気分が只管重くなった。
古くから続く貴族だか名家だか旧家だか、よく判らないが兎に角お偉いさんの御屋敷に奉公している俺は一庶民である。数居る下働きの内の一人に過ぎない。特別特技がある訳でも秀でた才能がある訳でもなく、極々普通である。年も若いし下っ端で、でも親がおらず、食い繋ぐ為に働く。ただそれだけであって、人と違う所なんて、少しばかり身体能力が高く、色素の薄い髪を持つくらい。それでも特別になんてとても成りえず、何十人、何百人居る使用人の中の一人。でも俺はそんな自分に特に不満がある訳じゃないし、生活に満足すらしている。俺は庶民。上等じゃないか。お偉いさん方の肩が凝るようなお行儀良い行動なんて俺に期待するもんじゃない。
何故俺がこんなに自分の事をまともだと連呼するのかは、後に置いておく。今日も今日とて御屋敷に出仕する俺に後ろからぽんと背中を叩く。
「おはよ、正臣」
「あ、おはよー」
にっこりと影の薄い微笑みを浮かべながら、質素だが桜の大輪を咲かせた着物を着た娘と擦れ違う。
「沙樹は今日は何処行くんだよ?」
「御屋敷を回るの。帰りは遅くなっちゃいそうだけど、頑張ってね」
「お前も気ィ付けろよ、油断してると俺みたいな輩に捕まるぜ?」
おどろおどろしく両手を掲げると、きゃあ、とわざとらしい悲鳴を上げて、三ヶ島沙樹という娘は手を振って去って行った。正直な話、俺が此処に仕えている理由の3.4割くらいは彼女目当てだ。
朝からついてるなぁと欠伸混じりに門を潜り、先輩同輩後輩入り混じる慌ただしい厨房に顔を出し、「おーす」と挨拶しようと手を上げかける。
「正臣」
その手を後ろから誰かが制した。何だ、今日は後ろに縁がある日なのか。声は聞き慣れたある男の物。気配なんて全く感じなかった。それどころか、男に触れられている事で男と気配が一つになり、周囲はまるで俺たちに気付いていない。最早顔馴染みとなった、御屋敷の当主の側仕えの男だ。面倒臭いが俺の立場じゃそんな事も言えないので首だけ振り返る。当主サマの側仕えがこんな下働きしか居ない厨に現れるなんて普通は有り得ない。さっと眼を走らせた男はゆっくりと俺を連れ出し外に出る。つまり話を聞かれたくないという事だ。
「何すか」
聞かなくても理由なんて判り切っていた。この男が俺の前に現れる理由は毎回同じだからだ。あー、くそ、前言撤回。朝から面倒な事になったなあ。
気分が只管重くなった。もう一度。かなりの武闘派という彼は完璧に気配を殺して俺の前に現れる。そんな時は大体嫌な事だ。他の誰でも無く、唯一、この紀田正臣にだけ与えられる仕事がひとつだけあった。この、何処までも普通の俺に。秀でたところなど何一つもない俺に。
「いつものだ」
精悍な顔立ちの彼は苦笑しつつ、袖口からまるで鴉の羽のように真っ黒な細い帯を取りだした。誰にも見られぬように俺は袖を揺らしながらさっと受け取り懐に仕舞う。気分が重い。重すぎる。これが渡されるという事は、俺はあいつに会いに行かなきゃいけないという事だ。
「門田さーん……今日も重いっすかねえ」
「さあ。毎回気絶しているんだから重いに違いないだろうが」
「気絶してるだけなら良いんすけどねえ……」
他人から聞けば理解出来ない会話を展開し、俺は盛大に項垂れた。本来なら彼にこんな口を利けもせず、態度も出来ないのだが、慇懃無礼な態度を彼は赦してくれている。昔馴染みというだけでなく、彼本人の人柄ゆえだ。
「早くしろ。臭い始めたらあいつは煩いぞ」
「それってさ、もうコト切れてる。って事でしょ? 気絶って言わないじゃん……」
言いながら俺は既に男から視線を外し、厨房とは逆方向に歩き出す。眼を覚ます、憎いくらい白い空に溜め息を零す。沙樹に会えたが、それを帳消しにされたので今日は厄日に違いない。
実際には側仕えほどの男とはお話した事もないくらいの間柄が丁度良いんだが、俺は更に悪い事に、「奥の人」と呼ばれるくらい表舞台に出てこない我らが御当主と、俺は面識があった。当然、正規の方法ではない。面識だけじゃなく会話した事すらある。下働きとしては御声をかけて頂けるだけで名誉過ぎる事なんだが、その男の事を深く知るとそんな気分は吹き飛ぶ。正直に言うと、俺は仕えているにも関わらず、当主の事は嫌いだった。口が裂けても言えない事なんだけど。それに下働きどころか、身の回りの世話をするそれなりに身分の高い者以外、姿を見ることすら叶わない“奥の人”。若くして当主の座を継ぎ、この土地一帯を支配する幻の存在に尊崇し、畏敬する者はごまんと居る。
「あーあ、頼むから今日は細身の奴。頼むから細い奴頼むぜ」
二度繰り返し、先ほどの使用人がごった返す騒がしい場所ではなく、閑散とした母屋付近の奥まで入り込んだ俺。本来なら俺程度の身分の奴は立ち入り禁止で、見咎められれば追い出される。事情を知らない使用人に見られれば面倒だ。柱の影を上手く利用して俺はすいすいと進む。人の気配を感じ、俺はすぐさま身を寄せていた柱を蹴り屋根に昇った。常人には有り得ない。
盗人だった俺の両親。
そして俺自身は、物乞いだった。追い剥ぎもしていた。立派な家に忍び込んで金目の物を頂戴するのは常だった。そんな俺は身軽さを活かして、元々の才能もあって高い身体能力を誇った。何か土台があれば屋根まで駆け上がるのは訳無い。とはいえこんな見晴らしの良い場所に居ればそれこそ盗人と思われる。
「使用人よりも、こっちのが性に合ってそうだなあ……」
太股にある冷たい感触に苦笑する。盗みを働く内に、何度か危険な目にもあった。貴人の屋敷の上質な着物を漁っている時に捕まりかけた事もある。全うな事では無いと理解はしつつも、止める事は出来なかった。
そんなある日、何時ものように適当に目に付けた家屋に忍び込んだ。塀は高いがこじんまりとしていて、しかも不気味なくらい静かな所だった。若干怪しみながらも、金目の物が無ければとっとと出れば良い。俺は誰も居ない廊下に首を傾げた。使用人が一人も居ないなんて事無いだろうと襖に手をかけた時だった。
「やあ、可愛い盗人だね」
「!?」
後ろからなんとも気軽に肩を叩かれた。馬鹿な、これだけ神経を張っていた俺が背後に立たれて気付かないなんて! 自分の才能を過大評価していた俺は護身用の刀に手をかけようとしたが、一瞬で両腕を背後に取られ間接を極められる。鮮やかで無駄の無い動きに愕然とした俺。
「なっ、な、お前なんだ!?」
ほんの僅かに身を捩っただけで肩が外れそうになる。その激痛を歯を食いしばって耐え、痛まないぎりぎりの所まで首を曲げる。声からしてまだ若い男だったが、これだけ熟練の技を持つのだからさぞや屈強な大男かと思った――、が、そこに居たのは、とてもこんな力を持っているとは思えない細身の青年だった。全身黒ずくめだが、色々な上質な金品を物色してきた俺は眼を疑う。見ただけだが、身につけている物すべてが、一度か二度くらいしかお眼にかかった事が無い高級品だった。とてもこんな寂れた庵に立っているのが相応しい男が着る物ではない。
「あ、んた、なにもんだ……!?」
つい口走った俺に、黒髪のそいつは色に違わない、薄汚れた笑みを浮かべた。
「なんだ、君は此処が誰の所有しているものか知らずに入ったんだ?」
「っ? 誰のって、誰だ……?」
「そうかそうかぁ。それじゃあ可哀相だね。これを見れば判るかな?」
男は器用に、片手で俺の両腕を拘束したまま、懐から何かを取り出し、肩口から俺に差し出した。てっきり刃物で首筋でも切られるのかもと身を硬くしていた俺は拍子抜けしたが、それに視線を落とした瞬間に眼を疑った。有り得ないという思いで。
「なっ……なんであんた、そんなもん……。普通の奴が持って良いもんじゃねえぞ!?」
有りっ丈の力を込めて叫ぶが、男は笑みを濃くするばかりで微動だにしない。それに直感した。“本人だ”って。
男は手を引き、それを懐へ仕舞った。本物は初めて。あんな、あんな……。
「嘘だろ……なんで、あんたが……あんたほどの奴がこんなとこに……?」
「別に巨大な屋敷を持っているだけが権力を主張する方法じゃ無いんだよ。ところでさあ、君、名前は?」
此処で名を問われるのは些か可笑しい気がした。俺は庵の所有者であり、かなりの権力者であるこの男を知っている。そして俺なんか簡単に殺せるだろうという事を。殺されても可笑しくない場面なのに、何故。
「……墓に刻む名前でも、聞いてくれんすか?」
精一杯の皮肉を混ぜ、ニィと口角を上げた。この状況で笑っていられるのも変な話だが、眉は恐ろしさで十二分に歪んでいる。握り込められる握力に、細い骨が悲鳴を上げて顔を顰める。物理的に痛い催促に俺はそろそろと名乗った。
「紀田、正臣……です」
予想以上に震えている声に情けなくなるが、男はそれを聞いてあっさりと腕の拘束を解く。男の手の力が緩むのを感じて、離される前に俺は跳んでいた。一気に跳躍して距離を取った俺に、男は口笛を吹いた。
「中々、素早く動けるね。のさばらせておくのは勿体無い」
「へえ……護衛にでも雇ってくれますかね。忠義は尽くせそうにないすけど」
俺は特別会話には集中せずに周囲に注意を配る。長年の経験が、これほどの男がこんな場所を一人で出歩くはずが無いと言っている。必ず付き人が居るだろう。正直、専門の訓練を受けた奴じゃ俺なんかとても叶わない。しかも目の前の男も俺を遥かに凌駕する手練だ。此処が俺の人生の終焉か、と半ば諦めていると男がくすくすと微笑んだ。全然綺麗な笑い方じゃなかった。
「君、食べていくのもやっとなんでしょ? 引き取ってあげるよ」
「そりゃありがた……は?」
口から出任せだったのだが、意識が急激に引き戻される。吃驚してこの男だけに注意を向けると、意味を理解して口がぽかんと開いた。
「なんなら下働きでもなんでも良いから働けば良いよ。どうも君、根は真面目っぽいからね。使用人は何人居ても不便にはならないよ」
「え? で、でも、……い、いのか?」
男はにっこりと頷いた。あ、駄目だ。こいつの笑い方は善意の欠片も見当たらない。面白い玩具を見つけたような笑い方だ。名前の書いていない玩具を拾ったようなものだ。
「っ……反吐が出ますよ」
「最高の褒め言葉をありがとう。じゃあ行こうか、正臣君。ああ、知ってると思うけど、俺の名前は――」
そいつは眼をつけた獲物は決して逃がさないという体で不気味な赤眼を光らせた。
立派な着物を着た男二人が下を通るのをしっかりと見届け、音もなく地面に降り立った。俺が此処に来た経緯を思い出しながら軽く頭を掻いた。ふらふらと着いて来た自分が阿呆なんだ。
背中を壁につけながら、まるで忍になったように駆け回る。目的の母屋までつくと、裏に回り、太股に忍ばせておいた短刀を抜いた。中に人の気配を感じ、そっと扉を開ける。見張りの男が俺を見つけ、刀を振り下ろしてきた。その速度は流石と唇を歪めるほどだが、元から準備していた俺の方が分が良い。素早く懐に入り込み、短刀で刀を受け止めた。
「はい待って、俺だから」
上目遣いで告げると、胡散臭い眼で俺を見ながら刀を鞘に納めた男に袖口から例の黒い帯を見せる。
「当主様のお申し付けだ。通してくれ」
「御意」
口元を布で覆った男はあっさりと頷き、道を開けてくれる。全く毎回こうしているのだから少しは信用して欲しいものだ。短刀を素早く戻した俺は長い廊下を駆ける。此処からしか目的の部屋には行けないのだから面倒臭い。だからこそ、当主もかなりの手練の剣客を置いている。虚を突かなければ俺も真っ二つになっている。いや、二撃目は間違いなく避けられもしないだろうな、と考えながら、帯をしっかり手に持ったまま階段を昇る。下手をすれば切られるからだ。この帯があれば、俺が当主に呼ばれているという証拠になる。見せつけるように通行証を握りしめ、厳重な警備がされている巨大な扉の前まで息を切らしながら進んだ。
「紀田じゃないか」
既に顔馴染みになっている俺に見張りをしていた若い男が声をかける。曖昧に苦笑いして帯を差し出した。
念入りに本物かどうかを確認し、帯の隅に見えないが美しい刺繍で鴉が描かれているのを指先で判断すると幾つもの鍵を外し、扉を開けてくれた。
「今日は長くなりそうか?」
「判らない。ちょちょいと済ませられれば良いんだけどさ」
「相変わらず当主様もあの男も気難しいな」
「キチガイなだけだよ」
此処に居る見張りは誰もがお堅い奴らばかりなのだが、彼だけは冗談が通じる相手なので軽く笑い、帯を受け取ると進み出る。目的の部屋は母屋から繋がったこの廊下のみで行き来出来る。そして此処からは見張りは一切居ない。離れとはいえ俺が普段寝泊まりしている場所よりも立派なそこに激しく溜め息をつき、鐘を鳴らしてから押し入る。
そこは明るく開放的、とは程遠く、壁すべてが板で、太陽が一切入ってこない薄暗い場所だ。意図して建築しなければこんな構造にはならない。まるで牢屋のようなそこ。あながち間違っていない。点々と燃える蝋燭だけが足元を照らし、奇態な造りだがかなり頑丈で、そして金持ちに相応しい品良い廊下を進んだ。
「しーずーおーさーん。何処に居ますかー?」
きょろきょろと見渡す。この小さな居城に住んでいるのはただ一人。血縁では無いが当主と繋がりの深い男だ。気紛れで怠惰で短気で面倒臭がりで、頭の可笑しい男が一人だけ。
幾つかの部屋を覗き込んだが見付からない。俺は一番最悪な展開を容易に予想する自分に気付いて頭を抱える。恐らく、男は寝室に居るんだろう。そして予想通りならきっともう一人居る。
「……マジで給料倍増して貰わないと割に合わねーっつーの」
気分が悪くなり、心臓を落ち着かせるように息を吐き、重たい足を引きずるように奥の部屋へ足を運ぶ。今までどの部屋も真っ暗だったが、その部屋は障子から行灯の光が漏れているのを発見した。お化け屋敷のようなそこ、俺は近付こうとしたが、聴こえて来た物音と声に本気で吐きそうになった。
「んは、ぁ……きつ、ぃ……、から……ぁぁっ」
堪えるように、しかし何処か艶を誘う悩ましげな男の声。予想通りだと頭を抱え直す。人を呼んでおいてそれは無いだろう。遭遇したのは初めてではないので、今じゃ呆れが先に来るぐらいだ。だが、普通に女の子が好きな俺にとって、朝から男同士の情事など見たくは無い。
「いぃ……っま、そんな、んっ、噛む、なぁ……」
「別に良いだろう? 俺にしか見せないんだし。それとも身体に痕が残っちゃ何か不都合があるのかなあ……? ねえ」
「ちげ、ぇ……よ。単純に痛ぇっつ、って……ぁっ、ん!」
「痛い? 気持ち良いの間違いでしょ……、淫乱なシズちゃんにはたっぷりお仕置きしないとね」
俺が此処に呼ばれたのは間違っても二人の情事を見る為じゃない。頼むからある程度服を着ている状態で顔を合わせたい。行きたくねえと内心思う身体を無理矢理動かした。
嫌々ながら障子を開けると、そんなに遠くないそこで布団の上で絡み合っている二人が居た。要注意だが組み敷いているのも男で、組み敷かれているのも男。見慣れているとまでは言い難いが、さほど新鮮でもない光景に腕を組む。乱れた着物の隙間から見える、陽に焼けていない極上の肌。上に乗る黒髪の男は顔を金髪の男に埋めている為、俺に気付いていない。しかし金髪の方は俺を視界に捉えた。すると情事を見られているというのに、男はにやあ、と口元を歪める。その唇が、目元に差した可憐な朱色、乱れた息遣いに比例していない。この男は、何時でも俺の理性を揺さぶる。強烈な色に中てられそうになる俺はこほんと咳払いで誤魔化した。
「もしもーし、お呼びでしょうかぁー?」
黒髪の男が顔を上げる。何度見ても、一瞬呑まれそうになる程の美貌だ。末恐ろしい程に整った顔立ち。下の男ほどではないが、白い肌に黒髪、着物も真っ黒な中、紅色の瞳だけが厭らしく輝いた。
「ああ、遅かったね」
この男も全く動揺を見せずに呆気らかんとしている。まるで慣れているかのように。綺麗に響く声も俺には不快感しか襲わずに居るが顔には出さないように努める。この男の気分次第で俺の人生が決まるんだ。
「ブツは何処すか?」
寝室を見回すが特にあれらしきものは見当たらない。そう言うと黒髪の男は情事の最中とは思えないくらい、にっこりと美しく微笑む。気圧された俺は歯の合わせをきつくする。そいつは組み敷いている男の首筋に舌を這わせながら横目で俺を見る。
「厠の側に放置してあるよ。何時も通り処理宜しく」
「はぁい。静雄さんもホイホイ連れ込まないでくださいよ……俺の仕事増えるんすから」
快楽に眉を戦慄かせながらも、男――平和島静雄は不敵に笑って低い声を出した。
「退屈なんだよ、なんならお前相手になるか?」
「冗談きついっすねー本人の眼の前で。俺の首繋がるかなあ」
おどけて、手で作った刀で首を横断する素振りを見せると黒髪の男もくすりと笑みを浮かべる。どす黒く正視にたえないものだった。
「俺じゃないと満足出来ない癖に」
「上手いのは認めてやるけどな、てめえばっかじゃ飽きンだよ」
「静雄さんもあんまり言うと後が大変ですよ。あ、臨也さん、報酬上乗せして貰いますからね」
「お好きにどうぞ。正臣君さあ、偶にはシズちゃんのお話に付き合ってあげてよ。この子は悪食だけど君は食べないからね」
どうやらそこまで機嫌は悪くないらしい。上手く静雄が宥めたんだろう。
ほっと息を吐き、軽く頭を下げて障子を閉じる。一瞬前に黒髪の方が俺に笑いかけたような気がしたが、気付かなかったという事にしよう。何度目か判らない溜め息の後、奥に向かって進み始める。その間も二人の声が俺を追いかけて来た。
「あれの何処が良かった訳? 参考にならないけど聞いておきたいなあ」
「んー……。着物が白かった事か」
「はは、何それ。俺への反抗? じゃないよねえ、別に男なら誰でも良いんでしょ」
「お前でも良い訳だ。はっ、つまんね、……んぅ、っや……」
頭から振り払いたくて足を速める。結果的に、突き当たりの場所に置いてあった「それ」を見るのも早まった訳なんだけど。静雄の言う通り、それは白かった。 そう、「白かった」、
……はずのものは、黒に変色しかけた紅色に染まっていた。投げ出された身体に力が入って居ない事から、多分、いや絶対もう息は無い。門田が早くしろと言っていたが、なんとか臭い出す前で良かった。やっぱり結局は重いんだなあと考えながら近付き、見た目よりもカチカチに固まってしまっている男を担いだ。一気に鼻を吐く強い血の臭いに眩暈がするが我慢する。
誰に殺られたなんて愚問だ。得物で後ろから心臓と首を一突き。何時もの死に方。暴れたんだろうか、それ以外にも細かい傷が見受けられる。まあ、俺には関係無い。と来た道を引き返す。
静雄が連れ込んだ男は結局静雄にまともに触れられずに終わったんだろうなあ、人生を。あの性悪な男の所有物に手を出したのが運の尽きだ。そんな男が俺が命をかけて奉公しなきゃいけない男だなんて吐き気がする。そう、先ほどの黒髪で痩躯の色男……あれが「奥の人」と呼ばれる、俺の主人。目下の者は姿さえ見た事が無いという、折原家当主、折原臨也。
「マジで最悪だ……」
元来、あんなに気軽に話しかけられる相手じゃない。勿論、初対面の時、仕えると決まってからは「臨也様」と頭を下げたんだが、あの人が俺に限っては畏まらなくても良いと言ってきたので、この数年間ずっとこうだった。あの人は気に入った相手には呼び捨てさせる事すら厭わず、極めて砕けた印象だ。側仕えの門田も公の場では敬称だが二人になると普通に口調を崩している。だが逆に興味の無い者からは名字を呼ばれる事すら赦さない。極端な人なんだ。
折原臨也に関しては謎が多く、またあの人が囲う情人、平和島静雄についてもよく判らない事は多かった。とりあえず言えるのはあの人は静雄を愛と呼ぶには薄汚い執着を抱いていて手放さず、こんな離れで監禁するぐらい寵愛しているという事で。対する静雄も、暇潰しと称して何人も男を連れ込む割には臨也を気に入っている。が、退屈しているのは本当のようで、付き合いで席に呼ばれた際、酒に酔った彼は外に出てみたい旨を打ち明けた。どちらにせよまともじゃない。天下の御当主様は自分の情人に触れた輩は全員息の根を止めている。可笑しな話だ。責任を相手に取らせる臨也も、自分の所為で死ぬと判っていながら男を引っかける静雄も。
「あー、正臣君!」
寝室の前を急いで通り抜けようとする俺を、臨也の声が制する。重いからとっとと死体を処理したいこちらとしては足を止めるのも面倒臭く、数歩歩いてから、無礼にも程があるやる気の無い声で「なんですかぁ?」と声をかけた。
だが幾ら待っても臨也からの返答は無く、首を傾げて意識をそちらに向ける。障子越しなので姿は見えないが、どうもぼそぼそと静雄と喋っているらしい。聞き取れないそれに苛立って無視しようとするが、俺が一歩踏み出したのを見計らったかのようにまた声がかかる。
「君さあ、帝人って子知ってる?」
「!?」
完全に止まった。足がじゃない、思考が。思わず背負う男を落としそうになった俺は一気に浮かんだ脂汗に我を取り戻し、無礼を忘れ障子越しに叫んだ。
「なんで……なんで帝人の事を!?」
「ああ、やっぱり? 出身地が君と同じだったし、同い年だからひょっとして面識あるのかなーって。はは」
「そんな事じゃ無くて……なんで、なんで」
主人の口からいきなり幼馴染の名前が出てきたらそれは驚くだろう。だが臨也はそんな俺を嘲笑うかのように低く笑った。
「『なんで』? 別に関係無いじゃあないか。今度引っ越してくるんでしょ。君のお友達かあ、是非一度お話してみたいよ」
「っ……!」
やめてくださいなんて言えなかった。この男は危険すぎる。俺にとっても、誰にとっても危険なんだ。別に何かされた訳じゃない。それどころか、行き場の無かった俺を拾って仕事を与えてくれ、しかもさん付けで呼ばれるなんて無礼を赦してくれているくらいだ。だけど俺はこの人に好意を持つなんて出来なかった。得体の知れない警告音が俺の中で響き渡るから。動物的な本能に近かった。
「帝人を、どうする気なんですか……?」
それが今、俺が臨也に刺せる一番太い釘だった。だが奴は、せせら笑う。
「君には関係無いだろう?」
繰り返されたそれに絶望感が襲う。駄目だ、幼馴染を此処に来させちゃいけない。都会に憧れていたあいつ。でも今の此処は危険すぎる。この男に弄ばれて正気を保っていられる奴なんて、あいつの下で寝転がっているキチガイだけだ。
「臨也。俺放置して楽しそうにすんなよ……」
「ああごめんごめん。ふふ、シズちゃんも面白くなるかもしれないよ……?」
「俺はてめえにしか興味ねえよ。今んとこはな。だから……精々退屈させてくれるなよ?」
「言うねえ。あ、正臣君もう良いよ、とっとと帰って」
当主直々の命令でも、俺は暫くそこで棒立ちになったままだった。静雄の欲に濡れた声が耳に入ってきても、呆然と。一際甲高いそれを聞いて、ようやく俺はゆっくりと踵を返した。
(駄目だ……駄目だ……)
頭の中は、つい先日、文を送ってきた旧友の顔。それが何度も浮かんでくらくらする。上手くあいつが働き口を見つけられなかったら此処を紹介してやろうと思っていた考えを消し去る。理由は判らないが、あそこまで言い切ったんだ。臨也は幼馴染で何かするつもりなんだろう。背に乗る体重とは関係無しに重い足取りを隠さず、ようやく太陽を拝めた俺は憎らしさに歯を剥き出した。
通常の仕事に戻った俺は、皆の制止を振り切って自室に戻り、棚から紙を出す。ろくに学が無い俺でも、昔は幼馴染と一緒に勉強していた。丁寧とはいえないが、筆を出してその幼馴染への手紙を綴る。此処に来るのを、せめて先延ばしに出来ないものかと。
「おーい、正臣ー」
仕事仲間が後ろから声をかける。それどころじゃないと振り向きもしない俺に、幼い声がかけられた。
「なんか門の前にお前の知り合いだって言う奴が来てるんだけど。昔お前と同じ村に住んでたって」
「……!?」
え、嘘。有り得ない。だってまだ時間が……。
飛び出した俺は走って真実を確かめる。何かの間違いであって欲しいって。引っ越してくるのはもう少し先の話だったはずだと自分を落ち着かせ、高鳴る動悸を抑えつけた。
「あ、正臣!」
乱暴に門を開けると、すぐにそいつと眼が合った。童顔にくりっと丸い瞳。何処か不安げな表情を見せていたのが一瞬で変わった。
「み……か、ど?」
「久しぶりだね! 正臣、全然変わってないなあ。母さんの予定が変わっちゃって、少し早く来たんだよ。吃驚した? 父さんが折角だし正臣君の様子を見に行ったらどうだって……正臣?」
興奮気味に話す幼馴染――竜ヶ峰帝人は、顔を真っ青にしている俺を見て心配そうな表情を浮かべた。なんてことだ。あいつは知っていたのか? 帝人が本来よりも早く此処に来る事を。あの男は、そんな事まで知っているのか? 此処ら一帯を尋常じゃない情報網で操る奴は、田舎に住む無力な少年の事すら把握しているというのか?
「あ……ああ、帝人。お前も変わんねーな! 変わらなさすぎて幽霊かと思ったぜ!」
「ひっど! なんだよ、正臣ばっかり背も伸びちゃってさ!」
「ははは、お前むしろ縮んだんじゃねえー?」
「そんなことないー! 正臣、どうせ良い物ばっかり食べてるんでしょ! 僕も三食食べたいよ!」
「はは、贅沢言っちゃ、……いけねーぜ?」
何時もの調子に無理矢理合わせ、取り繕う。再会の嬉しさからか、にこにこと機嫌の良い帝人に冷や汗が出た。
折原臨也は、知っていたんだな。俺を呼んだのは死体の処理だけじゃ無かったんだ。これ見よがしに、俺が当惑するのを嘲ったのか? そんなのは俺の自意識過剰か? それでも、事実に変わりない。こいつは自ら籠に捕まりに来たんだ。くそ、くそ。――くそ!!
「今日はちょっと仕事早く切り上げさせて貰うから待ってろよ」
「え、そんな、良いの? 単に元気かなって思って来ただけなのに」
「折角お前が来たんだから、案内してやるよ!」
帝人に笑顔を振りまき、一度別れる旨を告げて手を振り、門に逆戻りする。気付かれない位置まで来て思い切り壁を殴った。こんな事じゃ、この屈辱は晴れないけど。
顔を憎い男が居た方へ向ける。遠く、母屋の影に隠れた静雄の住まい。使用人の中でも限られた者達しか存在すら知らない場所。そこに居る男が上から見下ろして俺を笑った気がして、身震いした。
ああ、本当に今日は厄日だ!
あの視線は人を殺せる