それは俺が本来なら真新しい学生服を着ているはずの年齢だった時。相も変わらない自主的な籠の鳥生活を送っていた頃だった。
成長期に足を踏み入れた俺は毎日のようにぐんぐん背が伸び、昔は見上げて首が痛くなったのに、今や臨也と目線を合わすのにそれほど頭を上げずに済む所まで成長していた。このままのペースで行けば一年も経たない内に追い越してしまいそうだ。
大きくなった俺。必然的にベッドのスペースもかなり奪うようになり、二人並んでも余裕だったのが嘘のようだ。元々俺専用の部屋はあるにはあるんだが、12歳になっても人肌が恋しいといつも臨也と一緒に寝ていた。しかしそれも、俺の成長という理由で限界が訪れようとしている。寝相が良くない俺は知らない内に臨也を蹴り落として一人でベッドを占領しているらしい。意識の無い時の事を責められてもどうしようもないんだが、叩き落とされて腰を痛めた臨也が苛々しながら仕事をしているのを見ていると居た堪れない。一応謝ってはおいたがこう毎夜のように突き落とされるのは良い気分はしないんだろう。
そんなこんなで、俺もそろそろ甘えてないで、添い寝を卒業する歳になったかと思い直していた。世間一般ではとっくに一人寝している学童期だが、特殊な育ち方をした俺に世間は関係無い。余所は余所、うちはうちである。
だが実際に行動に移すのは難しく、今日も寝る際に「今日から一人で寝る」と何度も練習した言葉を出す前に、臨也がぽんぽんとベッドを叩いて呼ぶを見て飛びついてしまう。何度も俺によって痛い目に遭っているのに、懲りないんだろうか。罪の意識をころっと忘れいそいそとベッドに潜り込む俺に言えた義理は無いんだが。電気の消えた暗い室内。明日こそ明日こそと繰り返し、いつものように眼を閉じた。
「……」
眼が覚めたのは、随分と明るくなってからだ。重たい瞼をこじ開け、備え付けの時計に視線を這わせば、9時を回っている。
ブラインドから差し込む朝陽もすっかり昇り切り、起き上がるのが面倒臭くて寝返りをうつ。中学生でありながら学校に通っていない俺は何時に起きようが何時に寝ようが支障は無い。このまま臨也が起こしに来るまで寝ていようと眼を閉じかけ、ようやくこのベッドに自分以外の人間が寝ている事に気付いた。
「……臨也?」
遅寝早起きというきつい生活サイクルを送っている臨也は大抵俺より先に起きて仕事をしている。平日の朝でも休日の夜中でも問答無用で容赦無く切り詰めているスケジュール。大半は臨也自身の悪戯や趣味が入っているのだが、それを差し引いて、臨也がまだ寝ているという事実に驚いた。
それに9時、って。この時間なら変に煩い臨也はとっくに朝食を作って俺を起こしている、のに。
一度寝返った身体をもう一度反転させる。仰向けに眠っている臨也を見て、飛び起きた。
「臨也?」
臨也の顔は真っ赤になって、額や首にあり得ない程の汗をかいていた。咄嗟に握った手は吃驚するぐらい熱く、ぞっとした。息は乱れ、深い呼吸が胸を上下する。それを見た俺がした行動は、臨也の肩を掴んで乱暴に揺する事だった。
「臨也、臨也!」
「っ……」
低く呻いた臨也は気分が悪そうに眉を顰めるが、俺を視界に捉えてくれない。暫く揺さぶっても目を覚まさない臨也の額にお約束事のように手を置く。熱がある事なんてとっくに判っていたのに、汗でぬめるそこに触れた瞬間、熱い臨也の身体とは逆に俺は全身が凍った。
「なあ、苦しいのか? 辛いか? 俺、何すれば良いんだ?」
常識に欠けている俺は、病人が眼の前に居る時にする正しい対処の仕方なんて判らなかった。汗を拭く、着替えさせる、氷を、薬を、タオルを持ってくる。医者を呼ぶ。出来る事なんて幾らでもあるのに、俺はその内のどれも浮かんでこなかった。滅多に病気なんかに罹らない、俺も、臨也も。二人暮らしの高級マンション。俺はそこから一人で一歩も出た事なんか無かった。
体調の悪い臨也よりも錯乱している俺はどうすれば良いのか途方に暮れた末、サイドテーブルに置いてあった臨也の携帯に眼を止める。人を、人を呼ばないと。しかしまともじゃない俺は携帯を使った事が無く、折りたたみ式のそれをうっかり逆から開けようとしてようやく画面を開くが、何をどうすれば人が来てくれるのか判らない。
冷静になれ。思い出せ。臨也は人を呼ぶ時どうしていたか……携帯を出して、開いて、ボタンを押していた。メールをしていた事もあった。臨也のパソコンを見ていた時と同じ手紙のマーク。それを押した。「Eメールメニュー」。決定ボタンを何回も押しながら、宛先の欄で指を止める。
四苦八苦しつつも、若者ならでは適応能力の早さでアドレス帳に辿りつく。知らない名前がびっしりあった。読めない難しい漢字が幾つもあって、慣れないスクロールに眩暈がする。か行でようやく見知った名前を見つけ、安堵した。「岸谷新羅」。
「しん……ら……。そうだ、新羅ならっ……」
何度か会った事もある臨也の友達。制服を脱ぎ棄てたと思ったら常に白衣を着るようになった変な奴だけど、確か、医者だったはず。決定ボタンの連打が炸裂し、視線を下げる。件名、何を入れれば良いんだ。これは臨也の携帯だから、俺からだって伝えないといけない。無難に静雄ですって入れれば良いんだろうか。よしそうしよう。
しはさ行だから、さと書いてあるボタンを押した。繰り返す。すると予測変換の一番上に「静雄」と出た。次に「シズちゃん」。臨也の奴、誰に俺の事を話しているんだ。一瞬気になったけど今は忘れようと努め、なんとか文字をうつ。そこで指が止まった。濁点ってどうやってつけるんだろう。
「ぅ……」
「です」は打てない。た行をどんなに探しても濁点は付いていない。困った。です、と同じ意味の言葉を探すと、「より」? 件名で「静雄より」って変な感じがするけど気にしたらきっと負けだ。臨也がそう言っていた。
この作業だけで既に十分は経っている。ようやく本文まで辿りつき、なんと言葉を入れれば良いのか逡巡した。知識の乏しい俺は臨也が風邪だという事を知らない。兎に角、新羅ならイマジネーションを膨らませてくれるだろうと信じ、最初に臨也が、と打とうとして濁点の壁に阻まれた。これほど臨也の名前を怨んだ事は無い。ああもうなんて面倒な名前だ! と思いかけて自分も濁点がついている事に気付いた。予想変換万歳。
試しに「い」と打っても予想変換は出てこなかった。スクロールすればあるのかもしれないがそこまで頭が回らない。別の言葉を探した。新羅を信じよう。
『くるしそうたすけてかおあかい』
漢字変換の仕方が判らなかったゆえに、不明瞭で読みにくい短文だったが、震える手でボタンを探し、送信した。
既に三十分が経過していて、それでも臨也の病状に変化は無かった。不安から涙ぐんでいると、手に持っていた携帯が急に震えて叫ぶ程吃驚した。
画面を開くと電話着信のお知らせとあって、相手は勿論のこと、新羅だった。だが混乱している上にこれが電話だと気付いていない俺は、バイブを止めたくて適当にボタンを押した。その適当に押したボタンが通話だったら良かったんだが、決定ボタンを連打した俺はバイブは止まったが通話が出来ない状態に放心していた。
ものの20秒くらいは鳴っていたが、出られずに見つめていると着信が途絶えた。向こうが諦めたらしい。
一歩先が見えない真っ暗な道を歩いているようで、心細くなり苦しむ臨也を覗きこんだ。出来る事は尽くしたつもりだった。何処までも何もかも臨也を頼っている自分に気付かない俺は、そっと臨也の唇に自分のものをくっつける。それで治るとは流石に思わなかったが、自分がされて嬉しい事は臨也にも効くかもしれないと思ったからだ。
そうこうしていると再びバイブが鳴った。今度は短い。画面を開くと、メールだった。相変わらず決定ボタンの嵐を起こす俺に携帯は素直に本文を開いてくれた。
『静雄かい? 電話に出られないのかな、臨也はどうしているんだい?』
ある程度メールの仕方を覚えた俺はすぐに返信を打ち込む。濁点に妨害を受けながらも、似たような意味の言葉を必死で探し、送信した。
『ねてるつらそうおきないたすけてしんら』
新羅の何倍も時間をかけたそれに、新羅は事情を察してくれたのか、それきり返信が来なかった。
携帯を握りしめながら、臨也の腕に抱きつく。役立たずにも程がある自分を怨む事も出来ずに、只管新羅を待った。眼の前の男が目を覚まさない今、孤独になった気がしてそれだけで世界は真っ暗だ。明日死ぬかもなんて考え始めた俺の思考を、場違いなくらい明るいインターホンが掻き乱した。
「新羅!」
急いでセキュリティを解除し、エントランスに映る白衣の男の姿に胸を撫で下ろす。待ち切れなくて扉を開けて待っていると、俺の心境を理解したのか少し早足で近付いてきた。
「やあ久しぶり、静雄くん。君の飼い主はどうしてるの?」
厭味でも揶揄でもなく俺はきっと臨也に飼われている。と、今はどうでもいいそれに大して関心は寄せずに、新羅の手を引っ張って寝室に案内する。
寝ている臨也を、眼鏡をかけ直しながら眺める新羅をどきどきしながら見つめていると、持ってきた医療道具を脇に置いて屈み込んだ。
「うーん、これは見事な風邪だね。慮外千万! 臨也が此処まで弱る姿を見るのはどうだろう、中学の時にインフルエンザの状態で体育倉庫に、」
「治るのか?」
新羅が高々と喋っているのを遮断し、俺は後ろから話しかける。新羅は振り向いて「勿論治るよ」と当たり前の事を言うように宣言する。
「専門じゃないからはっきりとした事は言えないけどね。多分日頃の不摂生とか不規則な生活が悪かったんじゃない? 君がぴんぴんしてるんだから。ところで静雄くん、この機会に是非とも君の妖異幻怪な身体を解剖させて貰いたいんだけど! 正直それ目当てで此処に来たと言っても過言ではないよ!」
「早く臨也を、治してくれ!」
熱を込めた俺の言葉に、新羅は不思議そうな顔をして口を閉じた。会う度に解剖解剖と言っていたから特別珍しくもない。今まで丁重に断っていたが、臨也が死んでしまうかもと思っていた俺は涙目になりながら告げる。
「そうしたら、ちょっとくらいなら、しても良い」
「ホント!?」
眼を爛々と輝かせる新羅にほんの少しだけ後悔したが、それなら話は早い! と上機嫌になった新羅が鞄を漁り始めたのを見てまあ良いかと考えた。だがすぐにその考えが打ち砕かれる。
「あ、薬忘れた」
「……」
「いやあ君の未知の身体にメスを入れられると考えたら、セルティが引きとめるのも程々に僕は此処まで来てしまったからね! うん、悪いんだけど薬買ってきてくれない? 市販ので良いから。臨也の事だからこの家に薬なんて無いんだろう?」
え、と口を半分開いた俺を余所に新羅は財布から千円札を取り出した。買ってきて、って、俺に?
差し出されるままに受け取ってしまった俺は茫然と二人を眺めていたが、専門でもないのに聴診器を当て始めた新羅の背が早く行けと言っているように見えて俺はそそくさと着替えに行った。
一人で外に出る、俺が? そう思うと奇妙な昂ぶりを感じた。今まで必要無かったから俺は外に出ず、不健康な引きこもり生活を送っていた。だが今回は臨也の為という立派な理由がある。俺を支配したのは、見知らぬ土地へ遠足へ行く小学生のような期待感ではなく、言葉も通じない異国に飛ばされるような不安感だった。臨也が隣に居ない状態で、町に繰り出る事がこんなに恐ろしい事だなんて考えた事もなかった。記憶が曖昧な、まだ両親と住んでいた時は毎日のように外に出ていたというのに。
でも、行かないと。事情を話せば新羅が行ってくれるかもしれないが、一秒でも早く臨也に眼を覚まして欲しかった。閉ざされたままの世界を解放する為に。身支度を整え、滅多に使わない靴を履き、一度だけ振り返って扉を開けた。
「……」
見慣れた廊下だというのに、臨也が居ないと途端に知らない場所に早変わりする。零れそうになる涙を留め、エレベーターでエントランスまで降りた。
玄関から見上げたマンションは、毎日を過ごしているというのに、他人のような顔をして聳え立つ。歩き始めても何度も振り返ってそこにあるのを確認する。何度か人とぶつかり、過剰なまでに怯えながら、振り返る事はやめない。陽に焼けていない白すぎる肌、中途半端な身長に脱色した髪。幽霊のように佇んでいる俺に、周囲の大人は奇異の眼を向ける。俯きながら進むが、平日の真昼間に明らかに中学生の年齢である俺が歩いているのを見て不思議がっているだけだと気付き、薬を売っている店を探す。途中でコンビニを何件か見つけたが、どれも交番が近くにあって近寄れなかった。補導されたら色々面倒だ。「教育を受けさせる義務」を堂々と放棄している臨也に迷惑をかける訳にはいかない。庇う所が違うんだが、無知な俺は気付かない。
慣れない直射日光の刺激に眼と肌が痛む。人ごみに紛れれば警察にも見つからなさそうだが、あんな人の濁流に自分から呑まれるなんて絶対に嫌だった。
それにしても店に辿りつけない。薬局に当たる場所を必死で探すが、人の洪水に思うように動けない。一度、店の日陰に入って休憩していたら、急に後ろから話しかけられて心臓が口から出そうになった。
「お兄ちゃん、どうしたの?」
「あ……?」
そこには柔和な表情を浮かべた初老の女性が立っていた。割烹着のようなものを着ている辺り、この店の店員かと意識を向ける。なんと説明したら良いのか決めかねて口をぱくぱくさせている俺に向かって女の人は聞いてきた。
「迷子かい?」
「い……いや、そうじゃ、ない。あの、薬局ってどっちですか……?」
肌が白くて金髪の俺をひょっとしたら外国人だと思ったのか。しどろもどろに用件を伝えた俺に向かって若干驚いたような顔をしている。普通に日本語を喋ったからだろうか。あんたも日本語で話しかけたくせに。
迷子みたいで迷子じゃない俺に向かって女の人は笑って、太陽がある方を指差した。どっち、と聞いたのは俺の方だけど、正直それだけじゃ判らなくて困っていると、なんと「一緒に行ってあげようか?」と言ってくれた。
「い、いや、そんな悪いです」
「あんたこの辺じゃ見かけないからさあ。ちょっと待ってなさい」
そのまま女性は一度店内に入り、また戻ってきた。出掛ける旨を伝えに行っていたのか。
傍から見ればお節介ともとれる行動に俺は安心していた。道中、連れ立つ者があればなんとかなりそうだ。
「兄ちゃん、なんて言うんだい?」
「あ……えっと、静雄です」
「静雄くんかー。御両親は?」
「……いない、です」
「あれま」
彼女は眉を下げ、思い出させてごめんねと言った。正直両親の顔も朧げな俺は、二人の事に謝られてもぴんと来ない。
「でも今は、一緒に住んでますから。えっと、兄みたいな奴と」
「引き取り手さんかね? 幸せかい?」
「はい」
誇らしく、充実感を溢れさせて初めて笑みを見せる。例えどんな常識外れな環境だろうが、同居人が可笑しな奴だろうが俺は臨也が好きだったし満足していた。悩みと言えば今朝の添い寝の事くらいで。
色んな人間に向けられるべき感情のベクトル、それの9割以上が臨也に向いていた。臨也が意図的に俺が外に出たがらないようにしたのも、曲がった愛情という依存を矢印にして向けさせるようにしたという事も、俺は知らなかった。そんな事思いつきもしなかった。それが俺だって、思っていた。
「家族はそいつだけですけど、俺は幸せです」
「そうかい、良かったよ。大事にしなさいよ」
お節介な女性の言葉もすんなり俺に入ってくる。そう、俺は臨也さえ居れば良い。俺の世界も感情も想いも精神も身体も声も指も舌も何もかも臨也のものだ。臨也が居れば満たされる。臨也が居れば幸せだ。だから早く眼を覚まして、俺を見て欲しい。臨也の声、もう半日以上聞いていない。あの赤い眼に見つめられていない。触れられていない。辛い。切ない。早く帰ろうと意気込み、丁度緑色の屋根が見えてきた。
「あそこだよ」
「あ、ありがとうございます。何かお礼……」
「そんなもの要らないよ、親切は受け取っておきな」
そう言って若々しく手を上げて来た道を引き返していく女性に何度も頭を下げた。誰かにこんな感謝した事はない気がする。臨也を抜いて。
そこは病院と併設しているらしく、平日の昼というのに車でいっぱいだった。急いで店に入ろうとする俺の視界に、人影が映る。小さな男の子二人だった。
背の高い方がマスクをして激しく咳き込んでいる。小さい方が、必死に背をさすっている。兄弟だろうか。その答えを肯定するように、後ろから母親と思われる女性が早足に二人に追いついた。
「お兄ちゃん、平気?」
「うん……でも咳、止まんない……」
言いながらけほけほと息を吐く少年。労わるように肩を抱いて歩く弟。良いな、兄弟って。兄弟が居れば臨也が遠くに出て留守番する時に話し相手が居て楽だ。テレビは一方通行だから好きじゃないし。でも、そうしたら臨也は俺に構ってくれる時間が減るから嫌だなあ。矛盾してるよ俺。都合の良い時だけ居てくれる、そんな奴が居ればなあ。
三人を見ながら取り留めの無い事を考え、ふと、その姿が何かと重なり、だぶり、ぶれる。頭の奥が痛くなり、モノクロの映像が雑な音声に混じって展開される。俺も昔誰かに兄と呼ばれていた気がする。誰だ。違う、俺には臨也だけだ。家族なんて、弟なんて、居ない。居ない居ない、居ない!
『体調悪そうだよ、兄さん』
「……幽……?」
脳裏に浮かんだ言葉。言った黒髪の子供。俺の口から飛び出た知らない名前。
「か、すか」
『また喧嘩してきたの? 怪我無かった?』
『……掠り傷、って。血が出てるよ。救急箱持ってくるから』
『俺は離れないよ。兄さんの味方』
『幽、俺が怖くないのか?』『別に』
「かすか、かす……か。……幽」
「……幽……平和島、……幽……」
そうだ。居た。俺には、弟が。
「幽……幽っ……!」
大好きな弟が。喧嘩別れした弟が。俺を兄と呼ぶ、唯一の人間が。
狂ったように三文字を繰り返す俺の横を、三人が通り過ぎる。思わず振り返り、絶望的な幻覚が見えた。母親に手をひかれながら、幽と歩いた病院の道。
「う、う、ああ、あ」
自分で封じたのか、封じられたのか、判らない。判らない、何も判らない。俺には何も判らない。
「いざや、いざ……かすか、……かすか……かす、か……?」
吐き気が込み上げる。急激な情報整理に頭が付いてこない。どういう事だ、なんで今まで忘れてたんだ。一瞬だけ考えたが、すぐに別の感情に支配される。
会いたい。今すぐに。そうだ、施設に入れられて別々に引き取られ、引き離された俺達。臨也は、臨也なら知ってるんじゃないか?
会いたい会いたい会いたい会いたい会いたいあいtttいたあいたいああいたあいあいたいかすかすかすかすかすかすかすかかかすかすすかかすか
俺は案内された道をUターンする。途中でぶつかる人に一瞥すらくれない。臨也に会いたかった。幽に会いたい為に。
久しぶりの全力疾走に全身の筋肉が悲鳴を上げる。滅多に走らない為にすぐに肺がキリキリと痛む。金糸が汗で額に貼りつく。この道に終着点は無いのか、と思うくらい長い長い人の迷路。だが実際には5分程度で、マンションのエントランスに飛び込むと、暗証番号を打ち込む。認証されて扉が開くのも待ち切れなくて、エレベーターを待つのも億劫だ。階段を駆け上がって20階以上も上にある自宅を目指す。永久の回廊に何度か足を滑らすが、ようやく到達したそこを、ヒビが入るくらい強くノブを握りしめ、開く。玄関は明るく開放的だった。
「はっ、っは、……はあ」
靴を脱ぐのももどかしい。人生で一番性急な時を刻んでいる俺は事務所とリビングを横切り寝室を破壊する勢いで扉を開けた。
騒音に眼を丸くしていたのはこちらに背を向けている新羅。そしてベッドから上体を起こしている臨也だった。俺が外に出ている間にいくらか体調を持ちなおしたのか、少しだけ楽そうな顔をしていた。顔が赤いのを見るに、まだ熱はあるんだろうけれど。面食らった俺は扉の前で息を切らせ、乾いた喉を潤す為に唾を飲み込む。
「おかえりー、思ったより早かったねえ。あれ? 薬は?」
俺の手に何も握られていないのも見た新羅が首を傾げる。だが俺の意識の中で新羅は既に除外されていて、声すら聞こえなかった。乱れた呼吸で凝視している俺に気付いたのか、今日初めて、臨也が声を出した。
「シズちゃん、外に出たんだって? 大変だったでしょ、俺が居なくて平気だった?」
自身の体調が悪いのに、臨也は俺を気遣う言葉を投げかけた。内心は許可無しに下界へ降りた事を面白く思っていないかもしれないが、声が掠れているのを見受けるに、本心かもしれなかった。
臨也の声が俺の身体を侵食するように浸透する。止まっていた思考が動き出し、俺は疲れて悲鳴を上げる足を動かし臨也に近付く。只ならぬ様子の俺に、臨也は外で何か嫌な事でもあったのだろうと解釈し、病人なのに俺を受けとめようと両手を広げた。だが俺はその肩を掴み、そして、禁断の言葉を投げてしまった。
「い、いざや。幽は何処だ?」
「――え?」
臨也は笑った表情を固めたまま止まる。テレビが綺麗に一時停止を起こしたような止まり方で、俺の台詞が完全に予想外だったのだろう。情報屋を名乗りちょっとやそっとの事じゃ動揺しない臨也がこんな醜態を見せるとは。
だが興奮している俺は臨也の心境まで察する事は出来ず、早口に捲くし立てる。
「思い出したんだ、俺には弟が居る。幽って奴がいる。そう、俺より歳は三つ下だ。髪が黒くて、ええと、なんか何時も無表情だけどすっごい優しいんだ。でも幽は別の人の所に行ったからずっと会ってない。店で俺と幽によく似た奴を見かけて、それで思い出したんだ。なあ臨也なら知ってるんだろ? 幽に会いたい。幽は何処に居るんだ? あいつ今どうしてるのか知りたい。無事なんだろうか、幽は俺の事心配してたから。俺も幽が好きだから、兄弟だし、な、臨也。臨也なら判るんだろう? 教えてくれ」
色々なものが止まっていた臨也が、ゆっくり動き始める。瞳孔から、指先、顎。細部が揺れるように動き、珍しく沢山喋った俺は呼吸が荒くなる。俺の呼吸を整える音以外、何も聞こえなかった。
臨也の変化に気付いたのは、臨也の性格や性癖を見落としている俺ではなく、俺よりも長く臨也と付き合っている新羅だった。
「い……臨也、落ち着こう。ね?」
臨也程ではないが、俺も新羅とは多少の交流がある。臨也と旧知の仲という事で初対面の時は嫉視していたのだが、新羅には既に他が眼中にないくらいの意中の相手が居ると知ってからはそれなりに仲良くしている。そして少なからず言葉を交わした新羅の今の台詞が、聞いた中で最も震えていると俺は気付いた。
まず最初に新羅を見上げ、新羅の視線を辿って臨也の顔を見た。何時もより少しだけ引きつった、“何時もの”笑顔。
「へえ……シズちゃん、俺の知らない所で、お勉強したんだね」
「……?」
臨也の手がそっと俺の金髪を撫でる。その優しい仕草と甘い表情に俺は騙された。
その手が俺の髪を思い切り掴んで引っ張り、ぐっと顔が近付く。苦痛に歪んだ顔が引っ込むくらい、臨也の無機質な笑顔が恐ろしかった。
「つまらないなあ」
臨也の声は心底本音らしく、その人間らしい声と機械的な顔が比例しない。
熱で赤かった顔は何時の間にか皿みたいに白くて、黒髪と白い肌、そこに浮かぶぽっかりと真っ赤な瞳が、俺の心を壊す。
「勝手な事してさあ、あーあ、今までが無駄になったよ。どうしてくれんの? シズちゃん知ってる? 人間という種をコントロールする労力をさあ!」
「ひ……あ……」
ぶつぶつと何本か抜けた髪とは関係無く、眼のふちに涙が浮かぶ。怖い。今の臨也は怖い。
俺の瞳に浮かぶ、絶対的な恐怖を見て取ったのか、臨也は至近距離でくすりと笑った。
「だから外には出さなかったのに……、あんな有名な奴、外歩けばすぐ知っちゃうからねえ……」
ぼそりと呟かれた言葉、意味なんて判らなかった。脳が理解するのを拒み、ただこの恐怖から解放されるのを望む。
かちかちという音がする。俺の歯が、震える身体に呼応して鳴る音だ。狂気を孕んだ、臨也という存在。恐ろしい肉食獣に、俺は馬鹿みたいに懇願した。
「あ……、ぁ……ゆ、……る、して……」
肉食が草食の言う事なんて聞く訳無いと、心の何処かでは気付きながら。
「いやだよ……、キズモノになったシズちゃん、どうしようかなあ……」
新羅の息を呑む音が聞こえる。別次元で展開されるそれに、ついていけていないのか。俺ですら取り残されているから。
臨也が次に言う台詞。予想が出来た。字面で見ればなんともないけど、臨也が本心からそう思いながら言えば、きっと俺は壊れる。心が跡形もなく。
「……い……や、だ……いわ、ない……で……」
心がフリーズした。
「捨てちゃおうかな」
世界の崩壊の音は、愛している臨也の声だった。
「っ!! い、嫌だっ……嫌だ臨也、臨也臨也、赦して、赦して臨也ぁ……!!」
縋りつこうとした手は叩き落とされる。行き場をなくした俺は、どんな事をしても臨也に繋ぎとめて貰おうと必死になって腕を伸ばす。
だがその腕は、唐突に頬に襲った激痛によって引っ込めるのを余儀なくされる。
「え……」
薙いだ臨也の右手。殴られたと気付くまでには、かなり時間がかかった。今まで臨也に暴力を振われた事なんてただの一度も無かったから。ぶたれる、って、こんなに痛いものだったっけ。思い出せない。
臨也が俺に手をあげる事は無いと勝手に決め付けていた。突然の衝撃に思考が大幅に遅れ、ただ事実だけがノイズ混じりの脳髄に流れた。
俺は何を思って言ったのか本人にすら判っておらず、唇は覚束無く「か……、す、か」と不協和音を歌った。
それを俺は、一生後悔するとも知らず。
立ち上がった臨也は俺を見くだし、軽蔑と侮蔑の混じった眼差しを容赦無く振りかざす。臨也にすてられた。そう思った瞬間。俺と言う存在が自ら俺を全否定し、愛を唄う呪いの刀のように俺の神経を犯す。零れた涙は何を想って流れたのか。
「い、」
何か言おうと新羅が口を開く。その音が俺を苛み、俺は頭を抱えながら絶叫した。俺は生きられない。臨也が居ないと生きられない。植えつけられたそれは臨也の予想よりも深く強く俺を蝕み、ぷつりと理性の糸が切られた。
「ああ、あ、あ、ああああ、あ、あ……ああ…あああ……、あ、あ、あああ!!」
臨也の眼を見た。嘲っていた。俺を。
存在理由が無くなった俺は口元を押さえながら飛びあがり、部屋を飛び出し、玄関を抜け、エレベーターに乗る。重力に吐き気を覚えて嘔吐しそうになるのを必死で堪え、代わりに眼からは止めどなく涙を流しながら、曇り空の街中を駆け出した。何時も窓から見ていた風景を頼りに、人が疎らな公園に辿りつく。水道を開きながらぐしゃぐしゃになった吐瀉物を逆流させながら、様々な不純物で汚れた俺の顔は見るに堪えないんだろう。心臓が耳の横で鳴っているようだ。前後不覚となった俺は視線をマンションに向ける。臨也の眼が俺を支配する。見られている気がして、捻った蛇口を戻さないまま逃げ出す。どうしてだ、なんでだ、臨也は俺を嫌いになったのか。臨也に愛されていれば理性を保てた俺は、こんなに惨めで無残な姿だ。臨也は俺に幽を思い出させたく無かった。どうして、どうして、どうして。ああ、そうか、臨也は俺に見て欲しかったんだ。自分だけを見て欲しかったんだ。だけど幽は俺のたった一人の家族だ。それに、別に俺は再会しても臨也の元を離れる気なんか無かったのに。臨也の馬鹿、勘違い野郎、助けて赦して愛して、臨也臨也臨也!
何処に向かっているのか、俺が聞きたかった。ただ臨也から逃げたかった。もう俺は赦されない。臨也が居ない世界。此処は何処だ。臨也が居なきゃ、何にも判らない。
「臨也、臨也……!」
走っている間に百回は呼んだだろう名前、あの優しい声でもう二度と俺の名前を呼んでくれないのか。最後に俺に言ってくれた言葉が捨てるだなんて。これは罰なのか。臨也以外に眼を向けた俺への戒めなのか。
既に見知ったものが何一つ見当たらないそこで、俺は足を止めさせられる。転ばせられたんだ。俺と同じ、でもくすんだ汚らしい金髪の男に。
「なに急いでんの?」
「てか君中学生でしょ、こんな時間にさ」
勢いよく転んだ俺にげらげらと品の無い笑い声があがる。泣いている俺を見て更に笑い声が高まる。すべてが憎くて憎くて、ゆらりと立ち上がった俺は一番近くに居た不良の胸倉をつかんだ。
明らかに相手は社会人。身長だって頭一個俺より大きい。でも化け物であるがゆえに臨也に拾われた俺は、空いた手で男の首を絞めた。
「お前が居なきゃ……」
「っぐ、あぁ」
「臨也は俺を愛してくれたかもしれねえのに!!」
本能が、意味のある言葉を喋らせてくれない。腹を膝で蹴り飛ばし、肋骨が折れる感触を確かめて手を放す。格下だと思っていた俺の逆襲に、全員が驚いている。
「お前ら全員殺せば臨也は赦してくれんのか……?」
「な、」
「なあ死んでくれよ……、そうすれば臨也はきっとまた……は、は、……死ねえええ!!」
固く握り締めた拳で人間離れした膂力を暴力に変え、顔を殴る。きっと整形手術が必要になるが、殺す気で使っているんだから気にする必要無いだろう?
効率が悪くて、ガードレールを引っこ抜いた。俺の腕の細胞が何本がびきびきと裂ける音が聞こえたが、そんな事どうでもいい。未成熟な身体を代償に臨也の愛を貰えるなら。
遠心力をたっぷり乗せた一撃。何人かが宙を舞い、確認する事もなく気絶する。俺に本能的な恐怖を感じたのか、誰も俺の周りに近寄らなくなってきた。
「ははっ、臨也ぁ! 見ろよ俺、こんなに簡単に人を殺せるんだぜ! 臨也、臨也? 何処に居るんだ?」
実際には気絶しているだけで誰も死んではいない。俺は転がった死体に近い生身の身体に眼もくれずきょろきょろと周りを見渡す。
「おっかしいなあ……。なんで居ないんだ? 臨也……。……いざ……や……」
不良が全員逃げる足音を聞いて、脳が少しだけ正常に戻る。閑散とさせられたその場所。俺はガードレールを足元に落とし、振動が収まるまで見つめていた。ぽつぽつと雨の降りだしたその場所を後にし、俯きながら足を進める。無意識だが、きちんと臨也のマンションとは反対方向に。壊れた頭は事態を正常に理解していた。もう俺は臨也に愛されないって。俺にとって臨也の言葉は何よりも強い執行力を持つ。
大通りに出ると、降りだした雨に道行く人々が走っていた。中には折りたたみ傘で凌いでいる人間も居て、手ぶらな自分はこの上無く異質だった。強くなる雨脚。強くなる疎外感。あてもなく彷徨い何時の間にか芯までぐっしょりと濡れる。土砂降りになった天気を仰ぎ見て、俺の涙を誤魔化した。再び下を向き歩き始める。金髪から滴る水も気にせず、足取り重く進む。臨也を糧に生きてきた俺に明日を生きる能力は無い。
「……」
傘を差して視界が狭まった周囲の人間は、俺に一瞥すらくれない。泥をかけられ、傘をぶつけられても詫びも入れない。臨也の居ない世界はこの上なく冷たかった。気が狂いそうな俺は出来るだけ人通りが少ない場所に足を進める。今にも攣りそうなくらい疲労している頼りない足が文句を言うのも構わず、ひたすら誰も居ない所に行きたかった。そんな事をすれば、それこそこの世に孤独だと再認識させられるのだろうが、俺は人の海に飛び込めるほど強くない。
ふらりと立ち寄った、自宅の公園とは造りの異なるそこに足を踏み入れる。平日の午後、豪雨。誰も居るはずがなく、視線をぐるりと巡らせた。遊具の種類や場所、広さ。何もかも違って、本当に知らない土地へ来たんだなあと何の気なしに思う。重たくなった靴。靴ずれを起こして、歩き疲れてとても痛い。遊具のトンネルを潜り、雨を防いだ。既に中も水浸しだが、吹きさらしとは違う安心感にため息を吐いた。膝を抱え、顔を埋める。凍えた身体が何度か震えたが無視し、朝から何も口にしていない胃が苦情を漏らす。時間は太陽が出ていないから判らないが、午後4時か、5時か。結構な時間歩き回ったらしく、疲労感でとても眠い。そのまま死ねたら幸せだなあなんて思いながらゆっくり眼を閉じた。
外の雨はざあざあと、トンネルに当たる水はばしゃばしゃと、垂れて反響する水は、ぽちゃん。それぞれの楽器で俺を鎮め、凭れた背中が痛いが気にしないように努める。捨てられた俺にはお似合いだと自嘲的に笑う。黙っていると臨也の最後の言葉がまざまざと思い出され、恐ろしくて死にそうだ。
俺の甘ったれな頭は、壊れそうになる精神に脳がセーブをかけ、心の生存本能が俺の意識を閉ざし、考えをシャットアウトした。
一体どれだけ気絶していたのか、俺は急激に揺り動かされた振動で眼を覚ます。
すっかり真っ暗になった世界、雨は少しだけ弱くなっていた。暗闇の中で蠢くものに気付いた俺は、俺を揺さぶった影に焦点を合わせた。
視界に入ったのは、思わずうっと呻くぐらい明るい光だった。かたかたと音を立て、それが付き付けられる。光に眼が慣れてきて飛び込んできた文字は、無機質なのに感情がよく伝わった。
『こんな所でなにをしているんだ、静雄!』
「……セル……ティ……?」
暗闇に融け込む黒のライダースーツ、フルフェイスのヘルメット。俺の数少ない臨也公認の友人、セルティ・ストゥルルソンが眼の前に居た。
何でセルティが此処に居るんだろう。セルティと言って浮かぶのは、新羅。ああそうか、俺を心配した新羅がセルティに俺を探すように言ったのか。
狭いトンネルに身を縮こまらせる俺、そして同じくらい屈みこんだセルティ。二つの異形がこんな狭い場所に押し籠められているが、俺はセルティを見ても何の感情も沸き上がらず、ぱっと手を振って顔を反対側に向けた。
「放っておいてくれ……」
『何を言っている。震えてるじゃないか!』
臨也と関係が深いセルティを見たら、一気に臨也の事を思い出した。眠りながら死ぬなんて甘い事、やっぱり臨也は赦してくれないんだな。そういえばセルティは黒い鎌を生み出せるんだ。死神みたいに。はは、死神のお迎えなんて人間じゃない俺にぴったりじゃないか。
「なあセルティ……」
『なんだ』
「……俺の、首……刎ねてくれねえ……?」
指で自分の首をちょいちょいと叩く。死にたい、と言い、やつれ切った俺の顔にセルティはぎょっとしたような仕草を見せるが、怒りなのか、PDAを叩く手がかなり粗い。
『ふざけるな! 自殺の手助けなんてまっぴらごめんだ。新羅にお前を連れてくるように言われた。これは依頼だから私はお前の意思を無視して連れていくぞ』
「殺してくれよ……もう、……生きる意味が無いんだ……」
このままでは舌を噛み切って自害しそうな俺にセルティは一発殴り、そして何処からか現れた影で俺を拘束した。拘束というよりは保護に近く、まともに歩けない俺を担ぐにはセルティの細腕では不可能で、そのままバイクのサイドカーに乗せられた。
降り注ぐ雨から俺を守る為にわざわざサイドカーに屋根までつけてくれ、セルティの優しさが伝わる。だが俺はまるで死んだように落ちくぼんだ眼をセルティに向ける。
「助けてくれ、セルティ……俺を解放して……」
付き付けられたPDAには怒りが滲み出ていた。
『死が解放なんて私は認めない!! 臨也に好かれたいならどんな手を使ってでも、あの男を掴んで離すな!』
「……」
『生きようとしない奴の助けなんか死んでも嫌だ!』
「……優しいなあ……セルティは……」
その優しさが、俺を殺すんだ。
そう呟いた俺を無視し、馬の嘶きを響かせながらセルティはバイクを操った。
切り替わる町の風景。それを眺めながら既に生を諦めた俺の思考はどうやって死ねば臨也は赦してくれるのかという発想に切り替わっていた。
俺は怪物的な膂力を持ち、頑丈な身体を持つ。だが中学生という未発達な肌は切り裂くには十分だし、人外の力以外じゃ首を刎ねるのは無理かもしれない。あ、セルティには首が無いんだ。少し傷ついてたのかな、ごめん。じゃあどうしよう。失血多量って手があるか。全身の皮膚を破れば死ねるかな。舌も噛み切れるか微妙だからな。新羅に頼んだって自殺薬なんかくれないだろうし。というか、自分で試した事無いけど俺の皮膚ってどのくらい力を込めたら切れるんだろう。
考えていた時に、律儀に信号で止まるセルティ。何気なしに道路に眼を向けると、都合良く雨に濡れた硝子の欠片を見つけた。手を伸ばして拾い上げる。それに気付いたセルティが訝しげな動作を見せるが、俺は躊躇い無く、リストカットでもするようにその欠片で左の手首を引き裂いた。
『何をしている静雄!』
「……駄目だな、こんなんじゃ……」
影が俺の手にある硝子を包む。切れた肌の線から鮮血が伝うのが暗闇でもよく判った。当然だが致死量にはとても届かない。硝子でこの程度じゃ、もっと固くて鋭いものじゃないといけない。それが判っただけでも収穫はあったな、と取り乱すセルティの横で俺は社長が座る椅子に腰かけるように背もたれに寄りかかる。声を持たないセルティは、頑なにPDAを突き付ける視線さえ避ければ意思を伝えられない。俺はそれをすべて拒絶しながら眼を閉じる。
信号が青になり、やむなくバイクを発進させるセルティ。優しい彼女を悲しませる結果になるけど俺は生きられない。俺にとって一番重要なのは臨也だから。
やがて辿りついた新羅のマンション。臨也のよりは劣るけど十分高級感が溢れている。新羅の自宅がある階までバイクを移動させ、影で作ったサイドカーを消滅させる。座り込む俺を無理矢理立たせ、怒りが収まらないセルティはドアを蹴り飛ばす勢いで開け放つ。セルティに引っ張られながら玄関口に上がった俺は自分の服や髪から滴る水滴で床を汚す事を申し訳無いと思いつつ、廊下を曲がる。
「っ、?」
曲がった途端、前のセルティが足を止める。何があるんだろうと額に張り付いた前髪の隙間から、臨也を見つけた。
「あ、……ひっ、」
それだけ零し、思いがけない臨也との再会を脳が拒絶するように、臨也を視界に入れ臨也だと認識した瞬間に俺は恐怖の余り気絶した。
ごとりと重い身体が床を打つ。臨也の声が聞こえない。聞きたくない。俺を否定する言葉、俺を拒否する言葉。そんな言葉はもう、要らない。もう、……たくさんだ。
今日だけで二度目の失神。それに目覚めたのは余り時間が経っていない頃だった。
白い天井、寝かされているんだな、と浅い強制的な眠りにすぐ意識が覚醒する。俺の右手には点滴が刺されているが、針を何度も刺したのか、周りに赤い斑点が見える。此処は新羅の家だけど臨也も居るんだなと情報を整理し、上半身を起こす。着替えさせられたのか、ずぶ濡れだった薄いタートルネックが白いカッターシャツに変わっている。
淀んだ目元で視線を泳がせる。するとサイドテーブルに“都合が良すぎる”形でモノクロのそれが置いてあった。
取っ手は黒、留め金は銀、刀身は白銀。無骨にして滑らかな臨也のバタフライナイフ。ああ、これだ。俺を殺すのはこれだ。
手に取り、臨也の真似をしてぱちんと開いた。まるで俺の為に作られたかのように手に馴染む。サイズとか形とかそういう問題ではなく、俺の気の所為の範疇なのだろうが、ナイフがどくんと振動したように感じたんだ。手に押し当て、引くような動作をする。これで良い。俺は顔を上げた。恐怖や迷いからではなく、密室の室内なのに視線を感じたからだ。誰も居ないのに感じた俺を見る眼。ああ、きっと臨也だ。さっきのゴロツキをやった時に俺は無意識に叫んでいたな、臨也を呼んで。見てくれ、って。でも、今度はちゃんと見ててくれるんだな。嬉しい。
俺は清々しい程に爽やかな笑顔を浮かべ、ナイフを「滑らせるようにして刃を立てる」。リスカのようにスライドさせるのではなく、切っ先がちくりと肌に食い込むように、垂直に立てた。重力でゆらゆらと揺れるそれを見届けた後、ナイフを逆手に握り、骨に当たらないように手首に思い切り突き立てた。
「っぐ……!」
流石の激痛に眉が寄せられる。見たいような見たくないような祈る気持ちで視線を落とすと、根元までしっかり突き刺さっていた。腕を裏返すと、切っ先の先端が皮膚を突き破り銀が覗く。見事に貫通していた。
どくどくと血が溢れ清潔なシャツとベッドのシーツを汚す。自分の目の前まで腕を持ち上げ、鑑賞物のように眺める。確かに、現実味のないそれは芸術と呼んでも良かったかもしれない。白い肌を突き抜けた銀の刃物。見た事のない血の量に俺は笑った。興奮で汗をかいている。垂れた血液が白いキャンパスを染めていくのをじっと見つめていると、扉が開き、室内なのにヘルメットをした首無しライダーが入ってきた。
「―――」
セルティは恐らく俺の名前を叫んだんだろう、足を止めた間があったからだ。だが俺は芸術品を見つめるのに夢中で視線をずらす事すらしない。
『お前は馬鹿か、何時から自殺志願者になったんだ!』
PDAに打ち込まれる文書を読むのも面倒臭く、激痛に苛まれる左手を眺め、柄を握る。引き抜けば出血多量で本当に死ねるかもしれない。
恍惚とした表情の俺に怯えたのか、セルティの肩が震える。怖がらせてごめん、シーツを汚してごめん、セルティ。でも、でも、俺は。
ぐち、と新たに肉を引き裂きながら俺はそれを引き抜こうと力を込める。だが、室内に入ってきた気配で動きが止まった。気配だけで俺はその人を判別出来る。今は視線を合わせるのが怖くなかった。
「臨也……」
生気の無い眼で俺は臨也を見つめた。臨也は慌てふためくセルティと違い、この惨状を見ても驚きもしないし、意外そうな顔もせず、淡々とした無表情だった。いつもの黒い服に黒い上着。風邪はもう大丈夫なのか、と今や自分の方が看病される立場なのを棚に上げて心配する。
「いざ、や。見て」
もう一度呟く。俺はよく見えるように左手を掲げる。臨也の所有物に貫かれた残酷な矛。くっく、と喉の奥から不気味な笑い声が出た。暫く肩を震わせていると、臨也はそれを見て表情を変えていない事に気付く。そして俺はぴたりと笑い声を止め、セルティを退け、ベッドから降りる。だが足に力が入らなくて歩けない。そのまま足を引きずるように這って進む。左手は力が無いから、事実、右腕と太もも、足先だけを頼りに。殺人現場のように俺の手首から流れた血液が血痕を繋げる。狂ったような顔の俺が、死体のように這って近づいて来るのに、臨也はほんの微かに笑ったままそこから動かない。
赤ん坊のように、はては犬のように。突き刺さったままの臨也の感触。俺は臨也の足元まで近づくと、ぐっと右腕を伸ばし、臨也の上着を掴む。縋るような手つきのそれを、臨也は今度は振り払わなかった。
「……臨也……、お願いだ、嫌わないでくれ。臨也の言う事ならなんでも聞くし逆らわない。幽の事忘れろって言うなら忘れる。死ねって言うなら今すぐこれ抜いて死ぬ。でも、でも……嫌わないで。俺を傍に置いてくれ。愛してくれ。臨也無しじゃ……俺は、生きられないっ……」
「随分と我侭なお願いだね」
びくっと手が震えるが意地でも離さない。
「しかも要望も多い。でも、俺は自殺したがる人間はいやだなあ、重たいからね」
「っなら生きる……! 生きるから、俺を……生かして、欲しい」
上着を掴んでいた服をずらして臨也の剥き身の手に触れる。一度は拒絶されたそれ。そっと引っ張って、自分の上体を起こす。
形の良い人差し指を口に含み、舌で舐める。臨也は抵抗せずに、奥で放心したように俺たちを眺めているセルティに顔を向けた。
「悪いけど運び屋、新羅を呼んで来てよ」
「……」
セルティはヘルメットを傾けて判ったというように頷くと足早に部屋を飛び出る。
それを横目で確認した臨也は突然跪く。急に口の中の指の角度が変わった事からくぐもった声が漏れるが、すぐにそれが引き抜かれる。
「っ……」
膝をついた事で距離が縮まった臨也は、未だ突き刺さったままのナイフに手を置き、ぐりぐりと動かした。
「っぐぁ……!」
思わず眼を閉じた俺の耳元に、甘く穢れた囁きを落とした。
「今回だけだから、ね?」
一気に頬に流れた涙、それの感触にがっくりと力を緩めた俺は何度も頷く。しゃくり上げながら臨也を見上げると、両手で頬を持ち上げられ、視線を交差させた後に口付けを落とされる。
甘美な魔法。あんなに欲しかった、求めていた臨也が目の前に居る。俺は初めて自分から舌を入れる。わざとらしい動きでそれを迎え入れた臨也の口内は凄く熱くて、溶けそうで。誘うように奥へ逃げる舌を追って何度も絡める。稚拙な動きをリードするように臨也は舌を動かす。何も考えたくなかった。身体がぐちゃぐちゃになって、頭がどろどろになるまで犯されたい。何も無い俺に薬という毒で満たす臨也。
「ん……ぁあ……、いざやぁ……名前……呼んで……」
「シズちゃん……?」
「もっと……」
「好きだよシズちゃん。大好きだよ……、ずっと俺のものだよ、シズちゃん……」
ナイフも気にせず、臨也の頬を掴んで、その後に首に絡み抱きつく。左手から伝った血液が臨也の頬を汚すが、不快に眼を細めたりせずに微笑みを浮かべる。濡れた吐息、泣き腫らした瞼を指でなぞってくれる。不安が一気に溶けていく。この形がどんなに歪んでいようが間違っていようが、俺には臨也が必要なんだ。臨也は、素直じゃないだけなんだろうか。そう思いたい。出来る事なら同じ気持ちであって欲しい。
俺の心に穿たれた楔。約束。俺の手にあるものと同じで、引き抜かれたらきっと死んでしまう。
血塗れで抱き合う不登校中学生とイカれた社会人に新羅は盛大に溜め息を吐き、慣れているとばかりに俺の左手を治療し始める。他人事ながら、新羅のこの適応能力の高さには脱帽する。諦めが強そうだけど。
「で、静雄くん。解剖の日取りは何時が空いてる? 良いよね? させてくれるって言ったよね?」
「ちょっと新羅、何言ってんのさ」
「静雄くんが良いって言ったんだよ! まさか君の治療を引き受けただけで許可をくれるなんて私は歓天喜地に浸っているよ!」
「玩物喪志にならないと良いね」
既に会話に取り残されている俺の顔を臨也は覗き込んだ。
「シズちゃん、簡単に許可なんか出しちゃ駄目だよ」
「でも……。うん、でも、臨也が駄目って言うならやっぱやめる」
「それじゃあ契約違反だ!」
ぷんぷんと怒り出した新羅の背後に立つセルティは、比べ物にならないくらいの怒気を放っていた。
『新羅……あれほど解剖とすぐに口にするなって言ったはずなのに!』
「誤解だよセルティ! いや、もちろん、その……」
『今すぐ取り消すなら赦しても良い』
「ごめんやっぱ次の機会に」
俺と臨也とはまた別の種類の力関係が働いているんだなあとぼんやり眺める。多分これは貧血によるものだと思う。セルティがこっちを見ているのに気付いた俺は、ばつが悪くなって軽く頭を下げた。
「……悪かった」
『私で良ければ、その、相談に乗るぞ。何時でもな』
こくりと頷き、麻酔をかけられた手から何時の間にかナイフが抜かれた。止血作業に勤しむ新羅の手を眺め、貧血による意識混濁か、それとも眠気の所為か、俺は臨也の胸に頭を預ける。温もりと心音。これだけで俺を此処まで安らかな気持ちにしてくれる。
がっちり固定された左手を眼を丸くし、「暫くは安静だよ」と念を押される。臨也が新羅から渡された濡れタオルで、自分の頬の血と俺の手ついた血を拭う。俺の髪をくしゃりと撫で、帰ろうかと耳を甘噛みする。俺の血で色んなものが汚れているからそれの掃除を、と思いながら頭を上げるとぐいと引っ張られた。同じ事を考えていた新羅が大声を出す。
「こら! 掃除手伝ってよ! 血って落ちにくいんだよ!」
「その分と治療費と諸々で何時もの口座に振り込んでやるよ。じゃーね、お世話になった」
「あ、……色々、悪かった」
後ろから「お金を払えば良いってもんじゃないんだからね!」という声が追いかけてきたが主に臨也が無視して玄関を出る。
呼んであったのか、タクシーがエントランス前で待機していて、滑るように乗り込む。行き先を告げなくても発車した車に揺られながら、真新しい包帯の慣れない感触を楽しむ。
「新羅に解剖されたら、何されるか判らないよ?」
「うーん……、良いって言ったら、臨也を治してくれるって言うから……、って、あれ、お前もう平気なのか?」
「まあね。風邪は半日で治さないと」
「それ無茶苦茶だ」
「無茶苦茶なのはシズちゃんのメールだよ。なにこれ」
そう言って今朝俺が四苦八苦した送信画面を見せてくる。黒歴史になりそうなそれに俺は思わずかっと顔が赤くなる。まるで幼稚園児みたいな文章だ。
「苦しそう助けて顔赤い……これだけでよく新羅来てくれたね。あいつの理解力をちょっと舐めてたよ」
「濁点のつけ方が判らなかったんだよ! くそ、なんでそんなもん簡単に操作出来んだよ……」
「っぶ……濁点のつけ方、って、……ちょ、ツボったよ……」
腹を抱えて低い声を漏らし始めた。笑いたきゃ笑えと放置を決めこみ、踏ん反り返って腕を組んだ。セルティのバイクに乗せられていた時とは、同じ風景でも見え方が全然違った。けばけばしいネオンも眠らない騒音も、すっかり降り止んだ雨さえも俺を苛つかせない。バイクと違い安定感のあるタクシーに揺さぶられながら揺り籠のように眠気を誘われ、寝てしまおうかと眼を瞑る。
「シズちゃん」
やっと笑いが収まったのか、やや震えた臨也の声。釣られて素直に振り返ると、そっと肩を抱かれた。傷を負って血を流す12歳の心には大きすぎるくらいで、一番密着出来る体勢を探して居住まいを正す。「寝ても良いよ」と囁かれ、それが子守唄になった俺は海水が引くように意識を手放す。今度は自分の意思で。
眠りに落ちる直前に包帯でぐるぐる巻きになった左手で臨也の右手を探しやんわりと重ねる。握り返してくれた事が途轍もなく嬉しくて、子供の口元には自然な笑みが浮かんでいた。眠る俺に囀られた臨也の唄。
愛してるよシズちゃん
ああ、これは絶対に、夢で言われた言葉じゃない。そうだろう? 俺も、左手に僅かに残る金属の感触すらもひっくるめて、お前へこの感情を捧ぐから。
言葉ひとつで麻痺に堕ちる