俺が生きているこの世には8割の人間、2割のそれ以外が生きていた。それ以外の中には犬や猫などの家畜は含まれていない。人間と正対している害悪を振りまく存在を言う。
そして俺が住む、人口100人程度の小さな村の周りには人外がよく通過した。寂れた教会には悪を祓う力など無い。
鬼だとか人狼だとかは日常茶飯事で、その中には人間を主食とする生き物も僅かながら居る。幾度となく襲われながらも、こんな小さな村の住人が生き永らえているのは、奇跡でも天運でもなく、たった一人の、人外以上に人外に近い生き物のお陰であった。
「シーズーちゃん!」
村の外れにある御神木の前で、背中を丸めておにぎりを食べている人影を見て飛び上がる。指先を舐めながらこちらを振り返って一気に嫌そうな顔をする。俺はそれを意に介さず、目的の人物を見つけられた事に有頂天になりながらスキップを刻む。
「なにしに来た」
「今日は特別シズちゃんに会いたくてね」
「あっそ。その呼び方やめろ、ついでに会いに来んな、俺に近寄るとその内吸血鬼にでも噛まれちまうぞ」
無愛想なのは何時もの事だ。歳は俺よりも3つほど上で、長身で金髪。これだけならそれほど珍しく無いけど、彼には人外すら恐れる有り得ない膂力を持っている。その力で周囲に睨みをきかせ、村の平穏を守っている。でも、村の人は人間の領域を大きく飛び越えた彼を怖がり、誰も感謝していない。自分の命も守る為とはいえ、冷遇されているというのに今日も彼は自らを傷付けてまで何かを相手にしてきたようだ。
頬に僅かについた血痕、少しだけ怪我をした額から流れる血を中途半端に拭っただけの状態。貧相な食事に勤しむ彼、平和島静雄は、俺の事をヒーローに憧れて自分に付きまとっている子供だと思っている。でも俺を邪険に扱う理由はそれだけじゃない。自分の周囲に居れば居るほど高まる、俺が巻き込まれる可能性を危惧している。
「吸血鬼って最近ここらをうろついてた黒髪の?」
「そう。知ってるならなおさら近付くんじゃねえ。餓鬼のおもりなんてまっぴらだ」
ふいと顔を反らす彼ににっこりと笑みを作る。不器用で優しさが空回り。静雄は単純に村を守りたいだけなんだろうな。例え見返りなんて貰えなくても、迫害されても。自ら望んで孤独な戦いに身を投じている静雄に愛おしげな視線を向けるが、背中ばかり見せる彼は気付いていない。
「シズちゃん、怪我してるの?」
背中から回って彼の正面に立つ。無邪気に草を踏みならす音に静雄は視線だけ上げたがすぐに逸らす。静雄は俺が嫌いな訳じゃない、自分に懐いた俺に危害が及ぶのが嫌なんだろう。そんなこと、もう気にしなくて良いのに。
遅い夕食である最後のおにぎりを丁度喉に落としたところで顔を近付け、額と頬についた血を猫のように舐めとった。
「お、おい」
「消毒だよ。シズちゃんばっかり痛い目にあって、可哀想」
「餓鬼に心配されるなんて俺も終わったな。お前はとっとと寝ろ。夜は危ねえ」
既に固まっていたそれを何度も舌で撫でると、少しずつ元の液体に戻ってくる。ぺろぺろと繰り返しているとくすぐったいのか静雄が身を捩る。血が取れてもずっと舌を突きだす俺に呆れたような視線を向けて俺の両腕を掴んで引き離す。
「ほら、お前みたいな餓鬼が起きてる時間じゃねえから帰れ」
夜道が怖いなら送ってやるから、と付け足す彼に顔を輝かせた。素直に零れた笑みに静雄がつられて薄く笑うのを感じ、俺はねーえ、と甘えた声で小首を傾げた。
「シズちゃん前さあ、俺は子供だから一緒に居ちゃいけないって言ったじゃん?」
「あ? 餓鬼でも老人でも駄目だ」
俺は自分の力を抑制出来ねえからな、と呟く彼は少しだけ悲しそうに眉を落とす。
「うん。俺はシズちゃんの力に潰れちゃうから、駄目なんだよね?」
「そりゃあお前に限った話じゃないけどな。兎に角、もう俺に関わるのはやめろ」
そう言った静雄は悲壮感に溢れていた。見返りなんて求めていないと言いながら、彼は人と関わるのが好きだ。どれだけ周囲に疎まれても、身を粉にする思いで力を振うのは何処か期待しているんだろう。なのに、自身に魅せられた俺という存在に戸惑って素直になる事が出来ない。いざ本当に誰かから好かれたら、彼はどうすれば良いのか途方に暮れてしまう。その気持ちを誤魔化したくて理由をつけて俺を拒絶する。本当はどれだけ人肌を恋しがっているのか、俺は知っている。
なら静雄が使う言い訳のすべてを、打ち砕けば素直に俺を好きと言ってくれるのだろうか? この一年間、初めて会った時から一度たりとも俺の名前を呼んでくれない彼が、俺の事を!
「だったらさ、俺がシズちゃんに負けないくらい強くなれば良いんだよ」
「……そうなれば、良いな」
俺の両腕を掴む手に、少しだけ力が籠る。そんな日は来ないんだろうな、という諦めの感情が強く伝わってきて、俺は自身の熱が昇ってくるのを感じた。こんなに興奮したのは初めてだった。
「だからね、俺。強くなったんだ」
「なに言ってんだ、馬鹿」
小突こうとして離しかけた手を俺は逆に取った。ぐっと身体をくっ付け、にっこりと笑う。見上げた彼の苦笑は何処までも綺麗だ。
「シズちゃん。……見て」
俺はゆっくりと、本当にゆっくりと……、弧を描きながら、唇の合わせを解く。静雄の笑みが掻き消えた。
「なっ」
「シズちゃんの為に、俺……奪ったんだ」
俺から離れようとする身体を、今度は拘束した。痩せた俺の身体からは有り得ないほどの力で。初めて見る静雄の驚愕の顔、怯懦の顔。気が昂ぶりすぎてどうにかなりそうだ。首筋に流れた汗で俺の体温が上がっている事を理解する。
「お、お前っ、なん、それ……」
「言ったでしょ? シズちゃんの為、傍に居る為に……ね?」
我慢出来ない。我慢なんてしたくない。
無垢な口から覗く二本の、異常に発達した歯。それは俺が人の道を外した事を意味していた。誰よりも深くそれを理解している静雄は真っ青になりながら、遅ればせながら俺の拘束を外そうと腕に力を込め始める。だが、静雄の中に迷いがあるのか何時もの勢いと力が出ていない。俺は益々笑みを濃くし、愛を告白するように甘ったるい声を出した。
「生半可な化け物じゃ駄目だ。シズちゃんが認めてくれるぐらい強い奴じゃないとと思った。だから俺、この世界で一番怪力で欲深な生き物……吸血鬼を探して殺したんだ」
連れ込んだ吸血鬼を俺よりも先に静雄が見つけたのは少しだけ想定外だったけど。先週から傷だらけなのは吸血鬼と交戦したからだろうなと予想していた。こんな夜にまで周囲を警戒しているくらい、静雄が苦戦する相手だった。静雄の膂力をまともに受けて弱っていた吸血鬼を誑かすのは簡単だったなあ、と俺は冴え渡る知恵を褒めながら話を進める。
「でもね、そうしたら天秤が吊り合わなくなっちゃったんだ。ほら、シズちゃんはどんなに化け物って呼ばれてても人間でしょ? でも俺は吸血鬼になった。それってどうかなあと思って。俺、一人は寂しいしさあ。だから、ね?」
興奮が抑え切れなくて俺は静雄の首筋めがけて背伸びする。何をされるのか一瞬で理解した静雄がもがくが、俺は全力でそれを阻止する。ずっとお預け喰らっていたんだから、贅沢したい。まずは殺さない程度に血を吸い尽くして、ぐったりしたシズちゃんを慰めてあげる。ずーっと一緒だねって囁いて、そうそう俺の名前を呼んで貰う。その後で愛してるよって告白しあうんだ。なんて甘美な夜! ああ、喉がからからだ。最初に飲むのはシズちゃんだって決めていたから、三日前に殺して放置しておいた両親の血の匂いに誘惑されちゃいそうだったんだ。もう三日も何も口にしていないんだ。辛かった。だから言っただろう、今日は特別、シズちゃんに会いたかったんだってね。初めての味。楽しみだなあ。
「て、めえ。ふざけんな」
「うん? 真剣だよ? シズちゃんも素直になってよ、あ、俺が吸えば素直になってくれるんだったね」
この後の想像に胸膨らます俺は何処か上の空で答え、舌舐めずりした。待ち望んだ吸血鬼の主食、堪らない。
「離せっ、やめろ! 冗談じゃねえ!」
「照れなくても良いよぉ。あははぁ、シズちゃんも期待してるの? 身体、熱いよ……」
そっと頬を寄せると、外気に晒されているにも関わらず静雄の身体は熱を発している。早くして欲しいならそう言えば良いのに。待ち切れない想いで俺は歯を伸ばして首筋に押し当てる。この柔肌の下に俺の求めるものがあると思うと背筋がぞくぞくする。
「やめろ、やめろてめっ、離せ……嫌だ、やめろ!!」
叫ぶ静雄の声に煽られた俺。君も興奮しているんだね、シズちゃん。
間違っても普通の人間みたいに、恐怖の余り身体が発熱して真っ青になりながら未知と狂気に震えて俺という吸血鬼を全面拒否しているなんて事はないよね!
「あっはぁ……」
ぷつりと表面から玉のような血が滲む。本能が、理性の糸を引き裂いた。
「いただきまあす」
一度口を離してから、思い切り牙を突き立てた。
「っぁああああああ」
音を立てながら思う存分、待ち望んだそれを啜る。口いっぱいに広がる鉄錆の匂い、喉を通る熱い液体。噎せ返る程に甘苦いそれ。俺の耳の横で静雄が絶叫したがそれが聞こえないくらいに熱中して、夢中になる。殺さない程度にと考えていた思考が何処かに消え失せてしまうくらいの快楽が貫き、何時の間にか反応していた俺の下肢からじわりと熱が伝わった。
ごぼごぼと口の中を通過して流れ込む濁流に意識が飛びそうだ。初めての味がこんなに良いとは思わなかった。不味そうな両親の死体を貪るような真似をしなくて本当に良かった。美味しい、美味しい。美味しいよシズちゃん!
「っ……ぁあっ」
意識下で彼の名前を呼んだ事によって、ようやく視界に色が戻ってきた。静雄は最早自分の足で立っていない事に気付き慌てて牙を抜いた。興奮の余り彼を殺してしまったのだろうかと恐ろしくなり、身体を揺さぶる。う、と小さく呻いた彼に心底安心して胸を撫で下ろす。気絶していたらしい彼は俺に焦点を合わせた。
「ひい!」
と同時に俺は突き飛ばされた。少々痛かったがそんな事は問題じゃない。吸血鬼である俺が血を吸ったんだから、彼も同じ種族になるんだ。これで天秤が吊り合う。静雄と俺が一緒になる理由が出来る。
嬉し過ぎて涙さえ零しそうになる俺はゆっくり彼に近付く。なんでそんなに怯えた眼をしているのかが判らなかったけど、きっと吃驚しただけだろうと解釈して、彼を安心させる為に俺はとびきり優しく微笑んであげる。
「ぅ、あ、あ……あ……」
それを見た静雄が青を通り越して真っ白になった顔で俺と自分を交互に視線を巡らせたあと、そっと噛まれた箇所に手を添え、撫でるように指を這わせる。やがてそれが引っ掻くような動作に変わり、眼を見開いている彼に首を傾げる。そんなに俺の告白が嬉しかったんだろうか。
「あはは、これで俺とシズちゃんは同じモノだ。俺、もうどうにかなっちゃいそうだよ。あ、ちょっと吸いすぎちゃったかな? ごめんね、シズちゃん煙草吸ってるからひょっとしてヤニ臭いのかなあって少しだけびびってたんだけどさ、全然そんな事なくて驚いたよ。最高級のワインも叶わないや。あ、シズちゃんの血でワイン作ろうか? 俺の二十歳の誕生日に頂戴! ね! ね? 良いでしょ? でしょ?」
静雄は俺の言葉など聞いていないように無心で爪で傷口を抉っている。まるで傷ごと無かった事にするように。なんだろう? でも俺はすぐに考えを中断して、血を吸う前に計画していた事を実行しようと静雄に駆け寄る。御神木の根に背中を預けるような体勢の彼に跨って身体を密着させる。ひっ、と息を呑んだような気配がして、俺は静雄の頬を撫でた。そんなに緊張しなくても良いから、安心してと耳朶を甘噛みした。
「大丈夫だよぉ、俺はずっと一緒に居てあげるからね? 健やかなる時も病める時も……あ、なんだか結婚の申し込みみたいだ! 結婚なんかよりももっと強く結ばれよーね。それでね、それでね、シズちゃん、俺の名前呼んでよ? ずっと呼んで欲しかったのに、俺が関わり合いにならないようにわざと呼ばないでくれてたんだよね? 優しいシズちゃんの事は大好きだけど、もう我慢しなくて良いから、呼んでよ。呼んで欲しいなあ」
かたかたと身震いしている彼をぎゅっと抱きしめ、大きな背中を摩る。そうして顔を覗き込みながら口の周りについた彼の残滓を舐めとる。美味しいけど、やっぱり直接啜った新鮮なものの方が良いな。
顔を俯かせている静雄に首を傾げる。怖がらせちゃったかな、ちょっと性急過ぎたかな? でもシズちゃんが焦らすからいけないんだ。えへへ、と照れ笑いを浮かべて彼の頬を両手で包む。さっきと違って静雄の身体は冷え切っていた。
「ね? シズちゃん。呼んでよ。ほら、い、ざ、や。って。臨也」
期待を込めた熱視線を送る。あの低くて心地よい音で、「臨也」って呼ばれただけで俺はいっちゃいそうだ!
ようやく視線が絡んだ静雄にぱあっと顔を輝かせる俺の顔は、己の血で塗れて、無邪気な面影など一切残さない悪魔にも似たものだと俺は最後まで気付かなかった。
「ぁ……あ、ぁっ」
早く呼んでよ、いざや、って。シズちゃん!
「……あ、――ばけもの」
あれ?
ちょっと違う気がするよ?