とある伝で、「人間離れした餓鬼が居る」というのは前々から耳に入っていた話だ。
この少年は手始めに冷蔵庫を持ち上げ、更には教室の机を投げ、乗用車を蹴り飛ばしたそうな。なんて滑稽な話だと最初は耳を貸さなかったんだが、実際に眼の前で見せられれば信じざるを得ない。
だが俺の中に渦巻いたのは、信じる信じないじゃない。当時まだ高校生だった俺は初恋のように頬を紅潮させ、「それ」が欲しいと思った。俺は筋道立って居ない事や理屈が通じないものは好きじゃない。だけど説明なんか不要なくらいすんなりと欲しい、とそれだけを感じた瞬間だった。

「凄い。素晴らしい」

ははは、と高らかに笑い声を上げ、その化け物の存在を嬉々として友人に語る。どうやら彼もその少年の事は知っていたようだ。

「何か悪い事考えてないよね?」
「お前には言われたくないなあ。例の子を、解剖したがってるって話だったじゃないか」
「臨也は興味無いのかい? あの子の身体はまさに未知。人の姿をして中身は別物かもしれないよ! 新たな可能性という神秘を思うと僕は欣喜雀躍の想いに駆られるね!」

友人宅の立派なソファに凭れながら、俺は携帯の画面に映された解像度の悪い写真に眼を落とす。ありふれた黒髪の、ありふれた子供。その存在が俺を昂ぶらせる。
憧れに近いかもしれない。友人の岸谷新羅は運び屋をしているという首無し女と同居人だ。よって俺はある程度の「あり得ない」存在というのを許容している。それに俺が愛情を抱けるかといえば話は別だが。
だがあの子供は間違いなく人間だ。新羅の言う通り、中身を開けばそれが本性で襲い掛かるかもしれない。だが、俺は一人で仮説を立てている。恐らくあの子は何処までも人間である。中身は別物かもしれない。上等だ。あの子を人間足らしめるのは中身じゃなくて内面。内臓じゃなくて神経だ。あの子はその化け物染みた膂力以外は至って平凡な男の子である。普通に笑うし、普通に泣く。普通に怒るし、普通に悲しむ。
首無しライダーと人間の中間ぐらいの存在だろうか。あの子の限界は何処にあるのだろうか? あの子は今まで一般的に育ったけど、屈折した環境に置いたらどう変わるんだろう? 力は? 増す? 消える? どちらでも構わない。まだ心が未成熟な赤子のような子を俺の掌で転がしてみたい。どんな反応をするんだろう、化け物の皮を被った人間は。

「でもさ」

考えに耽っていた俺の思考を妨げようとする新羅の言葉。トーンが落ちたそれを聞いてなんとなく理解した俺は「うん?」と笑みを消さず、目線を落としたまま耳を傾ける。

「その子、確かご両親亡くなっちゃったんでしょ? そっとしておいてあげた方が良いんじゃないかな」
「あはは。そうだねえ。知ってる? 親戚居ないらしいから弟と一緒に施設入れられたんだってさ」
「耳が早いねえ。問題が起きないと良いけど」

携帯に写された写真は施設の中で暴走する暴れ馬。これに手綱をつけ、轡をつけ、操るのはこの俺だ。

「迎えに行くよ。静雄君?」

スキップでもしかねない機嫌の良さで、俺は愛という鎖を持って孤独な少年の下へ歩いた。


「……都合がつかねえなら波江に行って貰うから」

この台詞何回目だろうねえ。
あれから数年経って、俺の半分しか無かった暴れ馬は何時の間にか俺を追い越しそうな勢いで成長していた。当然まだまだ俺の方が背が高いけど、うーん。ちょっと将来が危機的だ。
事務所の客用のソファに向かい合って座る俺の前には金髪の青年が座っている。手塩にかけて俺好みに育てたダッ……、可愛い可愛いお人形さんだ。
プリントを舐めるように読み返しながら俺が「シズちゃん」と愛称をつけた静雄はばつが悪そうに視線を横にずらしながら舌を出した。

「あのねえシズちゃん。前から言ってるけどこういうスケジュールの調整が必要なプリントは早く俺に見せて?」
「……悪い」

仰々しいフォントで踊る「三者面談のお知らせ」。平素から〜と始まり時候の挨拶。それはすっ飛ばして日付だけに眼を落とす。右上に印字された日付は先々週のものだった。そして中央の提出期限は明日。静雄は本当にぎりぎりまで俺に見せなかった事になる。
元々気侭に暮らしていた静雄は時間にルーズな事が多い。課題だって要領が悪く追い詰められてからしか腰を上げない。俺が「うーん」と笑いながら唸ると、静雄は最初の言葉を繰り返した。

「無理なら、波江に……」

波江波江って。彼女だって忙しいんだけどなあ。時間にとらわれないという意味では俺の方が暇だ。
それにしても三者面談とは。一年生だからそこまで重要性は無いけれど、割と早い段階でやるんだな。多分、教師と保護者が接触する事によって三者に刺激をもたらすって理由もあるだろうけど。

「何でシズちゃんってさ、こういう保護者の了解が必要なものに限って見せるの嫌がるの?」
「……煩わしいかなと思って……。PTAとかもどうせ参加しねえのに面倒だろ」

まあそれは言えてるけど。でもこれはどうしても保護者の名前と印鑑が必要だから仕方なく見せて来たのか。朝からそわそわしていたのはこれを俺に見せるタイミングを計っていたらしい。今日は木曜日だから当然金曜日が締め切り。だからってもう午後10時回ってるのに、よっぽど嫌だったんだなあ。

「でもさ」

いつぞやの友人みたいに言葉を区切ると静雄はぎくっと身を強張らせた。何か心当たりがあるんだな。

「シズちゃんって俺に学校に来て欲しくないんでしょ」
「……。……面倒なら……」
「波江は関係無しで。うーん。何で? 貴重な学生ライフを俺に介入されたくない?」

そんな理由じゃない事は最初から判っているが、少し眉を下げて寂しそうな表情をすればすぐさま「違うっ」と声を荒げる。良いなあ、素直で可愛い反応だ。
俺がそのままの表情を保ちながらゆるく追求すると言葉を詰まらせる。静雄は目線をふらふらさせながらどうしたもんかと言葉を捜している。

「えっと……その……」
「なあに?」

我慢強く言葉を待ち、にこにこすれば俺の機嫌が良いと判断した静雄がおずおずと口を開く。

「だから……臨也が、学校に来ると……。……あーやっぱ言えない!」
「ちょっと!」

良い所だったのに。赤くなっている所を見るとどうも俺にとっては嬉しい理由らしいな。それでいて静雄にとっては恥ずかしい事なんだ。
整理してみようか。まず静雄は俺が学校に来る事は嫌がっていない。ただ台詞からして「学校に来る事によって起こる何か」が嫌なんだな。ひょっとしてあれか。小学生の男の子がばっちり若作りして授業参観に上機嫌でやってくる母親に対して抱く照れみたいなものかな。自分だけ母親が居ないのは寂しいから来て欲しいけど、クラスメイトに母親を晒すのはちょっと恥ずかしい。そんな二律背反。
そんな所だろうと相場をつけ、満足して腰を落ち着ける。背中に広がるひんやりとした冷たさに頷きかけるが、そこで手がストップをかける。静雄は何度も「無理なら波江に」と言ったな。

「波江なら良いけど、俺じゃ駄目って事?」

静雄が眼を見開く。ビンゴらしい。
俺が既に正解に近い答えを導いているという事は教えず、ただその言葉だけを聴いたなら俺は落ち込む。だからはあー、と声だけ落胆したようににやける顔を下げた。慌てた静雄がぶんぶんと両手を縦に振っている気配に思わず笑みが零れる。

「いやだから、その、臨也だから駄目って訳じゃ……あ、いや、臨也は駄目だ……」

思い直したように訂正する静雄に僅かに疑問が浮かび顔を上げる。俺の予想、外れてるのかな? なんだろう、臨也に来て欲しいけど、臨也に来て欲しくないっていう見事に二面化された板挟みに悩んでいる印象。
何年も一緒に過ごしているけど時々静雄は俺の予想を遥かに飛び越える言動をする。それが面白かったり驚愕したりと振り回されている原因の一端を担っている訳だけど。
素の表情でじっと見つめている俺に気付いたのか、静雄は観念したように頬をかきながら目線をずらした。

「……えっと……、前に、その、昼飯の時にクラスで家族の話題になって……。で、なんでか知らないけど俺に話が振られたんだ。年上の兄貴みたいな奴と二人暮らしだって言ったら、女子がどんな人が教えてくれって殺到してきて。別にいっかと思って、お前の、その、写メ見せたら……」

ああ、なるほどね。大体理解したけど俺は先を促させる為によく判っていない顔をしてみた。

「凄いかっこいい人だね、って皆、言い始めて……。三者面談で来たら話しかけても良いかって確認まで取りに来るからすげえ腹立った」

大きな手で口元を隠しながら、ぼそりと「臨也は俺のなのに」と囁いたのを俺は聞き逃さない。
理解はしていたけど実際静雄の口から聞かされると嬉しい。なんだか何時ぞやの俺と立場が逆になっただけらしい。

「つまりシズちゃんは俺に三者面談は来て欲しいけど、俺がクラスメイトの女の子達に囲まれるのは嫌だ。って事?」
「……」

無言で頷く。耳元まで赤くなっている辺り羞恥心は感じてるんだろうけど、それよりも色濃い俺への独占欲。静雄もこの感覚が判ってくれたかと晴れ晴れしい想いで何度も首を縦に振る。爽快な俺の表情にむっとした静雄が口を尖らせた。

「なんでそんなに嬉しそうなんだよ」
「えー? だってさ、それってつまり俺に自分だけ見て欲しいなーって思ってるって事でしょ? 突き詰めれば」
「うっせえ。自惚れんな」

そんな可愛い顔で噛み付いたって煽られるだけだって何時になったら気付くのかな。一生気付かないのが「シズちゃん」っぽいけど。
とりあえず静雄が期限ぎりぎりまで俺にこの紙を見せなかった理由は判明した訳だけど、どうしたもんかと俺は腕を組む。確か来週って波江は忙しかったはず。

「んー。まあこういうのはとっとと終わらせた方が先生にも優しいよね」
「?」
「夜遅くだときついから一番最初の時間に入れとくよ。放課後すぐ、ね」
「それじゃ周りの連中が居るから嫌だ」

しょうがないじゃないかあ、とわざとらしく両腕を上げれば静雄が真っ赤になりながら机の向こうから身を乗り出した。

「担任にだってしょうがなく見せてやるのに、他の学年の奴も居る時間は断る!」
「だって夜は俺の時間なんだからさ。それじゃあ新しいお得意さんになるかもしれない企業さんへの挨拶が遅れる」
「……新しいとこ? 珍しいな」
「まあねー、前にちょっと遠出したじゃん。その時の」

さらっと言った俺の言葉に静雄は敏感に反応する。俺が静雄に対する感情を薄れさせているんじゃないかと誤解した彼は、俺が居ない間にろくな食事も取らずに、考えを放棄するように薬を飲んで眠っていた。俺への執着を強めてくれるのは嬉しかったけど、痛々しい静雄を見るのは少し辛い。病人というよりは廃人に近くなったその姿に驚いたのはそうなるように仕向けた他でもない俺で。俺の想定していない形でそのベクトルが違う方向に作用してしまった。

(そうなるって可能性も思いつかなかった訳じゃないけど……ね)

俺を求めて、俺が興味を持った対象に嫉妬してくれるのは嬉しいが、前回の静雄は俺の理想とはかけ離れた感情の動き方をしてしまった。昔みたいに俺がちょっとでも他所を見ると「俺だけ見てろ」と拗ねてくれたら良かったのだが、俺が他所を向いた原因が「自分に飽きた」と判断されては話が違う。そういう状態に陥った静雄は馬鹿みたいにマイナス思考になって俺の一挙一動作に怯える。普段なら見破れる俺の嘘や冗談さえ鵜呑みにして心を傷付ける。「俺は臨也に必要とされていない」と思い込んでしまうのが一番最悪なパターンだ。

(こうなると俺が何をどう言っても頑なに心を開くのを拒むんだよねえ)

情緒不安定、と済ませるには重過ぎる。
静雄だって馬鹿じゃない。昔は俺が静雄を愛する事は無条件なものだと思い込んでいた彼も成長するにつれて考え方が変わっていった。遠慮する事が多くなり、本人は気付かないレベルで顔色を伺うようにもなった。それに比例するように依存心は増していったけど。昔は無邪気に「いざやいざや」って言って来たけど、俺に見放されたり捨てられる事を極端に恐れるようになってから、少しでも俺がその兆候を表に出すと、幼少期以上に狂ったように不安定になる。一緒に暮らし始めて一年足らずの時は、俺が視界から外れる度に縋りついて、一日でも家を空ければぼろぼろになっていた。そうして傷つく静雄を少しずつ少しずつ癒していきながら、俺無しでは生きられないように微妙に修正を施す。傷が塞がった心が、負う前と僅かに変化している事に静雄は気付かない。

「っ、ま、た……行くのか?」

震える声と身体。熟した林檎みたいに染められていた頬は一気に青ざめ、でもはっと意識を取り戻すと、我慢するように唇を噛んで眼をそらす。こういう風になってしまったのは俺のミスだ。静雄は何より俺に依存しているけど、俺に捨てられるくらいなら愛される事を諦めようとする。完全に捨て切れないそれに心が支配されて暴走を繰り返す。俺を独り占めしたいけど、そうする事によって俺に嫌われるくらいなら、さほど関心を寄せられなくても傍に居させて貰う方がマシ。静雄の中での結論はこれだ。
その姿は何より愛しい。もっと欲張って良いのになあ。表では「臨也に嫌われるのより捨てられる方が怖い」と言うけど、実際は同じくらいだろう。俺に嫌われてなお俺の傍に居続けるなんて器用な真似、壊れたシズちゃんに出来るはずが無い。

「い、」
「嫌だ。嫌だ……もう行くな」

俺の言葉を拒絶するように静雄が重ねる。どれだけ耐えたって俺を独占したい気持ちを抑える事なんて出来やしない。以前のそれがあってから、少しだけ我侭になってくれた静雄は後悔を現在進行形で味わいながらも言葉を吐く。

「行かないよ」

満面の笑みを湛えて救いの声を俯く静雄に置く。さっと顔を上げた静雄の顔が「本当か」と言っているように見えて、「本当だよ」と声を発した。

「何のためにシズちゃんを置いて一人で行ったと思うの? 先方に今後打ち合わせするなら池袋こっちでお願いしますって言ってきたんだよ」
「……そう、だったのか?」

静雄は余り俺の仕事に干渉しない。多分、少々勉強面の意味で頭が足りない静雄は情報を扱うこの仕事についていけないというのが本音なんだろう。卒なくこなす波江に「あんたすげえんだな」と零していた事を覚えている。
だからこの事も話していなかったんだけど隠す必要も無いので暴露する。静雄が俺の仕事に触れる時はたった一つ。俺が単身で情報屋という立場を背負って顔を出しに行く時の付き添い。簡単に言えば、武力派の組織に赴く際は俺だけじゃ心もとないから、ボディガードに静雄を連れて行く。まあ、初めて連れ出した時の理由は、20人以上の恨みを持った輩が俺を狙って待ち伏せしてるって知った矢先だったから。あの時に怒りで我を失った静雄が大声で「臨也に触んじゃねえ」と叫んでくれた時は嬉しかったな。

「だから三者面談が終わったら、そのまま直接行くよ。オッケイ?」
「判った」

久しぶりの俺への同行が嬉しいのか、死人みたいだった表情が生き生きと輝いた。鼻歌でも歌いだしそうな程に嬉しそうな顔をした静雄の視線を受けながら、用紙に日付と時間を書き記した。どうも、俺と同じで、独占欲は強いけど見せびらかしたい気持ちも強いらしい。もし前者しか無いなら「忙しいなら」なんて消極的な事は言わずに断固として拒否していただろうから。

「学校で会うとまた違う気がするな」
「ああ、ちょっと判るかも。何なら金髪の友達と一緒に居てよ。一瞬で見つけられるから」
「なんだそりゃ」

すっかり機嫌を直した静雄にプリントを手渡しながら、乗り出した柔らかな唇にキスを送る。一瞬だけぴくっと身体を引くような動作を見せたけど、すぐにゆっくりと眼を閉じる。無作法に机の上に膝を置いて更に近づく。中腰だった静雄をソファに沈め、向こう岸に渡った俺は誘うように薄く開かれた唇へ押し入った。

「……ん、は……んんっ」

キスしようとすると彼が形だけでも抵抗するようになったのは最近だった。
高校と言う至極まともな所で感化された静雄は、今まで何の疑問も抱いていなかった俺という同性との口付けが異常なものだとようやく気付いたらしい。さっきの一瞬だけでも見せた抵抗は、背徳感でも混じっているのか。それでも一度口付けてしまえば快楽を教え込んだ身体は素直に反応してくれる。それに静雄だって、どれだけ周りに常識を教えられようが、俺の事が壊れるほど好きで、俺とする口付けも好きだと本人が理解している。多分理性ではなく、知識としていけないんだと知っているだけだ。だからこうして舌を入れても嫌がらずに受け入れている。
とはいえ俺も少しばかり抵抗された方が、性悪な性癖に火が付くから少し期待したんだけど。どろどろの欲に溶けた静雄の眼。煽られるのは、俺。

「んぁ……臨也……」
「キスの途中でシズちゃんが俺を呼ぶのってさあ、大体もっとくれって強請ってる意味だって気付いてる?」
「!」

火を噴きそうな静雄の額に悪戯にキスを落とし、瞬きを繰り返す幼い表情に笑みを零す。明日がきついから今日はしない。

「お預けね」
「……ばーか」

そりゃお前にとってだろ、という静雄の返しに眼を丸くした俺に唇が重ねられた。
全く誰の影響を受けて……、まあ、俺だろうね。




もう良いかい? すぐに逢いに行く





週の頭から始まった三者面談。第一希望通り初日の最初に書かれた「平和島静雄」の名前に笑む。静雄の名前の下は少し空欄になって、30分以上離れた場所に他の生徒の名前が連なっている。パートタイマーや会社勤めの母親には平日の中途半端な時間に抜け出すのは些か辛いらしい。
珍しく俺が起こさなくても自主的に洗面所で顔を洗っていた静雄とはち合わせる。

「おはよ」
「おはよう」
「めっずらしーい。今日は別に早起きの必要無いんじゃない?」
「なんか眼が覚めちまって……」

そわそわ、というより、もじもじとしながら静雄が言う。別に結婚の挨拶に行く訳でもあるまいしそんな緊張しなくても。ただこの日が嫌で嫌で仕方なかった訳では無いらしく、顔色はずっと良くて、何時もより血色が良いくらいだ。照れくさそうに笑う辺り今日に何があるかはきちんと把握しているらしい。

「3時半からだぞ、忘れんな」
「はいはい」

左手に程良く焼けたトースト、右手に黄色の固体が纏わりついたバターナイフを俺に向ける。静雄はどちらかと言えば和食派らしいけど基本的になんでも食べる。好き嫌いが無いのは良い事だと俺は毎朝パンを食べさせていた。楽だし。米を炊くのは夜だけで、朝残った分は静雄の弁当になる。一日二度の和食に静雄は文句も言わずにトーストに齧りついていた。

「あ、臨也、あれ入れてくれたか? あれ」
「アスパラの豚肉巻き? 入れたよ」
「そうそう。個人的に俺の中でマイブームだから勧めてやる」
「全部弁当箱に入れちゃったよ」

野菜が好きじゃない俺に向かって静雄が勝ち誇ったように言うが、そう言って返せば少しむっとしたように唇を尖らせる。

「あれなら肉も一緒だから食べられそうなのに」
「俺は大人だから食べなくてもいーの。成長期のシズちゃんが食べなさいな」

元々何処からかレシピを持ってきたのは静雄だ。俺の偏食を直そうとしているのか、俺が食べられるものと一緒に苦手なものを出せば良いと思っている。だけど言わせて貰うなら、嫌いなものと好きなものが混ざったら総合的に嫌いに天秤が傾くんだ。だから食べない。

「うーん、じゃあピーマンの肉詰めとか」
「見た目からして嫌いなんだよねえ。ぐっちゃぐちゃでさ」
「何処がだ」

さあねと肩を竦めて誤魔化せば、他の料理を探し出して手を止めた静雄を尻目に俺は麦茶を流し込む。
話題を反らすなら彼が今一番関心を持っている事を吐けばいい。

「場所って会議室だよね?」

それだけで思考を瞬時に切り替え、そうだ、と返す静雄の表情は何とも微妙だ。俺が来る事に対する期待感を表に出すまいという意地。シズちゃんは素直じゃないなあと微笑んで席を立った。
やや遅れて牛乳を飲み終えた静雄が後ろから二度目の「遅れんなよ」と告げて来た事で、不器用なりに嬉しいんだと感じてにっこりと笑った。デスクの上に広げられた制服姿の少年の資料。静雄はそれに気付かないまま鞄を持って飛び出した。


何時もの黒基調の服ではなく、極々一般的なVネックにジーンズという軽装で校門の前でタクシーから降りる。眼鏡をかけた姿で校舎を見上げると、愛しい愛しい人間たちがぎゅう詰めになって押し込められている。何人かの生徒が異質である俺に眼を向ける。今日が面談だとは誰もが知っているだろうが、高校生の子を持つには俺は若すぎる。私服姿で校門の前に佇む不審な男に、しかし誰も騒ぎ立てたりはしなかった。

「さて、と」

校舎の時計に眼を向ければ時間まで30分の余裕があった。少し速く来過ぎたな。俺も期待していたのかも。シズちゃんがどんな顔するか見たいなあなんて考えながら堂々と校門を潜り抜けた。
先週、俺以外見て欲しくないと言われた手前、俺は近くに居た女子に声をかける。困ったように眉を下げ優しげに「会議室はどちらですか?」と尋ねれば判りやすく頬を紅潮させた。今時の高校生は単純だなあ。まあ場所は判ってたけど、ひょっとしたら静雄が見ているかもしれないから。機会があればすぐさま嫉妬心を煽らせようとする俺も始末に負えない。基本的に静雄は素直だ。だが意地を張ると途端にツンデレに早変わりする。そっぽ向いて俺を無視する静雄に気を引かせようとする作業はとても楽しい。そして一度デレると一気に甘えたになる。砂糖よりも甘いそれが癖になる。静雄曰く俺は苦いらしいから、一緒になれば丁度良い。

「えっと、本館の一階の……あの玄関をすぐ右手です」

ぽっと染まった顔ににこりと笑いかけ、礼を簡潔に述べる。何か言いたそうに口を開く女子から視線をずらすように向けると、玄関から金髪の男が走って来た。もう見つかっちゃったか。

「臨也!」

何時に無く嬉しそうに声を弾ませた静雄に笑みを返す。普段、静雄はどちらかというと寡黙で無表情で大人しい。その裏では喧嘩人形と呼ばれる狂暴性を秘めている。そんな静雄が女子みたいに顔を赤らめながら勢いよく手を振っている。無邪気な子供みたいに満面の笑みを隠さない彼に周囲は、ぎょっと、はっと、えっと、そんな効果音が相応しい顔をしている。多くが珍しいものを見るように眼を見開いているのを見ると、静雄が周囲に与えている印象は明るく無いらしい。入学数ヶ月にして有名人になっている。
静雄は周りなど眼中に無いとばかりに走って近付いてきた。余程急いで来たのか汗が滲んでいた。確か静雄の教室は3階だったはず。結構頑張ったなあ。

「なんだシズちゃん、波江波江言う割には俺が来て超嬉しそうじゃん」

授業参観で美人な母親を自慢したがるませた小学生、みたいな感じかな。
ぼそりと呟いた言葉は一番近くに居た女子にすら正確に聞き取れないくらい小さなもの。静雄が駆けて来るのを見て、静雄と仲が良くない(と俺はちゃんと知っている)女子はささっと道を空ける。駆け寄って抱きついて来たら可愛いのになあなんて考えていたらそれが実現して死ぬほど驚いた。

「臨也ー!」

家でも滅多に見せないくらい、心底嬉しそうな顔と声。俺よりも羞恥が強い静雄がそんな事する訳無いと思っていたから、首に抱きついた静雄に思考が止まる。主に、嬉し過ぎて。
俺ですら余り見れない極上の表情を他人が簡単に見られるなんて虫唾が走る。そう思ってあやすようにぽんぽんと背中を叩いて頭を俺の身体で隠すように抱えてあげる。猫のように喉を鳴らして甘える静雄に欲情しそうになった本能を無理矢理抑え込んだ。

「早かったなあ、まだ来ないと思ってたぞ。ん? だって俺終礼終わってねえし30分くらい時間あるんじゃないか?」

興奮している所為か何時もより幾分か早口だ。その内容に俺は口元を綻ばせる。STを投げ打ってでも俺に会いたかったんだなあ。
朝会ったばかりなのに、普段だってあと1時間も我慢すれば会えるというのに。俺の体温を肌で感じてようやく満足したのか腕を解放する。それでも、普通の男同士だったらこの距離は有り得ないという程に接近していた。周囲の生徒は固まるだけでなく普段からは想像もつかない平和島静雄の姿を写真に収めようと携帯を取り出している連中も居た。まあ良いや、見せつけてしまえば。携帯のカメラの解像度なんかたかが知れてるし。この服装に眼鏡までかけている俺を粗い写真で俺と判別出来る人間はそうはいまい。

「シズちゃんに会いたかったから早く来ちゃったよ」

本当は「こういうのは早く来るものだよ」と言うつもりだったのに、口から出たのは本音だった。それを聞いて天使みたいに綺麗に微笑んだ静雄と俺の邪魔をしたのは無粋な声だった。近くにあった温もりが遠ざかる。

「おい静雄、終礼終わってねえのに飛び出すなよ、先生怒ってるぞ!?」
「あ、悪い」
「……え? 喧嘩してたんじゃねえの?」

あっさり腕を引く事が出来た事に驚いていたのは静雄の友人。てっきり衆人環視の中で私服の男に詰め寄っていたから喧嘩しているのかと思ったんだろう。何の怒気も放っていない静雄に眼を丸くして俺に視線をずらした。にっこりと笑いかけると何とも微妙な表情を浮かべた彼は曖昧に頭を下げて静雄を引っ張った。

「とりあえず終礼済ませてからな! 行くぞ」
「臨也っ、玄関のとこで待ってろな! すぐ行くから!」
「はいはーい」

引きずられていた静雄は何度も振り返りながらも自分の足で走り始め、台風のように現れて去る静雄に視線が注がれる中、何人かは俺を凝視した。平和島静雄に抱きつかれた、男。勘の良い数人は俺が保護者だと気付いたようだ。無遠慮な視線を意に介さず、名誉あるレッドカーペットを歩くような足取りで進み出した。



そんな顔、誰にも見せない