午後10時。俺が身支度を整えて靴を履いている時に、まるで幽霊のように幽が背後に立った。見付からないように出かけたかったのに。幽が風呂に入っていたから少し時間に余裕があるとのんびりし過ぎたか。

「……何処行くの?」

あの時の俺と同じく、幽はもう高校三年生になっていた。在学中にスカウトされ、卒業と同時に俳優になるらしい。髪から落ちる水滴も気にせず、淡々と言葉を紡ぐ。とても幽を振り返る事が出来ず、俺はきつすぎるくらい靴紐をぎゅっと結んだ。こんな夜に出かける癖に、手荷物なんてほとんど持っていない。ちょっとコンビニに行ってくる、といっても不自然ではないくらいの軽装だ。

「暫く、あっちで暮らす」

玄関の床に向かって俺は言った。あっち、とは俺が都心で働く為に職場の近場で借りたアパートの事だ。それでも時間があれば実家に顔を出しなさい、という母親の気持ちを汲んで、此処数日は両親や幽と住んでいたが、もう限界だ。三人が嫌なんじゃない。俺個人の問題でだ。

「何時頃、帰ってくる?」

普段は俺の言う事する事に干渉しない幽が、やや語調を強くする。疑っているんだ。俺が、もう、此処に帰ってこないんじゃないかって。心配性だな、幽は。満足したらまた戻ってくるさ。この、生温い居場所に。

「そうだな……判らないけど、連絡は入れるよ」

言葉を柔らかくして弟を刺激しないようにする。立ち上がった俺は真っ暗な玄関を通ろうとするが、幽はぐっと俺の腕を握る。此処最近、俺は幽の顔を真っ直ぐ見れていない。幽が俺を引き留める腕には、真っ白な包帯が巻かれていた。平和島静雄の弟だからという理由で、俺には怖くて喧嘩を売れない奴らの鬱憤を晴らす対象は、脆弱な幽だった。顔立ちはよく似ているし、歳も三つ離れていて丁度俺と同じ学校には行けない。

「幽、どうした? 怪我の傷が開くかもしれねえから、もう寝ろよ」

その傷の一つひとつの原因は俺だ。俺は臆病だ。距離を取る事で、幽に降りかかる災厄を遠ざけようとしている。だがそれは建前で、本当の理由は、幽に嫌われたくないからだ。兄の所為で理不尽な騒動に巻き込まれている。怨まれても仕方ないのに、幽はこうやって逃げ出そうとしている俺の身を案じてくれる。そうしてくれている内に俺は逃げる。俺は怖い。俺を愛してくれる奴なんか何処にも居ないけど、幽まで俺を嫌ったら、好きでいてくれる人すら居なくなってしまう。幽は俺の一番大切な人だ。

「兄さん、俺は気にしていないよ。だから」

その先は聞きたくない。強引に、でも痣や切り傷に響かないよう優しく腕を振り払って外に出た。幽はそれでも追ってきた。裸足のままで石畳の上をずっと。一度身体を幽の方に向けた俺は、幽の足元に向かって笑いかけた。

「大丈夫だ。俺は。ごめんな」

ちらりと幽の髪辺りに眼を挙げると、幽が眼を見開いているのが見えて寒気が奔った。お前だけだ、俺の言葉で傷付いてくれるのは。まだ傷付けるくらいには、俺を好きでいてくれているんだな、と思えただけ俺は幸せだ。
俺にとって、幽の兄として生まれた事は人生最大の幸福だけど、幽にとっては、俺の弟として生まれたのが人生最大の不幸だ。俺は居ない方が良い。さっきは戻ってくるって思ったけど、もう、帰る気は無いんだ。
縺れる足を叱咤して走り出した。幽は呆然とそこに立っていた。暫く距離を取ってから振り返る。幽や両親にはもう近付かない方が良い。でもあの三人の事だから連絡が無ければ心配する。だから電話だけはして、無事と健康を知らせれば、大丈夫だろう。

「……はは」

いよいよ本格的に、俺は孤独だ。


電車を乗り継いで池袋とは遠く離れた場所まで揺られる。平和島静雄を誰も知らない場所まで行けば良い。自分の欲求に従って。毎回の事だが終わる頃には終電も無くなっているから、タクシー代もせびらないと。
とある駅で降りて、繁華街から抜けた人気の少ない場所まで来る。携帯で時間を確認し相手が来るまでに一服しようかと、二十歳になってから吸い始めた煙草とライターをポケットからまさぐる。深く吸いこんで吐き出した煙。乾いた口には、なんの味もしなかった。癖のように繰り返していると、こちらに誰かが走ってくる音が聞こえそちらに目を向ける。やがてラフな格好をした俺より2.3個ほど年上の男が現れた。

「静雄君! 久しぶり」

はて、誰だったか。思い出せないな。そう思いながらも俺はへらりと笑い、煙草を落として踏みつけた。誰でも良い。俺を満足させてくれるなら。

「ええ、久しぶりです……何週間ぶりでしょう?」
「二週間だね。君に会いたくて仕事が手に付かなかったよ……此処じゃなんだから、さ」

会いたかった、ああ、ぞくぞくする。その言葉だけで背筋が悦ぶ。でもそれだけじゃ足りないんだ。男が差し出してきた手を取るとそのまま抱き締められる。あ、思い出した、この余り好きじゃないシトラス系の香水。確かあんまり巧くない癖に何回も要求してきた奴だ。でも回数をこなした方が、この空白は埋められる。俺が素直に背に腕を回せば、性急に俺の服を脱がし始める。此処じゃなんだから、って言ったのは誰だ。別に良いが。

「せっかちですね……此処、外ですよ?」
「我慢出来ないよ。その分、弾むからさ……あれ、手が冷たいね……待たせたかな?」

俺の言葉なんて聞いていないように、鼻息荒く俺の素肌をまさぐっている。少しずつ、少しずつ、微量だが満たされていく。求めてくれる、愛してくれる、この時だけ。病み付きになるのも仕方ない。実家にただ居るだけじゃ寂しさは増すばかりで、もう耐えられなくなった。限界なんだ。既に俺の脳裏には、幽の姿は無かった。ただこれから与えられる快楽と享楽だけが壊れた俺を癒す。行きずりの相手の都合はどうでも良い。貫かれ、揺さぶられ、壊される感触、それが俺は欲しいんだ。

「ああ……もっと、ください……」

感じている声を出して催促すれば、男はがばりと俺に覆い被さる。誰でも良いんだ。人の温もりをくれるなら。嘘でも耳元で愛してると呟いてくれれば。どう足掻いても貰えないそれを、金と身体でやり取りすれば良い。空っぽの俺の身体は少しの無理を働いても壊れやしない。どれだけ激しく乱暴に犯されたって翌日には普通に立って歩ける。だから、物足りない時は一日で数人の相手をする事もあった。
貰った金は生活費に充て、余った分は仕送りに使う。一ヶ月で数え切れない男の相手をする俺は、職を転々とするアルバイトが貰える給料としては有り得ない額を稼げる。余りに多いと怪しまれるから、適度に、それでもやや多く。今まで迷惑をかけ続けた両親や弟にはこれじゃ償いきれないけど。高校を卒業した辺りから食欲が激減した俺は、情事の後でも腹が減らない。食費はかからない代わりに体重も見る見る減って行った。元々着痩せするタイプだから、疑われはしなかったけど。

「愛してるよ静雄君……君が他の奴にも抱かれてると思うと虫唾が走るよ」
「んぁっ、はあ」

後ろから貫く男には判らないように、感じているふりをして、口元は嘲笑で歪む。此処で俺が「俺も愛してますよ」と言ったら、どうなるんだろうな。独り占め出来ない苛つきからか、打ちつけられる腰が強い。凄く気持ち良い。痛いくらいが丁度良い。恋愛なんて出来ない俺だけど、こうしてなら愛を示せる。でも足りない足りない。この飢餓感は一度も埋まり切った事は無い。どうしてかは判らないけど。多分、幽や両親に対する後ろめたさが引き金になっているのだと思っている。それでも、埋まらなくたってある程度積もれば、満足する事は出来る。

「やぁ! ああ」

人口皮膜に遮られた熱い白濁は急速に疲労感と倦怠感をもたらす。現に後ろの名前も知らない奴はふうと溜め息をついて中から引き抜いた。小刻みに痙攣しながら、服を正している奴に抱き付いて耳元で誘った。

「まだ足りないです……、でも、貴方はもう無理ですか? なら、他の人にお願いしようかな……」

先ほど俺を独占したがっていた男にこの言葉は覿面だった。この数年で培った男の誘い方、色を出しながら首を猫のように舐めて「駄目ですか?」と微笑んでやる。男はすぐにそんな事は無いと言って俺を抱き締める。無防備な聴覚に、

「ホテル、行きましょう? 楽しいですよ、きっと」

そうやって響かせれば、ごくりと生唾を飲み込んだ奴の腕を引いて先導する。醜悪な夜は、まだまだ続きそうだ。

それが今から、二年前。


理由が無いなら方法を教え