散々痛む腰を左手で撫で摩りながら、俺はシャーペンをくるくる回した。世間じゃ浪人回しなんて呼ばれてるらしいけど俺は臨也を真似してやっているだけで、別にサボる気は無い。
本当はそのまま眠ってしまいたかったんだが、まだ時間があるから良いやと引き延ばしていた課題の提出期限が週末明けに迫っている。真面目にやったら一晩じゃとても終わらない量に渋々今日から開始した。とは言っても本気で集中したら終わるんだろうが、基本的に家じゃ勉強しない俺は小分けにする。俺の嫌いな国語、唸りながらデスクで仕事をしている臨也に言葉を投げる。

「なあ、登場人物がどう思ったか答えよって問題さ、四択だから適当に選んでも良いか」
「四分の一だからねえ、ペケ付けられても良いならどうぞ」
「良し」

本の中の世界の住人が考えている事が判る訳無い。実力テストの国語で2位に輝いた友人がからきしの俺を見ながら「国語なんて答え書いてあるじゃん、俺テスト前の五分しか勉強してないよ?」と得意げに言ってきた時は軽く首を絞めておいた。黄泉の国が見えたらしい友人はフォローするように「漢字だけ勉強すればなんとかなるって!」と必死に訴えて来た。そうだ、俺は漢字が嫌いなんだ。

「じゃあシズちゃんがどう思ったか、それに近い答え選べば良いんじゃない?」
「病気のじいさんが勝手に酒飲んで死にかけた、それについての看護婦が思った四択の中に、『死ぬなら迷惑がかからないように老衰で死ね』っていう回答が無いぞ」
「それはもう別次元の問題かなあ」

唸りながら背を伸ばすが、すぐにぴきぴきと腰の筋肉が悲鳴をあげた。くそ、腰砕けになるまでヤりやがって。弱った俺に対して臨也は何時ものようにパソコンを叩いている。何だこの違いは。経験か? どっかの本に、疲労は同じぐらいだけど負担は受け入れる側の方が強いってあったっけ。不公平だ。
一度中断してソファに寝転がる。強張っていた背中を伸ばす事でゆるい身震いをする。高い天井に灯りがぼんやりとともっていて、漆黒に染まる窓に臨也の姿が薄ら映った。返事は期待せず眠ィ、疲れた、眠ィ、腹減ったとぼやいた。二回言ったのは一番比重が高いから。

「あ、そうだ。俺明日居ないから」
「……? ……、……。…………。……は?」
「都外に出ちゃうから。波江は居るからご飯は頼んでね」
「え、何で。いやそんなの聞いてねえ」

頭が理解する事を拒んだ所為か、呑みこむまで随分かかった。前置きが無かったのも痛い。
勢いよくソファから起きあがった見返りに痛む腰。刺すようなそれに一瞬怯むものの、すぐに顔を上げて臨也を見据える。

「今言ったから聞いたね。そういう事」
「っ、……帰りは?」
「明後日の夕方には戻ってくるよ。多分ね」
「……そうか」

判った、とは言ってやらない。臨也が遠出するのは別段珍しい事じゃない。不意打ちだっただけで。
だが高校に入ってからそれまで売る程あった俺の時間は泡沫のように消えた。何かの勘違いのように。必然的に臨也と一緒に過ごせる時間もかなり限られてきた。その僅かな時間だって今のように他に潰される事が侭あって。俺が入学する前と態度が変わらない臨也に不安を感じているのも事実だった。臨也は口では好きだ好きだと言ってくれるけど、本心でどう思ってるかなんて本人にしか判らない。そう思うと俺を高校に入れたのも目障りだったからなのかと負の連鎖は続く。恐ろしい悪循環。俺の最も嫌いな台詞が浮かんで顔色が青くなる。こんな表情見せたくないからと急いで勉強道具を片付ける。臨也と一緒に居たいからと此処で教科書を広げていたが、部屋でも出来る。面倒臭いと飽きられないよう、負担をかけないようにしないと。いそいそと準備している俺にパソコンから顔を上げた。

「シズちゃん?」
「あ、あとは一人でやるから」

貴重な臨也と一緒に居られる時間を自ら潰す愚行に苦笑いする。何か言おうとする臨也の音を遮断するように「やっぱ飯要らない」と余計な事を言った上で事務所を後にした。
ぱたんと軽い音で自室の扉を閉め、電気を点けた。余り使わない机とベッド以外ほとんど何も置いていない。趣味らしい趣味を持っていない俺は殺風景なこの部屋を別段変だとは思わず、やると言っておきながら教科書と課題ノートを鞄に押し込む。答えは来週学校で友人に写させて貰えば良い。
ほとんど記号問題の国語課題。わざわざ臨也に聞く程のものじゃなかったけど、ほんの少しでも会話したかった。出しゃあ良いという考え方で行くならば考えずに全部適当に選べば、散々な出来でも提出点は貰える。勝手だけど、俺がどう思ってるのか臨也に気付いて欲しかった。

「……寝よ」

点けたばかりの電気を消し、携帯で確認した9時を過ぎたばかりの寝るには早い時間に苦笑する。ベッドに寝転んで息を吐く。幾ら身体を重ねても、精神的に自覚した物足りなさは埋まらない。その理由の一端には、臨也が現在遊んでいる奴が居るからで。

「紀田……正臣……」

現在の臨也のお気に入り。臨也はこれを頗る気に入っているらしく中々手放さない。主人を盗られた飼い犬のような心境。今日だって情事の最中に電話がかかってきてひどく気分を害した。臨也はこれに出なかったけど、終わった後で折り返しかけ直していた所を見るに、強い関心を寄せているのが判る。俺への当て付けも含まれているだろうがそれを抜いたって最近の構い方には眼を見張る。携帯の電話番号を教えている事もあって、臨也のプライベートに踏み込まれている気がして悔しい。初めて此処に来て以来、何度か足も運んでいる。
俺は臨也のする事やる事を否定する訳じゃないけど、正直協力もしたくない。紀田と接触するのは趣味の一環だと頭では分かっているけど、悶々としたものは残る。

「……俺の負けか」

惚れた弱みという面で。間違っても俺より紀田の方が臨也に愛されているという意味じゃない。臨也は俺という個人と、人間という全体を愛しているから。という事も、頭だけで理解している。
「クソ」と、押しつけたベッドに罵る。苛立った俺は部屋の外に人が居る事に意識を落としても気付かなかった。


「おはよ」

土曜は日頃の疲れからか惰眠を貪る事が多い。でも今日から丸1日臨也に会えないと思うと、明け方の3時前から眼が覚めていた。お陰で早くに寝たのに眼の下に微妙に隈が出来ている。
眠れなくなった俺は数時間の間ずっとベッドの上で何とか寝ようとごろごろしていたのだが、結局叶わなかった。後腐れを残したくないので何時もと同じ口調でおはようと返す。起きていると嫌な事ばかりが連想されるので、臨也が出発したら寝ようかなと思った。

「顔色良くないね」

既に着替えて準備を済ませた臨也は貼りつけたような笑みを俺に向ける。臨也のこういう所は嫌いだ。真偽が掴みにくい。他人に向けられた悪意には何を考えているのか大体判るんだが、俺に向けられたものは全然判らない。第三者の視点から見るのと当事者じゃ随分違う。

「そうか? 昨日寝苦しかったから」

臨也と一緒に居ると嫌でも嘘や誤魔化すのが上手くなる。眠れない時に臨也が聞いてきた事も想定して台詞を用意しておいた。するりと淀みなく言う俺。でもさっき顔を洗う時に洗面所で見た自分の顔は確かに病気っぽかった。なんというか、生気が無い感じだ。
喉を鳴らしながら牛乳を飲み干して、冷たいそれが空っぽの胃を通るのに身震いした。そういえば晩飯食べてないんだった。

「最近夜も暑くなってきて嫌になるよ。薄着嫌いだからね、俺」
「ん……、俺も汗かくと鬱陶しいから夏は好きじゃない」

何時もの席について綺麗に焼かれたトーストを口に入れた。一気に吐き気が襲う。冗談抜きで本当に病気かもしれない。
臨也に対する執着を病気というなら間違いなくそれに当たる。馬鹿に塗る薬は無いっていうけど、この病気に処方箋なんて出せないだろうな。無理矢理押し込めて、咀嚼して、飲み込む。口の中の水分が奪われて気持ち悪い。マジで体調崩したかな、と臨也に気付かれないように額に手を置く。伝わってきた温度は何時もと変わらず平熱だ。

「美味しくない?」
「そんな事ない」

言葉と違って淀んだ俺の表情。本当の体調不良なら隠す必要も無いと食べかけのトーストを置いた。

「体調崩したかもしれないから寝る」

本当は臨也を見送りたかったが、見送りたくない気もした。後で後悔するかもしれないが今の気持ちに正直になろうと椅子を引く。今は話しかけないで欲しいと臨也から視線を外すが、無情にも腕を引っ張られる。背が高くても、軽い俺の身体はあっさり腕の中に収まった。

「何か言いたい事、あるんじゃないの?」
「……」

判ってる。臨也が改まって言う時は、俺が言いたい言葉が、臨也も聞きたい言葉なんだって。
だけどそれを言う事はただの駄々だと思っている。力無く左右に首を振る俺に臨也はキスする。何の反応も返さない俺に、珍しく臨也は不安げな顔を見せた。

「シズちゃんがそんなんじゃ心配するでしょ?」

むしろ心配してくれ。その間は俺の事だけ考えてくれるだろう?
言葉を吐き出させようと臨也は躍起になるが、病人のような俺は嫌々と首を振り続ける。

「どうして?」
「……」

俺から答えを聞くまで、例え出発時間が過ぎても動かないんだろうな、こいつは。仕事に支障が出るのを何より嫌う俺は、重たい口を割った。そこから出て来た言葉も、同じかそれ以上に重かった。

「言ってもお前は、……行くんだろう?」
「……シズちゃん」

自嘲気味に笑う俺に臨也は瞳を揺らがせる。そんな顔するな、と俺は額をこつんと合わせた。

「良いから……行けよ。待ってるから……」

『行かないでくれ』なんて言いたくない。

「なるだけ早く帰るから、ね?」

言ったって叶わないなら言わない方がお互い楽だ。

「ん、りょーかい」

そんな事言って臨也を揺さぶるのは良くない。平常心第一の仕事で、信用に関わる。
ぱっと離れた俺は手を振った。臨也の熱を振り払うように。無意味に長い廊下をとぼとぼと進み、後ろ手に締めた扉の感触に嫌気が差す。お互いの感情を確かめるように昨日だって熱を合わせたのに。臨也が俺を手元に置くのは絶対に身体目当てじゃない。もしそうだったらもっと別の、同性じゃなくて異性の柔らかな肌があるだろう。あいつの容貌は贔屓を抜いたってかなり整っている。モデルだって言われても知らなかったら納得する。だから、違う。臨也の愛を受けている自覚はあるけど、自信が無くなってきた。行き場の無い感情を向ける相手が欲しい。でも俺には臨也しか居ない。良い意味で、悪い意味で。

「臨也っ……」

腕で眼を抑える。さっきはあんなに聞きたく無かった臨也の声がもう恋しくなった。矛盾だらけの自分を叱咤し、眠ろうと乱暴にベッドに踏み出す。その振動で、自分が泣いている事に気付いた。一気に溢れかえる滴と感情。

「あ……?」

言おう。臨也に、行かないでくれって。
俺は矛で臨也を殺す事も盾で自分を殺す事も出来やしない。逆戻りして玄関に走る。

「臨也!」

でもそこにはもう誰も居なかった。
ドアを開けても廊下には気配すら残っていない。馬鹿だ俺、どんな事をしても引き止めれば良かった。モラルなんて無視して、臨也に迷惑かけたって、俺のエゴをぶつければ良かった。
やっぱり後悔した俺は止めどなく涙を流し、ドアに縋るように項垂れる。ずるずると膝を折る俺に、誰も声をかけてはくれなかった。


昼過ぎまで眼を開けながら寝ていた俺は、頭の中でカチ、カチという時計の音の回数を数えていた。羊じゃないけれど眠気を誘ってくれそうだったから。大凡次の桁が判らなくなるまで数え、起き上がる。1秒たりとも寝られなかったが、不意に玄関が開く音が聞こえた。一度だけ大きく心臓が鳴るが、ビニールの音や扉を閉める弱い音で落胆する。
紛らわせる事が出来るかもしれないと起きあがり、髪を撫でつける事もせずに事務所に行った。予想通り、机の上にスーパーで買ってきたものを広げる長髪の女が居た。

「あら、居たの? 静かだからてっきり出掛けてるのかと思ったわ」

抑揚の無い声、常ならあんまり好きじゃないそれが逆に今の俺には落ち着いた。臨也と同じくらい整った容貌を持つ助手、矢霧波江が首だけ振り返った。

「なに貴方。ひどい顔ね」

波江が思い切り顔を歪ませる。偽られるよりは正直な方が気分を乱されない俺はふらふらと近付く。そのまま後ろから抱きつくと、今度は心底嫌そうな顔をした。

「私はそういう趣味はないわ」
「俺にもねえよ……ちょっとだけ……体温くれ……」
「断るわ」

緩かった俺の腕からぱっと抜ける。ドライな反応に苦笑した。女というのは恐ろしいほどに強かだが、この女は絶対に攻略出来ない。大して気にもせず頭をかく俺に波江は胡散臭そうな視線を投げた。

「貴方、臨也が居ないからって落ち込んでるの?」
「……。判んねえ……」
「ほんの一日じゃない。そんなので揺らぐようじゃ貴方の愛もその程度ね。私は例え一年間誠二の姿を見れなくたって想うわ。辛いのは誤魔化さないけど」

俺が臨也に依存するように、波江は弟に依存しているらしい。直接そいつと会った事は無いけど、臨也から聞いた限りじゃ余りその想いは報われていないらしい。なら、俺の方が幸せものだと思った。首を傾けてぼんやりしている俺の腕を叩きながら「退いて」と言われる。昼食でも作るらしい。

「一応聞くけど何が良いかしら?」
「……粥」
「今日びの男子高校生が食べるものじゃないわね。具合が悪いの?」
「そうなんだと思う」

とりあえず水気のあるものなら喉を通るかもしれない。そう思っての発言だったが、波江は表情を崩さずに台所に消えた。
ふと臨也のデスクに眼を止める。主人不在のそこは吃驚するくらい閑散としており、導かれるように肘掛け椅子に座った。踏ん反り返るのではなく、両膝を持ち上げて縮こまるように。臨也の視線を貰った気がして少しだけ気分が楽になる。薄らとコロンの匂いがしてうとうとし始める。臨也は今頃新幹線にでも乗っているんだろうか。あいつの事だから先方に迎えを出させているかもしれないが。高校生という身分だが、引き止めるのが叶わないなら一緒についていけば良かったな。
暫くじっとしていると、湯気の立つどんぶりをお盆に載せた波江が現れる。臨也の椅子に座って身を丸める俺に一瞬だけ変な顔をするが、気を取り直したように、そして使ったように、ソファの机ではなく俺の眼の前に置いてくれた。

「悪いな」
「汚したらあいつは煩いわよ」
「気を付ける」

蓋を開けて、葱と卵で彩られた粥に食欲が沸いた。女だけに波江は料理が上手い。エプロンを外しながら波江は髪を揺らした。

「簡単に野菜炒めも作って冷蔵庫に入れておいたから、夜はそれ食べて。足りなかったらインスタントのスープもあるわ。朝はパンで大丈夫ね」
「え……もう行くのか?」
「貴方と違って私は忙しいの」

れんげで柔らかくなった米を掬う手が止まる。不安げに顔を上げた俺に波江は相変わらずの無表情を向けた。
特に何も言わずに鞄を持ち上げ、「時間が取れたらまた明日の昼に来るわ」と言い残して去って行く。本当に俺の昼食を作る為に来たのか。
ぱたりと閉じられた玄関に一層の孤独感を煽られ、一気に食べる気が失せる。れんげを置きかけたが、食べなきゃ臨也は怒るんだろうなと思って無理矢理口に含む。食欲とは関係無く、それはとても美味しかった。

する事が無く、面白くも無いテレビを流し続けて何時の間にか夕方になっていた。何もかもつまらない。別に見ていたドラマに不満がある訳じゃないが、煩わしくなって電源を切る。土曜日とはいえこうなると学校に行っていた方が気が紛れた。
無意識に臨也を探す。
広すぎる家の中に取り残された迷子みたいに身を震わせ、怖くなって、逃げるように引き出しの中を荒らした。引き籠っていた時、動かない俺は眠気も余り誘われず不眠に陥る事が偶にあった。新羅に処方された眠りを促す強い薬品。一粒でうとうとするレベルなので、あとは自発的に眠っていたが、暫く使われていなかったそれを片手いっぱいに掴んで口に入れる。勢いがあって入り切らなかった分がぱらぱらと足元に落ちた。水を飲むのを忘れ歯で噛み、飲み下す。まるで雷に怯える子供のように寒気を覚えた俺はソファに沈んで薬が効くのを待つ。何度も何度も臨也の名前を呼びながら。呼吸が乱れるまで、名前で埋め尽くす。心臓が痛い。ソファを掴んでいた手が、抑制出来ずに骨組みを砕く。強制的に遮断される意識を呪いながら。名前を呼ぶ事すら出来なくなった。掠れた喉。引き攣る身体。身悶える俺はどれだけ滑稽な存在なのか。

臨也の仕事の邪魔をしたくない、そんなの良い子ぶった俺の言い訳だ。
 臨也を   (好きだから)      独占したい気持ちと
     臨也に        (殺されたいくらい)      想われたい気持ちが
  (明確な悪意の牙を剥いて)                   俺を苛む。
結局俺は、嘘を吐けない臆病者。


眼が覚めたのは朝陽が眼を焼いた時だった。
薬によって強制的に眠った俺は15時間近くも意識を戻さず、ソファに寝転んだまま世界の残酷さに涙を零した。
強い朝陽を浴びても、俺は涙を流している事にも気付かず薄く眼を開く。ぼんやりしていて、何も考えられない。後遺症の残る頭には痛みが走り続け、無頓着な俺でも不快な気持ちにはなる。

「……」

薬物の爪痕に気付かない俺は、ソファから転がって頭を強く打つ。いてぇ、と思ったのはかなり経った後。朝というよりは昼に近くなった刻限になり、やっと俺は身体を動かせた。風呂にも入っていない俺は着替えていない。俺の身体に下敷きになっていた携帯は点滅していた。

「……いざ……や……」

喉が枯れていて、しわがれた声が漏れ出す。ぶるぶると震える手でメールを確認する。当然ながら全部臨也からだった。
一件目は午後の6時くらい。内容は俺の身を案じるような、「大丈夫?」という言葉が二回あった。二件目はその一時間後。「ひょっとして寝てる?」と。三件目は食事はとったのかという確認。四件目はどうしたのという旨。五件目は間髪いれずちゃんと眠る事と記載されている。 内容の半分も俺は理解出来なかった。臨也が考えて打ち込んだ文章という事実だけに癒され、緩慢な手付きで返信する。「今起きた 平気 大丈夫」。普段の何倍も感情の籠もっていない無機質な内容。ひょっとしたらすぐ返事が来るかもと期待して暫く待っていたが、来ないと判断して、待ち受け画面に戻る。ゆっくりボタンを11回押した。続けて発信ボタン。すぐに留守番電話サービスに繋がった。落ち込む俺に、感情の起伏の無い案内メッセージ、そしてぴー、という長い音。俺は黙ったまま電話をただ耳に当て続けた。五分もそうしていた。何か喋らないとと思った俺は、喉から枯れたか細い声を発した。

「……臨也……会いたい」

その声をマイクが拾ってくれたかどうか判らなくて、もう一度だけ囁く。

「会いたい」

さっきよりもほんの少しだけ強く声を出して。
言いたい事が無くなった俺はぐっと指に力を込めて電話を切った。臨也は聞いてくれるだろうか。忙しい時に、嫌がらせのような五分の長丁場を。下手をすれば迷惑電話だと判断して消してしまうかもしれない。それでも良かった。どっち道、あと半日も待てば帰ってくるはず。
臨也が帰ってくるまで時間潰しに眠ろうかと思ったが、がんがんと痛む頭はそれを赦さない。延々寝続けた所為か、薬の副作用か。どっちにしろ眠らないならこんな寂しい場所には居たくない。臨也が帰ってきそうな時間まで外をぶらつくかと思い、よろめきながら部屋に戻って着替えを出す。一日中寝巻きだったそれをベッドに放り出して、カジュアルな八分袖にジーンズを纏い、携帯だけをポケットに突っ込んで靴を突っかけた。
孤独死しそうなくらい静かだった部屋と違い、休日の街中は吐き気を覚える程に喧騒に満ちていた。汚れた空気を吸いながら特に方向は定めずに歩き出した。何処も彼処も黄色い布だらけで、視界に入れないようにしても勝手に眼に映る。何でそんなに色を誇示したがるのかは理解に苦しむが、群がって強くなった気で居るんだろうと適当に解釈する。
どのくらい歩いたか、振り返ってもマンションが見えない所までは来た。結構な距離だ。とは言っても、通りを一本越えればまた見える。来た道とは違う所を通って散歩を終えようと人気の無い路地裏に入った。これが大失敗だ。
半分程進んだ所で、怒鳴り声が聞こえた。勝手に眉間に皺が寄る。これは喧嘩に巻き込まれるパターンだと引き返しかけた所で、近づいてきた足音につい振り返る。予想に反して、曲がり角から現れたのは白い私服を纏った少女だった。物凄く見覚えがあった。

「っ……三ヶ島……?」

少し前に臨也と話題になった娘。顔には焦りの色が浮かんでいた。俺には気付いていない。すぐに、三ヶ島の後を追う形で紀田が姿を現した。どうも二人で居る所で喧嘩を売られたらしいな。
紀田が三ヶ島を古びた看板の後ろに隠すように押し込める。此処でぶつかる気か、と他人事なので平然と構えていると、遅れて五人程が姿を現した。全員、紀田が巻いている黄色のバンダナとは違い青いスカーフを身に纏っていた。何だこいつら。

「てめえ!」

紀田が大声で叫ぶ。以前話した時とは違う、雄々しい男らしい声だった。少し驚いた俺の前で紀田は一人ずつ捌いていく。傍から見ても紀田は喧嘩慣れしていた。闇雲に動き回るんじゃなくて、懐に入って確実に一人ずつ殴り飛ばしている。これが一番効率が良くて正確だ。
臨也に頼る軟弱な中学生という印象を少し改めた俺は助太刀する気は更々無く、傍観者の体でじっと眺めていた。当然紀田も無傷とは行かず、何度か殴り返されてはいたが要領良く全員に膝をつかせた。適わないと悟った一人が逃げるぞと叫ぶ。紀田を通り過ぎ、三ヶ島を通り過ぎ、そして俺の横を通り過ぎる。三ヶ島が紀田に駆け寄るのをじっと見つめていると、視線に気付いた三ヶ島が俺を見て「あっ」と声を漏らした。

「どうした沙樹……?」

両手に膝をついていた紀田の視線が俺とかち合う。ぎょっとした紀田の隣で女は笑顔を作った。

「静雄さんですよね?」
「……。……覚えてたのか」

俺は三ヶ島を忘れていたんだが、こいつは一方的に覚えていたらしい。色々あって俺は三ヶ島が好きじゃない。むしろ嫌いだ。だが、臨也が関心を向けている紀田という存在が引っかかって、俺は立ち去らなかった。

「知ってんのかよ?」
「うん。だって臨也さんの一番のお気に入りだもん、静雄さんは」
「……」

揃って渋面を作る俺と紀田。その間でにこにこと笑みを絶やさない女に俺は嫌悪感を抱く。新羅は別として、無意味に笑っている奴に対して俺は辛辣である事が多い。勿論、新羅は内面をよく知ってるからそう思えるだけであって。
三ヶ島はその口を饒舌にさせ紀田に話しかける。

「基本的に臨也さんって自分の領域には踏み込ませないの。だからわたしも事務所止まりだったのに、静雄さんは当たり前みたいに臨也さんの寝室に入っていくから驚いちゃった。臨也さんが『俺のだからちょっかい出すな』ってわたし達に釘を刺すぐらい大切にしてるんだよ。同棲してるしね」
「臨也臨也煩え。喋んな」

他人の口から零れる名前にどうしようもなく苛々する。それが俺の嫌いな女ともなれば。紀田が反応する前に俺は三ヶ島の言葉を遮っていた。三ヶ島は特に驚く様子も無く、微笑を湛えたままごめんなさいと素直に謝った。
紀田は切れた唇を舌で舐めると荒々しい口調で俺に質問を投げた。

「あんたは何で臨也さんと一緒に居るんですか?」
「てめえには関係ねえだろ。何かあれば臨也に頼って迷惑なんだよ、つかてめえが臨也の名前を口にする度に腹が立つ。お前が居なきゃ、臨也は、俺は……」

大きく舌打ちし、最近の怒りの現況になっている目の前の二人を思い切り睨む。気に入らない、気に入らない。臨也はこいつらの何が良いんだ、面白いんだ、興味があるんだ。
今にもキレそうな俺にそれでも紀田は、馬鹿みたいに、間違っていない事を突きつけた。

「何かあれば『臨也』、って。それあんたの事だろう」
「……あ?」
「此処に来てからあんた何回『臨也』って言ったんすか。一番頼ってんのはあんただ。あんた前に、俺に向かって『臨也を馬鹿にすんな』って言いましたよね。あいつは綺麗な奴じゃない。人を弄んで、飽きたら捨てて、また引き上げて突き落とす! あの男に何人が貶められたかあんたは知らないのか!?」

「……が、」

俺の脳は、正確に紀田の言葉を受け止めた。そしてそれに対する俺の答えは、何の怒りも孕まず、すっと口から出てきた。

「それが、なんだ?」
「はあ……?」
「だから、臨也に騙されて、突き飛ばされて、貶められて、で? それがなんだって、聞いたんだ」

紀田がぽかんと口を開ける。三ヶ島は笑みを少しだけ引っ込ませて、静観していた。

「だからって……正気か?」
「ん? 何か可笑しいか?」
「……あんた、イカれてる」

呟いた紀田の言葉はうわずって、震えていた。

「そこまで臨也に構われて羨ましいなあ……、でも最終的に臨也は俺の所に帰ってくるから良いけどな。そうだろ? だって飽きたら、捨ててる」
「……」
「臨也の関心を受けるお前……顔も見たくねえ。ずっと殺したかった。でも殺さねえ。じゃないと臨也の計画狂っちまうからな。でも、臨也が飽きて、お前を壊して良いって言ったら、迷わず会いに行く」

何十時間ぶりに俺は笑った。心の底から、清々しく。

「それまで臨也に平たく愛される快楽に酔ってろよ? そのまま潰すから……なあ」
「生憎俺は、あんたみたいに臨也さんには溺れねえ。何でか判るか」
「あ?」

「折原臨也は誰も愛してないからだ」

眼を瞬かせる。いざやが、だれも、あいしていない。凄く現実味の無い言葉に俺は馬鹿正直に首を傾げた。

「臨也さんはあんたの事も、まともな感情じゃ見てない」

それは至って常人の紀田正臣という人間から見た、正論。


“俺と臨也の間に結ぶものを、他人は愛とは呼ばない。”


そう言われていると気付いた瞬間、俺は腹の底から笑っていた。高らかに響く哄笑。据わった眼に意図的に宿した狂気。無意識に三ヶ島を守るように立ち位置を変える紀田を心底軽蔑した。俺は最早その女の事なんか視界に入っていなかった。明確な殺意。滾らせた俺はシャッターを下ろしている店に近づき、片手で屋根を形作っていた金属の棒を引き剥がした。明らかに目付きが変わる紀田に振り返りざま、獣のような眼で射殺した。

「俺が臨也に抱いているものが愛じゃないなら、この世に愛なんか存在しねえよ」

身構えた紀田に向かって全力でそれを投げつけた。勢い余って掠りもせずにそれは宙を舞う。それを見ながら俺は両腕を広げ空を仰いだ。

「っくはははははは!! そうだろう臨也? 俺は何処も間違ってない、違うなら、元々そんなものが存在しないか、言葉がまだ作られていないだけの話だ。ははっ、ははは!!」

ぴたりと笑い声を止める。一転して無表情になった俺に後ずさる紀田に、同じだけ足を踏み出した。

「それでも否定するか? 臨也が俺に、俺が臨也に感じているこれを。もしそうなら、ああ、よし決めたお前殺す。良いよな臨也? こんな奴要らないよな? お前には俺が居れば良いもんな? 駒の一つを壊しても怒らないだろう? 死体は見せたいから残さないと。あ、でも一応相談した方が良いな。首だけ残そう。ひょっとしたらセルティみたいに生き残るかもしれねえし。はっは。そうならないのを願うなあ、特別が増えたらまた臨也が興味持つかもしれないだろう? じゃあやっぱ殺そう。臨也がお前の事を気にかけるなんて虫唾が走る。ぁあ、ああああああ」

止まれと書かれた標識を視線を向けずに引っこ抜く。振り上げ、何処を狙うか選びながら舌なめずりした。
残念だが俺は、 止まれ、   ない。

「死、」
「おい!」

紀田が汗を浮かべながら叫ぶ。遅い命乞いだと思いながら躊躇い無く振り下ろした。まず足を潰して逃げられねえようにしないと。貫通させる勢いで振るった俺の止まらない腕を止めたのは、遠くから聞こえた俺の名前。

「静雄!」

臨也じゃない。この声は違う。呼び方も違う。だけど俺を知ってる。じゃあ、誰。
面倒臭くて視線だけずらす。一台の車が停車していて、窓から俺を覗いている。何処かで見たような車に眼を細めると、ニット帽を被った男に目の前の紀田が焦ったように呟いた。

「ブルースクウェアの……! っく!」
「あ!」

その一瞬の隙をつき、三ヶ島の手を握って紀田は逃げ出した。すかさず逃がすかと足を踏み出そうとするが一歩遅れた。標識も届かない。追い掛けようとすると車から降りた男が俺の前に立ち塞がる。気が昂ぶっている俺はそいつ諸共吹き飛ばそうと力を込めかけたが、逆光でよく見えなかった顔が映し出されてつい足と手を止めた。

「お前、中学生相手に何やってんだ!?」
「……門田?」

ニット帽の男が俺を落ち着けようとしたのか、ゆっくり頷く。臨也と関連のある存在に俺の意識はそっちに向いた。

「なんで門田が、此処に」
「驚いたのは俺の方だ。お前、引き籠もりやめたのか?」
「今年から高校に入った」
「マジか。おめでとう。確かにもやしは卒業したみたいだが、外に出たと思えばカツアゲか?」

冗談を交えながら男は真面目な顔を崩さない。言葉は真剣だった。
セルティや新羅と同じく、数少ない臨也公認の俺の友人の一人。でもどちらかというと臨也単独の友人。門田京平。臨也が制服を着ていた時代、人に慣れなくて隅に逃げていた俺の言葉を辛抱強く待っていてくれた懐かしい顔だ。

「違う。あいつが俺と臨也を否定した。だから殺す」
「物騒な事言うな。臨也といえばそいつは何処に居るんだよ? お前はもう一人で外を出歩けるのか」
「絶対に殺す。邪魔するなら門田でも赦さない。臨也は居ない。出掛けてる。退いてくれ」
「駄目だ。見た以上はほっとけない。大人しく今日の所は帰れ」

そう言って門田は俺の肩を叩いて宥めようとする。少しずつだが気が鎮まって来た俺は一度呼吸を整えた。

「でもあいつが俺を否定したんだ。臨也は俺を愛していないって言った。俺にとっては存在の否定だ。門田なら判るだろ。追いかけさせてくれ」
「……。あのなあ、俺からも言わせて貰うが、いい加減臨也からも卒業したらどうなんだ?」
「何で」
「そんな屈折した愛情は、他人は気持ち悪がるんだ。俺はお前が臨也を大事にしている事については賛成しているが、臨也の友人の立場から言えばお前はあいつを縛り過ぎだ」

縛り過ぎ? 俺が、臨也を? それの何が悪い。

「臨也には俺しか必要無い。俺も臨也以外要らない。他人が俺たちの事をとやかく言うのも、俺たちが他人に眼を向けるのも、間違ってる!」
「落ち着け。あのな、静雄。お前らがちゃんと想い合って繋がっている事については美しいと思うぞ。でも、なんだかんだで人間は一人に依存していては生きられないんだ。お前も臨也も同じだ」
「俺は人間じゃないから必要無い。門田、俺を怒らせるな。臨也が居なきゃ俺はお前を壊しちまう」
「お前がそうだとしても臨也は違うんだ。だからあいつはお前以外にも興味を持って接触してるだろう? 俺や岸谷に、あの黄巾賊の餓鬼にも。寂しがり屋な人間は一人の温もりだけに満足しないんだ」

門田の言う正論が容赦なく俺に突き刺さる。何でこんな事言うんだ。新羅は何も言わないのに。なんで、お前は臨也の友達なのに。折角、臨也と一緒に居ても恨めしく思わない貴重な人材だったのに。なんで、なんで。ああ、そうか。

「お前も俺を否定するのか……? なら良い、お前から壊す」
「何でそうなる! 良いか、臨也は何もお前だけを求めてる訳じゃないんだ、お前の勘違い……いやそうじゃなくて、臨也にとっての一番はお前だろうが、二番や三番だってちゃんと存在するっていう事なんだ。だけどお前は自分の世界に臨也しか入れていないから、一番好きなのも一番嫌いなのも臨也で、比較の対象が無いんだ。そいつしか居ないって錯覚して、閉じ篭もっているだけだろう?」

どうしてだ。昔に新羅と二人で遊びに来た時は、臨也に引っ付く俺を見て微笑ましいなと笑ったじゃないか。どうして俺の世界に亀裂を走らせるんだ。苛々する。止まらない。標識が俺の手の中で形を変えた。優しかった門田。こいつは俺を裏切った。

「俺には臨也しか居ない……俺の世界、に、……臨也以外入れるものかっ……、入って、くる、なあ!」

使えなくなった標識を脇に投げ捨てて全力で殴りかかった。身構えていた門田は一発目を避ける。直後に門田から着信音と思われるメロディが流れたが、勢い余った俺は何度も拳を振り上げる。門田が身を翻した時に、そのまま止まらない拳が金属製のシャッターを突き破った。臨也から俺の馬鹿力を聞いていた門田もぎょっとしている。俺は血が噴き出す右腕を物ともせず引き抜き、看板を持ち上げて投げつけた。

「おい、静雄!」

狼狽した門田は一撃食らったら終わりだと悟り、先ほどよりも俺から距離を取る。その間もずっと携帯が鳴っているが、出る余裕が無いのか無視し続ける。荒い息で化け物染みた呼吸をする俺に門田は両手を上げた。

「判った、謝る。俺を殴り飛ばしても不毛なだけだからやめてくれ」
「……」

俺の怒気から逃げるように門田は溜め息を吐きながらポケットに手を突っ込み携帯を出す。
ディスプレイに表示されているらしい名前を見ると、何故か眉を顰めて俺に視線を送った。

「もしもし。お前今何処にいるんだ。……は? ……ああ、居るけど。えっとろくじゅ……車が見えた? え、おい!」

電話口に叫んだ門田は俺を見据える。怒りの残滓が残る俺は訳が判らないと不快感を露にする。
門田は切れたらしい通話に呆けた顔をしながら、俺の背後に視線をやった。俺の後ろには門田が乗っていたバンに運転手が一人座しているだけだ。俺たちのやり取りを見ながら口をぽかんとしていた。訝しんだ俺の「世界」に、ぞくりと何かが侵入した。

「っ……」

基本的に誰が近付いても犯されない領域。それを踏み越えて俺が感知出来る気配は一人だけ。信じられない気持ちで振り返った。


「こんなとこに居たの、シズちゃん」


思考が止まる。全部、何もかも、すべてがどうでも良くなった。

「臨也」

何で此処に居るのかとか色んな考えを捨てる。会いたいという気持ちが強すぎて気が触れそうだった俺の、すべてにおいて一位の存在。

「臨也。臨也。いざっ」

足も舌も縺れて、感情の激流に頭が真っ白になる。何故か息を切らせて頬を上気させた臨也。苦しそうに寄せられた眉に不似合いなくらい綺麗な笑みが浮かんでいる。苦笑した門田が手持ち無沙汰に靴で砂利を動かした音に、縄から解放された俺は臨也に向かって走っていた。
勢いよく抱き付いた俺に臨也は後ろに2、3歩よろけるがしっかり抱き締め返してくれる。あんなに欲しかった体温に言葉が浮かばない。臨也というセーブに俺は怪力を発揮せず、だが常人が痛みを感じるレベルまで強く強く力を込める。苦しげに息を吐いても俺を放そうとしない臨也に心が溶けた。門田の言ってた事は、紀田の言ってた事はやっぱり間違ってた。臨也は俺を愛してくれてる。こんなにも強く。

「狩沢が居なくて良かった……」

呟いた門田の言葉に運転席に男が引きつった顔で頷いた。それに反応せず、俺は無言で抱きついたまま離れない。脈打つ心音に臨也は気付いているのだろうか。臨也の鼓動がよく聞こえるのは決して走ったからだけじゃない。初夏の陽光と生ぬるい風によって臨也の首に伝う汗に視線を這わす。

「帰ろうシズちゃん。お昼食べてないからお腹空いたよ」
「……」

肩に乗せた頭をこくりと縦に動かす。なのに足を動かさない俺に苦笑した臨也が背を叩いて促す。仕方なく拘束を外して俺はすぐさま臨也の腕に俯きながら縋る。そんな俺の姿を見ながら、僅かに背が勝る臨也が上から微笑みかける。

「悪いけどさあドタチン、送ってくれない?」
「俺らはタクシーじゃないぞ。まああの二人が本屋から帰ってくるまで結構ありそうだから別に良いが」

歩き始めた臨也に引っ張られる。近付いてきた門田が何やら臨也に耳打ちした。逆の耳だから俺には聞こえず顔を上げる。丁度囁き終えた後だったので内容は判らないが、臨也は内緒話などする必要も無いとばかりにはっきり聞こえる声で返した。

「はっは。馬鹿馬鹿しい。ドタチンと言えど俺のものに触るんだったら容赦しないよ」
「お前なあ……」

小動物のように臨也にしがみ付いている俺に門田は複雑な表情を見せる。見たく無くて視線を落とす。後部座席に乗り込んで人心地ついた後に臨也に擦り寄る。微笑んだまま臨也は何も言わない。俺も言葉を口にしない。話は帰った後で、と暗黙の了解だと理解した。運転席の男は、後ろに乗る俺たちを居ないものだと言い聞かせるように頭を振り、文句も言わず出発した。助手席の門田も偶にミラーを通して時々視線を送るだけ。元々距離が無かった為に自宅についたのはすぐだった。「今度一杯奢らせてよドタチン」と告げる臨也の足取りは軽い。まるで恋人のように手を繋ぐ俺たちの身体を運ぶエレベーターは何時もより速い気がした。部屋に入り、臨也が居るだけで暖かみをもたらした場所にほっと息を吐く。そんな俺を引き寄せて軽く口付けた臨也は俺をソファに座らせる。

「……」

無言の催促に俺はリップ音を立てながらキスを返して微笑んだ。

「おかえり」
「ただいま」

他人を偽る事が多い臨也が素の表情を見せてくれる。額を合わせ、しっとりとした幸福に身を委ねる。

「シズちゃんが『会いたい』って言うから、早めに帰ってきちゃったよ」
「……?」
「あのイタデンだよ。四文字言うのに五分もかかるの?」
「ああ……、っ、聞いたのか?」
「当たり前じゃん。シズちゃんからの留守電なんか逐一保存してあるよ? 最初から全部聞かせてあげようか」

意地悪く言う臨也に苦笑で返す。臨也の手が頬を滑る。物悲しげな表情に、聞かれる台詞を予想した。

「……ねえ、怒らないから、俺が居なかった間に何を食べたか言って?」
「……」
「まず朝は一口だけトースト食べたね。昼は?」
「波江に、……卵粥を」
「うん。夜は?」
「食べて無い」
「今日の朝」
「……食べて無い」
「昼は?」
「……食べて、無い」
「やっぱりね」

怒らないという宣言通り、臨也は苦笑したまま眉を下げる。申し訳無さに項垂れる。
意図して絶食した訳じゃない。食べる意欲と、食べようという意思が無かったんだ。だって何かを口にしようとすら思わなかったから。だが、そこまで考えた茫洋とした頭が何かを喉に通したと教えてくれた。それを正直に口にする。

「夜、に」
「うん?」
「臨也が居なくて、……居ないと思ったら凄く怖くなって……そんな事考えたくなかった、から」
「から?」
「……新羅から貰った、昔に使ってた睡眠薬……呑んだ。そうしたら、昼まで眼が覚めなくて、メールにその時気付いた」

つい視線が給湯室の床に向く。つられた臨也は眼を見開いた。そこには数え切れないくらいの白い錠剤がばらまかれていて、俺が大量に服用した事が容易に予想出来る。虚ろな眼をした俺に一瞬だけ唇を噛み、俺をぎゅっと抱きしめた。

「馬鹿なシズちゃん……。俺はちゃんと帰ってくるよ。だから、夢に逃げないで」
「夢でも臨也に会えるなら構わない」
「それじゃあ現実の俺が寂しいでしょ。俺を独りにしないで、シズちゃん」
「……うん」

丸一日分を埋めるように抱き合う。臨也が自宅を空ける事なんて昔はよくあった。なんだかんだ言っても、明日には、明後日には、明々後日には帰ってくると言い聞かせ乗り越えて来た。なのに、こんなに切なくて心細くて恋しくなったのは初めてだ。どうしてだろう。環境が変わった所為か。

「なあ……。いざ、や、は……」

言いかけて口を塞ぐ。『どうして俺と一緒じゃなくても平気なんだ』。それに対する臨也の答えを聞くのが怖いと感じたから。また昨日の朝みたいな後悔に苛まれるのかと怯える俺。でも言葉を繋がないと不自然だから、かなり遠回しになる。

「っ……俺、の……事、好きか?」
「シズちゃんが聞きたいのってそんな事じゃないでしょ?」

何で即答出来るんだ。臨也は俺より一枚も二枚も上手だけど、心の中まで覗かれるのは一方的過ぎて嫌だ。だって対策が立てられるって事だ。俺の心は俺のもので、言葉を見失う。本心に対する答えまで用意されているのなら俺はお手上げだ。真っ暗闇で戸惑う俺に手を差し伸べる者が臨也なのか判らなくなる。

「言って。正直な言葉で、脚色せずに。思った事をストレートにそのまま出せば良いんだよ」

臨也、馬鹿だな。一昨日の夜に俺が一体何の科目に苦戦していたのか忘れたのか。文章を纏めるなんて芸当俺には出来ない。
言って良いのか迷った。言った後悔と、言わなかった後悔。どちらが大きいのか俺には判らない。臆病な俺は常に後者を体験していたから。被害が俺だけなら、臨也は傷付かない。俺はどちらを選べば良いんだ? 従来通りに首を振り続けて、昨日の朝みたいに「言っても変わらない」と不貞腐れれば良いのか? どちらが正解なんだ。どちらが。

「怖い……臨也、いざ……俺は怖い。……怖いんだ……!」

震える手で臨也の服を鷲掴む。頭を抱えて髪を撫でてくれても、不安は解消しない。嘘よりは事実の方が好きだ。でも、それが真実であるかどうかは判らない。俺は何時からこんなに臆病になったんだ。臨也は俺を愛していると言ってくれるのに、俺から本人に確認する事は出来ないのか。って、あれ。そういえば前にもこんな事思ったような。臨也は口では好きだ好きだって言う、って。

「何が怖いの?」
「い、ざやが……俺を要らない、って……思う、事……」
「どうしてそうなるのかなあ。俺、そんな風に見えるの?」
「……。だ、って。……俺は臨也が好きだから一緒に居たいと思う。……でも、実際……最近は時間が取れなくて一緒に居られない。俺はそれが嫌で仕方ないけど、臨也は俺が高校行く前と変わらないから……。こんな風に思ってるの、俺だけなのか、な……って」

歯切れ悪く吐露する。俺の頭を抱く臨也が少しだけ震えるように振動した気がした。事実、降ってきた言葉は普段よりも掠れている。

「俺だって寂しいよ。シズちゃんが外に出てる間に俺から離れて行くんじゃないかって」
「それなら今まで通りにして、俺を高校なんかに行かせなければ良かったじゃねえか。俺は……その……臨也が俺を高校に出したのって、俺が……、い、ら……ない……んじゃ、ないかって、思ってた」
「本当に要らなくなってたら左手切って捨ててるよ? 俺はね、自分でも馬鹿らしいと思ってるんだけど……聞いてくれる?」

何処か寂しげな声。俺はゆっくり頷く。臨也の表情は見えないから感情の機微は判らないが、たっぷり間を置いてから口を開く気配がした。

「大好きなシズちゃんを見せびらかしたい優越感と誰にも見せたくない独占欲に挟まれてさ。前にも言ったけど俺は一度外にシズちゃんを出して、シズちゃんが俺に抱く感情を強くして欲しいって思ったんだ。一層の事、強く深くね。君が俺だけを見てくれるように。自信はあったけど実際にやってみると……正直堪えたな。色んなものと比較して最後に俺の方を向く。そんなシナリオを描いたつもりだったのに。でもこんな感情がバレたら、登場人物のシズちゃんに作者の俺が語りかけた事になる。だから表には出さなかった……。反面、少しくらいは気付いて欲しかったけどね」

一気に入ってきた言葉の波に溺れそうな俺は頭の中で整理した。俺と同じ、矛盾した感情。小さく吹き出した俺は肩を揺らす。

「……馬鹿だろ。そんな事しなくたって……」
「試したかったって言ったら怒るかな。見たかったんだ、シズちゃんがどれだけ俺を好いているのか。この前みたいに口から出る言葉だけじゃ俺は不安なんだ。君が通い始めてすぐに泣き事言って俺に頼って来た時はそれはそれは満足だったよ。欲張りな俺はもっともっと、って、毎日登校させてたんだけどね。俺はシズちゃんが思っているほど出来た男じゃないのさ」

言い終えた臨也が俺の頭を包み持ち上げる。今にも泣きそうな顔をした駄目な大人は熱の籠った美声を放つ。

「ごめんね」

その言葉に子供のように無邪気な心で、俺は泣きながら微笑んだ。

「お前が俺を外に出したのは見せびらかしたいからで。それを俺に言わなかったのは、くだらないプライドか」
「辛辣だなあ。勝手に勘違いしてくれちゃったのはシズちゃんの癖に」
「お互い様だろ」
「うん、一緒だ」

向けて欲しかった矢印にようやく行き着いた気分だ。臨也の指先が俺の涙を掬う。降り注ぐキスの雨。カラカラの喉に、身体に沁み込むそれは優しい臨也。

「そういえば門田はお前に何言ったんだ?」
「ん? ……ああ、あれか。『静雄を縛り過ぎるな』って言われたよ」
「……それ、俺にも言った。『臨也を縛り過ぎるな』って」
「はは。ドタチンは変な所で過保護っぽい感じだったからね。シズちゃんの事も俺の事もまともな形で心配してるんだよ」

それに対する臨也の答えが、『馬鹿馬鹿しい』だったか。俺は確か、『間違ってる』。言葉は違うけどニュアンスとしては似たり寄ったりだと思う。そう信じる。鼻を啜りながら尚も質問を重ねる。

「何で俺に連絡しなかったんだ、帰って来てたなら」
「……。シズちゃん、携帯出してよ」
「?」

ポケットに突っ込んだままにしてあったそれを取り出す。着信を知らせる点滅ランプが無い。一回も電話しなかったのかと液晶を覗くと、見事に真っ黒で眼を丸くした。

「電源切れてる……」
「電池切れって言おうね。何回かけても電波が届かないか電源を切っている、って言われるから、そんな事だろうと思った。シズちゃんが地下鉄に乗るとは思えなかったからね。だから知り合いに片っ端から連絡したんだよ。まさかドタチンと一緒に居るとは予想外だったけど」

何の反応も無い携帯を見ながら申し訳なさが募り、ごめんと口の中で吐き出した。充電を怠ったのは俺のミスだ。余り使わないから電池の減りも遅く、習慣になっていないのが理由だ。

「紀田に会った」
「へえ。やけに殺気立ってたけど、ひょっとしてドタチンが仲裁に入ってたの?」
「殴り殺そうとしたら逃げられた。追いかけようとしたら門田が邪魔して来たんだ。……紀田の奴、……ムカつく。早く飽きろ」
「俺が駒に抱くものとシズちゃんに抱くものは全くの別種だから大丈夫」

本当は紀田が俺に言った事を話そうと思ったんだが、臨也は飽きるまであいつで遊ぶんだろうし、話題を掘り返すのも面白くない。だから単純にムカつくだけで片付けてやった。あいつ今度あったら死なない程度に殴りつけてやる。

「お腹減ったね」
「何か作るか」
「偶にはシズちゃんの作ったのが食べたいよ」
「しょうがねえな」

壊れ物を扱うような素振りで俺の手を取り台所へ誘う。臨也と二人で作るものは口にするものだけじゃない。形あるものだけじゃない。それこそ壊れ物のように大事にしないと霧散してしまう、気紛れで我侭なものだ。それを手で守る為に俺はあらゆる事をしよう。時には押して、時には引くような。俺にそんな器用な真似は出来ないから手探りになるけど、臨也は得意そう。二人合わせてプラマイ、ゼロ。で、どうだろう。
そうすれば出発点も終着点も同時で、離れないだろう? 単純な俺の、単純な答え。臨也は笑って口付けを繰り返す。

俺が世界で迷わないように、縛り付けて助けてくれよ。


死ですらふたりを引き離すには弱すぎ