仕事帰りに雨に降られ、そのまま雨宿りしに来た。そんな体で、人形が雫を垂らして玄関に立っていた。
髪や服がびしょ濡れになる事には頓着していないらしいが、そんな中でもサングラスだけは懐に仕舞われて守ろうとしたらしい。青いそれが無くても、水を吸って代わりに眼を隠す前髪の所為で、静雄の表情は読めなかった。口元には、ほんの僅かに乱れた呼吸が垣間見えるだけで、隙間から俺を一瞥だけして、ただ気持ちを落ち着けているように見えた。

「……」

俺がわざわざ玄関まで出向いてやり、腕を組んでそいつを見ていると、静雄は熱を逃がす為に開いていた口をきゅっと閉め、そしてその動作が意味を無くすように唐突に口を開いた。

「抱け」

僅かながら驚いた素振りを見せて、俺は肩を竦めて呆れる動作を示したが、静雄はそのただ一言だけで全部済むと言わんばかりに何も言わない。水に濡れた汚れた猫。その手に握られているのは、普段人形が読むとは思えない週刊雑誌。弟の記事でも乗っているのかと鼻で笑い、この男の精神依存を嘲った。俺の態度になんの反応も返さなかった静雄は、了承と受け取ったのか、衣服に張り付いていたタイを乱暴に引き抜く。それがベルとなって俺はパブロフの犬よろしくそいつに噛み付いた。


行為が終わった後に、ほんの数分だけ意識を飛ばしていた静雄が俺の隣で起き上がる。お互い全裸なので事態を理解したらしいが、すぐにはベッドから降りなかった。無断で静雄のスラックスから煙草を拝借して火をつける。吐き出した紫煙は俺のベッドや壁紙や天井に沁みついて離れようとしないのだろうな。

「どういう風の吹き回し?」

ヤっている最中はそんな事如何でも良いかと聞かなかった。ほんの四日前に抱いた時には何時も通りだったが、今日は煩いくらい「臨也、臨也」と名を呼ばれた。不快というより驚いた。普段なら自分から上に乗る事だってしないのに。ふう、と長く、細く煙を静雄に吹きかけたが、人形はただじっと俺を見続けるだけで返事をしない。今は見える琥珀色の瞳は揺らがない。

「そっちからヤりたいなんて珍しいじゃん。風邪でも引いた? 移しに来たんだとしたら、君も人の事言えないくらいには外道だよ」

携帯灰皿にまだ長い煙草を押し付け、無表情のまま問えば、眼を逸らしながら「別に」と返答された。さっきまでの名残からか、喉からなんとか捻り出したような声だ。
無言で立ち上がる静雄は衣服を手に取ると、背を向けて黙々と着替え始める。声だけは嘲るように後ろから

「シャワー浴びなくて良いの? 汗だけじゃないでしょ、不愉快なのは」

と揶揄してやれば、忘れていたのか静雄が視線を下に向ける。聴こえてきたのは耳慣れた舌打ちだ。

「ゴム付けるの忘れててさあ。誰かさんががっつく所為で」

追い打ちをかけるように言葉を繋ぐと、静雄が肩口から覗きこんでくるパターンを見越して使われていない避妊具を振った。予想通り、俺の右手を見て硬直した静雄がぎろりと俺を睨み、「帰る」と吐き捨てるように呟いた。
今日は何時にも増して単語会話だなあと首を傾げながら、濡れたバーテン服を再度着込んでいる静雄の背中を眺め続けた。

「そんなんじゃ本当に風邪引くよ? 中身はまあ、人間なんだしさ」
「てめえに心配されるくらいなら逆に心配した方がマシだ」

行きがけの駄賃とでも言うような静雄の視線を交わしながら、人形が最近新調したらしい黒皮の財布に福沢諭吉を一枚押し込んだ。

「タクシー拾って行きなよ。掻き出して無いんだから、お腹壊すと可哀想だからね」
「ちっ」

忌々しげに財布を取り返すと振り返りもせずに出て行った。残されたのは俺と携帯灰皿とライター、パッケージ。それは常と同じだが、今回だけ違うものも放置されていった。ベッドの片隅に投げ捨てられていた週刊誌を拾い上げ、雨でふやけたページを捲る。あの人形が興味を持つ記事など、政治や情勢の事じゃないだろう。しかし、どれだけ進んでも予想していた羽島幽平の記事など何処にも無かった。芸能欄には最近流行りのアイドルの熱愛報道などがあるが、彼の弟の名前は出てこない。首を傾げながら、天気予報でも見たかったのだろうかとぱらぱらと捲っていくと、ふと占いのページに眼が止まる。女性向けなのか、けばけばしいピンクとハートに彩られたそれを池袋最強喧嘩人形が見たと思うと思わず零れるのは嘲笑。だが、何気無く奴の星座について書かれたランキングと内容に眼を通して、その笑みは引っ込んだ。

「……なにこれ」

『水瓶座のあなたは、今週はごめんなさい、最下位! 無くしものをしたり友達と喧嘩したりと大変な一週間。変な言い訳はしない方がいいかも? 大切な人とさよならすることになっちゃうかもしれないけど、それは一時の感情! 自分から積極的にアプローチすれば大丈夫! ラッキーアイテムは黒い財布だよ!』

緊張感の欠片もない、責任を押し付けた踊る文字。あの男は、こんな暇潰しを本気にしたのだろうか。
多分この雑誌も自分で買った訳じゃないんだろう。職場の誰かが読み終わったから、自分にくれたから読んだ。そのレベルの。そのレベルのを、鵜呑みにして、此処まで来た。乏しい給料の中で財布まで買い換えて。

「……有り得ない」

人形が置いていった煙草にもう一度火を灯し、気持ちを落ち着かせるように深く吸い込んだ。あの男が自らの寿命を縮めるのと、同じ煙を。用済みになった週刊誌をゴミ箱に捨て、その上に火がついたままの煙草を投げ捨てる。少しずつ火が燃え移って雑誌が灰に変わっていく様を眺めながら、この灰であいつが死ねば良いのにと願った。

「気持ち悪い」

言いながら、今度は自分からあいつを此処に招くであろう自分も自覚していた。なまじ頭が良いのは、得ばかりではない。俺はあの人形が大嫌いだ。


安上がりな診断結