「俺の事、好きか?」
俺自身、この言葉が一番卑怯だと思っていた。
静雄に手を出しかけて、頭を冷やす為に部屋に戻った俺はすぐにベッドに横になった。その事が無くたって疲れ切っていた俺は眠ろうとしたんだが、その時、階下から着信音が聞こえてきてふと意識が覚醒した。
一般的な、機械的なメロディのあと、静雄の「もしもし」という声が薄らと耳に届く。今、電話の心当たりがあるのは折原臨也だけ。ついに出てしまった、という絶望感から俺は頭を抱え、話を聞かないように努めたが、盗み聞きしたい気持ちが勝ってしまい、そろそろと扉の傍まで寄った。
「……」
階段のすぐ傍とはいえ、俺を気遣っている所為で声がかなり小さく余り聞き取れない。それでも、何度も繰り返し吐き出される俺の名前。電話を妨害するなんていう選択肢は、今日、折原に追い駆け回されている時に既に消えてしまっていた。
あの男は末恐ろしいくらいに静雄に執着している。一ヶ月間、連絡が無かったのは何かの不備か、手違いか、本当に忙しかったんだろう。俺はそれを良いように解釈して静雄を騙し続けていたんだ。今日折原に俺と静雄が見つかった時点で俺の負けはほぼ確定した。今まで殺風景だった静雄の世界に現れた不確定要素を、静雄は無意識にでも気にするし、俺に対し疑問を持つ。遅かれ早かれ折原は静雄と接触するだろうし、そしてそれは後になればなるほど、真実を知った時の静雄の怒りと悲しみは増し、俺は惨めさと罪悪感が募る。だから、これはもう、回避出来ない惨劇なんだ。
こんなに近いのに、静雄は俺のものにはならなかった。苦しい。切ない。……悔しい。
そこで今まで声を潜めていた静雄が、はっきり聞き取れるくらいの音量でこう言った。
『千景は……嘘は言っていない。それは俺にも判る』
背筋がぞっとした。俺が嘘を言っていない? 違うんだ、静雄。俺はあんたに救いようが無いくらい、嘘を吐いてるんだ。証拠も何も無いのにどうしてそうやって信じてくれる。信じれば信じる程、俺に裏切られた時に辛いというのに。
静雄は怒り、俺を嫌悪し、そして離れていく。
『俺は……少なからず、千景を信じてる』
これが嘘を吐いた、代償だとでも言うのか。
「……ごめん」
謝罪は結局、自己満足にしかならないのだけれど。
俺は静雄と暮らし始めた時に、静雄が明確な意思で俺に答えを乞ってきたら、そこですべて終わらせようと決めていた。そしてそれは、余りにも唐突に、そして、すぐにやってきただけの話なんだ。
(これで終わり)
俺と静雄の関係は、始めた方から終わらせる。
(これが俺なりの、けじめだ)
静雄が忍び足で階段を昇る音が、俺への断罪へのカウントダウンだ。
名残惜しいし、未練もある。でも俺には最初から資格がなかったのかもしれない。此処で静雄に本当の事を言うのは俺の義務だが、延ばし続けて来たのは最後の抵抗だった。もしかしたら静雄が、俺を見てくれるようになるんじゃないか、って。
「千景……?」
遠慮がちに部屋をノックしてきた音に、俺は重い腰を上げる。言い訳がましい事は無しにしようと自分に言い聞かせ、すぐに扉を開くと、驚いた顔の静雄と眼が合った。俺が寝ていると思っていたんだろうな。
「起きてたのか?」
「ああ……なんか目が覚めちまってな」
そう答えつつも、折角合わさった視線を俺は自ら外す。静雄を部屋に招き入れ、俺はベッドに座って静雄を見上げる。静雄の表情は複雑で、折原から何を言われたのかは判らないが、少なくとも、もう俺の事を無条件で信じている訳じゃないんだろうな。
「どうかしたのか?」
何を言っているんだと思いながらも俺は訊ねる。理由なんて、聞きたい事なんて判り切っているのに。自ら自分の首を絞める俺はきっと余りにも醜い顔をしている。静雄が深く息を吸って己の落ちつけているのは、折原を疑っているのか、俺を疑っているのか。もう既にどうでも良くなっていた。
「さっき、折原から電話が来た」
「……そうか」
言葉をかけながら静雄の首元辺りを見つめる俺に、静雄は不思議そうに首を傾げた。一挙一動さに、俺は壊されていく。
「折原は……千景が俺に嘘を吐いているって言った。……俺には正解が判らないから、お前に聞く。……そんな事、無いよな?」
静雄の熱っぽい瞳が俺に否定してくれと爛々と輝いている。なんて綺麗な瞳なんだろうか。俺みたいに薄汚れた男とは打って変わって、穢れていない静かな眼だ。
ひどくその眼に心を揺さぶられた俺は少しでも会話を続けたいというねじくれた想いで問い返した。
「静雄はどう思ってんだ?」
答えを回避した俺に対し、静雄は躊躇いがちに言葉を繋いでくれた。
「どう、って……。俺は……お前も折原も、嘘は吐いてない気がする。でも、意見が食い違ってるんだから、どちらかは違う……んだと、思う」
それを聞いた瞬間、ああ、こいつは本当に優しいんだな、と思った。俺の事を疑いながらも、信じようとしている。俺への疑いを晴らす為に信じてくれている。俺にそんな価値は無いというのに。
堪らず俺は顔を背けつつも、笑みだけは絶やさなかった。それでも、紙に殴り書きしたような歪で違和感が滲み出る作り笑顔だった。
「もし折原の方が嘘吐いてるんだったらどうする?」
静雄を視界の端に捉えながら問えば、静雄は眉間に皺を寄せながら、
「……ぶん殴りに行くに決まってる」
と呟いた。静雄の中で徐々に、俺への不審が確信になっていく気配。
俺はもう静雄を見ていなかった。
「じゃあさ、俺が嘘吐いてたら?」
俺のやり口は、まるで先に答えを聞いて怒らないという保証を貰ってから点数の悪いテストを親に見せる子供のようだ。
「……いい加減にしろ」
眼の前の静雄の声が怒りを滲ませる。苛立ちも含まれたそれに内心で恐怖を覚える。静雄がどんどん俺から離れていく、恐ろしさを。
「言いたい事ははっきり言え。俺にばっかり答えさせんなよ」
気が強い感じで言う台詞も震えていた。静雄はきっと気付いていない。今、自分が、どれだけ哀しそうな顔をしているのか。こんな綺麗な顔を歪ませるのは、俺であって欲しくは無かった。
「言いたい事なんてねえよ」
「あ?」
俺は半ば、自業自得の八つ当たりのように顔を上げ、そして笑った。ペテン師が笑ったって、誰も信じないというのに。
「静雄をこの上なく傷付ける、そんな言いたい言葉なんて無いんだ」
出来るならこのままずっとお前を騙していたい。でも騙していたくはない。見事な二律背反に苦しむ俺はそんな事を言いながら己のすべてを呪った。
「……どういう意味だ」
「でも、……それが正解なんだろうな」
結局、自分への被害を最小限にしたがっているだけ。全部知っている俺も辛いけど、全部知らない静雄の方がきっと辛い。そうやって、俺は己を悪者にする事で、種明かしへの罪悪感を減らそうとした。
「ごめん。嘘吐きは、俺のほうなんだ。静雄の恋人は折原臨也だ。これは嘘じゃない」
機械のように真実を告げる。怖くて怖くて仕方なかった。でも、言わなきゃいけなかったんだ。
「……千景」
ぽつりと静雄が漏らす。それは、罵りでも驚きでも嫌悪でもなく、ただの、俺の名前。
なあ、期待して良いのか。騙してきたのを赦して貰えて、お前が俺の方を向いてくれる。なんて都合の良い妄想なんだろうな! 面白味が無さ過ぎて泣けてくる! はははッ!!
「好きだ」
俺は立ち上がり、最後の悪足掻きを愛しい人に投げかけた。
「……好きなんだ、静雄が」
「っ……」
静雄が一歩、身体を引く。寄せられた眉も下がった目尻も薄く開いた唇も、もう、二度と、俺に向けては、くれないのか。偽善もプライドも全部かなぐり捨てて、俺は世界で一番最悪な愛の告白をした。
「こうでもしなきゃあんたは俺を見てくれない。……教えてくれよ、静雄。今、……今だぞ、今……俺の事、好きか?」
赦してくれ。
静雄は絶望したようなひどく歪んだ泣きそうな顔で唇を噛み、俺に思い切り手を振り上げた。熱が奔る、血が滲む。ゆるく腫れた頬を押さえながらも、俺は出ていく静雄を追えなかった。あんなに傷付いた静雄を、俺を本気で憎んだ、静雄を。
「は、は……」
俺の事、嫌いになったんだろうな、きっと。だってあんなに、本気で、
『静雄にビンタされたら正真正銘の顔面凶器だ』
ふと、そんな言葉が思い出された。
……静雄に……本気で……殴られたら、俺は……たぶん首の骨が折れて……?
なのに、頬は、少し赤くなっただけ。
あれだけの勢いで振り上げて、殴られたのに? 歯を折るどころか口の頬肉を少し切る程度で済んだ?
じゃあ、静雄は、本気を出さなかったんだ。いや、顔は、眼は本気だった。でも、……本気じゃ無かったんだ。
「っ……静雄……!」
既に影も形もない男の幻影を追い、俺は暫くしてから一階に降り、そして酒を煽っていた。
ほぼやけ酒に近い行い。一階に残った僅かな静雄の痕跡を追いかけながら、一時的な現実逃避。全部忘れてしまいたかった。
『シズちゃんになにをした、なにを吹き込んだ』
昼間、静雄を逃がしたあと、何時も人を喰ったような顔でふらふらしているあの男が、珍しく声を荒げて俺にそう言った事を思い出した。眉を寄せ、腹立たしそうに。憎々しそうといっても、大袈裟じゃないくらいに。
『はっ、情報屋なんて腐ったことしてる割に、一番大事な人間の情報は入ってこねーのかよ』
頭に血が上っていた俺は、逆効果だということも認識出来ずに挑発した。本調子の折原だったら、そんな俺を嘲笑して上手く立ち回り、得意の話術で陥れようとするんだろう。でも今日は違った。唇を戦慄かせ、ぎろりと純粋な怒りを乗せた瞳で俺を睨んだ。
なんだ、そんな人間らしいツラも出来るんじゃねえかと思ったら、あいつは手加減も無しにナイフを薙ぎ、そして俺はそれを避ける。鬼ごっこが始まったのは、それを合図にしてからだ。
『六条千景!』
土地勘があって有利なのは俺なのに、折原はしつこすぎるくらい執拗に追いかけてきた。ひょろい体躯からは予想出来ないほどに力強く、ある時は路地裏のゴミ箱を二つも飛び越える跳躍力を見せ、身軽さを生かしてじりじりと追い縋ってくる。
『あいつは俺を、なんの後ろめたさもない眼で見た。お前が何か言ったんだろう、それ以外考えられない。シズちゃんに何を言った?』
そんなことを叫ばれつつ、俺もやられっぱなしなはずは無く、時折振り返って俺に有利な状況になったら切り合った。お互いリーチの無い獲物とはいえ、手詰まりのようなジリ貧に決定打が打てず、本気でやろうと思えば出来たかもしれなかった。でも頭の中に、もし折原が怪我をしたら静雄はどうするんだろう、という言い訳にも近い考えが浮かんで苛んだ。
『答えろよ、お前はシズちゃんになにをした!』
それに俺は答えられなかった。逃げながら携帯で連絡をし、狭い路地である程度の距離をとった後に、交差点で俺を待ち構えていた仲間のバイクの後ろに飛び乗った。
『総長、メット!』
言いながら、受け取ったヘルメットを被る余裕もなく急発進したバイクに周囲は驚き、その中には息を切らして俺を睨む折原の姿もあった。俺の脳裏に浮かんだのは、数ヶ月前の真夜中、あの男と並んで実に幸せそうな静雄の、……笑った顔だった。
「っごほ! っあ、はあ」
寝転びながら酒を流していた俺は誤って気管に入り込んだ液体にむせ込む。それで一気に気分が悪くなり、喉がひりひり痛む事で疲労感にも襲われた。それ以上に俺を支配したのは、絶望的なまでの空虚感だった。
「……なにをした、か……。サイテーな嘘を吐いたんだよ」
不貞腐れるように呟いた。
酒が回っていた俺は崩れるように眠り、そして夢の中で、またあの黒い世界を見た。
静雄と暮らし始めてから初めて見るようになったその夢は、静雄に対する申し訳なさを具現化し、取り繕う存在だった。真っ黒なのは、俺の行いに何処も同情の余地が無いということだ。俺はそう思っている。
静雄の言動に、一喜一憂する日々だった。静雄を欲しいと思って、仮初とはいえ手にしたというのに、俺は満足出来なかった。
欲張りだったんだ。人のものを奪っておいて、なお。それ以上に俺の恋慕に応えて欲しいと願ってしまった。
惚れたことを後悔したことなどはない。後ろめたいとも思わなかった。だけど、俺のやり方は間違っていた。何処も彼処も。静雄が俺から離れていったのは、ある意味、相応の代償だったんだ。もう静雄には、近付けない。一度だけでも謝りたいけど、会える口実を探しているみたいに思えるから、このままにしておいた方が、良い。
ごめん。静雄。ごめん、ごめん。
何度も繰り返し夢で泣いた。
温もりがふよふよと浮いて俺の手に自ら止まる。それに微笑みかけ、それが静雄に焦がれる故に現れた幻想だと知っている俺は、静かに「好きだ」と呟いた。俺の声は吸いこまれ、全く響かない。だが、少し遅れてから、静雄の声で「知ってる」と答えが返ってきた。なんだよそれ、夢の中でくらい好きだって返してくれよ……。
でも逆にリアリティのある答え方に思わず頬が緩んだ。静雄はそうでなくちゃな。そう思っていると、今度は笑いながら「お前、酒臭いぞ」と言われた。何か可笑しい。夢の中でまで酒の効果が……あるはずないよ、な。
「っえ……?」
「未成年の飲酒は禁止だって、小学生でも知ってるぞ」
眼を開けたら、当たり前だが俺の家だった。だが床に寝そべる俺を見下ろす人物の存在が有り得無くて、俺は夢の中で夢を見ているのかとぼんやりと男を見上げた。
そのまま今の静雄は優しいな、と思っていたら、いきなり脇腹を蹴られた。
「っごは!」
「おら、しゃきっとしろ。水持ってきてやるから」
本人はかなり手を抜いたつもりだが(この場合は足を抜いたっていうのかもしれないが)、俺にとってはどの不良に蹴られるよりも大ダメージで、この痛みは現実だと理解しても、静雄が此処に居る理由が全く見付からない。もう近付かないと夢で決意したばかりだと言うのに、冷たい水を当たり前のように差しだす静雄にぽかんと口を開けとりあえずそれを一口飲んだ。
「……何で、戻ってきたんだ?」
思ったほど酒に飲まれていなかった俺は少しずつ冴えて来た頭で、どうやって俺たちが別れたのかを思い出し、素直にそう聞いた。静雄は何時の間にか見覚えの無い服に着替えており髪の毛もワックスが解けて襟足が降りていた。
そして静雄が浮かべている穏やかな微笑に、俺はひとつ直感を覚え、精一杯明るい声で言った。
「思い出したのか」
記憶が戻ったのか、と問えば、しかし静雄は首を振った。
「いや、なにも。今まで通りなんにも覚えてねえよ」
「……? じゃあ、なんで」
そんなに清々しい、後ろ髪を引かれているような感情が一切見られない顔をしているんだろうか。
静雄は切れた言葉で大体の意味を理解したのか、眼を伏せて微笑んだ。
「臨也に全部聞いた」
顔を上げて静雄を見つめても、彼は目線を逸らさなかった。驚いたのは内容ではなく、淀みなく「臨也」と発音した所。ああ、なんだ、記憶が無くなっても、静雄は折原を好きになってしまったのか。
「おめでと、さん。……って言えば良いのかな」
限りなく見栄を張って、祝福を言葉にする。だが静雄はまたもや首を横に振る。
「俺は……臨也が好きなのかもしれない」
「……かもじゃなくて、そうなんだよ。静雄は折原にベタ惚れだったし、折原も静雄をすっげー大事にしてた。俺が割って入る隙間なんて、全く無かったんだよ」
だからこそ、焦がれたし、惹かれた。自ら二人の絆の深さを吐露する俺に、静雄は少しだけ困ったような笑みを浮かべて、言葉を選んでいた。
「だけど……」
「ん……?」
「……千景も、好きなんだ」
俺はゆっくりと顔を上げた。暫く見つめあって、互いの心情を読み取ろうとする。やがて、場違いに噴出した俺は肩を震わせながら笑った。初めて静雄の口から俺への好意を歌われた事に、情けない告白をされた事に。
「両天秤かよ」
「悪いか。……俺の記憶が戻る保障なんてねえけどよ……俺は今、自分の気持ちに正直になったら……お前も、臨也も、俺の大事な奴なんだな、って、思う。でも、恋愛感情として好きなのかは……やっぱり判んねえ。これは、二人に言える事だ」
恋愛としての好き、友情としての好き。今までは、それがはっきりしていた。静雄が俺を「六条」と呼んでいた頃、新しく出来た友人の俺を、あいつは好きだったんだ。
静雄はまだ言葉に迷いを覚えながらも、ゆっくり話してくれた。その声は、このひと月の間でも、最も落ち着いて、澄んでいて。
「千景と、臨也の……どっちが好きなんだ、って聞かれたら、答えられない。お前と居ると……凄く気が休まるから……でも臨也と居ると、身体が熱くなって、心細くなる……ような、感じなんだ」
「……静雄はやっぱ、記憶が無くても、折原の事が好きだった事を覚えてるんよ。きっとな」
何処か、自分でも情けないと思うくらいに寂しそうな声で言ってしまった。静雄はどうなんだろう、と戸惑ったような表情を見せる。だけど、俺としては嬉しい事だった。条件は五分になったんだ、俺に卑怯な手は向いていない。正面から、静雄を振り向かせてみせる。あの男との静雄の取り合いは今からなのかもしれない。
「静雄」
「うん?」
今まで俺が首を痛めて見上げていた体勢だったのを変え、すっと立ち上がる。微笑みながら、とても優しい声で返事をくれた静雄。あんなに酷い事をして、言ったのに。強い幸福と喜びを溢れさせ、俺は静雄を抱き締めた。罪悪感も、遠慮も、後ろめたさもない、純粋な感情を乗せて。
「好きだ」
初めて静雄が俺の背中に腕を回してくれた。俺の心音を、高鳴る音を静雄は気付いているのだろうか。どうか気付いて欲しい。俺はあんたが欲しいんだ。そして耳元で、静雄は今までそう告げた時とは違うはっきりとした言葉を俺にくれた。
「ありがとう」
好きよりも、愛してるよりも。この台詞が、今の俺に一番響くこと。静雄は、きっと知っていたんだ。
抱擁の余韻を楽しんで額を合わせ、笑いあう。キスはしない。まだ、しない。
「……じゃあ、俺、帰るわ」
静雄はそう言い、俺の腕から離れる。帰る、の意味が判らずに首を傾げると、何処か照れ臭そうに顔を染めた。
「此処に来て良い条件が、臨也のとこに戻るって事だったんだ。……待たせてるからさ」
視線が向けられた方は玄関。あの男が外に居ると理解した俺はちょっとした苛立ちに包まれたんだが、顔には出さない。静雄は扉を押し開けて、金髪が朝露に溶けていく。電信柱の下で携帯を弄りながら佇んでいた折原の元に駆けていく静雄を見送り、折原の笑顔が見たくないのでそのまま部屋に逆戻りしようとした俺に声がかかった。勿論、静雄のものだ。
「千景!」
「?」
朝陽に照らされた俺の恋人は笑いながら手を振っていた。
「ありがとな!」
隣の折原が極めて面白く無さそうな顔をしたのに気を良くして、俺もまっすぐな笑みを浮かべて思い切り手を振った。
「ちょっとシズちゃん、あんまり笑顔振り撒かないでよ」
「はあ? 何言ってんだお前」
折原の手が静雄の手を取って駅の方へ向かっていく。二人の後ろ姿を見ながら、晴れ晴れしい想いで俺は振っていた手を拳に変えた。力強く、静雄への感情を込めて。二人とは正反対の方向へ歩きながら。強く、つよく。
「俺たちは全員、嘘吐きだったんだな」
ぼくらはうそつきなこいびと
嘘吐きラバー 了