昨夜、俺がぽつりと漏らした「プリンが食べたい」という呟きを臨也は覚えていたらしい。午後の三時も越えた頃、粟楠会の四木さんからだよ、と言われて貰った煎餅を齧っていたら臨也がコートを羽織って出かける準備を始めていたのでテレビから視線を戻した。

「どっか、行くのか」

去年高校を卒業したばかりの臨也は若々しい爽やかさでにっこりと笑い、プリンを買ってくると言った。

「え? なんで?」
「シズちゃんが食べたいって言ったじゃない」
「そりゃ、そうだけど……」

四木さんから貰った煎餅があるじゃねえか、と銜えていたそれをぱりっと噛み砕いたのだが、言い出したら聞かない臨也は良い子で待っててねと俺の額にキスしてから玄関に向かう。扉が閉まった音がしたのでそちらまで歩いていき、段差に腰掛けて唇をむっと尖らせた。プリンは食べたいけど、それよりももっと臨也と一緒に居たいのに。粟楠会との打ち合わせがずっと入っていたから、朝からずっと構って貰えなかったから。
その分の埋め合わせなのかもしれないけど、一日中テレビと向き合って暇潰ししていた俺としては一瞬でも早く抱き締めて貰いたかった。四木さんや新羅、門田辺りと会話するのは慣れたけど、9割以上俺の話し相手は臨也だ。足をぶらぶらさせながら玄関口で臨也を待っていると、唐突にチャイムが鳴った。頭の中も9割以上臨也の事を考えていた俺は即臨也だと思い込み、普通に考えたら家主の臨也がインターホンを鳴らす訳無いという簡単な推理すら出来なかった。急いでリビングに戻り、背伸びしてロックを外しまた玄関にとんぼ返りする。

「臨也!」

玄関を開け、エレベーターから臨也が降りてくる、……と思った俺は、エレベーターが開いた時に思い切り名前を呼んだ。頭二個分以上背の高い臨也の顔の位置を想定したからかなり視線を上げたのだが、そこには何もなかった。その代わり、随分と小さなものがそこに居た。

「……え?」

そこに二つ。揃って首を横に傾けているのは、俺よりも年下の女の子だった。初めて会うのに妙に見覚えがあって俺は虚を突かれた。だが、その前に臨也の許可無く他人に会ってしまった事で軽くパニックになってしまい数歩後ずさった。それで向こうも思考が追いついたのか、にまあ、と片方が笑った。

「静雄さん!」

なんで俺の名前知ってんだ? という考えが赦されるより前に、少女二人が同時に片手を俺に突き出した。

「出さんが負けよー、じゃんけん!」

条件反射で手のひらを出した俺に対し、打ち合わせ済みだったのか知らないが二人は鋏の形。

「え? あ」

出しても負けた。

「きゃっほー! ね、ね、クル姉! やっぱりパーだったでしょ? 静雄さん単純っぽいからパーだと思ったもん!」
わたしも……パーだと……おもったよ
「はい静雄さん! 静雄さん男の子だから、ハンデとして鬼は私たち二人ね? じゃ、よーいどん!」

なんだこいつら。そう思ったらいきなり表情の明るい方が俺の方に走ってきた。距離は1メートルも無く、吃驚して迫ってきた手をかわすと、勢い余った少女がよっとっととたたらを踏んだ。

「静雄さんすばしっこいね。面白い!」

きらりと眼鏡の向こうで光る瞳が怖くなり遅ればせながら俺は逃げ出した。二人は俺を追いかける事無く、姦しい声で数字を数えていた。

「じゅーう、きゅーう。はーち、なーな。ろーく。ごー。さーん、いーち。はい行くよー!」

若干数字を飛ばしている気がしたがそんな常識は無視し、慌てて扉の鍵をかけようとしたがもたついた所為で間に合わず、女が追いついてきたのを見てぱっと離れて家に逃げ込んだ。
見ず知らずの他人の侵入を赦した事に臨也から怒られるのを覚悟しながら事務所の大きなソファの影に隠れた。二人はこの家の構造を知らないらしく、やや遅れて入ってきたが、どうやら二手に別れて俺を探すらしい。髪の短い方が俺の方に近付いてきて頑張って縮こまる。逆の騒がしい方は給湯室の方で食器をがちゃがちゃさせながら「静雄さん何処ー?」と笑っている。
どうにかして臨也に連絡したいが、連絡手段は臨也の方からかかってくる電話を取るしか方法を知らない。都合よく今電話のベルが鳴るとは流石の俺も思っていなかった。しかも仮に鳴ったとしても、俺の近くにいる女が傍を通っているから無理だ。

「静雄さんー? かくれんぼじゃないよ、鬼ごっこだよー? んもう、イザ兄の家、広すぎるよぉー!」

なんとか距離を置こうとソファを軸にしてじりじりと移動するが、眼鏡の方の女に意識を向かせた瞬間、俺の目の前が翳った。

みーつけた……」

ヤバイ、と思った俺はすぐに立ち上がり、“くるねえ”と呼ばれていた女にクッションを投げる事でなんとかやり過ごす。だがその所為で給湯室を漁っていた女もこちらに気付いたらしく、二人にはっきりと視認された。

「居たぁー!」

輝いた眼で見られても何も嬉しくない。二人ともかなり足が速いらしく、あっという間に俺ににじり寄って来た。俺は事務所から玄関の方へ逃げ出し、途中の寝室に入り込んだ。こんな狭い部屋に逃げた事をかなり悔やみながらなんとか扉を閉めようとするが、流石に男といってもこの歳じゃ男女差は余り無い。しかも向こうは二人で、せーのっという可愛らしい掛け声と共にドアは開けられてしまった。

「う、わ」
「静雄さんつーかまーえた!」

容赦無く手で触れようとしてくる手から逃げる為に部屋の奥まで走り、ベッドの上に這い上がった。当然二人も我が物顔でよじ登ってきて軽く涙目になった俺は布団を抱いて壁に背を預ける。これ以上逃げられない。

「ターッチ!」

二人が手を伸ばし、ぎゅっと眼を瞑った俺の肩に同時に軽く触れてきた。臨也以外の他人に触られたのなんて何年振りだ、とぶるっと震えた俺に対し、二人は暢気にハイタッチを交わしていた。

「あはははは、面白かったねクル姉! こういう子供染みた遊びって本気でやるから面白いんだよね!」
わたしたち……こどもだから……」
「あ、静雄さん驚かせちゃった? 大丈夫大丈夫、怪しくないよ、私たち!」

他人の家に土足で上がってきて突然鬼ごっこという脅迫をしてきた子供とはいえそんな奴を怪しいと言わないなら何から怪しいと言うのか納得が行くように説明して欲しい。

「……おっ……」
「お?」
「お、おま、えら、誰だ」

やっと二人に繋げる事が出来た言葉は素性を聞くものであった。二人は顔を見合わせる。横顔が吃驚するほどそっくりである事に今更気付き、この二人は姉妹なのだとようやく理解した。そういえば服も色違いなだけで揃いのものを着ている。何より印象的な濁った赤い眼は何処かで見た気がする。

「静雄さん、私たちが誰か聞いてないの?」
「し、知るか。誰だよ! 勝手に変なこと、しやがって!」
「あちゃー、クル姉、ちょっと不味いことしちゃったね?」
いざやにいさん……おこるかな……?」

何やら小声で身内の相談をし始めた二人に、俺は身を守る為に布団を一層強く抱きかかえた。臨也の匂いがして少しだけ安心出来るからだ。だが不安は払拭出来ず、二人に対する恐怖心が抑えきれなくなった俺は涙声になりながら叫ぶ。

「臨也ぁ……!」
「うわっ」

いきなり他人の名前を呼び出した俺に二人が驚き少し距離を開ける。離れた温もりに俺は布団に顔を押し付けて臨也の気配で気を紛らわせようとする。布団に押さえつけられてくぐもった音しか出ないが、なおも呼ばないと気が済まない。

「臨也、臨也、臨也っ……う、いざ」
「ん」

突如、ベッドが軋んだかと思ったら俺の身体が宙に浮いた。

「っ!?」

布団を掴んだままふわりと横抱きにされた俺はおずおずと顔を上げると、そこには何度も名前を呼んだ臨也が居た。渇望し過ぎての幻覚かとも思ったがこの浮遊感は本物だろう。それに二人もまだ俺の下に居る。

「臨也……?」
「大丈夫?」

力の抜けた俺の手から布団が重力に従ってあるべきベッドの上に戻った。眼に涙を浮かべている俺を見て顔を覗き込み、目尻に口付けを落としつつ抱き締めてくれた。本人だとようやく実感が沸いてきた俺は二人からより離れる為にも臨也の首に腕を回して抱きつく。

「ごめんね、こいつらが勝手に入ってきて対応に困ったでしょ。お前らシズちゃんに変な事してないだろうな?」

前半は俺に対して、後半は顔を見合わせている姉妹に投げかけた。若干苛ついているような声に俺は顔を上げる。

「臨也……知り合い、か?」
「うーん……まあね」

人類すべてへの愛を歌う臨也が珍しく言葉を濁した。盛大に溜め息を吐いた後にはっきりと、

「俺の妹だよ」

と言ったのに眼を見開いた。驚いて二人に視線を落とすと、ばっちりと目線が合い、片方が手を挙げた。

「折原舞流でーす!」

すぐ逆の方が手を挙げ、

「折原九瑠璃」

と自分の名前をぼそぼそ囁いた。そのまませーのと掛け声を合わせ、一斉に臨也に抱きついた、と思ったが、腕というより足を伸ばしている辺り蹴ろうとしたのか。慣れているらしく臨也は幼い身体をひょいと払うだけで済ませた。

「臨也の……妹?」
「そ。不名誉だけどね」
「えー。イザ兄、お兄ちゃんっぽいことなんか何にもしてないじゃーん!」

何度か感じた既視感の理由が判明した。言われてから改めて二人を見直すと、紅色の瞳は真っ黒の髪は勿論、顔形が臨也によく似ていて段々口がぽかんと開いてきた。今の今まで臨也に兄弟が居るなんて知らなかった。聞かなかったし、言わなかった。
ベッドの上に膝をつけた俺は興味津々に己を見つめてくる二人に歯切れ悪く言葉を繋いだ。

「平和島、静雄……です」
「知ってるー! イザ兄から聞いてたよ!」

きゃっきゃと賑わいでいる二人に臨也が判り易く溜め息を吐いて首根っこを引っ掴んだ。

「タクシー呼んでやるからとっとと帰りなさい」
「やだ! 静雄さんでもっと遊びたい!」
こら……でじゃなくてと……」
「シズちゃん、すぐ戻るから」

苦笑しながら振り向いた臨也は未だぎゃあぎゃあ騒ぐ二人を強制的に連行して行った。布団に包まったままぽつんと残された俺はベッドにうつ伏せになってごろごろしてみる。いざやの、いもうと。やや人の話を聞いていないような節があったが、外見は可愛かった。流石臨也の血縁者だけのことはある。俺に兄弟が居ないから羨ましい。
暫くすると臨也が戻ってきた。物凄く疲れたような顔をしていたが、気遣う事無く頬を膨らませた。

「なに拗ねてんのさ」
「だって……なんか臨也、取られた気分……」

俺は臨也の事は死ぬほど好きだけど、あの二人はもっと根底的な部分で繋がっているような感じで羨ましかった。切なげにぽそぽそ呟く俺に臨也は何故か嬉しそうに笑い布団ごと俺を抱き上げた。

「ん……?」
「クルリとマイルに焼餅?」
「悪ィかよ」

べー、と舌を出して威嚇したら臨也の指先が俺の目元を撫でる。ほんの僅かに赤くなっているそこ。臨也も疲れているだろうに、細かな気配りをくれてまた泣きそうになる。俯きかけた俺の顎を支えてゆっくり視線を絡ませた。

「ね、シズちゃん。キスしよっか?」
「……勝手にすれば」

朝だって此処でした癖に。臨也とするキスは身体が熱くなって、心は安らぐ。つい臨也の服を少し掴んで皺を作るのも、何時もの事。
おやすみのキスには些か早いけど、ベッドの上でするには優しく柔らかな口付けだった。


この鬼ごっこに終わりは無い