義務教育の間中、自宅に引き籠っていた俺は、動かない為に必然的に少食で、余分な脂肪が一切付いていない。だがそれは同時に必要な筋肉も衰えているという事で、初めて毎日のように外へ出歩く切欠となった高校への通学は正直厳しかった。まず登校初日は半分まで歩いた所で足が攣った。すぐさま臨也に連絡してタクシーでの登校となったが、毎日送迎して貰う訳には行かない。
体力の無い俺は足がぱんぱんになって歩けなくなる程に痛む通学が嫌で仕方なく、元々乗り気で無かったのも手伝って入学三日目で登校拒否に陥った。だが、基本的に俺の意見を尊重してくれる臨也はこの時ばかりは保護者の片鱗を見せ、頑として欠席を赦さなかった。泣き縋ったがそれは変わらず、孤独な長距離を毎日歩かされる。学校につけば、今度は精神的に疲労が溜まった。話し相手は臨也と、最近働くようになった波江の二人ぐらいだった俺は同世代に囲まれる環境に適応出来ない。それでも虐められたりする事は無く、気が長い理解あるクラスメイトに恵まれた俺は何とか友人を作る事に成功する。元より向こうから俺に興味を持ってきたらしく、地元なのにクラスどころか学校中の何処にも同じ中学出身の奴が居ない俺に注目した。
家に帰ると肉体的疲労と精神的疲労がダブルで俺を苛み、玄関に倒れ込む俺に臨也はわざわざ様子を見に来た。
「おかえり、シズちゃん。今日も生きてこれた?」
「……足を切り落としたい……」
「慣れだよ、慣れ。ほら、今日は玄関まで歩いてこれたじゃない。昨日はエントランスで電話してきたじゃん」
「体力測定……死にたい……」
色んな意味で眼が潤む俺の金髪を臨也は撫でる。何時もならほっと息を吐ける、でもそれで癒される程今日の俺は余裕が無かった。
本格的な授業に入る前に、身体測定と体力測定が行われた。身体測定は身長の割に痩せすぎだ、と保険医にぎょっとされた事ぐらいしか事件は無かったが、体力測定で地獄を見た。細い体躯に高い身長。見た目だけで周りは俺に運動神経があると判断していたらしいが、生憎俺の体力は恐らく小学生レベルだ。持久走は見事に最下位だった。トップに10分以上差を付けられ、体育教師の失笑を買った。まともなのは体力が関係しない種目で、人並みだったのが長座体前屈、立ち幅跳び。上体起こしは腹筋が無い為、結果は見える。散々な俺は、ハンドボール投げで冷や汗が出た。俺に筋肉は無いが、膂力はある。化け物レベルの力が。つい周りに煽られて本気で投げたら、運動場のフェンスを突き破って体育倉庫の壁を貫通した。きっと一流メジャーリーガーでも打ち返せ無かったに違いない。しかし周りはそんな非現実に気付かず、一時的に俺と組んだ相手は「平和島くーん、早く投げてよー」と呑気に手を振っていた。焦った俺は慌てて足元のボールを拾い上げ、死ぬほど手加減して、軽く投げた。それでもクラスメイトの頭を横切るぐらいには飛び、晴れて俺は持久走最下位、ハンドボール投げ一位というアンバランスな快挙を成し遂げた。
下手をすればボールで誰かを殺していたかもしれないという恐怖に俺は頭痛を覚えながら、体育館に移動して更なる恐ろしさに手招きされる事になる。ぼうっとした頭で早く終わらせようとした握力測定。ああ、俺は失念していた。純粋な力なら世界の何処を探しても俺ほど握力のある人間なんて居ないという事を。軽く握ったつもりのそれは、きゅう、と可愛い音をたてた。
「……? ……っ!?」
俺の手の中にあった金属製のそれは、ダンプカーに跳ねられた飴細工のようにぐにゃりと折れ曲がっていた。当然だが目盛りの針は振りきれていた。僕には測定不可能です、とでも言うようにくたりと理不尽な生を全うしたその計測器。混乱した俺にとって幸いだったのは、その光景を誰も見ていなかったという事だ。最早元の形が思い出せない計測器をそっと箱に戻した。数分後に他の生徒が奇妙に曲がっている銀色に対し「せんせーい、壊れてるのがあるんですけどー」と声を上げるのを、俺は必死に聞かないふりをした。
普段触るものなら、俺は抑制する事が出来る。例えばシャーペンだとか、コップだとか。慣れ親しんだものでないとどれぐらいで壊れてしまうのか判らず、俺は体操着を着替える手が震えていた。気付けば、此処数年、自宅では物を壊していなかった。臨也の抑止力は恐ろしい。臨也が学校にいてくれたら俺はきっと何も壊さずに済む。そんな筋道立っていない事を真剣に考えるくらいには、俺の心に余裕は残されていなかった。
学校で起きた事をざっと説明すると、臨也はくすりと笑って俺の頬を撫でる。
「まあシズちゃんの化け物じみた力は今に始まった事じゃ無いけどねえ。周りは慣れて無いから仕方無いね」
「怖かった……俺、馬鹿力だって忘れてた……」
ぼそりと呟いた言葉。最近は臨也の仕事に同行して居なかった為に、人を殴った感触を忘れかけている。暴力は嫌いだ。何の快感もない。極力それを抑えようとしていたが、あるなら使わないのも勿体無いと、臨也に降りかかる火の粉は全部俺が払ってきた。
「……臨也、学校……行かなきゃ駄目か?」
「駄目だよ。社会勉強しなきゃ」
「今まで俺が外出るのすら嫌がった癖に……」
「状況は変わるんだよ」
俺が此処まで体力を落とす結果に結び付くのは臨也だ。でも外に出なかったのは俺自身。溜め息をついて痺れる足をマッサージする。慣れとは怖いもので、たった一週間で往復しても攣らなくなった。
「シャワー使いなよ。疲れてるでしょ」
「もう寝てえ……」
とは言っても汗だくの状態じゃ寝るに寝れない。重い身体に鞭を打ち、起き上がった。
ようやく生活サイクルが形成され、五月病に陥ろうとしたその頃、俺はついにその時が来てしまったと嘆いた。
幼少期に迫害されていた事もあり、俺は極力学校では大人しく、目立たないように生きて来た。だが本来の性格上、友人がカツアゲされていたら助けずにはいられない。此処で俺は後悔する。全員殴り倒すんじゃなくて、助けるべき対象の奴を引っ張って逃げれば良かったと。
翌日から報復にと喧嘩を売られるようになった。俺の化け物の力を周りは知らない。手を上げないように必死で受ける痛みを我慢していた。しかし短気な俺は湧きあがる苛立ちを抑えきれず、結果、全員が俺の脚元に転がっている。そして校庭でバスケットボールのゴールを持ち上げ、20人を一斉に蹴散らした事で一気に俺の名前は有名になってしまった。流石にその光景を目の当たりにした周囲は俺がただの喧嘩が強い高校生ではなく、もっと別の存在だと気付いた。体力の無い腕力の強い、定期テストは中の上という変な俺。だが繰り返される暴力の日々に俺は元々空っぽな身体なだけに、着実に体力が身について来た。暴れまわる俺の膂力を支える為に筋肉もかなりついて来た。全く嬉しくない。
だが俺にとって嬉しかったのは、仲の良いクラスメイトが俺から離れなかった事だった。「静雄と居ると不良に絡まれなくて楽だ!」と下心をわざわざ俺の眼の前で暴露する奴も居た。当然俺を怖がって影でこそこそする奴も居るには居たが、飾り気や裏表の無い奴が好きな俺にとってはさほど重要じゃない。とはいえ、「喧嘩人形」と不本意なあだ名がついた事は少々不満だったが。
「好きで喧嘩してる訳じゃねえのに……」
「まあまあ。静雄って何でそんなに力強いんだ? 将来は野球選手にでもなれば良い。絶対打たれないぜ!」
「打たれないけど静雄の球ぁ捕手もぜってー捕れないだろ。もたついてる間にランナー進められるよ」
「あ、そうか。うーん。難しい」
もそもそと弁当を食む。夜の内に波江が下拵えしてくれるものが多く、中々に家庭的だった。量も入学当時の倍くらいに増えている。これでこそ健康な男子高校生だ。波江が忙しい時は臨也が、臨也も忙しい時は自分で作っていた。
俺の内面の美点を見てくれる奴、俺の力のおこぼれを頂戴すると明言している奴、面白いからという理由で俺にひっつく奴、色んなのが居たが、俺を怖がらないだけ感謝している。
「静雄ってさあ、体力測定の時に短距離か長距離のどっちかビリだったじゃん、あの伝説。その時に比べると随分足速くなったよな」
「そうか?」
「そうそう。4組の井口、昨日お前が追いかけてた奴。あいつ確か50メートル、7秒前半だった気がするぞ?」
「そいつを最終的にボコった静雄ってひょっとして6秒台だったりしてな!」
けらけらと笑われるが不快感は感じない。全力でダッシュしても悲鳴を上げる事がなくなった足。風呂に入る度にその足がある程度太くなっているのが実感出来た。人間の身体ってすげーんだな。
自販機で買った牛乳を吸っていると、唐突に一人が俺に箸を向けて来た。
「そういや静雄さー、黄巾賊には入らねーの?」
「コウキンゾク?」
「駅前とかで黄色い布つけてたむろしてる奴らだよ。ほんっとお前、常識知らねーよな」
「あー、偶に見かけるな。黄色いの。てか黄巾賊って三国志だろ」
「……常識が無いくせに変な所で知識がある静雄、サイテイ!」
「アホ」
下校の時によく見かける未成年の集団。関係無いからと特に視界には入れていなかった。その旨を伝えようとすると、黙っていた一人が顔を上げる。
「井口って黄巾賊じゃなかったっけ?」
「げ、マジかよ」
「気をつけろよ平和島、闇討ちされるかも」
「静雄なら返り討ちだろ! それに黄巾賊って大多数が中学生だろぉ? 数が集まってるだけだって!」
ふーんと特に関心は寄せずに弁当箱を閉じた。今日の出汁巻き卵は美味かった。流石臨也。
新しく買って貰った携帯を弄っていると一人が身を乗り出す。
「なんだ静雄、もう買い換えたのか? 前の壊れたって言ってたじゃんよ」
「まあな」
「ならケー番教えろよぉ、いざとなったらお前に喧嘩代わって貰うんだから」
「ふざけんな」
言いながら携帯をポケットに仕舞って移動教室の用意を取りにロッカーに向かった。もうロックはかけていない。臨也との連絡しか取らないからだ。好意を寄せてくれるクラスメイト達には悪いが、臨也が居れば良いと豪語する俺は彼らとの距離を少なからず取っていた。申し訳無いとも思ったし、罪悪感もあった。でも、俺の親友役も臨也だから、仕方無い。
その日の帰り道に、見事に黄色に包まれた集団に囲まれた時は、ないがしろにした事を少しだけ後悔したんだが。蠅を振り払うように追い返し、後をつけられていない事を確認してからマンションに入る。最近はこれが日課になったのが非常に不愉快だった。
「ただいま」
靴があるのに臨也は返事をしなかった。来客中かと一瞬思ったが、それらしい靴は見当たらない。なら無視されたのかと若干むっと口を尖らせて荒々しく事務所に行く。臨也は開放的な硝子張りごしの池袋の町を見下ろしながら電話をしていた。盗み聞きする趣味は無いけど、折角俺が帰って来たんだから何か言って欲しい。高校に通い始めてから一緒に過ごす時間が激減した事に臨也は不満が無いんだろうか。だとしたら切ない。俺はこんなに寂しいのに。
浅く狭い友好関係だって、誰かと喋って気を紛らわせないと臨也が居ない孤独感がひしひしと俺を襲うからで。一方的に腹が立った俺はどかどかと足音を立てながら自分の部屋に行く。臨也がこっちを見た気がするけど無視した。学ランを脱いでハンガーにかけ、カッターシャツのボタンを上から二つ外しながら台所に向かう。牛乳を一気飲みしてから事務所を覗くと、まだ電話中だ。柔らかくて、青空みたいな臨也の声。それが俺じゃない他人に向けられているなんて赦せない。でも、相手が得意先とかだったりしたら、例えば粟楠会の四木さんだったりしたら少し迷う。有力なパイプ。俺は臨也の邪魔をしたい訳じゃないから、電話を妨害したら多分支障が出る。俺がどうしようか悶々していると、臨也が携帯を耳から離した。
「シーズーちゃーん」
急に名前を呼ばれびくっと反応した俺は、扉を覗くのをやめて逃げようとするが、臨也の赤い眼とばっちり視線が噛み合ってしまった。
「何処行くのかなあ?」
「……」
にっこりとその眼が閉じられる。距離がある所為で、臨也の感情の機微が読み取れない。
渋々扉を押し開いて中に入る。焼き餅を焼いた直後なので臨也と会話したくなく、さっと奥へ逃げる。
「紅茶は」
「アッサムが良いなあ」
投げかけた言葉に臨也は上機嫌に応じる。俺が何を考えているか判っているという声だ。茶器を用意して臨也の好みに合うように、無意識に手が動く。長年の同居生活のお陰で臨也の好みは熟知していた。丁寧にソーサーまでつけて臨也の机に近付き、顔を反らしながら置いた。カップの触れ合う音を聞いて、すぐに茶を啜る。んー、と間延びした臨也の声。なんだ、俺がこんなに苛ついているのに、こいつは愉快そうだな。さっきの電話の所為か。ムカつく。
不貞腐れて部屋に帰っても良かったんだが、臨也がじっとこちらを見ているのが判っている為に、俺は机に腰掛け、天井を見つめてその視線から逃れる。
「シズちゃん、なんで怒ってるの?」
「……」
知ってる癖に一々聞くんじゃねえ、と心で返す。
「なんか、嫌な事でもあったの?」
「……」
「言わなきゃ判んないよ」
「……」
俺は臨也ほど口が上手くない。だから、黙るという手段は一番強力な言葉の抵抗だ。わざとつんとして顔を臨也と逆側に向ける。俺が怒っていると理解しながらくすくす笑いを止めないこいつは性根が腐ってる。
「俺の可愛いシズちゃん。お願いだから何か喋って?」
「……」
よし、決めた。俺は絶対に喋らない。
大体、ただいま、って挨拶したのに先に無視したのは臨也だ。電話中にわざわざ話を中断してまで言う事じゃないかもしれないけど、俺にとっては重要事項だ。臨也なんか大嫌いだ。
「おーい」
言葉を忘れた俺はシャワーでも浴びるかと体重を預けていた机から離れて歩き出した。すかさず臨也の声が背中に降りかかる。
「気にならないの?」
「……」
此処で止まったら負けだ。振り向いたら負けだ。
「俺が仲良ーく喋ってた電話の相手が誰だか知りたくない?」
「……うるせえ」
負けた。
「何が言いてえんだ、俺は全然気にならないからどうぞ、仲良く電話を楽しんでください」
「ははっ、嘘ばっかり」
「嘘じゃねえ」
見透かされている心をこれ以上覗かれたく無くて足を進める。だが臨也は追い打ちをかけるように早口に言った。
「沙樹だよ」
かっと熱が昇った。サキ。女の名前。誰だ?
明らかに顔色が変わった俺に対して臨也はますます笑みを濃くした。
「覚えて無い? 三ヶ島沙樹。茶髪で可愛い女の子」
「……。……細くて、顔色悪くて、とち狂った奴か」
「そうそう」
思い出した。会った事がある。臨也を妄信していて、臨也を神みたいに崇めてる変な女。自分の事は棚に上げている事に気付いていない俺は不快感を隠さない。あいつは何かあれば事務所まで来て、ああですこうです。鬱陶しかった。まだ俺が引き籠っていた頃、窓から見た、並んで歩いてる二人を見た時に此処から机を投げて殺してやろうかと思った事もあった。取り巻きの癖にこの部屋に土足で踏み込んで来た事もある。本棚の隙間からあの女に向けて殺意の視線を投げている俺に臨也は気付いていたのか。
「嫌いなんだよあいつ」
「どうして? 頭も良くて素直で良い子だよ?」
「うざい」
「それは何で?」
「臨也さん臨也さんって、生意気に馴れ馴れしくてっ……、!」
憎しみのようなものが籠った言葉。はっとしたのは俺。予想通り臨也はとっても満足げな顔だった。
「シズちゃんの大事な俺が、シズちゃんの嫌いな女の子と電話のやり取りをしている事は気にならないの?」
「っ……、勝手に、しろ!」
気恥ずかしさと手玉に取られたのが悔しくて俺は走って事務所を飛び出した。乱暴に部屋の扉を閉めてベッドに潜り込む。追って来ないでと思いつつ、布団を掴んで身を隠している辺り、臨也が此処まで来る事を何処かで期待している俺が居る。
身を縮こまらせて神経を張る俺の耳が、扉が開く音を聴き逃すはずが無かった。見開いた眼をぎゅっと閉じる。ベッドのスプリングが軋んで、臨也の気配がすぐ傍にあった。
「シズちゃん出てきてよ」
「うるせえ出てけ!」
「追いかけてきて欲しかった癖に」
「欲しくねえ、勘違い野郎! 勝手に言ってろ、今すぐ出てけクソ臨也! ノミ蟲!」
「口が悪いねえ」
言いながら臨也は笑っている。臨也の手が掛け布団を引き剥がそうとしているのを感じた俺は、その方が解放されると判っていながら意地を張って手に力を込める。くぐもった臨也の声。布団越しに体温が伝わって来た。
「じゃあ此処で沙樹ちゃんと電話しようかな。デートのお約束でも」
「っ! か、勝手にしろって言ってるだろ!」
「でもなあー、意地っ張りなシズちゃんがしないでって言うなら考えるけど」
「言うか馬鹿、出ーてーけー!」
蹴り上げようとするとひょいとかわされる。その動作で布団が捲り上がり、ここぞとばかりに殴りかかる。不良には当たるそれを臨也は簡単に避けて、首元のカッターシャツを掴んで身体を密着させてくる。
「可愛いなあ、お口が素直になってくれたらもっと可愛いんだけど」
「うっせえ放せ、俺に可愛げなんか求めんなっ、可愛さなんか三ヶ島が売る程持ってるだろ、あいつに貰えよ、そんで脳味噌まで絞り取られて来いっ! くそ、放せって、てめえ!」
べらべらと捲くし立て顔を背ける。俺が何か言う度に笑う臨也にムカつく。身を捩る俺をベッドに無理矢理押さえつけて何を狂ったかこいつはキスしてきた。
「っんー! んん、ん、ぃ、はな……んっ……!」
舌だけは入れさせるものかと頑として歯を開かない。歯茎と隙間をなぞられる。くすぐったい愛撫に俺はほんの僅かに歯を開いてしまい、それを臨也は見逃さない。一気に奥まで入ってきた舌に良いように嬲られ、舌を抜けば俺が口を閉じると思った臨也は、呼吸の暇さえ与えてくれない。くらくらする意識に従い、臨也の胸を何回も押し返す。俺と違って口の隙間から器用に酸素を取り入れる臨也は一向に放す気配が無い。やがて肢体を動かす程の力を奪われた俺は眼から生理的な涙を零す。苦しくて死にそうだ。漸く唇を放され出来るだけ多くの酸素を肺に取り込もうと大きく息を吸う。が、その一回だけでまた塞がれる。痺れて抵抗の術が無い俺は、白旗を上げて臨也に良いように舌で蹂躙される。くそ、腹が立つ。完璧な敗北にもそうだし、植えつけられた従順な意思が勝手に腕を臨也の首に回す事にも。逆らわなくなった俺に臨也は益々調子に乗る。我が物顔で俺を犯すその舌を噛んでやろうかと思ったがそうするとその後の報復が恐ろしく怖い。そういう言い訳を味方につけた俺は眼を閉じて快楽の激流に身を任せた。
「んぁ……っはあ、はっ……」
大きく上下する胸元に臨也は手を置いて、唾液を舌で掬う。ぴくりと反応してしまう自分を認めたく無くて勢いよく臨也を突き飛ばした。
「痛いなあ」
「って、めえ、ふざけんな。うぜえ」
「欲しがった癖に、素直じゃないね」
「うるせえ! てめえなんか、」
「俺なんか?」
ぐい、と両手を掴まれて引き倒される。臨也は笑っていたが、奥に渦巻いているのは、喜びと怒り。どちらを引き出すかは俺次第。
「て、めえなん、かっ……」
言いかけて止まる。きっとさっき、勢いで言った方が楽だったのかもしれないが、もしそう言ったら確実に眼の前の男は怒り狂うだろう。一週間くらいは無視し続けられるかもしれない。饒舌な臨也の無言は罵られるよりもずっと俺の心に来る。言葉に詰まる俺に臨也は言葉を引き継いだ。
「大好き。だろう?」
文法としては可笑しいが、そう言わされるに違いない。くそ、なけなしの俺のプライドががた崩れだ。
「そう、思うなら、手癖の悪い事するんじゃねえ」
「ん?」
「……何の話、してたんだよ」
ぽつりと言葉を落とす。白を切る臨也に向かって眉を寄せながら睨む。顔に熱を持っているのは気のせいだ。
「だから、三ヶ島と何話してたんだって聞いてんだよ!」
「ん? 沙樹ちゃんの彼氏の話」
「……はあ?」
けろっとしたこいつを殴り飛ばしたかったが、未だ掴まれた両手がそれを赦さない。
どういう事かと視線で促すと、臨也はにこりと微笑む。
「ちょっと興味のある男の子が居てね、その子の懐に潜り込む為に沙樹を送ったんだよ。ほら、年頃の子だから晴れてカレカノになった訳なんだけど。沙樹が上手く誘導出来ればその内俺を頼ってくるはずだ」
「興味あるって、誰だよ」
「黄巾賊って知ってる?」
「!」
今日の昼に知ったばかりの存在が臨也から語られて眼を見開く。その反応に一人で頷くと、続きを語り始める。
「黄巾賊って中学生のグループなんだけど、リーダーの子がこれまた、稀有なくらい面白い子でねえ。中学生の割に成熟してるんだ。手駒にしたいから沙樹を使ったんだ。判った?」
「……なんで、中坊なんかそこら中に居るだろ」
「駄目なんだなあ、そこらの中学生じゃないから、俺が興味持ったんだよ」
「……あっそ」
臨也が俺以外に関心を示すって、俺にとっては全く持って面白くない。早く飽きて捨ててくれれば良いのに。馬鹿正直にその感情を表に出した俺だが、性悪な臨也は携帯を出すと、俺に突き付ける。
「この子だよ」
「あ?」
近づけられた画面にピントを合わせる。眼を細めると、そこには髪を茶色に染めた今時の少年が映っていた。この町になら何処にでもいそうな平凡な少年。だが、その細い首には黄色いバンダナが巻かれている。隣には半分しか映っていないが、懐かしい三ヶ島沙樹が映っている。カメラ目線じゃないから隠し撮りしたんだろうが、俺はその写真を見て嫌悪感しか沸いて来なかった。携帯を破壊しなかったのは、臨也のものだという理性が働いたのと、その少年に見覚えがあったからだ。
「……見た事がある」
「へえ、まあ行動範囲が広い子だから、そう珍しくはないね。サイモンとかとも知り合いだし」
「あれだ、えっと……『き』から始まる気がする」
「正解。紀田、正臣君だよ」
適当に相槌を打つ。別に今日俺に襲いかかった奴らの頭が判ったからと言って何の感慨も浮かばない。最近臨也がよく外に出ているのはひょっとしてこいつと接触してるのかなと考えると腹が立ってくるが、予想の範囲なので口にも顔にも出さないように努める。いい加減窮屈なこの体勢をどうにかして欲しいと足で臨也の腰を叩いた。
それを良いように解釈したこいつはまるでチェシャ猫みたいに意地悪く笑う。
「なあに? シたい?」
「っふっざけんな! 退けって意味だ!」
「前回って足が痛いって俺に泣きついたシズちゃんが寂しがって強請った時だよね? 可愛かったなあ、何回も何回も臨也臨也、ってさ」
先月の痴態が鮮明に思い出されかっと顔が赤くなる。忍び込んできた臨也の手に身体が魚みたいに跳ね、剥き出しの鎖骨に吸い付く臨也に向かって声を上げる。色を含んだそれは自分でも判るくらい欲しがっている。
「やめろっ、俺はそんな気分じゃ、ねえ!」
「すぐそんな気分になるよ」
「ならねえって! んっ、馬鹿、残すなっ……」
「んー? 好きでしょ? キスマーク」
「着替えン時に見られたらどうすんだよ!」
今まで自分の身体を見せる相手なんか臨也以外誰も居なかったから許容していた赤い華。だが先月に肌を重ねた翌日の体育で、痕が残っているのを忘れて上半身裸になってしまい、後ろの座席の奴にぎょっとされた。背中を埋める色濃い情事の痕に、初心なクラスメイトは真っ赤になり、気付いた俺も死にそうなくらい恥ずかしくなった。そいつが噂を広めない、生真面目で大人しいタイプだったから良かったものの、それ以来擦れ違う度に気まずい思いをしている。
「良いじゃん、見せつけてよ。俺はもう予約済みですって」
「絶対嫌だ、クソ馬鹿っ、おい!」
首につけようとする臨也を何とか引き離す。だがこいつの嗜虐心を満たさせる為には俺もある程度妥協しないといけない。
「み、見えねえとこに付けろっ」
見られるのは嫌だが、付けられる事は好きだ。滑舌の悪い俺の言葉ににんまりした臨也は鼻歌を歌いながら俺の腹辺りに唇を触れさせる。機嫌良く、唾液の音を漏らしながら華を咲かせる臨也。諦めてされるがままにしていると、唐突に顔を上げてぐっと近づける。
肉欲を迸らせた眼が俺に突き付けられた。
「そういう気分にしてあげる」
あ、これはもう言っても無理だ。
元々欲情した臨也を止められた事なんか過去一度も無い。俺の化け物染みた怪力は臨也に対しては強力な抑制力を施行する。お陰で行為の最中に臨也の肩や腕に思い切り縋っても折れる事は無い。それはそれで嬉しいけど、抵抗したい時には恨めしく感じる。
「っ、……一回、だけ、だぞ」
顔を真っ赤にしながら思い切り眼を瞑る。大人しく抱かれる気になった俺に臨也は機嫌を良くし口付けようと顔を近づける。
だが、世界で一番空気の読めないタイミングで、携帯が勢いよく着信を知らせた。
「……」
「……」
気分を害したのは俺だけじゃなく臨也も同じらしい。一気に眉に寄せられた皺がそれを物語る。それにほんの少しだけ安堵し、臨也に「鳴ってるぞ」と促した。唇の距離は1センチ。ギリ、と歯を食い縛る音が聞こえたが、渋々俺から身体を起こした臨也は不機嫌なまま電話口に出る。
「はい、どうしたの」
敬語を使っていない事から年上ではないらしい。と、なると、先ほど電話してきた三ヶ島かと思って、促した自分を呪った。不快感を濃くした俺に対し、臨也は不機嫌だった顔を少しずつ解していく。良い知らせか。
「うん判った。あ、そっちは手空いてない? ……そっか。良いよ気にしないで。了解。じゃあ後で」
すっかり笑顔を取り戻した臨也。機嫌が直るのは良い事だが、この笑い方は面白くない。なんか、直感だが、俺には面白くない事が起こる笑い方だ。俺に跨ったまま電話を切った臨也は情事の気配など微塵も感じさせない軽いキスを俺に送る。
「ごめんね、お預けだ」
「は?」
何を言っている? と自分を凝視する俺に臨也は笑いかける。
「客が来るよ。残念だけどシズちゃんを食べるのは後にしよう」
「ふ、」
後なんてあるわけないだろう。
「ざけんな!」
折角こちらは抱かれるのを許容したというのに、発情した方から打ち切りにするなんてそんなのありなのか。いや、無しだ。有り得ない。今すぐ三ヶ島を呼んで殴りつけたかった。女だから手加減はするが。
怒りと羞恥で真っ赤になる俺に向かって、電話がかかってくる前の臨也の色が戻る。
「その代わり今夜は寝かせてあげないよ」
「っ……!」
臨也は基本的に有言実行する男だ。くそ、くそ。嵌められたのか。
固まる俺に対し、臨也は少しだけ眉を下げた。謝るつもりかと思うが、口は別の事を話す。
「此処に紀田君が来るよ」
「は? なんで?」
「言っただろう? 時期が来れば彼は俺を頼りに来る。予想より遅かったけどね。でも此処らへん高層マンション多いから、シズちゃんエントランスで待っててあげてくれない?」
俺は今日一日で何回ふざけるなって言えば良いんだろうか。語彙が少ない俺はそれしか言えない。
「何で俺が」
「迷子になったら来るのが遅れる。遅れたらシズちゃんを抱くのも遅れる。遅れたら明日の学校辛いよ?」
「全部お前の所為だろ!」
「ね? お願い」
眼の前で手を合わせる。臨也が俺に何かを頼む事は余り無いので珍しく、思わずぐっと息が詰まる。
三ヶ島沙樹という信奉者と違い、俺は臨也を全般的に信頼はしているが、考え方まで同じという訳じゃない。可笑しいと思った事は遠慮なく可笑しいと言うし、本気で嫌な事は頑として従わない。臨也の言いなりではないのがあの女との違いだ。
とはいえ、基本的に俺も言いなりに近い。俺の行動原理は臨也に嫌われたくない好かれたいであって、断っても機嫌を損ねる程、臨也は子供ではないが、溜まったそれは必ず夜に仕返しとなって現れる。此処は頷くのが自衛の為でもあった。
「……判った」
「んー、シズちゃん良い子」
「紀田を待てば良いんだろ?」
「うん。きっと思いつめた表情で来るから慰めてあげて」
「それは断る」
俺は他人に同情しない。至って自分本位だ。自己中心的といえば聞こえは悪いかもしれないが、それは全部臨也の為だった。他人の為に流す涙は臨也の分にとっておく。だから誰かを慰めたりするのは、そもそも感情に共感しない俺には出来ない相談だった。何せ俺も相当歪んでいるから。
「お礼に夜は激しく優しくしてあげるよ」
「……期待しないでおく」
制服を着替え、臨也がつけた真新しいキスマークが絶対に見えないように黒のタートルネックを出す。褪せたジーンズはシンプルなストレート。全体的に黒っぽいそれは臨也の影響かもしれない。飾り気が無さ過ぎる、やる気の無い格好に臨也はくすりと笑って部屋から出ていく。喧嘩の所為で同世代にも顔が知られてしまった為に、ただ外でぼんやりしていたら自宅を突きとめられるかもしれない。そうしたら臨也にも迷惑がかかるだろう。健気な俺は観賞用に買ったサングラスをなんとなくかけてみる。それだけで結構顔の印象が変わるかもと思い、リビングに向かう。
「なにそれ」
開口一番、臨也の台詞。
「目立たないかなと思って」
「結構似合ってるよ。金髪にグラサンって良いかも」
幼い頃に、まるで平和島静雄を他人にするかのように、臨也によって早い内から金髪にされた俺。その事について話し合ったはないが、今やこの色が自分だと思っている。逆に黒髪だった自分が思い出せなかった。
素直に褒められると思っていなかった俺は咳払いで誤魔化しながら玄関に行く。慣れない青黒い視界だったが、臨也に手を振ってエントランスまで降りた。何分ぐらいで着くのか聞いていなかったなと後悔し、出る時に持ってきたガムを口に含んだ。
爽やかな清涼感をもたらすガムを飽きる事無く噛み続ける。風船って作れたっけ、と舌と口を器用に使って膨らませる。だが上手く出来ない。臨也は作れるかなと何の気なしに考えていると、道路の向こう側に黄色い布を見つけた。一人で居る少年。写真で見た姿と一致した。何度か下校の際に、ファーストフード店や駅前に居る姿を目撃している。臨也の言う通り暗い表情を不安そうに揺らしていた。手に紙を持っている辺り、臨也の住所を探しているんだろう。
(臨也の個人情報をまき散らすなよ)
苛立ちからガムを吐きかけたが、それはマナー違反なのできちんと紙にくるむ。手をポケットに突っ込んで、紀田正臣に視線を送る。これでは明らかに俺の方が不良だ。俺に気付いた紀田は驚いたように眼を見開き、信じられないものを見るかのように表情を曇らせた。
信号が赤になり、紀田は恐る恐るといった歩調で近付いてきた。何度か紙に眼を落しているのを見るに、確認しているんだろう。というより疑っているんだろうな、『情報屋』折原臨也の住所の前に仁王立ちしている『喧嘩人形』平和島静雄の姿を。
「紀田正臣だな」
関係無い俺を遠ざけるように距離を保っていた紀田が、俺の言葉を聞いてびくりと背筋を伸ばした。歳は大差無いんだが、この一ヶ月で一気に筋肉がついた長身の俺と中学生の紀田じゃかなり体格差がある。
「っ……あの……平和島、さん、ですよね?」
男にしてはやや高い声。これが曲がりなりにも不良グループの頭だってのか。胡散臭げに眼を細めた俺に紀田は怯えたような顔をした。
「俺を知ってるのか?」
「……あー、なんか、鉄パイプで殴っても全然怪我しないどころか逆にパイプがお陀仏になるとか、電信柱で人を吹っ飛ばすとか、コンクリに手形のオブジェを残したとか、ある事ない事よく聞くんで……」
全部ある事だが。流石に眼の前で見ていない以上、電柱を引っこ抜く事は信じていないんだな。
それにしても私服姿でサングラスまでかけているのに俺だと判るんだな。もう少し考えないと。眼でざっとこちらを見ている者が居ない事を確認すると、親指でくいっと入口を差す。紀田は戸惑いの眼を向けていた。
「入らねえのか」
「あ、あのっ、よく判んねえんですけど、何であんたが此処にいるんすか?」
「ああ?」
ぴしりと眉間に皺が寄る。何の為に俺がわざわざ出迎えてやったんだと睨み付けるがすぐ止める。こいつが言いたいのはそういう意味じゃない。俺と臨也の結びつきが見えないんだろう。当たり前か。粟楠会や得意先以外じゃ俺の存在は世間には知られていなかったから。情報屋に会いに来たら今噂の喧嘩人形が待っていたらそれは驚くだろう。
「説明面倒臭い。臨也に聞け」
「っ……、臨也さんと知り合いなんですか?」
「つーかお前、三ヶ島と一緒じゃねえのかよ」
今現在俺が一番気に入らないと思っている女の名前を挙げると紀田は俯きかけていた顔を勢いよく上げた。
「なんで沙樹の事……!」
「てっきりあいつが連れてくるのかと思ったぞ。あのイカレた女の面が拝めると思ったんだが……」
「!」
紀田は俺に恐れを抱きながらも睨みつけて来た。そういえばこいつと三ヶ島は付き合っていたんだっけか。あんな女とよくやるな。まあ他に男が居た方が三ヶ島も臨也にちょっかい出さずに済んで良いな。
これ以上火種を大きくするのも賢いやり方とは思えなかったから、俺はサングラスを外しながら背を向けてエントランスに向かう。慌ててついてきた紀田の足取りは重かった。
迷い無く何時ものボタンを押し、エレベーターに乗り込む。最後に降りたのは俺だからエレベーターも一階で止まっていた。重力を身に宿しながら、隣で拳を握っている紀田に視線を落とすが何も言わない。臨也はこいつを利用してどう遊ぶつもりなのか。
十五分ほど前に出た自宅の玄関を開く。紀田を無視して先に靴を脱いで進む。何の迷いも無い俺の動きに若干紀田が不思議そうな顔をするが気にしない。事務所に入ると、俺が帰って来た時と同じように硝子越しに空を見ていた。
「来たぞ、臨也」
少し声を張って言うと、臨也は微笑を浮かべたまま振り返った。それを見てちょっとだけ嬉しくなった。だって、臨也が浮かべたその表情はひどく他人行儀で偽った仮面のものだったから。良くも悪くも臨也は本心を出さない。俺以外、には。
気を良くした俺は、お互いにしか判らないぐらい一瞬だけ臨也と目配せする。頷いた俺は紀田と離れ、給湯室に入った。さっきアッサムだったから次はダージリンだなと考えながら客用のカップに紀田の分も注ぐ。
「ようこそ、紀田正臣君」
演技のような臨也の声。わざとらし過ぎて笑った。
「用件は判っているけど、君が俺の所に来てくれた事が嬉しいから君の口から直接聞きたい」
紀田の息を呑むような音が聞こえた。あんまり虐めてやるなよ。
「……助けて、欲しいです。俺が黄巾賊を、背負っていけるように」
事情をよく知らない俺でも、紀田が余り本心を言っていないように感じた。臨也に縋るのは最後の手段だとでも言うような。紀田は臨也を快く思っていないのがなんとなく理解出来る。俺はその方が好都合だから何も言わないが。
淹れたての紅茶を二つ持ってソファに座る二人の間にゆっくりと置いた。この動作が紀田を驚かせたのか、臨也と向き合っていた視線を俺に向ける。
「あの……静雄さんですよね?」
「さっきも確認しただろうが」
「何で此処に居るんですか……?」
茶をすんなり出す辺り、俺が単に三ヶ島と同じ臨也の信奉者じゃないと直感したのかまっすぐにぶつけてくる。
改めて言われると俺と臨也の関係を一言で説明するのは難しかった。うーんと適当に悩んでいる音を出すと、臨也の軽やかな声が制した。
「彼は俺の所有物だから気にしなくて良いよ」
「え?」
優雅に紅茶を口に運ぶ臨也と、まあそんなもんだなと手をポケットに突っ込んで平然としている俺を交互に見渡す。すると紀田は嫌悪の眼を隠さずに臨也に向けた。
「あんたは、何人、征服してるんですか……!?」
「やだなあそんな言い方。沙樹ちゃんは自分の意思で俺に従ってる訳で。言う事を聞けなんて言った事は無いよ?」
「同じ事だ! あんたはそうやってどれだけ人を弄べば気が済む、」
俺はそのままの体勢で勢いよく足を振り上げた。理性が働きかける前に勝手に足が動く。暴力が滲み出る時は大抵こうだ。蹴らなかったのは臨也というブレーキが居るという事だけで。喉に軽く触れる感触に紀田がごくりと唾を呑んだ。
「臨也を愚弄すんなよ、餓鬼が……」
ふうと息を吐いて熱が昇る頭を落ちつけようとする。ゆっくり足を戻して、行き場を無くした怒りを拳を握りしめる事で宥める。その間一瞬も視線をずらさなかった臨也はにこやかに言葉を繋いだ。
「ね? むしろ、俺が征服してるのはこの子かもしれないよ」
「っ……一体何を吹き込んだんです?」
「さあねえ、正義感溢れる純粋な君が聞いたら耳を犯されたって訴えられるかもしれないから黙っておくよ。ねえ、シズちゃん」
怒りを鎮めている俺は臨也の涼やかな声に視線を落とせば、臨也の右手が持ち上げられる。誘われるように俺は臨也のソファの後ろに回ってその手を握り自分の頬に当てた。紀田の存在はまるっと頭から抜けていた。
愛玩具を撫でるような手付きに恍惚とした表情を見せる。甘えるように背中から首に腕を回すと「よしよし」という臨也の声にうっとりした。信じられないものを見るような眼つきで紀田が凝視してくる。終始無表情を貫いてそれに見合う低い声を出し、先ほど己を凄み、巷では喧嘩人形なんて呼ばれる男の別の一面を見た事による衝撃か。興味の無い俺は頬を擦り寄せる。
「んん、臨也……」
漏らした声に臨也は笑みを浮かべ、俺の頬にキスをする。
「シズちゃん、紀田君と大事なお話があるから部屋で待っててくれる?」
「俺よりも大事か?」
意図的に煽るような声を出す。気付いているのか気付いていないのか、臨也は指の腹で俺の唇を撫でた。
「それはシズちゃんが誰よりも判ってるでしょ?」
「……」
情報屋の折原臨也の顔を出したのを見て仕方なく腕を外した。名残惜しいので頭の後ろに額をこてんと乗せ、「なんかあったら呼べよ?」なんて囁いて。
部屋に行くには紀田の横を通らないといけないのでゆっくり足を進める。擦れ違いざまに臨也に出した声とは打って変わったドスの利いた声で「臨也になんかしたら殺す」と固まる紀田に送った。
「あはは、彼、俺の事が死ぬほど大好きだからさあ、赦してあげて?」
「ぅ……い、いえ……」
「俺が言わない内は君の事殺したりしないから安心してね」
そんな会話が背後から聴こえて来たが、既に意識を外している俺には興味が沸かない。兎も角早くあの餓鬼を追い出して欲しかっただけだった。さっきはあんなに臨也を邪険に思ったのに、俺に関心の矛先が向いていないと思うと途端に欲しくなる。俺はその不安定な周期を繰り返している。別に紀田が帰った後の情欲とは関係無しに、臨也が欲しいと思う。あの眼に俺だけを宿して欲しいし、俺だけに声を聞かせて欲しい。臨也の細い手は意外に力が強いと言う事、する時は必ず整えている爪を切っているという事、何でも俺だけが知ってれば良い。ああ、臨也、早く終わらないかな。偶には俺からしたいって強請ったらなんて言うか。痕も見える所に付けて良いよ。なんか他人なんかどうでも良くなってきたし。それか、俺から覆い被さって、負けないくらい沢山臨也に痕をつけよう。ずっと残るくらい強く吸って。昔臨也の背中に爪を立てたけど今日も引っ掻いて良いかな。言っただろう、あの時。臨也の味は苦くて喉に絡んで、癖になるって。仕方ないんだ、甘い誘惑。そうさせるのは臨也なんだから。
ごろりとベッドに寝転ぶ。しんと静まり返った部屋の中で耳を欹てるが、厚い壁は二人の声を通さなかった。というか何で臨也はわざわざ俺と紀田を引き会わせたんだろう。情報屋と喧嘩人形が知らない仲じゃないと広まったら困るのはむしろ臨也じゃないだろうか。こんな事を繰り返し続けていれば何時かは俺の自宅を突き止めた誰かが同時に臨也の自宅を見つける事になる。臨也のする事は何時も難解で判り難い事が多く、今に始まった事じゃない。何だろう、俺に嫉妬心を煽らせる為だろうか。でも紀田と顔を合わせなくたって、事務所に紀田が来たという事実だけで俺は苛立つだろうに。俺の在宅時にすれば尚更。なんで。
(……あ)
もし俺が臨也の立場だったらと思うと、何となく判った気がする。
事実に近いそれを理解した事に高揚感が増し、くく、と嫌な声で笑った。時計は6時をやや過ぎた頃。少し寝て置こうと眼を閉じ、俺がこの事を言ったら臨也がどんな顔をするかなと想像しながら眠りについた。
暫く後に事務所の扉が閉まる音、続いて俺の部屋をノックする音で眼が覚める。ふらつく意識に返事をせずにぼんやりしていると臨也が入って来て俺の顔を覗き込んだ。
「寝てたの?」
「ん……」
軽く伸びをしながら頷く。ベッドに腰掛けた臨也を見て一気に意識が覚醒し、眠る前に零したのと同じ笑いを再現した。
「なに?」
「俺を紀田と接触させたの、わざとだろ」
上半身を起こして、挑発するように眼を細めながら言う。「へえ?」と口元を吊り上げる臨也に負けず劣らず性悪な笑顔を振りまきながら、細い肩を掴んで押し倒す。何時もと違うポジションに一瞬だけ眼を丸くした臨也が面白くて、猫のように小さく出した舌で目尻を舐めた。
長い髪が鬱陶しくて、手で耳に引っ掛けるようにかき上げる。猫にしては獰猛な顔を覗かせる俺に臨也は下から俺の頬に触れる。促されたと思った俺はくつくつと笑いながら臨也の髪を弄る。
「俺を外部の人間と会わせてお前との関係を示唆する。見せしめに紀田を選んだ。見た感じだけで言うが、あいつはあんまりヤバイ奴の事を広めようとするタイプじゃないから選んだ。俺の力とは関係無しに、ただ俺に近付くであろう勢力に向けての宣戦布告。俺のものに手を出すな、っていう、お前の独占欲。違うか?」
「シズちゃんにしてはよく考えたね」
臨也から立ち昇る気配。してやったりという顔で俺は唇を重ねる。満足だ。臨也は俺を逆撫でして、俺を更に溺れさせようとしている。
「どんだけ貪欲なんだお前は。こんな事して、シズちゃんが俺をいかに好きなのか再認識させよう、ってか?」
「大体、正解だね。見抜かれちゃうのは失態だったなあ。こういうのは無意識に本人に植え付けるから効果的なのに」
「もし俺が同じ事を逆の立場でしたら、嫉妬するか?」
「するだろうね」
血のように濁った眼を細めた。
「社会的にも精神的にも殺しちゃうよ」
「身体は生かすのか?」
「脳を生かさないと、後悔させられないでしょう?」
その瞳に酔う俺は、唇を触れさせながら「言えてる」と答えた。
「そんな回りくどい事するなよ、判り難い」
「判り難くしてるんだよ? シズちゃんが無意識に嫉妬したりするのはとっても嬉しいからね」
「じゃあお前のその感情に気付かずに、俺がお前から離れたとしたら?」
「離れられない癖に聞くの?」
「俺はお前と違って、曲がれないんでな」
言いながら臨也は舌を出し、「判ってる上で聞くなんて性悪な事、曲がってなきゃ出来ないよ」と頭を持ち上げて俺にキスする。お互い曲がりまくって、交差した所で感情を向け合う。気付くか否かはその都度違う。刺激的じゃないか。
俺は覆い被さっていた身体を退け、部屋の電気を消した。夕食は期待出来そうにないけど、別の食指が動いた。見せ付けるように服を脱いでベッド脇に投げ捨てる。上半身に何も纏わない俺がベッドの上で中途半端に身体を起こしている臨也の上に乗る。望まぬ理不尽な喧嘩の日々の所為で生傷が絶えず、何時の間にか鍛えられた俺の身体に臨也は指を這わす。
「あんまり大きな傷作っちゃ駄目だよ?」
「んっ……あ、判って、る……」
「特にこれより大きいのは論外」
臨也と手を重ねる。何を言っているのかはよく理解しているから、素直に頷く。
「紀田、帰ったのかよ」
「うん。これでこの街に楽しいお祭りがやってくるよ。楽しみだなあ」
「先に俺を楽しませろ」
「言ったね?」
すっかりその気になった身体、臨也が自ら服を捲り上げる。現れた滑らかな肌にこくりと喉を鳴らし、吸い付く。俺は臨也みたいに余裕なんて気取れない。次第にがっつき始める俺に臨也はにやついて顔を引き寄せる。
「シズちゃんが上は似合わないね」
「っ……」
そういうつもりは無かったんだが、認識させられるとそんな気がしてきて目線を漂わせる。俺の後頭部に両手を添えてぐっと引き寄せる。慣れない角度での口付け。位置は逆でも立場は同じなのに、まるで違う官能が期待と恐怖に胸弾ませる処女みたいで少し悔しい。
臨也が上体を持ち上げ、俺の身体を引き倒す。一瞬で上下が入れ替わったが、飽きるくらい相手の身体に華を咲かせ満足していた俺は特に抵抗しない。この体勢に安心感を覚えている自分に情けなさを感じつつも、惑わせるように臨也の手を引いて己の胸に当てる。
「付けろよ、好きなだけ」
「恥ずかしいんじゃなかった?」
「臨也に独占されたい」
「……シズちゃんがそんな事言ってくれるなら、これからもどんどん他の子と会って嫉妬させちゃおうかな」
「その前に全員殺す」
一度瞼を下げてから、臨也の眼を直視する。
「理性が焼き切れたら、俺……最終的に誰を殺すと思う?」
「俺でしょ?」
「……なんだ、判ってるのか」
「だって逆に考えたら俺もそうだからねえ。俺を見てくれなくなったシズちゃんなんか殺しちゃうよ。最期の最後は俺を眼いっぱい視界に捉えた状態でね」
「そんなの有り得ないけどな」
「じゃあ俺も有り得ない」
臨也を見なくなった俺。臨也を要らないと思う俺。吐き気がする。それこそ死んでも有り得ないだろう。臨也を見失うというのは俺にとって世界を見失う事で。もっと身近なもので捉えるなら呼吸。呼吸しなくて良いと言える奴が居るか? 臨也は俺にとってそういう存在だ。
幼少期に拾われた事を横に置いても俺はきっと臨也を好きになっていた。絶対そうだ。臨也に感じるこの強い感情を愛と呼ばないなら俺は愛を知らない事になる。親に対して当たり前に抱く感情に似ているけど、明確に俺は言葉にして好きと表現している。好きなものがない、世界。ぞっとした。孤独以外の何者でもない。もし、本当にもし、俺が臨也を殺す時が来るなら、臨也を殺した後に俺も自分を殺すんだな。俺は化け物だから肉体的には死ねないかもしれないけど、精神が死ぬ。何度も臨也を殺す夢を見て、夢の中で臨也を殺す。それを繰り返している内にそれが新しい世界になるのかもしれない。臨也を殺す夢でも、臨也に会える事には違いないから。
「シズちゃん、今すっごい物騒な事考えてるでしょ」
「夢で臨也を殺す夢」
「日本語、大丈夫? そんなに俺を殺したいの?」
「それで臨也にとって俺が永遠になるなら考える」
「弱虫」
保障と証拠と約束が無ければシズちゃんは生きられないんだねと臨也は妖しい唇を歪ませた。それに俺は、笑った。
「お前も、だろ?」
「今日のシズちゃんは鋭いねえ」
どちらとも無く唇を交わし、冷えた俺の身体に臨也は指を滑らせて俺の反応を楽しむ。
「っはぁ……なあ」
「なに?」
「俺は臨也の事……俺の世界だと思ってるんだが、そうだとしたら、俺は何なんだろう」
「そうだねえ、俺が地球と仮定して、月なんかどう? 切っても切り離せそうにないから」
「理詰めのお前にしてはよく判らん理由だな」
まあ良いや。俺は臨也という世界を愛しているし愛されている。
お話は終わりにしようと合図をかけるように臨也に抱きつき催促した。赤い地球なんてすぐにでも滅亡しそうだ。俺が腕を引けば、舌先で突起を弄られる。性悪な地球に自分で回れと威嚇して、熱帯夜になりそうな今宵の月に挨拶した。
月から見た地球は相当歪んでる