五年前。
過去と切り離すには近く、最近と割り切るには遠い時間。個人的には人生で最大の転機が訪れた年。
八年前。
あらゆる意味で俺が浮いていた時。親しい友人など誰も居らず、花の高校一年生とは思えない、余りにも孤独な生活を送っていた頃。折原臨也が現れた時期だ。
きっかけは覚えていない。俺からだったか、奴からだったか。理由も既に判らない。気紛れか性欲処理か、もうどうでも良かった。毎日のように俺に喧嘩を売る奴らを蹴散らした後、見計らったように臨也に抱かれた。場所は問わない。教室、屋上、トイレ、図書室、体育倉庫、プール。停学中は俺の家に上がり込んできたり時間に余裕があればホテルに行ったりもした。
最初は誰でも良いから触れてみたかった。触れて欲しかった。それが大嫌いな臨也であっても、人間の温かみには代わりない。特にこの関係を拒絶する訳でも否定する訳でも無く、ただ受け入れていた。金銭のやり取りは無かったからセフレですら無い。金も無ければキスもしなかった。恋人じゃないからだ。特にそれが話題に昇った事はなく、そして全部狂ったのは、卒業式まで残り一週間という所だった。
「ん、っん、ぁ」
校舎も見納めだからと、自由登校になって三年生の荷物がほとんど置かれていない教室でしていた。神聖な学び舎なのにすぐに浮かぶのはこいつとのやましい行為だなんて我ながらふざけてる。教室の床と机の足が擦れて耳障りな不協和音に背筋が粟立つ。それも俺の出す声で掻き消されるのだから皮肉なものだ。
「や、っいざぁ」
卒業と同時にこの関係は自然に消失するのだろうかと、殊勝な事を考えながら俺を犯す男の名を呼ぶ。答える事無く首筋に顔を埋めて痕をつけるこいつは一体何を考えているのだろうか。判りたくもない。俺にとって面白くも無い事を考えているに違いないから。それでも、普段はポーカーフェイスを崩さない臨也が息を乱して俺を貪っているのは、悪い気はしない。そんな事を考えている内に、終わったらとっととゴムを外して後始末している臨也をぼんやり眺める。こいつ黙ってれば美人なのになあ、なんて思うくらいには今日は激しくてこのまま机の上で寝そうだった。そんな俺を見てふと臨也は表情をすっと無くした。なんだ? と眠たい思考で考える前に、臨也はそのまま俺にキスしてきた。
「……。……!?」
一気に頭が覚醒した。最初は何があったか理解出来なかったが、初めての感触に文字通り眼を丸くし驚いた余り突き飛ばそうとした。その前に臨也は離れたので俺の腕がぴくっと動いただけに留まった。え、嘘だろ。なんで。指先で触れていた場所を確かめるようになぞっていると、臨也は眼を逸らした。その動作に思わず俺は立ち上がり、詰襟を引っ掴んで顔を寄せて不器用にキスを返した。今度は臨也が混乱しているらしく微動だにしない。唇を離してから俺は、一年生の時からの感情をつい滑らせた。
「……好きだ」
俺は舞い上がっていた。ひょっとしたら臨也が頷いてくれるんじゃないかって。応えてくれるんじゃないかって。俺が三年間この好意を閉じ込めていた理由を忘れるくらいには、臨也のキスで頭に血が昇っていた。
「は?」
普通に考えたら同意してくれる訳ない、ましてや了承する訳もない。引かれるだけだからやめようと何度も閉じ込めていたその枷を外してしまった。その軽はずみな行為の代償はすぐに俺に襲いかかった。
「なにそれ」
臨也はまるで心底驚いた、という表情を演じているように見えた。眉が吊りあがり、口元は嘲笑で歪む。心臓を鷲掴みされたような錯覚に襲われ、俺は思わず自分のシャツを握り締めた。
「好き、ってさ。シズちゃんなに? 勘違いしてくれちゃってる? はは、ひょっとしてキスしたから、俺もシズちゃんが好きなのかなって思ったわけ?」
臨也は普段よりも早口で、まるで嫌悪感に臨也自身が侵食されているような感じがした。絶句したまま固まっている俺に一頻り笑うと、一歩近付いて俺を見下した。
「有り得ない。気持ち悪い。化け物」
「っ……」
言葉の羅列を並び立てられるより、その率直な言葉の方が心に来た。子供の頃から聞き慣れ過ぎて、受け入れていたはずのそれ。しかし成長すればするほど、俺に向かって言う人間は減っていった。代わりに影で囁かれるようになった。お陰で、こんなにはっきりと向けられたのは久しぶりだった。
「お前みたいなの、本気にすると思ってんの? 誰からも愛されないからって俺に縋るなよ」
ぶちり、と自分の中で何かが裂けた。いや、砕けた。もう跡形も残っていなかった。
臨也の嘲笑は見たくなかった。俺に向けられた軽蔑を、受け入れられるなんて思っていなかったから。無言のままシャツを握っていた手を解いた俺は、自分でも狂ってると思えるくらいすっと感情が消えた。冷静になんの感情も宿さないまま、空いた手を立てて顔に当てる。
「俺に惚れちゃってたの? うっわあ、ひょっとして俺で抜いてた? シズちゃんってさあ」
「……そうだな」
べらべらと語り続けていた臨也はようやく俺が人形みたいな顔をしているのに気付いたらしい。すっと顔をずらした俺は何度も確かめるように「そうだ。そうだな」とだけ繰り返した。俺は誰からも愛されない、そんなの判り切っていたのに。臨也から与えられる仮初の温もりに勘違いしていたようだ。現に、臨也以外で俺に触れてこようなんて酔狂は何処にも居ないじゃないか。俺みたいな化け物が生身の人間を好きになって良い訳ないし、見返りを求めるなんて馬鹿みたいじゃないか。そうだ。そうだな。
「そりゃそうだ……は、は……俺……俺なんか……」
涙は一滴も零れなかった。真っ白な顔で、生気の無い瞳で、ぼそぼそと呟く俺に対し臨也は何を考えたのだろうか。ああ、もうどうでも良い。俺は誰からも愛されない。それを改めて教えてくれただけ、臨也はまだ良い方だ。俺に愛は似合わない。万人を愛す臨也にさえ、俺は憎まれているのだから。
「終わらせるか。お前にすら愛されないくらいなら、諦めるよ」
じゃあな、と極めて機械的に手を挙げ、一度も臨也を見ないまま学ランを掴んで歩き出した。情事の名残の所為で足取りは重い。臨也が珍しく何も言わないのも、きっとまんまと騙された俺を笑うのに忙しいからだろう。でも良い。もう良い。なんでも良い。終わらせた。淀み切った関係も、浅ましい初恋も。これで卒業式まであいつに会う事もない。その後は一生会わずに済む。片想いは終わらせて正解だったんだ。
帰っても家には誰も居なかった。着替えもせずにベッドに寝転がろうとしたが、机の上に散乱していた教科書に理性が切れる。もう思い出したくもない。こんな辛い、辛い、……生き方は。
「あ、ああああ」
二冊纏めて引き千切る。紙の破片が宙を舞うが視界には入らず、ただ、欠片でも臨也を連想させるものはすべて破壊した。お気に入りだったシャーペンも、三年間使い続けたスクールバッグも、日本語になっていない言葉を叫びながら、只管壊した。愛してくれないなら、俺の中から出ていってくれ。常に俺を掻き回して見下して優越感に浸る、それが折原臨也だ。血走った眼で全部踏み潰した俺は、今度は自分自身を壊したくなった。赤い血も人の形も、俺が中途半端に人間だと錯覚してしまう原因になる。どうせなら、原型が判らなくなるくらいにぐちゃぐちゃに出来たら、ぐちゃぐちゃに、ぐちゃぐ
ぐちゃぐちゃに、ぐちゃぐちゃ、ぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃ ぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃあぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃはぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃはぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃ ぐちゃぐちゃはぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃはぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃぐはちゃ
「っ、何、してる……の……!?」
俺の自傷行為は、何時の間にか帰って来ていた弟が必死に腕を掴んだ衝撃で止めさせられた。ひたすら殴り、引っ掻き、蹴った痕は大型動物に引き裂かれたような凄惨なものだったが、どれも俺を壊す事は出来ない。
「……幽」
だらりと腕を下げ、血塗れになっている俺を気丈にも抱き締めてくれた幽が慌てたようになにと訊ねる。俺は首を傾げ、まるで「なんで雲は白いんだ」と聞いたみたいに、気軽に、明るく、笑いながら呟いた。
「俺ってなんで生きてんだ?」
全部忘れたいと思ったが、こう訊ねた時の幽の絶望した顔だけは忘れる事は出来そうになかった。
翌日から風邪でもないのに高熱を出した俺は一週間寝込み続け、卒業式に遅れて出席する事になった。
それが今から、八年前。
愛されないなら此処に居る理由を教えて