着信音で眼が覚めた時には、時計はもう10時を回っていた。なんでこんなに寝坊したのだろうと記憶を巡れば、そういえば昨夜は初めて二人同時に相手したんだった。一日に何人も喰う事は多いが、何時も一人ずつだった。慣れない事はするもんじゃねえなと思いつつ携帯に手を伸ばした。その腕に、細かく赤いラインが入っているのは強く引っ掻かれたからだろう。俺の肌に傷を残すとは。また相手してやっても良いかもしれない。
「……幽?」
高校を卒業して無事芸能界入りした弟は彗星の如く現れた鬼才と称され、「羽島幽平」という名前で活動している。最近じゃ売れっ子過ぎて俺と同じく実家に帰っていないらしく、両親には少し寂しい思いをさせているかもしれないが、毎日のように週刊誌やテレビに出演している幽の元気な姿を見れば誇らしいだろう。ろくでなしな俺と違い、幽は本当によく出来た子だ。
そんな弟が着信を二件入れていた。急ぎの用事だろうかと慌ててかけ直すと2コール余りで電話口に出た。
『兄さん? おはよう』
「おはよう。どうしたんだ?」
『……あのさ、その。兄さんにとっては嫌な記憶かもしれないんだけど』
「なんだよ?」
寝起きの所為か頭がよく回らない。腰が痛えと思いながら布団から起き上がると、幽ははっきりとその名前を発音した。
『折原臨也、さん、……覚えてる?』
「っ……!」
起きたばかりだろうが、その名前だけは忘れようがない。忘れたかった、忘れようとはしたけど。
忌まわしき俺の天敵で、俺の初めての相手で、俺が唯一好きになった男だった。八年前に一度告白したが見事に玉砕し、それをきっかけにして俺は壁を作った。俺が誰にも愛されないという現実を付き付けた奴だった。もう何年も会っていない。
「……あいつが、どうしたんだ?」
名前を口にしかけて、呼んだら一気に思い出しそうになった俺は唇を噛んだ。もう覚えていないくらい他の男に抱かれたというのに、俺はまだ臨也への感情を捨て切れずに居た。これは恋なのか、いや、ただの執着だろう。執念かもしれない。臨也に抱かれていた頃の熱と満足感を俺は忘れられない。単に身体の相性が良かっただけなのかもしれない。でも、勿体無いとは思わなかった。俺は臨也が好きだったんだ。
『偶然、俺の事務所に来てね。“お兄さんは元気か”ってへらへらしながら聞いてきた』
「……」
『だから俺、腹が立ったから“貴方に干渉されると元気じゃなくなります”って答えた』
「……そう」
その場に蹲る。幽は知らない。俺と臨也が、どんな事をしてきたのか。俺が家を出るきっかけとなったのは、臨也への好意の代償。でもあいつのお陰で俺は諦める決心がついたから、その辺りは感謝している。
『……本題は此処からなんだけど』
「ん……?」
虚ろな眼をしながら、安アパートの窓からすっかり明るい景色を眺める。あいつの事を話していたら、あいつに抱かれた感触を思い出しそうになる。幽には悪いが用事があるからと電話を切ろうかと思い始めていたが、それは遮られた。
『兄さんの事、ずっと見てたらしい』
「は?」
幽の声には堪え切れない嫌悪感を感じたが、それに気付ける余裕は無かった。
『まるで自慢するように言われたんだ。兄さんの仕事の変遷、全部空で言った。期間も正確。どの店によく行ってただとか、まるで毎日兄さんの隣に居たかのような口ぶりだった』
何の冗談だ、それ。あいつの趣味の悪い悪戯か? それとも、俺は臨也に監視されていたのか? 慌てて窓の外から気配が無いか探るが、この数年間気付かなかったものを意識一つで変えられるとは思わない。
『だから、ちょっと気になって。あの人の事、俺は昔から好きじゃ無かった。……また兄さんを傷付けようって、何か企んでるのかもしれないから、十分注意してね』
ぎく、と背筋が張る。幽は何も知らないけど、何処まで勘付いているのか。俺が毎夜のように繰り返している醜い営みすら、判っているのかもしれない。それでも口にはしない幽に、俺は目線を落として頷く。それじゃ伝わらないから判った、と声を絞り出した。
『あと……偶には、帰ってあげてね。父さんと母さん、凄く、すっごく兄さんの事、心配してるんだから』
「……ああ。そろそろ、帰ろうかって、思ってたとこだよ……ありがとう」
無意識に嘘で流した俺は適当に挨拶して電話を切った。そのまま、八年前のあの日と同じくらい白い顔で、つい、呟いてしまった。
「臨也……」
この数年間、話題にもしないし、名前を呼ばないし、何より会いもしなかった男。あいつが今何をしているかなんて知ったこっちゃないし、興味も無い。あいつの事なんてどうでも良い。その時に丁度メールが来て、今日の夜に何時もの場所に居るという連絡だった。セフレの数なんて数えていない俺は何時もその匿名の連絡でやり取りしていた。空メールで了承を伝え携帯を閉じる。早く、誰でも良いから抱いて欲しい。ぶるりと身体を震わせて膝に顔を埋める。ああ、違う。誰でも良い訳じゃない。
あいつ以外。臨也以外。臨也に抱かれたら、俺はまた勘違いしそうだ。だから、もう、臨也には。二度目に耐えられるくらい俺は強くないから。
何時ものように定期を使って指定の場所まで赴く。身元がバレるのは嫌なので出来るだけ身分証明のようなものは財布には入れていかないが、毎週往復していると流石に嵩むのでこればかりは仕方ない。しかも近頃は「君って羽島幽平に似てるね」と言われる事が少なからずあり、幽の名誉を傷付けない為に、少しでも顔の印象を変えようとサングラスをかけていた。金髪で羽島幽平に似ている長身の男が売りをしていると万が一幽の耳に入ったら一生顔向け出来ない。離れていても気遣って警告をくれる弟は俺にとって掛け替えのない存在だ。
「……」
近くのベンチに腰掛け、少し早めに来てしまった為に煙草を出した。相変わらず味は感じないが、口寂しいんだ。一本目を吸い終わって携帯灰皿に押し込んだのと同時に人影が近付いてきた。時間にはまだ余裕があったが、何も時間ぴったりに来るのが当たり前だとは思っていない。
立ち上がって男が来るのを待っていると、そいつは何故かぴたりと足を止めた。訝しんだ俺は首を傾げる。ただの通行人だろうか。サングラスをかけた不良っぽい男が路地裏に立っていたらそれは確かに一般人からしたら恐ろしいだろう。そう思って道を退けようとすると、男は再び歩き出した。何度も見たはず、だけど俺は一日も経てば相手の顔なんて忘れる。なのにその輪郭はやけに見覚えがある。そんな印象に残る奴なんか居ただろうかと少し考え込むが、顔を見れば思い出すかもと楽観視していた。
「……?」
街灯が余り無い場所だが、やっと男の姿が見えてきた。ファー付きコートが印象的な黒ずくめの奴だ。何故か、一気に悪寒がした俺は身を強張らせる。本能的に警報が鳴り響いている。逃げた良いかもしれないと理由は判らないが理解した俺は足に力を込めようとするが、それ以上に、その人物が誰なのか知りたいという好奇心が勝ってしまった。
それを俺は、後悔してもしきれない。俺との距離はほんの数メートル。そいつは学ランから私服になった以外、余り変わっていないように見えた。
「久しぶり」
絶句した。二年前にも、顔も覚えていない誰かに同じ事を言われたが、こいつの事は忘れようがない。俺はあの時みたいに朗らかに「久しぶり」と返す事なんて出来ない事を察知していた。
「い……臨也?」
本人に向かって名を呼んだのは実に五年ぶりになる。臨也だとはっきり認識した瞬間、凍りつかせていた臨也への感情がどろりと溢れそうになって思わず肩を抱いた。奴は微動だにしない。強いて言うなら、コートのポケットに突っ込んでいた右手を中に入れたまま僅かに動かした。
「な、なん、で、っ此処、に」
しどろもどろに言葉を繋ぐ俺はかつてない恐怖に襲われていた。いきなり鳴り響いた携帯の着信音にさえ身体が震えた。言う事を聞かない指先を使ってなんとか携帯を開くとメールが来ていた。朝、俺に連絡してきたのと同じメールアドレスで。俺の空メールがそのまま返信された。眼の前の臨也は笑っていた。
「こ、れ……お前、だったのか?」
目まぐるしい情報量に導き出した答えは言った自分でぞっとした。短く臨也が「そうだよ」と肯定し、同時にそれは臨也が俺を呼び出したのと同義だと気付かざるをえない事実だった。
「シズちゃん、変わってないね。全く。その、愛されたがりな所とか、特にね」
臨也の言葉は、ダイヤモンドで出来たナイフよりも鋭く俺を抉る。ただ事実を述べているだけの言葉が、俺を責めているように思える。化け物の分際でよく愛されたいと思うな、と。確かに身分不相応だが、俺は嘘でも仮初でも愛と実感出来るならなんでも良いんだ。欲張ってなんかいない。
「ちょっと弱味握ってやったら、あっさり携帯貸してくれたよ、これの持ち主。シズちゃんが欲しいのってその程度の愛情なんだよね? まあ、あれだ」
言葉を切った臨也は眼を細めてにやりと笑う。胸を締め付けられるこの感覚が嫌いだ。
「誰彼構わず足開いて売りやってるシズちゃんは、愛なんか金で買えるとか、自己満足で抱かれてるんでしょ?」
眼を見開く。臨也が此処に来た時点で薄らとは感じていた。臨也は俺がこの数年間してきた事を知っていると。出来る事なら、幽と同じくらい臨也には知られたくなかった。臨也から貰えなかった愛情を、ほんの一欠片でも良いから、他の男から貰おうとした俺を。
黙りこくる俺に臨也が近付いてきた。こいつの恋慕の感情と一緒に、俺の足まで凍りついたように動けなかった。眼の前まで来た臨也が、指輪をした右手で俺の頬に触れる。一気にフラッシュバックする高校時代に脳味噌が拒否反応を起こし気付けば腰が抜けていた。触れられただけで、このザマだ。俺の理性と裏腹に、どうしてだ、俺の身体は臨也に抱かれたいと言っている。青ざめる顔と違って、何故下半身が熱くなる。どうして。どうして!
「ひ、さ、触るな」
情けない声で拒絶を示しても喉から手が出るほど俺は臨也が欲しかった。五年間も、抱かれる度に脳裏に臨也がうかんでいた。俺がどうして何人にもの男に犯されても満足出来ないのか、その理由はとっくに知っていた。認めたくなかった。臨也なんか忘れた方が俺の為なのに。
「触るな? 毎晩毎晩、とっかえひっかえ男を銜えてた奴に言われたくないなあ。ところでさあ、なんでこんなビッチみたいな事してんの? 高校の時、女子と手も繋げない純情ぶってた奴がさ。あ、なに。こっちが本性? 知らなかったなあ、俺と寝てた時もひょっとして他校にセフレ居たの?」
臨也の口からあの時の事を語られるのは嫌だった。こいつは頭が良い。どうすれば俺が傷付くかよく知ってる。多分、俺が道を外した理由も判ってて言っているんだろう。
夢中で首を横に振る俺を、臨也はどんな眼で見ているのか。怖い。怖い。臨也の言葉で、もしかしたら二度目の精神の崩壊を迎えるかもしれない。八年前に砕かれた俺の生きる目的を、多数の男に抱かれる事で再構築した。でも、次は、直せるかどうか判らない。
「いや、だ、触んな、俺、に」
ぎゅっと閉じた眼頭が熱い。俺は泣きそうになっているのだろう。それこそ、臨也を助長させるかもしれないのに。こいつにとって俺は単なる遊び道具だ。暇潰しに過ぎない。飼い主に惚れたってどうしようも無かったのに、その気持ちすらこいつは利用して踏み潰すんだ。
臨也の顔が近付いてくる気配がする。ちゅ、とリップ音は目尻に落ちた。駄目だ、駄目だ、可笑しくなる、流される。臨也を好きになったのは間違ってたんだ。誰かに愛される事を望むのは罪だったんだ。
「キスマーク大量だね。昨日もヤったんだ?」
何時の間にか俺のシャツを寛げていた臨也が面白そうに言う。とても正面から見る事なんて出来なくて俺は逃げようと身を捩る。そこで臨也が俺の胸元をつ、と指でなぞる。初めて臨也に会った日にこいつによって付けられたナイフの痕だ。薄ら眼を開くと、臨也は何故か無表情だった。声はあんなに、楽しそうだったのに。吃驚して思わず肩の力を抜いた俺に、臨也は俺に跨ったまま身を乗り出し唇にキスしてきた。
「っぅ……! んん」
単なるキスなのに、びりびりと脳髄が痺れる。生活騒音が遠のく。ついにぼろりと涙を零した俺は、抑えつけられている腕を何とか動かそうとするが、臨也の力は予想外に強かった。やがて離れた唇にほっと息を吐いたのも束の間で、また塞がれる。しかも今度は舌が入ってきた。ぬるりとした感触に息を詰め、抵抗出来ない事を悟ったのかかたかたと震える肩を臨也に抱かれる。行き場の無い手を無意識の内に臨也の服を掴ませていた。まるで催促しているような体勢。臨也の片手が俺の手を撫でる。俺の手は、また、氷のように冷たいのに、臨也の手は熱を持っている。抜けるような音と温かい唾液、眼の熱い涙にくらくらする。逃げようとする舌を臨也が抑えつけて嬲る。
「んんっ、んー……! んぅ……」
呼吸も思考も何もかも奪われ、舌を抜かれた頃にはすっかりくたりと全身の力が落ちていた。それでも、臨也に縋る手だけはしっかりと意思を持っている。臨也は俺の唇から溢れて唾液を舐めながら鼻で笑う。
「ビッチの癖に、キスはへったくそだねえ。女子高生の方がまだマシだよ」
「っあ……!」
そのまま臨也の舌が俺の首筋を伝い、強く吸い上げる。キスマークを付けられたと気付いた瞬間、このまま堕ちるのは嫌だと俺は臨也を突き飛ばした。やや驚いているような顔に度肝を抜かれたが、ぐいと唇と眼を拭って睨み付ける。
「俺に、触んじゃ、ねえ。てめえにだけは、絶対に抱かれねえ!」
そう言って、臨也の下から抜けだそうとしたが腕を抑えられた。振り解こうとしたが、その前に臨也の綺麗な声が俺を犯す。
「シズちゃん、俺のこと、まだ好きなんじゃないの?」
「っ死ね!」
ああ、そうだよ。俺が愛して欲しいのはお前だけなんだよ。それがなんなんだ。お前は愛してくれないだろう? その結果だけで、もうお前に用は無いんだよ。俺を愛してくれない人間なんか要らない。
「ねえシズちゃん」
「死ね!死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね!」
呪文のような言葉を繰り返し吐き出した俺は臨也を押し退けて立ち上がる。それと同時に、
「俺もシズちゃんが好きだよ」
……そう、余りに突然言われた。
「し……、……」
今、こいつは、何を言った?
俺を好きだと、言ったのか? はは、はははは。
「面白い冗談だな、臨也。死ねよ」
その言葉が欲しかった。壊れて、狂ってしまうくらいに欲しかった。でも、もう、遅すぎたんだ。
お前は知らないだろう。この五年間、俺がどれだけその言葉を欲したのか。お前にとってその言葉は、その程度の重さなんだ。
「冗談じゃない。本当は、高校の時から好きだった」
俺が狂う原因を作った奴が、よくもまあぺらぺらと。臨也への愛は、憎しみに。
「俺は死ぬほど大嫌いだ。だから死ね」
あんなに欲しかった言葉はもう、風化してしまったんだ。もう取り返せない。
「信じてよ」
お前の口先は専売特許だろ? そんな短い言葉で大丈夫なのか。はは。今度はそういう手か。生憎、二度も騙されてやるほど俺は馬鹿じゃない。「信じられない」。俺の呟きを奴は聞き取れなかったらしく、僅かに眼を見開いた。この五年間、俺の中で臨也の言葉は反復されているんだ。“俺は誰からも愛されない”と。それを奴にも思い出させてやろうと、言い聞かせるように俺はもう一度「お前を信じるなんて無理だ」と繰り返した。
俺は耐えられない。お前の言葉の一つひとつが俺を蝕む。どうせ嘘なんだろ?
「お前のお遊びに付き合うのはもう疲れた」
でも、少なくとも俺は本気だった。……本気、だった。本気だったんだ。それを最初に否定したのはお前じゃないか。俺で遊ぶほどお前は暇なんだろう。俺は、俺を愛してくれない奴は要らない、そう、だから、お前はもう必要ない。お前を信じてもう一度裏切られたら、俺は、次に、何に縋れば良いんだよ?
「俺は、俺を愛してくれる奴を探す。そいつはお前じゃないんだろう。お前だったら……」
どんなに幸せだったか。それは、口に出さなかった。臨也が何か言いかけたので全力で逃げ出した。追い駆けてきた臨也に追いつかれないよう、人生で一番真剣な鬼ごっこだ。なんとか距離を取った俺はタクシーに逃げ込んでこの場をすぐに離れて欲しいと頼んだ。事情を察してくれたのか、運転手はすぐに人通りの多い繁華街の方へ車を走らせた。此処なら人が多すぎて探しにくいと思ったのだろう。
呼吸を落ち着けた俺は携帯を出してよく顔を合わせている奴の一人に電話をかけた。夜遅くだったがすぐに出たので思わず口元に笑みが浮かぶ。
「夜分遅くにすみません。なんだかしたくなっちゃったので、今から良いですか? お代は要らないですから」
『ええ、勿論! すぐにお迎えに行きますね!』
弾んだ声に安心して電話を切る。ああ、したい。したい。臨也と会う事でまた大きく開いてしまった穴を埋めて欲しい。相手の指定する店まで到着するまで約10分。ほう、と息を吐いた俺は、口の中に臨也の味がする事に気付いて舌打ちした。煙草ですら何も感じなかったのに。
こてんと頭を傾けた俺は眼を瞑りながら、唇を指でなぞる。どうしてだろうか、また涙が一筋流れた。臨也なんて忘れたい。あいつは俺を奈落に突き落とすから。
俺は忘れていなかった。どんなに身体を相手に委ねたとしても。
ただの一度として、臨也以外に唇を赦した事は無い事を。
方法が無いならいっそ殺して