人生で初めて着信拒否機能を使用してから、ひと月が経とうとしていた。
当然、その人物からのメールや電話で携帯が震える事はもう無くなった。思い返せば家族以外で俺に連絡してくる奴なんて臨也くらいだったと思い知らされ、自虐的な思いと言い知れぬ孤独感に見舞われた。
俺にとってもあいつにとってもこれで良かったのだと言い聞かせ、癖でメールチェックをしている自分を腹立たしく思っていると、タイミングよくバイブが響き、耳に押し当てると弟の声がした。
『兄さん、今空いてる?』
「ああ、暇だけど? 珍しいな、仕事はひと段落したのか」
『うん……でさ、ちょっと相談があるんだ。前にご飯食べたとこに居てくれない?』
淡々としていたが、その声は僅かに不安のようなものが滲んでいた。幽が俺に何かを頼むという事も珍しく、驚きはしたが反射のように行くと言ってしまった。その直後に、臨也と初めて会った時の店だと思い出し若干その事が頭をもたげたが、頭を左右に振る事で誤魔化した。
午前中は授業だったが、午後からは自習だったはずと予定を確認し、大通りに出てタクシーを拾った。
幽が指定した居酒屋は、事務所と繋がりがある訳ではないが、多くの有名人が御用達としている背景から融通が利く。俺が顔を見せると、店員が自然な動きで近付いて来て奥の席に案内してくれる。内装が大人っぽく全体的に暗いので変装していれば割とバレない、というのか幽の談だ。
一人で座敷に座っている幽を見て、ほっとすると同時に何処かで臨也を探した自分に一瞬で気付いて馬鹿馬鹿しくなる。幽は俺の視線が泳いだ事に気付いたのかもしれないが、それに触れる事はなく久しぶり、と片手を上げた。
「元気そうだな。先週出た雑誌買ったぞ」
「本当? じゃあ頑張った甲斐あったな」
俺と大差無い時間差で来たらしく、俺が座ると同時に店員が注文を取りに来たので一先ずコーラと烏龍茶を頼んだ。昼から酒という気分でもない俺と、未成年なので前回と同じくお茶で済ますがカロリーを気にしている幽。店員が去っていくのを見計らって相談は何かと聞こうとしたんだが先手を打たれた。
「話っていっても、俺は請け負っただけなんだけどね。俺の本意じゃないから」
「は……?」
幽が何を言っているのかよく判らずに首を傾げると、声をワントーン下げて幽は少し眉を落とした。長年一緒に居るから判るだけの微々たる変化だったが。
「臨也さんと何かあった?」
「ばっ……!」
大声を上げそうになったのを、場所と相手を弁えてなんとか抑える。俺の動揺に幽は、今度は眉ひとつ動かさなかった。
幽と臨也が同業者だっていう事を今の今まで失念していた。あいつが幽に何か言ったのかもしれないと思うと、弟にまで迷惑をかけた事に罪悪感を覚え俺はお冷やに視線を落とした。
「あいつ何か言ってきたのか?」
「『シズちゃんと連絡取れなくなったんだけど幽平君何か知ってる? シズちゃんの声が聞けなくなって早一週間経つんだけどそろそろ我慢の限界だからさあ俺から会いに行こうと思うんだけど俺最近くそ忙しいし? 夜に大学行っても居るわけないし自宅まで押しかけるのもなんかなあと思ってさ、手っ取り早く家族なんだし君は何か知ってるかなあと思ってとりあえずアポ取りたいからシズちゃんにそう言ってくれるか即繋がる連絡先を俺に寄越してよ』」
わざわざ声真似までして再現してくれた弟の演技力をこれほど宝の持ち腐れだと思った事は無い。臨也の嫌味ったらしい口調や声の使い方まで忠実に表現しているから、その音を出しているのが弟であるにも関わらず若干腹さえ立った。
微妙に表情を曇らせた俺を見ながら幽は動かしていた口を閉じたきり微動だにしない。だが幽の白い無表情には、俺にはよく判る怒りと不快感が乗せられていて俺は手を上げた。
「ごめん、お前にまで被害行って。怒ってるよな」
「ううん、そういう意味じゃないよ。怒ってはいるけど」
「あいつがしつこいとか、そういう意味か?」
「違うけど、俺個人の感情だから気にしないで」
ぴしゃりと言われた言葉に、詮索して欲しくないんだなと思った俺は素直に頷く。胡坐をかいたまま壁に寄りかかり、とりあえず質問に答える事にした。
「着信拒否した」
「どうして?」
「ん……俺とあいつじゃ色々違い過ぎるだろ。親友とかそういうのにはなれないって事。関係切るには良い頃合だったんだよ」
聞いてきた相手が幽じゃなかったら、単に「鬱陶しいから」で済ませたかもしれない。それでも「恋愛関係」という部分を「親友」に濁したのには、俺自身が臨也をそういう眼では見ていないと思いたかったからだった。そう、もし俺たちがただの仲の良い友人だったら、今でも俺と臨也はメールのやり取りでもしていただろうに。一線を越えたがったのは、何時だってあいつだ。
幽は暫くじっと俺を見ていたが、やがて肩の力を抜くようにふっと息を吐いた。幽が、どんな感情でも表に出すという行動が珍しくて顔を上げると、俺が考え込んでいた時に運ばれていたらしい烏龍茶を喉に流してから口を開いた。
「それが兄さんが選んだ結果ならとやかく言わないけど、俺が黙っても他に黙らない人は世の中には居るんだ」
「……幽」
「なに?」
「まさか、臨也を此処に呼んだ訳じゃねえよな」
回りくどい言い方をする時、幽は大抵俺に対して余り言いたくない事を言っている事が多い。役者をしている実の弟は、演技じゃないかと思えるくらい完璧に背筋を伸ばして俺に頭を下げた。
「ごめんね。でも言ったよね最初に、不本意だけどって。俺はあくまで義務的に話を通しただけだから」
「お、おい幽。いやそういうのは別に良いんだけど、いや良くないけどさ、ちょ、この店出るぞ!」
言い終わる前に幽が携帯を取り出す。何個かボタンを押したと思ったら、ブラウン管越しに見るのと全く同じ眼で俺を見上げた。
「来ちゃったみたい」
「っ……!」
膝立ちの体勢で固まった俺はトイレにでも逃げ込もうかと往生際悪く考えていたが、よく響く懐かしいブーツの音が耳に届いて思わず聞き入ってしまう。無意識に役立たずの携帯を握り締めた。
店員を伴うような形で現れた臨也は一ヶ月前となんら変わらなかった。服装も撮影の時よりは控えめで町に溶け込んでいるような印象だが、流石はモデルだけあって地味な服装でも決まっていた。ただ違った所は、何時も笑っていた臨也が今日に限っては無表情だった所だ。
「こんにちは」
幽が極めて事務的に挨拶を投げると、臨也は俺を睨むように見ていた視線をやっと外して同業者に向けるがにこりともせずに「どうも」とだけ言った。店員を下がらせると、臨也はあろうことか俺の隣に当たり前のように腰を下ろした。座敷という構造上、こいつが退かないと俺は床に降りれない。
「案内ありがとう。早速だけどシズちゃんと二人で話したいんだけど」
「そこまでは承諾していません。兄貴と会いたいっていう希望は叶えてあげました。これ以上何を望むんですか?」
「俺は別に良いけど、君に聞かれるとシズちゃんの方が顔から火が出るほど恥ずかしい話になっちゃうからさ」
「んな……!」
それまで黙っていた俺が口を挟むと、唇だけ歪ませて笑っている臨也が俺を見下すように瞳を動かしたのですぐに逸らした。その先に今度は幽と視線が絡んだので、不服そうな表情に向けて頭を下げた。
「……埋め合わせは今度」
「兄さんがそう言うなら、俺は構わないよ」
顔に承服しかねると書いてあったが、声に若干不満が乗っている幽はそれでも席を立ち、臨也に会釈してからコートと荷物を持って出て行った。
残された俺はとても臨也を真正面から見る事など出来ず、壁の方を見て時間が経つをの待った。正直、少し名残惜しい気や後ろめたい気持ちもあったが、一ヶ月前のあれで全部終わらせられたと思い込んでいた。この一ヶ月間、あいつが接触してこなかったのも、ようやく俺に飽きてくれたか、現実を見たからだと思っていた為に、すぐ隣に当人が居るのがなんとも気まずく居心地が悪すぎる。氷が溶けてコーラが薄くなるのを横目に見ながら、乾いた口の中を自覚しつつ言葉を吐き出した。
「……なんか用か」
暫く返事は無く、店内に控え目に流れる音楽と遠くの談笑、店員の接客の声しか聞こえなかった。俺の言葉を聞き取れなかったのだろうと、考えが頭をもたげる頃に臨也は非常に冷たい声で俺を詰った。
「あんなんで終わったと思ったの?」
「お、……終わったっていうか、俺たちなんも無いだろ。始まってすらいないのに」
「へえシズちゃんの中じゃ始まっても居なかったんだ? 俺は本気だったのに」
そんな押し付けがましく言われても俺の考えは変わらない。少しの平静と一緒に怒りも混じり、俺はなんとか臨也の方に身体を向けたが目線だけは合わせず、幽が残していった烏龍茶を見ていた。
「この一ヶ月」
臨也も片膝を立てながら、何処か遠くを見るように呟いた。夢を見ているようにも見えるが、それにしては声が寒々としていて凍傷になりそうだ。
「シズちゃんの声が聞けなくて狂いそうだった」
「……大袈裟な」
「誇張じゃないよ。現に手がつかなくて今月の仕事、ほとんどキャンセルした」
「なっ……!」
社会人としてその対応は何だ、俺程度に絶縁を言われたからって。しかも責任ある立場で、軽々しく「やりたくなかったから」というその口は余りにいい加減だろう。仕事が出来なかったのは俺の所為だと言われているようで、段々申し訳無さよりも理不尽な怒りに満たされていくのを感じた。
「なんだよその態度、適当な事してんじゃねえよ」
「適当? 俺がどれだけこの一ヶ月間考え続けたか判って言ってる? シズちゃんに対しては何時だって真剣だった」
「……迷惑だ。もう俺に関わんな。言っただろ、俺とお前じゃ一緒に生きられねえって」
生憎俺は、その行動に対して嬉しいと感じる事は間違っても無い。もっと突き放せば良いのに、心の何処かでこいつを言葉で傷付けたくないと思う俺はその場から立ち去る事でやり過ごそうとする。だが、立ち上がりかけた俺の腕を強引に引っ張り、そのまま畳の上に俺は背中を打った。覆い被さってくる臨也をどうにか追い払おうとするが、腕を掴んだ所で余りの細さに力が込められない。この身体全部が商品なんだ、傷付けたらどうなるか判らない。ほら、今この状況でもそんな事を考えてしまう俺に、お前の相手が務まる訳ないだろう?
「迷惑だって? 幽平くんに聞いたよ、最近メールしても元気無いのがありありと伝わってくるって。シズちゃんだって俺が気になるんでしょ? 俺との関係を適当に流そうとしてるのも、真剣に考えてないのもシズちゃんだ」
「っ……ふざけんな……! お前、冷静に考えろよ。仮に俺がお前の事を死ぬほど好きだったとしても、俺はお前を諦める」
「どうして」
「そんなもの、ちょっと考えれば判る事だろ!」
俺は障害を乗り越えての恋なんてものに、情熱なんて動かされない。
「俺の事も考えろよ、なんでもかんでも知った風な口ききやがって。俺はお前が嫌いだ、ほら、これで満足か!」
投げやりに言葉を交わしてもこいつは納得なんてしないと判りながら、俺は上手く言葉を探せない。自分でさえ自分の気持ちが判らないのに、明確に意思を示してくるこいつを頷かせるなんて出来ない。俺は俺の気持ちなんてものより先の事を考えてしまう。気持ちなんてものは、どうにでも変わる。変えられる。でも、変えられない事は他にあるんだ。
「シズちゃんが俺のものになるまで満足しない。諦めて」
逆に問いたい。お前はどうやったら俺を諦めてくれるんだ。有名人の考えている事なんて判らない。諦めろ、諦めてくれ。ああくそ、頭痛い。考え過ぎた。もうどうにでもなれ。俺の上に跨る臨也の襟を引っ掴んで引き寄せる。重力に従って腕を折った臨也の驚いた顔を睨み付け、そのまま口付ける。俺からする初めてのキス。最後になると願いながら、たったの一秒。呆けた臨也の顔に、胸が締め付けられて笑った。一ヶ月前と同じ、笑えない笑い方だった。
「な。俺はもう、満足だ。臨也」
力の入っていない臨也の身体を押し退け、財布から会計の金を机に投げてからとぼとぼと店を後にする。少し歩いた所で幽の車が見えたのでそこまで歩いて行くと、すぐに運転席から出てきて小走りに近付いてきた。情けない顔をしている俺に何があったのを察してくれたのか、黙って頭を抱いてくれた。ああ、ごめん幽、こうしてくれているのはお前なのに。一瞬、この温もりが臨也のものだと勘違いしそうになった。
この幕は誰が閉じるんだ