゃ済まねえのに。伸ばし切った腕は引かないと伸ばせない。反射的にそうした俺に、要領良く臨也は懐に入り込んだ。とん、と掌で俺の胸を押す。

「っ……」
「最近、してないんでしょ」

近距離で、臨也の吐息が俺を擽る。なんでそんな事まで知ってるんだ? お前は一体俺を何処まで知っているんだ。

「だったら、どうしたっ」

殴ろうとした。殴る素振りを見せたって動かないこいつに、拳が振れない。唇を噛み締めた俺に臨也は眼を細める。

「シズちゃん、信じられないって言ったよね。俺がシズちゃんを好きだって」
「……っ当然、だ」

何処に信じられる要素があるのか説明して欲しいくらいだ。確かにきっかけは熱にのぼせた、だから、かもしれない。でも俺は本気で真剣だった。初めて好きだと誰かに言った。それを一蹴したのは、お前だろう。そしてこの五年間、全く交流が無かった癖にやっぱり好きですって? 馬鹿にするのも大概にして欲しい。例えば今まで毎日のように会っていたとして、あの時は好きじゃなかったが今は好きになった、とかならまだ理解出来る。自分で考えながら自分の考えに納得した。

「……あの時。シズちゃんに好きだって言われた時。……本当は俺も好きだった」

臨也は言いたくなさそうだったが、俺の眼を覗き込もうとしながら語った。

「吃驚したけど嬉しかった。シズちゃんも俺と同じ気持ちなんだ、って。……だけど、シズちゃんは、余りに世界を知らない。卒業して社会に出たら、俺以外の人を好きになるかもしれない。そうなったら俺は耐えられない。シズちゃんが俺を好きなのは、あの学び舎が狭いから、ただそれだけなんじゃないかって。そう考えたら、口じゃシズちゃんを罵るような事を言ってた。あの時は……シズちゃんがこんなに傷付くなんて、思ってなかった。考えられなかった」

臨也の言葉を、ただ黙って聴いていた。今更あの時の事を言われたって、こうなってしまったのは仕方ない事だ。どうあっても俺は臨也を再び信じる事なんて出来ないだろう。
そうやって、諦めを眼に浮かべている俺を察したのか、臨也は眼を見開いて右腕を振り上げた。殴りたければ殴れ。そう思って目を閉じる。どん、と、思いの他衝撃の少ない現況は、俺の心臓辺りに響いた。

「見ろよ……」
「……!」
「俺を見ろよ! 俺だけを見ろよ! 他の奴に身体なんか赦すな」

きっと怒りの顔を上げた臨也が、俺を見ながら叫ぶ。信じ、信じられ、ない。

「俺はあんたしか要らない!」
「っうそだ。嘘だ……」

こ、これも、全部嘘。なんだろ? そうだ、そう。そうに決まってる! なのに何で怒る。何でそんなに必死になる。

「ふざけるなよ」

何で震えてんだよ、それはこっちの台詞なのに。俺の胸に当たるお前の拳が熱い。

「嘘じゃない。俺はシズちゃんが好きだ。あんたの全部が欲しい」

お前、この演技で幽にも引けを取らない俳優になれそうだ。そうだ、なれば良い。嘘を振りまいて笑みを作るお前にはぴったりだろう? 俺への悪質な遊びはもうやめて。遊びなんだろ? 遊びに決まってる。絶対に遊びだ。遊び、そうだ、違いない。だろう? たかが余興で困惑する俺を弄んで嘲ってほくそ笑んでいるだけなんだろう。冗談じゃない!

「ふざけるな」

俺はそんなお遊びに付き合えるほど出来てない。お遊びと知りながらこちらだけ本気になるなんて事出来ない。だから信じない。言い返す俺の言葉は、なのに威力が弱い。臨也の眼光が俺を貫く。なんだよ、今まで、ただの一度だって、そんな眼で見てくれた事は無かった癖に。全部諦めたその後で、僅かに残った未練を暴こうというのか。

「嘘だ……嘘だ。お前は、お前は、俺のことなんか好きじゃない! お前は俺が憎いはずだ、俺が人間じゃねえから、愛せないから」

ぶるぶると震える言葉は、この五年間自分に言い聞かせていたものだ。臨也に愛されないなら誰にも愛されない。俺には臨也だけだった。それは報われなかった。それだけのことなのに。

「仮にお前が俺のこと、好きだとしても……俺はてめえなんか大嫌いだ、だから、とっとと俺の前から消え失せろ……!」

愛情の裏返しとはこんなものだろうか。多分、俺は臨也じゃないと満足なんか出来ない。こんな何人に触れられたか俺ですら覚えていない身体を晒したくない。俺はとっくに昔に覚悟したんだ。誰も俺を必要としない世界を、やっとの思いで肯定したんだ! お前は笑って終わりを切り出せるだろうけど、俺は無理だ。一度お前に縋ったら、他の何も受け入れられなくなる。裏切りの味は一度で良い。

「俺は本気だよ」
「遊びに決まってる! 俺のことなんか性欲処理としか思ってなかった癖に」

投げやりな言葉に臨也は口を何度か開閉するが言葉は出てこなかった。顔を手で覆った俺は、出来る事なら高校時代にまで戻りたかった。もっと違う方法だったら、結果は違ったかもしれない。俺は素直にお前を好きだと言って笑えたかもしれない。そんな都合の良い事を考えるくらい、参ってた。
ぐらぐらと視界が滲む中、臨也の呆れにも似た嘆息はすぐ傍で聞こえた。

「意地っ張り……どうしたら信じてくれるの?」

珍しく下手で弱気な声音にそろりと視線を向ける。

「シズちゃんに他の奴が触るなんて赦せない……だから、根回しした」
……?」
「この一週間、誰にも連絡つかなかったでしょ? 俺がやったんだ」
「な……」

絶句した俺の言葉をそのまま引き出させないように臨也が俺の手を取った。

「俺は真剣だよ。これでも、信じられない?」
「う……あ……」
「俺はシズちゃんを俺のものにしたい。その為ならなんでもする。望むならシズちゃんが満足するまで俺を殴ってくれても良い。謝れというなら何回でも頭を下げる。でも、その後で俺はシズちゃんを貰う」

「シズちゃん……君の望みは、なに?」

経験が騙されるなと訴えていた。理性がやめた方が良いと囁いていた。だけど、心が頷いてしまいたいと言っている。
後悔は幾らでもした。期待はしなかった。目の前の誘いは甘すぎる。目尻から伝う涙は熱くて、熱くて、俺は生きてるって思った。化け物の俺だって、生きてる。近付いてきた唇に、自然に眼を閉じた。どうしようもない。俺は臨也が好きなんだ。

「ぜ、……ったい、に」
「うん?」
「……俺、をっ……離さない、って、……言え……!」

泣きじゃくりながら乱暴に言った言葉に臨也は一瞬だけ眼を丸くして、その眉を少しだけ下げて、笑った。

「絶対に離さないよシズちゃん……もう俺のものだ」
「っぅ……嘘、吐いたら……殺す……!」

触れるだけのものから、奪い合うようなものに。乱れる吐息を共有して、自然に回された腕の力を強めて至近距離で笑う。涙でぐしゃぐしゃになったその顔で。

「臨也……俺、……臨也以外と、……キスしたこと……無い……」

目の前の臨也の顔が驚きに染まる。俺は眉を落とした切なげな微笑のまま見つめた。

「どうしよう、シズちゃん……すっごい嬉しい」

素直に喜びを顔に浮かべた臨也に胸がいっぱいになる。ああ、やっと、満たされた。臨也、臨也、

「臨也……、っ好き、だ」

あの時には、拒絶された告白。

「うん……大好きだよシズちゃん」

重なった掌の温度は今や同じ。
俺にはこれくらいが丁度良い。
もうお前は俺のもんだ。不信も、疑いも、全部隠さずに見せてやる。その後で、もう一度……好きって言って。


殺さないなら恋をしよう

恋愛温度差 了