家に帰ったら金髪の飲んだくれが俺を睨んできた。


「平和島先生」
「あ?」

苦手なデスクワークに、特に眼が悪い訳でもないのに眼を細めて画面を睨む同い年の職員に朗らかに声をかけた。とっくに部活動も終わり、運動場も閑散としているがこの職員室だけは独特の空気と熱気に包まれていた。机の一角に腰掛けると持っていた生徒名簿で軽く頭を叩く。

「……ご用ですか」

むすっとしながら振り向いた二年生の担任を持っている平和島先生こと、平和島静雄。同い年、同郷、同校出身という完璧な接点から、他の先生からも「お二人は仲が良いですよね」とお墨付きを頂いているが、そんな響きとは無縁な苛ついた声で静雄は答えた。

「いえ、お疲れだな、と思って」
「折原先生は三年の学年主任にしては暇そうですね。羨ましいです」

高校時代からの付き合いなのでこの程度ではなんの、とすら思わない。パソコンに向かってデータを打ち込む静雄には、冗談を抜きにして疲労が見られる。
もう時期、文化祭も近い。彼のクラスの出し物は確か、劇だった気がする。とりあえず劇をやる、という事しか決めておらず、肝心の何を題材にするのかすら決まっていない。パソコンの下の方に眼を向けると、タスクバーの部分にインターネットが開かれており、データ整理の合間に探しているのだろう。

「……シズちゃんさあ」
「名前で呼ぶんじゃねえ」

舐めるように囁けば即座にドスの利いた声が返ってきた。高校からずっと名前で呼んでいたのに、良い大人になったからって呼び名はそう簡単には変えられないものだ。そう言い訳すればぎろりと睨まれた。

「本当に疲れてるよ、今日は早く帰ろう?」
「……キリの良い所までは、やる」

誘いを落とすと、割と素直な声で返事をする。静雄は暇そうと言うが俺だって死ぬほど忙しい。でも彼の前じゃ余裕ぶりたいんだ。お互いの多忙で最近は構ってあげられなかったから、臍を曲げられる事も覚悟していたんだが、静雄も寂しかったんだなあと良いように解釈する。

「待ってるよ、先生?」

そう言うと俺は屈んで無防備な頬にキスを落とす。ぶわっと耳まで赤くなった静雄は俺よりも先に周囲を見渡し、誰も見ていなかった事を確認すると声のトーンと姿勢を落として俺を見上げた。

「そういう事、学校ですんなって、何回言ったらてめえは……!」
「えー? ごめーん忘れてたー」

ひらひらと手を振って自分の机に向かおうとすると、ドア付近で数人の女性職員と眼が合う。にっこりと笑みを返せば、何故かすぐににじり寄ってきた。

「折原先生、このあと飲みにいきません?」
「ん? ああ、良いですねえ」

そういえば先週にも誘われててお断りしたんだった。区切りもついたし疲れた身体に酒を流すのは快楽だ。そう思って意中の相手に振り向くと静雄もこちらを見ている様子だった。

「平和島先生も如何です?」
「は?」

虚を突かれたかのように素頓狂な声を上げた彼は「あ」とか「えーっと」と繰り返している。遠慮しているのかと思いきや、静雄は俺じゃなく後ろに居た数人の女性の方に視線を向ける。
逡巡したあと静雄は心底申し訳なさそうに眉を下げて苦笑いしたのを見て驚いた。

「すいません、まだちょっとやらなきゃいけない事があるんで」
「そうなんですかあ? 平和島先生のクラスって出し物なにをするんでしたっけ?」
「劇です。でも、あいつら自主性が無いから中々決まらなくて。それもあるんで、皆さんで楽しんで来て下さいよ」

それじゃしょうがないですね、と幾ばくかの哀れみの視線を受け流し、静雄は俺を避けるように椅子を回転させてパソコンと見つめあう。割と飲み会には意欲的に参加する静雄にしては珍しい。俺が誘えば大抵は釣れるのに、と首を傾げていると彼女らに引っ張られ、別れの挨拶を交わす暇も無く職員室を後にした。


一緒に帰ろうとは言わなかったけど、静雄を置いてきてしまった事に若干罪悪感が込み上げて来た俺は殆ど飲まずに、理由を付けて飲み会を抜け出した。試しに今日家に来ない? とメールを送ってみたんだが返信は来なかった。スルーされる事も珍しくはないとはいえ、これは拗ねてるかなあと苦笑いが浮かぶ。機嫌を損ねた静雄を宥めるのは骨が折れる。

「……」

電話をかけてもすぐに留守電になってしまう。盛大に溜め息を吐いてどうやって機嫌を取ろうか考えながらドアノブに手をかけた。玄関に入って靴を脱ごうと屈んだ瞬間にふと、何故鍵が開いているのか激しく疑問に思う。考え事をしていたから、無意識の内に鍵を出して施錠を解いたのか、とも思ったが生憎鍵に触れた記憶がない。

「え。……あれ?」

まさか俺が戸締りをせずに一日を過ごしたのか? いや、朝はきちんと……、どうして。
慌ててリビングに駆け込めば、疑問の答えが胡坐を掻いていた。

「……マジ?」

俺以外に俺の家の鍵を開けられるのは、彼だけだ。 付き合い始めてから合鍵は渡していたんだが、如何せんシャイな彼は一度もそれを使った事が無かった。だからだろう、すぐにそれと気付けなかったのは。俺に断りもなく俺の部屋に入っているなんて信じられず、俺はソファに座らず地べたで座り込む彼をまじまじと見つめてしまった。

「んだ、てめ……」

鼻孔がアルコールの匂いを誘いこむ。動揺していて理解が遅れたが、静雄の手には紛れもなく酒が握られていた。コンビニに売っているような安物の缶ビールだ。足らない舌で俺を見上げ、力無い瞳で睨む。

「どうしたの?」

素直に驚きと戸惑いを口にする俺。メールも電話もしたのに無視され、どうコンタクトを取ろうと考えていたら彼の方からお出迎えだ。しかもかなり出来上がっている状態で。

「っせえなあ、見て判んねーのか、飲んでんだよ」
「いや、その。ね? なんで俺の家で飲んでるのかなーって?」
「あー?」

一度唸ってから、静雄はぺらぺらと、

「お前が他の先生方と飲むっつーから、俺も此処で飲めば擬似的に一緒に飲んだって事になるだろうがよ……わりーか。にしても酒、まっず……お前の家の冷蔵庫、ろくなもん置いてねえな……チューハイぐらい置いとけよ、ったく……」

言いながらぐびぐびと缶ビールを傾ける様は何処かやけ酒に近いものを感じた。苦いものは嫌いなのに、つまみも無しにそんな無防備に喉を通して。
静雄は特別、酒に弱い訳じゃない。でも、呂律の回っていない舌や真っ赤に染まった顔を見るに完全に酔っている。食べ物無しじゃどんな奴でも酔いやすくなるけど、テーブルには数えるのが億劫になる量の缶が散乱しており、そして傍らのビニール袋からは静雄の好きな甘いリキュール系が顔を覗かせていた。

「俺と飲みたかったの?」
「んなんじゃねえよ……」
「でも実際、一人で飲んでるじゃん。一緒に来れば良かったのに」
「……周りの、先生……方、俺が行ったら……嫌がるだろーが」

軽くなった缶を指先で弄びながら静雄は面白くなさそうに呟く。ようやく立ちっぱなしだった事に気付いた俺は静雄の隣に腰を下ろした。

「なんで?」
「決まってっだろ、ぜーんぶお前目当てだったんだから……折原先生はお酒強いらしいですから一緒に飲んだら楽しそうですねえってよ……女の先生……みんなお前の方ばっか見てンだよ……けっ」

少なくなっていた残りを一気に胃に収めると、乱暴に缶をテーブルに叩き付ける。が、ぐにゃりと撓む事もなく、ただ耳障りな金属音を立てただけな所から推測すればもうそんな握力も残っていないのだろう。
それよりも俺にとって重要なのはそこじゃなくて、饒舌な静雄が語った内容だった。酔っている所為で何時も以上に言葉が不明瞭だが言いたい事は判る。つまり俺に飲みに行こうと誘ってきた女性職員は全員俺が目当てで、俺と一緒に行きたかったけど彼女らがそんな空気を作らなかった、だから一人で俺の部屋で飲んでた……って事か。

「俺だって徹夜続きでやーっとお前と飲み明かせると思って死ぬ気で頑張ったら横取りされて、腹立たねえ訳ねえだろ……あー、つまんね」

言い終わりに静雄はまたプルトップを開けたが、何故か隣のリキュールじゃなくてビールばかり。不味いと普段から言っているのに、遠慮する場面でもないのにどうしてかと問えば、静雄は眉を寄せながら俺にぼんやりと焦点を合わせた。

「うるせーなあ……飲みに行ったとしたら、多分ビール飲まされっだろ……何処の店行ったか知らねえけど……」
「……」

え、なに。そんな所まで予想して一緒に飲んでるの? 頭の中で俺と?
本人を眼の前にして静雄は中身を少し喉に押し込むと前髪をかき上げて寂しげな声を出した。

「臨也の、クソ……馬鹿、死ね……会いてえよ……」

いや、だから本人眼の前だってば。
今すぐ抱き締めてその瞳に映る人物が夢じゃなくて現実のものだと教えたくなったのだが、寂しさからか、酔っているからか、普段じゃ言わない素直な言葉を聞きたくて俺はそっと囁く。

「俺にどうして欲しい?」
「ぁあ?」

先ほどのように唸ると、静雄は特に躊躇いも羞恥も感じた様子もなく、また、さらりと言葉を口にした。

「キスしてえ」
「っ……」
「抱き締めて欲しい、馬鹿みてえに力込めて。んで、名前……あのくだらないあだ名で、呼んで欲しい。耳が腐るくらい好きだって言って、あとは……」

くるくると頭を動かしながら、まるで夕食で好きなメニューを聞かれているかのように、静雄はあどけない表情で考える。んーと、と若干間を空けてから、

「……抱いて欲しい」

と呟いた。流石にこれは恥ずかしかったのか、もじもじと身を縮こまらせて、照れ隠しのように喉に発泡を流し込んだ。とはいえ俺も、此処まで言ってくれるとは思わなかったから無意識の内に自分の頬を抓っていた。痛い。あ、夢じゃない。

「ねえ」
「んぁ?」
「して、あげようか」

間延びした声が震えていたのは、歓喜からだ。静雄はじとりとした眼で、まるで俺を値踏みするかのように視線をぶつけてくるが、何故か染まった頬をふいと逸らす。

「どうしたの」
「……臨也じゃないと嫌だ」
「は?」

だから、ね? 君の眼の前の男は誰だと思ってるの?
変に冷静になった頭でそう思うが、内容が恐ろしい。普段、勤務外じゃ死ね、うぜえ、失せろとぼろくそに言うその口が俺以外には抱かれたくないって言ってる。え、最近の夢って頬を抓ったくらいじゃ夢って気付けないくらい進化してるの? 次は何をすれば良い、静雄に本気で殴られたら眼が覚めるかな。覚めたら三途の川が見えるかもしれないけど。

「えーと」
「だぁかーらぁ、俺は臨也じゃねえと満足出来ねえんだよ」

拗ねたみたいに言う静雄に俺ははあと一度息を吐き、缶ビールを唇に当てた彼に向かって微笑んだ。悪い顔で。

「シズちゃん」
「ぁ?」

途端、静雄は唖然とした顔で酒に溺れるのを中断する。帰ってきてから、初めて彼の名を呼んだ。それが静雄のスイッチを押したのか、驚いた静雄に顔を近付け、もう一度。

「シズちゃん」
「……臨也?」

ぽかんと開かれた口に思わず笑みを漏らし、そうだよ、と言えば、静雄が缶を取り落とした。まだかなり中身が入っていたが、転がる円筒形に眼もくれず俺は静雄に口付けた。今までにないくらい熱くて湿った口内を嬲れば、くぐもった吐息を零しつつもすぐに舌が絡んでくる。普段なら、最後は落ちてくれるとはいえそこまでは抵抗されるのに、それも無い。それどころか静雄が俺の首に腕を回し、甘えるように上半身を倒してきた。

「臨、也……」

お望み通り、火照った身体を引き寄せて強く強く抱き締める。キスがしたい。抱き締められたい。名前を呼ばれたい。後は、

「好きだよ、シズちゃん」

耳朶を噛みながら低い声で囁けば、見る見る内に瞳が潤む。哀しいとか驚いたとかではなく、純粋に嬉しかったからだろう。証拠にまるでうっとりするように眼を細め、息を吐き、恍惚とした表情になる。苦みの転がる舌を俺の味しかしないように変え、糸を引かせれば静雄の俺に縋る腕の力が増す。好きだ、好きだよシズちゃん。繰り返せば、まるで言葉で快楽を覚えるかのように身を震わせる。熱くて真っ赤な頬を両手で支え、至近距離から見つめあう。これだけはもう一度、聞きたかった。

「抱いて欲しいの?」

爽やかな声とは裏腹の、肉欲に塗れた醜い問い掛け。それに答えるのは、やはり不釣り合いなくらいに綺麗で無邪気な顔だった。

「……欲、しっ」

言わせたかったのに、言えば愛しさが込み上げて塞ぎたくなってしまう。そのまま押し倒して深く深く呼吸を奪えば、静雄の腕がぎゅうと俺に縋り付く。お酒の手伝いがあるとはいえ、此処まで素直で従順になってくれるなら、焼餅させるのも良いかもしれない。
酒臭い室内で苦悶に表情を曇らせた静雄は俺から腕を離すと、その腕を自分の服に当てた。

「あっちぃ……な……」

まるで独り言のよう。ぷつりぷつりとボタンが丁寧にひとつずつ外されていく。薄らと汗ばんで、白い肌が僅かに赤みが差している。自分から服を脱ぐなんて事は今までに一度も無かった事なので、俺は早速理性が剥がれそうになったんだが堪える。此処で理性が切れて乱暴に抱くんじゃ、つまらない。

「……じろじろ見てンじゃねえよ」

目敏く俺の視線を捉えた静雄がむすっとした顔で言うが、満更でも無さそうだ。俺が何も言わずににこにこしていると、服を肌蹴させた静雄は、至近距離にある俺の服にまで手をかける。人の服のボタンを外すのは慣れていない上に酔っている所為で思ったよりも難しい。引き千切られませんように、と内心で手を合わせていると、「面倒くせぇ」だのとうだうだ言う割には丁寧に外される。誘っているのか、焦らしているのか。どちらでも無いんだろうな、彼は。
残念だけど俺は、良いように解釈させて頂くよ。

「シズちゃん」

外し終わったのを見計らって毛足の長い絨毯に押し倒す。間髪入れず唇を奪えば恍惚を瞳に浮かべ俺の首に腕を回す。明日、土曜日だし、足腰立たなくなるまでしても良いだろう。拗ねた静雄を振り向かせるのも楽しいから。

「……ぁ、……何……考えてンだよ……」
「ん? シズちゃんの事に決まってんじゃん」

貴重な甘えてくる静雄を肴にするべく、俺は机の上の飲みかけの缶を手に取った。


お前それ何に使う気