雨の日に喧嘩なんてするもんじゃない。
何かにつけてちょっかいを出してくる臨也を追い払う為に殴り返すのも、不本意ながら日常の一部となってきた日だった。朝からぽつぽつ降っていた雨は次第に勢いを増し、昼食の時には空が真っ暗になり、帰り際には土砂降りだった。明日には完全に止むという雨も、黒いアスファルトを叩く音色に誰もが肩を落とし、傘という完璧とは程遠い雨対策を片手に家路を急ぐ。
俺もそんな下校になれば良かったんだが、降りかかってくる災厄というのは天気は全く関係無いらしい。何時ものように校門で待ち伏せされ、謂れのないいちゃもんをつけられ、珍しい事に普段俺が暴れまわっている間は傍観している黒幕気取りの男が視界の端に映り、すべての元凶といえるそいつに俺は矛先を変えた。
「臨也ぁああ!」
とっくに無くした、むしろ折れた傘などすぐに忘れ、視界もまともに利かないような薄暗い夕暮れにハンター気取りの真似事をしなくちゃいけなくなった。ノミ蟲とあだ名をつけたあいつは時折振り返っている辺り何か策があるのかもしれないがどうでも良い。ぶん殴って、蹴り飛ばして、あいつの薄ら笑いが剥がれれば良い。ついでに俺に興味を無くせば、なお良い。
「今日も荒れてるねー」
暢気に返された言葉に、火照った身体は否応無しに更なる熱を伴って呪詛を吐き出す。
「てめえが! 消えれば全部終わンだよ!」
走ったままの勢いを利用してカーブミラーを引っこ抜いて投げ飛ばす。この追いかけっこの所為で随分と遠投には慣れてしまった。陸上部の槍投げとかだったら結構良い記録いけるんじゃないかと、冷静な頭だったら思えるくらい。残念だが今は持ち合わせていない。
臨也は一瞥だけして難なく避ける。こんなもの、恐怖心さえなければドッジボールで球を避けるような要領で済むのだから一概に損しているのは俺だ。この隙に何処かへ姿を消した臨也に俺は歯が鳴るほど軋ませる事になるんだが、それを聞かせる相手は誰も居ない。くそ、という悪態は、雨の中に沈んだ。
水を吸った服というのは想像以上に気持ち悪く重たい。生温く肌から中途半端に熱を奪い、外界の冷たい風が鳥肌を呼んで来る。止む気配が全く無い雨に溜め息を零し、汗をかいて温まった反動として一気に襲う寒気に身震いした。
一時的に雨宿りしようと古びた煙草屋の僅かばかりの屋根の下に身を潜り込ませれば、俯いていたため気付かなかったが先客が居るのに気付いた。ノミ蟲のことが頭から離れなかった身としては、足元の靴が黒かっただけで奴を連想してしまった。だが一瞬で違うことに気付く、何しろ、レギンスを履いたその足は白く細く、どう見ても女の足だったからだ。
顔を上げれば案の定、まだ20後半かという若い女がなにかを抱えて空を見上げている。髪に滲みこんだ水滴を払った時に、思わず眼を見開いた。それが腕の中で手足をばたつかせている赤ん坊だったからだ。
「っ……」
こんな間近で子供、むしろ自立歩行も出来ない赤ん坊を見るなんて初めてじゃないだろうか? 幽とは三つしか離れていないから、弟が赤ん坊だった時の記憶なんて乏しい。はっきりと振り返られるのは小学校の低学年くらいだ
見るからに柔らかそうな頬に肉付きの良い身体。くりくりと動く瞳の上にかかっている髪は色素が薄く、まだ生後数ヶ月くらいだろう。どうも、この人……もとい母親であろう女性は、雨の中を赤ん坊を抱いて突っ切る事も出来ずに雨宿りしているらしい。
絞れるところは絞っておこうと髪を束にして一気に水分を落とすが、最中に赤子と目線が合う。慌ててすぐ逸らしたんだが、そろりと戻してみれば相変わらず俺を見つめていた。余りに無垢で無力な視線を俺はじっと見返し、意味も無く照れてしまい寒さとは関係無しに唇を少しだけ震わせる。人と接するのは苦手な俺だが、コミュニケーションツールを何一つ持たない赤子は更に苦手かもしれない。何を考えているのかさっぱり判らないからだ。ぎこちなく視線を外そうとした俺は、逆方向から忍び寄るもう一人の何を考えているか判らない人間の接近に気付かなかった。
「シーズーちゃん」
「っ!?」
振り向きざま、指輪をつけた人差し指が俺の頬を弛ませる。恋人同士がすればさも華が咲きそうな動作に悪寒しか覚えなかった俺は声を荒げようとしたんだが、その前に臨也はしぃー、とその指を己の唇に当てた。
「赤ちゃんがいるところでは、静かに、ね?」
「て、めえ……」
その言葉でこの場面すらこいつの計算かと疑いたくなるが、突然声を殺して男子高校生が肩を怒らせているのに女は不思議そうな視線を向けてきた。しかも片方は長身で金髪。幼い命を抱えている女が危機を感じてこの場を離れ、雨の中、その温もりを冷やしてしまうのはいけないことだ。赤子については詳しくないけど、きっと見た目通り、その命は俺なんかよりずっと儚くて弱いんだろう、あらゆる、意味で。
「……」
渋々殴り返すのを諦めた俺は臨也を無視するように、先ほどまであんなに苦手意識を持っていた赤ん坊を見つめる。此処で殴り合っていたらこの子は泣いていたかもしれないな、と少しだけ優しい気持ちになって。俺がじっと見ているのに気付いた女性は笑いながら赤ん坊の手を握って、まるで「バイバイ」でもするかのように小さく左右に振ってみせてくれる。驚きと一緒に無条件の暖かさがこみ上げてきて、ワックスが流されすっかり降りてしまった金髪を弄りながら小さく呟いた。
「可愛い子、っすね」
背後に臨也がいるのをまるっと忘れるくらい、その子の愛らしさに癒されていた。猫でも犬でもそうだが、こういった静かな気持ちは、赤子ならではのものだ。俺が危険な奴じゃないとほっとしたのか、女性が身体をこちらに向けて優しい目付きで言葉を繋ぐ。
「ありがとう。この子が初めての子なの。好奇心旺盛でわんぱくな男の子だから困っちゃうわ」
「そう、すか」
あどけない表情は、俺ぐらいの高校生が浮かべる憎らしいものとは打って変わって純粋だ。何も知らない、というのも、この時期だけの特権。何時か汚い世の中を歩いていくことになるんだろうが、今は母親の腕に抱かれて守られていても良い。そう思えば、俺まで穏やかで無欲な生き物になれたような気がして、無意識に、本当に、本当に無意識に、俺は赤子の頭を撫でようと手を上げかける。毒気の抜かれた微笑みを向けられ、つい。
だが瞬間、耳元で囁かれた言葉に俺は背筋がぞっとした。
「壊す気?」
一瞬で現実を理解した。そうだ、俺には有り得ない馬鹿力があったんだ。こんな自衛どころかスプーンも持てない赤子なんかに触れたらどうなるか。
ごくりと生唾を飲み込んだ俺を近距離から見ていた臨也は、判りやすくくすりと笑った。首筋を流れたのが積乱雲から注がれた雨水じゃない事を、きっとこいつは知っている。
「駄目だよシズちゃん……こんなちっぽけで弱くて柔らかいものに触ったら、壊しちゃうかもよ?」
「ぁ……」
様子が変わった俺の顔に向けて、なお赤子はきゃっきゃと笑みを浮かべてきた。まるで赤子が喋っているかのように、臨也の声が突き刺さる。
「赤ちゃんっていうのはね、最初は誰にでも笑いかけるんだよ。それこそ母親じゃなくても良い。アニメのキャラクターのお面にだって笑うんだ。新生児微笑って言葉もあるくらいでね。笑いたくて笑ってるんじゃなくて、生理現象なんだけど、多くの母親はそれを見て愛着を形成したりするんだ。少し成長してきて自我が芽生えるようになると、親しい人にしか笑わなくなって、そう、俗に言う人見知りが始まるんだ。この子はまだそこまで行っていないから、シズちゃんみたいなのにも笑ってくれるんだよ……あはは、これを機会に小児性愛者にでもなる?」
吹き込まれた言葉に上げかけた腕を下ろし思い切り握り拳を作る。殴られると思ったのか、臨也が一歩後ずさるが、俺は単に首だけ振り返っただけだった。肩口から覗いた臨也の右手はポケットに入っている辺り、何時でもナイフが取り出せる状態なんだろう。俺はこの子と女性に危害が加わるのが嫌で身体の強張りを解く。らしくもなく、押し殺したような声で、眼光だけで殺せるくらいの威圧感を込めて、
「判ってるッ……!」
とだけ、吐き捨てた。臨也の眼が驚きに見開かれる。俺は今、余りにも惨めで情けない顔をしているんだろうな。厚い雲の所為で光が遮られ、顔が見辛い状況ではあったが、まるで不貞腐れるように臨也を視界から追い出す。身長から、必然的に赤ん坊を見下ろす俺は、一瞬でもこの子を疎ましく思った自分を恥じて嫌悪した。苦笑いのようにひっそりと笑えば、この子も無邪気に笑い返してくれた。
お世辞にも雨脚は弱まったとはいえないが、心を掻き乱されるよりは、と俺はその場を後にしようとする。珍しく臨也に文句も言わず、一発も入れずに。顔を伏せ一歩踏み出しかけた俺の腕を、臨也が引っ張る。重心がぐらついて不自然な動きになったのを、隣で女性が首を傾げるのを見て必死に誤魔化した。
「っにしやがる」
俺を弄って楽しんでいるのかと、極力声を抑えたまま罵声を浴びせれば、予想を覆すような真剣な目付きをした臨也が俺の眼を覗き込む。それ以上の罵りが浮かばなかった俺は言葉に詰まるが、臨也はその眼を細め、俺の手を取った。気色悪い行動に振り払おうとしたが、すぐ傍にいる存在が引っかかって思うように力加減が出来なさそうで怖かった。
「触ってみなよ」
「あ?」
なにをだ、と言いかけ、臨也は俺の手を取ったまま赤子に近付き、愛想笑いを貼り付けて母親に「お子さん可愛いですねー、おいくつなんですー?」と勝手に話を進めている。当たり前のように頬をつつき、頭を撫でている臨也に一抹の嫉妬心が浮かぶが、俺には似合わない感情だと切り捨てる。しかし、腕を組んで視線を下げている俺に対し、さも友人に声をかけるかのような朗らかな声がした。
「シズちゃんも撫でなでしてあげなよー」
「はあ!?」
言いながら臨也は俺の腕を赤ん坊に近づけるが、俺は必死になって引き離そうとする。女性は俺の照れ隠しだと思っているのか落ち着いた微笑みを浮かべているが、俺は内心とんでもないと思っている。偶々この人は俺を知らないだけだ。俺が自動販売機すら投げ飛ばす池袋の自動喧嘩人形だって知ったら、宝物である子供に触れさせるなんてこと恐ろしくて出来やしないだろう。それに俺だって怖い。成熟している成人男性ですら俺が殴ったぐらいで骨を折るんだぞ? それに比べれば、この子は骨がマシュマロだったとしても可笑しくない。
ほぼ半狂乱で首を左右に振る俺だけに聞こえるよう、そっと臨也は耳元に唇を寄せた。
「さっきはああ言ったけどさあ、赤ちゃんって、思ったほど脆くはないんだよ?」
「っは?」
「喋れなくたって、泣くことで親に何か伝えることが出来る。お腹が空いたら唇に触れた乳房に元気よく吸い付ける。お母さんに抱きついたら、中々腕の力が強いから離さない。大丈夫だよ、ほら」
力が抜けた一瞬で、俺の指先がむにゅりと赤子の頬に触れる。予想以上に柔らかくてまるで桃を押しているようだ。本能的にやべえと思った俺が震える指先を離そうとしても、逆に離そうとすることで何か衝撃がいくかもしれないと固まってしまう。
臨也の眼に促され、こいつが俺の世界で一番嫌いな奴という事も今だけは一瞬忘れ、俺は恐る恐る頬を撫でる。何か痛がるような素振りを見せたらすぐに戻せるように心構えだけはして。
CMで赤ちゃん肌に戻れる化粧品だとかがやっていたが、確かにこんなに柔らかくてなんの穢れもない頬が手に入るなら多少財布に痛くても出せてしまうような気がする。俺が女だったらの話だが。生憎男なのでそこまでは思わなかったが、弾む弾力や指先に滲む産毛の感触が新しくて何度も撫でてやる。すると赤子が急に身を捩り、俺は正気に戻って身体を離そうとしたが、この子は痛がったのではなく、体勢を変えただけだと悟る。そして俺の親指ほどしかないその小さな手のひらを俺に翳してくる。
まるで握手でもしよう、というかのように。
「うっ……」
困ったように女性と臨也に交互に視線を向ければ二人とも何故か頷いてきた。臨也については若干、何かを考えているような顔をしていたが余裕の無い俺はこの時ばかりは気付かない。
慎重に、そっと、紅葉と形容される白い手に指を乗せると、幼子ながら精一杯、力いっぱい握り返してきてくれて、俺は感極まって眼に涙の膜が張られるのを感じた。こんな感動、他にあるだろうか?
「おーい」
タイミングよく、横断歩道の向こう側から男の声が飛んできた。ぱっと離れると、女性がその人に向けて片手を振る。旦那だろうか、迎えにきてくれたのか。女の人がぺこりとお辞儀したのを見て俺も慌てて会釈し、爪の先に残った幼子の感触の余韻に浸る。大分雨も小降りになってきて、向こう側で女性が赤ん坊を夫に渡し、寄り添って傘を差す姿をぼんやりと眺めていた。
「じゃ、俺はこれで」
いきなり背後で臨也の声がし、度肝を抜かれた俺が勢いよく振り返った頃には、臨也は大分歩いた所に居た。普段だったら叫んで殴りつけていただろうに、今日に限ってはそんな気は起きなかった。
あいつの事だから、赤ん坊と触れ合った事に対して何か嫌味でも言うのかと思ったのに。そう思っていた時に臨也がくるりと振り返ったので若干身構えた。
「シズちゃんさー」
「っ?」
「自分で思ってるほど、君が壊せるものって少ないんだよ」
「……なに、言って」
「じゃねー」
暗闇に細雨で見辛かったが、そのまま走り去って行った奴の顔は、まるで癇癪を起こしたあとの子供のようだった。
「訳判ンねえ」
砂利を踏んで俺はノミ蟲とは逆方向に歩き出した。明日は晴れるはず。
(雨に流されて全部リセットすりゃ良い。そうだ)
また今日までと同じ事を繰り返すのだろう。
ただ一つ、俺が明日から違う事は、俺は少しだけ気軽に赤ん坊に触れる事が出来るようになっている、という事だけだった。あとは、
(傘がなくても、……あったけえもんだな)
雨の日でも爽やかに